ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。
本文
グレートジンバブエ
長女と長男、遺跡を背に
ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで来たのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観に行こうという気持ちが少しはありましたが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまい、親の方は遠出は止めようと言い出しました。しかし、子供たちの好奇心を押しとどめる術もなく、結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけました。
遺跡グレートジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは相当な距離があります。遺跡は南に300キロほど、滝は西に900キロ近くも離れています。今は乾期ですから、遺跡の方は大丈夫のようですが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にありますので、マラリアの危険がないわけではありません。入院する事態を想像すると、ますます億劫になります。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレートジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着きました。
飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、3733ドル、1人約933ドル、23000円あまりです。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいでしょうか。しかし、1000ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えません。
ジンバブエの地図
9月からは子供たちの学校も始まりますので、8月の半ばの土曜日に行くことにしました。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変です。家から空港まで20キロはあります。初めてでもありますので、8時過ぎの便に乗るには、6時くらいには家を出た方がよさそうです。タクシーの予約もしなければいけませんが、アフリカ時間が気にかかります。電話には慣れてきてはいましたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒ですので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしましょう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味があります。今後の参考にさせてもらおうと思います。
出発の朝です。アフリカ時間の心配は杞憂に終わりました。予定の6時きっかりにタクシーが来て、滑り出しは順調です。土曜日でもあり朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着きました。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想もしていませんでした。隙間といってもこぶし大はあります。石でも当たったのでしょうか。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っています。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないのですが、運転手の方は別に気にしている様子もありません。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンドブレイカーの衿を立てて震えています。
この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転出来ればいいという状態の車が多く、ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけません。その場合は運転手が気を遣って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれます。タイプは違いますが、一応は運転手による自動開閉式です。
国際空港もぱっとしませんでしたが、国内線の方は、更にぱっとせず、行けるのかなあと不安になるほどでした。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませました。
空港内で、日本からと思われる団体客を見かけました。ヴィクトリアの滝へ行くようです。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいました。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけています。4人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をつきました。
さあ、いよいよ出発です。飛行機は12人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッドエアと書いてあります。パイロットもアメリカ人のようで、乗客は12人、すべて外国人で、私たち以外は白人です。飛行機に弱い長男は前の席を希望しましたが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席でした。すでに、長男は酔わないかと身構えています。
プロペラ機の前で
飛行機は飛び立ちました。小さいので音が大きく、会話も難しい状態です。目的地は南へ300キロのマシィンゴ空港です。
厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていました。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入って来ますが、湖や川などは一切見当りません。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていました。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じでした。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れませんでした。
1時間でマシィンゴ空港に着きました。出迎えの車が2台待っていましたが、自家用車です。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車3台で運ぶ、追って1台来るので待って欲しいと言われました。
小さな空港です。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意されました。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めました。よく事情はわかりませんが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめました。
10分ほどして、白人のおばあさんが迎えに来ました。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛スピードをあげて車は進みます。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いています。大抵は、大きな荷物を頭に乗せて歩いていました。グレートジンバブエまで28キロと案内書には書いてありましたが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着きました。
外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されていて、さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれました。子猿がいる!と子供たちがカメラを出しました。
一息ついたあと、グレートジンバブエに出発しました。運転手が若い女性に変わっています。名前をターニャと言い、休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で3時間ほどの所に住んでいるとのことでした。南アフリカは地続きだから、車で行ける、それにしても3時間とはえらい近いなあ、そんな思いが頭をかすめました。ここでは外国から来ても、必ずしも「海外から」とは言えないわけです。
遺跡
しばらくして、遺跡に着きました。小高い丘に、石造りの建造物があります。想像していたほどの威圧感は感じませんでした。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれましたが、説明を聞いてもあまりわからない3人は、ガイドから付かず離れずの別行動です。
ガイドの男性
建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石を積み重ねて作られています。この辺りには、このような遺跡が150ほどもあり、ここが最大級のものだそうで、日本でも時たま特集番組で報じられたりしています。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたそうです。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまったと言われます。それでも、遺跡の中で発見された陶磁器から、ヨーロッパ人が入植する以前から、遠くインドや中国との国交があったと推測されています。イスラム商人が仲買人だったようで、その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るトワレグ人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われます。
はっきりとは断定出来ませんが、13世紀から15世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明しています。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうと言われています。
長女、遺跡を背に
ひと通り見学し終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内されました。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せています。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりです。山羊だ!と長男が大声をあげました。しかしよく見てみますと牛です。この旱魃で、痩せ衰えているのです。新聞で同じような写真を見てはいましたが、山羊と間違えるとは思いませんでした。予想以上です。
湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見かけました。ダンプカーよりもはるかに大きく、荷台で上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっています。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているところをみると、多分サファリ用の車で、野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのでしょう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がしました。
夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻りましたが、帰りの足がありません。この時間帯には利用客がないからでしょう、タクシーが見当りません。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれました。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれましたので、有り難く便乗させてもらいました。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしく、大助かりです。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していました。降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われましたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りました。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、辺りはもう真っ暗でした。(宮崎大学医学部教員)
遺跡
執筆年
2012年2月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」(No.42 2012年2月10日)