つれづれに:50代オーバーワーク(2024年6月19日)
つれづれに:50代オーバーワーク
50代半ばにも、体のSOSがあった。30代の後半に初めて専任になったときと比べて仕事量がずいぶんと増えていたのと、身体の衰えのカーブが急になったことが原因だった。小説を書く空間は大学がいいと思って準備を始めて7年かかって、何人かの人にお世話になって何とか空間を確保した。国立大の医学部で、研究室も研究費もあり、授業は25人クラスが週に4コマだった。おまけに、医学部では教授会や委員会はほぼ教授だけでまわす。助教授以下は研究に専念するようにということだったので、授業以外では前期後期の入試問題の作成と採点だけだった。テキストの編註や翻訳で手一杯の時は、授業のある日以外は家でワープロに向かっていた。1年目から学生がよく研究室に来てくれていたが、余り学校に行かないので出講日を狙って部屋に来たので、朝一番の授業も含めて夜の9時くらいまで4組ほどの学生が来た日もあった。赴した最初の給料日に国家公務員の給料の明細を見て、これでやっていけるんやろかと心配になった。辞めて絵を描くようになった妻の給料よりも安かったからである。ただ、1年目の後期から隣の旧宮崎大農学部(↑)に、何年目かからは新設の公立大(↓)の非常勤に行っていたので、いつの間にかそのペースで暮らすようになっていた。
出版社から次々と要請されて小説を書き出せないでいたが、時間がたっぷりあるだけで充分に満足だった。50代に入って暫くした頃、その生活が一変した。思わず教授になってしまったからである。旧来のべとべとの人事で入れてもらったが、主流派でなかったようでその体制のなかでは教授になる心配はなかった。会議にもでなくていいし、時間さえあればよかったので教授になりたいと思ったことはなかった。医大(↓)は開学当初は派閥争いがないように、九州大、鹿児島大、熊本大系を三分の一ずつに配置したらしいが、十年後に私が行ったときは、九州大系が圧倒的に票を固めていて、我が物顔で私にもとばっちりがあったくらいである。このまま永遠に変わることはないやろと思っていたら、京大出の人が主流派を取り込んで、人事制度を変えてしまった。透明な公募で残った最終候補者3人による講演会を聞いたあと投票して人事を決めるようになったのである。その結果、今まで教授が推薦して助教授を昇進させるという慣例が消えて、外部から新しい教授が来るようになった。英語科には教養の票を減らすために元々教授がいなかったが、九大のごり押しの人事で突然日本語のできない教授が私の上に来た。その人が外国人教師と揉めて任期前に帰国して、私が教授選に出る流れになったらしい。そして、あっさりと教授になってしまった。晴天の霹靂(へきれき)で、50代の半ば手前のことである。
思わず教授になってしまったが、急にすることが増えた。月一回の教授会に各種委員会に加えて、他の講座との折衝や事務局からの依頼など目に見えない役目がまわってきた。各種員会は基本的には互選だが、執行部から直に頼まれることもある。その結果、断らないで仕事をこなすところに回ってくる。事務局も頼みやすい所に行く。その結果、作成と採点だけだった入試の委員会、国際交流員会、最初はしれだったが、そのうち、広報や評価などのわけのわからない委員会にも行かされるようになった。当然、大学に行く日も増える。最初の借家が居心地悪くなっていたこともあって、大学に近い今の高台(↓)の団地に中古の家を買って引っ越して来た。当時いっしょに暮らし始めていたラブラドールを優先して、気兼ねなく暮らせる家を探した。
加江田の山をのぞむ高台の団地の中の道路
そのあと、看護学科が出来た。教授の推薦者になってくれた人が準備委員会の長だったので、入試などいろいろ手伝うことになった。それから、統合である。統合の報せは突然だった。それまで双方とも意地でもとうごうするものかという勢いだったが、当時の文科省に両学長が呼ばれ、事務次官に「大学潰すわよ」と言われたと教授会で報告があった。教養科目の全学共同体制が統合の目玉だったので、一般教育の教員には死活問題で、存続をかけて嫌でも渦中に投げ込まれた。一般教育の3人が全学の会議に選ばれた。私は教養と入試と国際交流の会議に出た。1年半、週に一度の会議はきつかった。配られた資料も、事務の人が気の毒と思うほどの量だった。授業の方も看護学科が増え、全学の教養科目が増えたうえに、非常勤講師料が統合でなくなった。踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。更に、統合後、教育文化(↓)の人から、日本語教育支援専修設立のための参加要請があった。教育の人の業績では足りないので、医学科3人に参加して欲しいとのことだった。医学部の同僚が執行部にいたので、そちらにも協力を仰いで、修士課程が出来た。そこでも、授業と論文指導を担当することに。ま、これだけフルに動いていたのだから、身体がもつわけがない。
最初お腹にきた。毎日1時間ほどトイレに座って、これが痛みなんやと思いながら苦しい思いをした。ひと月ほどしたとき、下血があった。鮮やかだったので、腸からの出血のようだった。今なら避けたような気もするが、這う這うの体で大学の附属病院(↓)の内科に行った。ほとんどが顔見知りで、担当してくれた元学生が内視鏡をみながら、ポリープがありますね、取っときましょかと言った。ぼーとして、詳細は覚えていない。あとで、玉田さん、腸に気をつけて下さいよと同僚の解剖医から言われた。生体組織検査をしてくれてたんだろう。
とにかく、仕事量を減らす、しっかりと食べて、歩く、その方針でSOSに対処した。教授会は欠席、委員会も出来るだけ行かない、研究室にいる時間を減らす、そんな風に変えた。元々教授会はでるものとは考えていなかったし、今日は欠席ですと言うだけで、理由を言わなくてよかった。あれから、20年になるわけだ。そのあと、学部の要請で海外実習のたもの実践講座(↓)を始め、看護学科と病院看護部、それに事務部も併行して実施したり、全学の新学部設立のために動いたり、学部長や学長人事に巻き込まれて、違う意味で大変な20年だった。今回のSOSも当然と言えば当然の結果である。出来ることはしたい。
タイのソンクラ大からの最初の交換学生と6年生