ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車

2020年3月1日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した3回目の「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車 」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車

突然の訪問者

暮らし始めると、予期せぬ事態が起きるものです。

借家の門

第2日目、「玄関に誰か来てるよ。」という長男の声に起こされました。8時過ぎです。朝早くから誰だろう、そう考えながら玄関を開けてみると、すらっとしたショナ人らしき女の人が立っていました。突然のことで事態がよく飲みこめませんでしたが、育ち盛りの男の子が3人いるんです、今度来る人に雇ってもらえるから今日来るようにとここのおばあさんから言われました、と言っているようでした。取り敢えず10ドル(当時は1ジンバブエドルが25円程度でした。)を手渡して、引き取ってもらいましたが、また吉國さんに相談するしかなさそうです。

翌3日目の朝、昨日よりも早い時間です。

「玄関で何か言ってるよ。」という長男の声で戸を開けると、今度は中年の品の悪そうな白人女性です。車を置いてもらおうと中に入れたらエンストしてしまった、夫に連絡を取りたいから、電話を貸してほしいという事情のようでした。うまく夫に連絡がつきましたと言い、車に乗り込んでそそくさと帰って行きました。さては、おばあさんの偵察隊?

次は8日目、7月28日のことです。

10時過ぎにYAMAHAのバイクに乗ったおじさんが突然やって来ました。電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ、明日からでも電気を切るぞと脅しているようです。市役所か郵便局で、明日までに200ドルを払え、24時間は待ってやる、そうでないと、薪の生活だとにやにや笑っています。翌日、無事払い込んで郵便局で言われたように、市役所に電話をして、支払いを済ませた旨を告げると、その領収書を持って明日来るようにとの返事、何のために行くのかと尋ねたら、来られるでしょうの一言で電話は切れてしまいました。

借家

翌朝、市役所に係の人を尋ねて受け取りを見せたら、「いいですよ」の一言、何がいいものか。こっちは電話をかけるのも大変なのに……大体、支所の係の者が電話を1本入れれば済むことじゃないか。あとから吉國さんに確かめたところによると、ジンバブエでは電気を引く際には保障金(ディポジット)が必要で、電気を切った時には、払い込んだお金は戻ってくるとのことでした。おばあさんは電気を引く際に、保障金を払わなかったようです。支払いなどに関するデータは、すべてコンピューターに入力されるとのことでしたが、入力するコンピューター自体の性能がよくないので、半年後とか、1年後に突然こういった事態が起こり得るのだそうです。ともかく、電気を切られる事態だけは免れたようでした。

街中

今度は、生活にも慣れ始めた8月15日です。

朝早く、突然大きなトラックが進入してきました。
作業服を着た2人の青年が、ゲイリーと何やらショナ語で大声の会話を交わしています。ゲイリーの説明によると、家具のレンタル会社が、契約が切れたので、食堂のダイニングセットを引き取りに来たようです。しかし、突然椅子と食卓を持って帰ると言われても……。何回かのやり取りの末、何とか私たちがこの家を離れる次の日に、改めて引き取りに来てもらうことに落ち着きました。「独り暮らしだから、普段あそこは使ってなかったんでしょう。家を人に貸すことになって、ダイニングセットくらいは入れておかないとでも思ったんでしょうね。古き良き植民地時代にいい目をしたローデシアばあさんの一種の見栄ですな。」と吉國さんが説明して下さいましたが、何とも中途半端な契約をしたものです。

小学校

4日目、アレクサンドラパーク小学校に行きました。
中学2年生の長女と小学校4年生の長男を受け入れてもらうためです。9月から始まる3学期の最初の1ヵ月しか学校には通えませんし、英語もわかりませんが、2人には又とはない貴重な機会を最大限に生かして欲しいと考えていました。校長は、私たちより少し若そうなショナ人で、黙って事情を聞いたあと、本当に2人分のお金をお支払いになりますかと何回も念を押します。

