つれづれに:アフリカ人(2024年10月30日)
つれづれに:アフリカ人
奴隷貿易に続くアングロ・サクソン系の侵略ですっかり白人と黒人のイメージが変わってしまったが、奴隷貿易が始まる前のヨーロッパ人はアフリカ人をどう見ていたのか?
デヴィドソン(↓)の「アフリカシリーズ」の前に、見ておきたい。ずいぶんと昔のことなので、推論の域は出ないが、その後の侵略の過程で捏(ねつ)造されたイメージを再認識するためにも触れておきたいと思う。
最初にアフリカ系アメリカ人作家ラングストン・ヒューズの(Langston Hughes, 1902-1967)「黒人史の栄光」(↓)の中の記述などを紹介したい。大学は夜間で英米学科だったので、1年から月水金は英語科目の授業があった。夜間は夕方の6時前から9時前までの100分間で、大半が5時に定時の仕事が終わってから集まって来る。みな急ぎ足だった。科目は購読、英作文、英会話で、購読が一番多かった。その購読の教科書の1冊が「黒人史の栄光」だった。当時は英文学が優勢、アメリカ文学も白人文学が主流で、アフリカ系は有名な数少ない作家の翻訳本が出回っているくらいだった。ノーベル文学賞の受賞者は、白人である。アフリカ系のテキストが複数回使われたのは、大学にアフリカ系を選んだ人たちが多くいたからである。白人のイギリス文学やアメリカ文学以外のものに何かを求めた人がいたのだろう。アジアやアフリカの独立運動やアメリカの公民権運動の影響が大きかったに違いない。ゼミの担当者も最初はホイットマンの詩を読んでいたが、アフリカ系やアフリカの歴史の大冊の翻訳をやるようになっていた。専門課程の特殊講義では、黒人文学入門や黒人英語もあった。他では見られない科目だと、後で知った。黒人英語は全国レベルそうだったので授業に出てみたが、教官とゼミたちの馴れ合いを見るのが不快で、行けなくなった。
ヒューズは体制に立ち向かって闘うタイプの作家ではなく、むしろ、現実を受けとめながら、詩や小説や民話や歴史やの形で人に寄り添うタイプの作家である。「黒人史の栄光」でも、その姿勢が垣間見える。最初にアメリカに来た黒人は水先案内人や通訳で、奴隷ではなかった、と物語を始めている。祖先はアフリカ大陸で平和に暮らしていた。エジプトや西アフリカには豊かな帝国もあった。もちろん、東アフリカにも南アフリカにも王国があり、広大な交易網が張り巡らされていた、と伝えたかったのだろう。
アフリカの北部はヨーロッパから近く、古くから往来もあった。パリに行ったとき、会いに行ったソルボンヌ大の人が留学生に予め案内役を頼んでくれていたが、その留学生の女性はモロッコの人だった。フランスの植民地だったモロッコなどの知識人はパリの大学に進学しているということだろう。屋根裏部屋(↓)のある小さなホテルを予約してくれていて、家族をホテルまで送り届けてくれた。子供たちはモロッコさんと呼んでいた。パリにはアフリカ人も多く、北アフリカのクスクス料理なども人気があった。日常でアフリカ人と接する機会が多い感じだった。
コロンブスの船に乗っていた水先案内人のひとりペドロ・アロンゾ・ニーニョは黒人だったと言われている。1492年のことで、ポルトガルやスペインが南米や中米で遺跡を荒らして好き勝手していた頃である。水先案内人の一人エスタヴァンも黒人で、モロッコ生まれだった。そのエスタヴァンの註である。
Estavan – Estabanico Estrbsnの綴字もある。Morocco(同地にはアフリカ人ととアラブ人の混血人種のムーア人と呼ばれる人びとが居住)のAzamorに1500年ごろ生まれ、スペイン語の記録でnegroと記述されている。15、16世紀のスペイン、ポルトガル両国では黒人は稀な存在ではなく、船乗りとして地中海を渡ったり、奴隷・人質とそてヨーロッパにつれて来られたアフリカ人はかなりあった。シェイクスピア劇Othello(1604年上演)の主人公は文中Moorと呼ばれ、The Merchant of Venice(1596-97)では、MoorとNegroとは同義に使われている。Estabanicoすなわち“Kid Steve”は<ちんぴらスティーヴ>、<スティ-ヴ小僧>ほどの意。
中世では西アフリカの文化レベルの高さがヨーロッパでも広く知られていたので、黒人を劣ったものと思わせるものは残っていない、とデヴィドスンは→「『アフリカシリーズ』」(↓)で紹介している。現存する中世の壁画を見ても、黒人と白人が対等に描かれていて、ヌビア出身の聖モーリスに仕えていた侍女は白人である。
アフリカ小史の3つの山①侵略される以前、②奴隷貿易から植民地時代、③第2次大戦後、を書き始める前に、次回は「アフリカシリーズ」について書きたい。