アレクサンドラパーク小学校で

3学期分に1人当たり、授業料など約500ドルが必要だそうで、12500円ほどです。貴重な経験が出来ると思えば、高くはありません。「何とか空きがありますから、お姉さんは7年生に、弟さんの方は3年生に入ってもらいましょう、この手紙を持って教育省に行き、許可証を貰ってからもう一度学校に来て下さい。」と言う校長から手紙をもらいましたが、
「あそこの小学校の教員で七、八百から1000ドル、校長でも1500ドルの月給はもらってないでしょう。」という吉國さんの話を聞いた時、校長が念を押した理由に気づきました。実際に学校に通うためには、授業料などの他に経費も必要で、わずか1ヵ月のために大金を払ってまで子供を学校に通わせる理由が、校長には見当がつかなかったのでしょう。吉國さんの話によれば、1980年の独立以来、無償だった小学校が、2年前から有償になっているようでした。白人地区に住むアフリカ人の子供を同じ学校に通わせたくないための措置だそうで、植民地時代の良き思い出を捨てきれない反動勢力の巻き返しといったところでしょうか。制服が買えないで学校に行けないアフリカ人も多いと聞くのに、1学期に500ドルも一体誰が払えるというのでしょうか。そういった事情があるにしろ、校長も好意的な感じでしたし、まだ決まったわけではありませんが、先ずは一安心、週明けに教育省に行けば手続きも、予想していたよりは簡単に済みそうでした。しかし、実際にはそううまくは行きませんでした。

校長と

月曜日の朝、教育省に行きました。建物に入ると、長い人の列、入場者は手荷物検査を受けていて、なかなか順番がまわって来ません。小学校の入学の許可証をもらうだけなのに手荷物まで検査されるとは。受け付けで指示された部屋に行き、一から事情を説明すると、分かったから次の人のところへ行けということです。
今度は女性で、また、一から説明です。少し時間はかかりましたが、やはり分かりましたと言い、教育省の便箋にタイプを打って書類を作ってくれました。正式な許可証のようです。これを持って移民局に行って下さいと言います。書類を見ると、移民局長から出されている貴殿の在外研究員許可証に従って、小学校への入学許可を認めると書いてありました。

担任と

さて、次は移民局です。何人もの人に場所を尋ねて、移民局に辿り着くと、また長蛇の列で、一時間以上待たされました。やっと順番が来て、また一からの説明です。

「以下のものを揃えて来て下さい。
 それぞれの子供に対する校長からの推薦状2通、
 子供のレントゲン撮影の公立病院での証明書2通、
 親の承諾書1通、
 保証人の推薦状1通、
 外国通貨で経費を支払える証明書1通、
 登録費1人151ドル2名分302ドル。
よろしいですか。はい、次の方。」

それで終わりでした。
病院を探し出し、子供たちを連れてレントゲンンの撮影に行かなければならないと思うだけで気が滅入ってきます。

街中

その夜はただ疲れ果てて、何もせずに寝てしまいました。
その後2日間は学校に出向く気が起こりませんでしたが、3日後に意を決して妻と2人で、再び校長を訪ねました。今までの経緯を説明し、移民局からたくさんの提出物を求められましたが、来たばかりの私たちには子供を病院に連れて行くのも大変です、校長の裁量で何とかなりませんか、わずか一ヵ月のことでもありますし、お金はきちんとお支払いしますからと目を見据えながら訴えました。これから先の手続きの煩わしさを考えたら、もし効き目があるものなら少々の寄付金を出してもいいとさえ思ったほどです。その思いが通じたのか、しばらく考えたあと、校長は「分かりました、移民局は無視しましょう。学校から手紙を出しますから、その手紙が着いたら、郵便局で経費を支払い、領収書を持って学校へ来て下さい。そのからもう一度、学校から手紙を出します。そのあとは、PTA会費を払ったらそれで完了です。それでどうですか。」と言います。それなら、最初からそのように取りはからってくれればよかったのに……。

画像

長男とクラスメイト、アレクサンドラパーク小学校にて

自転車

小学校の次は、足の確保です。

教育省に出かけた日に、電話で申しこんで初めてタクシーに乗りました。「公共運輸施設はほぼ無いとお考えください。タクシーは当てにならないし……。」と聞いていましたが、充分に利用出来そうです。窓ガラスの一部が壊れていたり、ドアの把手がないこともありますが、ショナ人の運転手も人が良さそうですし、料金も格段に安いようです。車中心の白人街には、小売店はなく、広い市街地にショッピングセンターが点在しているだけです。買物にも大学にも、自転車は必要なようです。

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敷地内で中古自転車に乗る長女

4日目、街まで自転車を買いに行きました。
マニカサイクルという店のフロアには、玩具や遊具と一緒に自転車が並べられており、1台1500ドル前後の値札がついていました。事情を説明すると、それなら中古車がいいでしょう、帰る時には引き取りますよと店主が薦めてくれます。結局、中古自転車を2台買うことにしました。1台2万円足らず、性能はあまりよくなさそうでしたが、2ヵ月半、何とか持ちこたえてくれますようにと祈るしかありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

街中で

執筆年

2011年9月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記 ③突然の訪問者・小学校・自転車」(モンド通信No. 37)

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「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」