ジンバブエ滞在記23 チサライ

2020年2月27日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した23回目の「ジンバブエ滞在記23 チサライ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「アー・ユー・ハングリ? 」

10月3日土曜日、いよいよジンバブエとお別れする日となりました。朝から、最後の準備に何かと気忙しく時間が過ぎて行きました。

午前中に大学の郵便局で最終便を出し終えて戻って来たとき、「家主のおばあさんが空港から電話を掛けてきたので、ゲイリーは血相を変えて買物に出て行ったよ。」と妻が言いました。お昼過ぎに一度この家に立ち寄りたいとのことです。おばあさんにしてみれば、大事な家財道具を変な日本人に持って帰られはしないかと思うと居ても立ってもいられなかったのでしょうか。すべて吉國さんにお任せしてありましたので、帰国については何も聞かされていませんでした。「私たちは夜の6時半には家を出て空港に向かいますので、7時迄は来ないようにして下さい。」と手紙を書いて、ゲイリーに渡してもらうことにしましょう。そうすれば、会わなくても済むでしょう。出来れば顔を合わせたくないと思いました。会えば必ず、不愉快な思いをしそうな気がしたからです。そして、予感は的中しました。

暮らした500坪の借家の庭

ゲイリーの狼狽(うろた)え方は尋常ではありませんでした。私たちとの付き合いを知られて職を失なう事態をゲイリーは恐れていたのでしょう。朝から1日じゅう、そわそわとして落ち着きがありませんでした。

私たちは今夜の便に備えて、昼すぎから1、2時間でも寝ることにしました。飛行機の中では眠りにくいですし、長男は特に飛行機に弱いので、少しでも寝ておいた方がいいと考えたのです。取り敢えず、着替えて横になりました。そのうち、門の所で声がしました。おばあさんが立ち寄ったのでしょうか。長男が起き出し、カーテンの隙間から庭を覗いて「おばあさんがゲイリーと一緒に庭の中を歩いているよ」とささやきました。

庭でゲイリーと

おばあさんが帰ったあとしばらくして、帰りの支度に取りかかりました。結局、なぜか興奮して誰も寝られませんでした。

ゲイリーたちが生まれて初めてのお風呂に挑戦したり、使っていた品物をゲイリーたちに引き取ってもらったりでそれからが大変でした。夕食の準備もありました。

最後に本当のさよならパーティをするつもりで、アレックスにチキンのセットを5つ買って持って来てくれるように予め頼んでありました5時には、ジョージと一緒に姿を現わすはずです。ゲイリーたちは家を空けられませんので、アレックスとジョージが空港まで見送ってくれる予定になっていました。

仲良しの長男と好物のチキンを頬張るアレックス

この日に限って2人はアフリカ時間でやって来て、焦る私をやきもきさせましたが、それでも6時前からゲイリー、フローレンス、メイビィ、アレックス、ジョージの5人と私たちで最後の乾杯をしました。少しは最後の別れを楽しめるはずでした。しかし、予想に反して、6時半に頼んでいた2台のタクシーが今日に限って6時に到着したのです。仕方なく、待ってもらいました。

しばらくすると、また門の方で車の止まる音がします。出てみますと、おばあさんでした。おばあさんは荷物をもって、タクシーで乗り着けていました。私は鉄の門をひょいと飛び越えて、おばあさんの前に立ちました。もうすぐ出られるのは分かっていますが、それまで庭の隅でもいいですから待たせて下さいと言っています。言葉はゆっくりと丁寧でした。

奥がガレージ、手前が門

しかし、出発間際のこの混乱している時に、なんという思い遣りのなさでしょう。それよりも、庭になど入られたら、応接間でしているさよならパーティをおばあさんが見てしまいます。おばあさんの大嫌いなアフリカ人が靴も脱がずに上がり込んでいるのを見れば、きっと卒倒するでしょう。ゲイリーも即刻馘です。ゲイリーのあの慌てぶりは、馘になったあとの職探しの厳しさを物語っています。ここは、おばあさんを中に入れるわけにはいきません。

この辺りまで、穏やかに行こうと思っていました。そして、落ち着いた口調で言いました。「アイムアングリ。」(私は腹が立っています。)おばあさんがすかさず、問い返してきました。「アー・ユー・ハングリ?」(えっ、お腹が空いているの?)

ここですべてが切れてしまいました。私たちは7時には出発していますので、それ以後に来て下さいと丁寧に手紙を書いてお願いをしました、今日までの家賃はきちんとお支払いしています、その辺りまでは覚えています。それから高い家賃を払った、今は友人との別れの一時を過ごしているので邪魔されたくない、そんなことを大声で捲くしたてたと思います。あまりの剣幕に圧倒されたのでしょうか、おばあさんは一目散にタクシーの中に逃げこみました。その光景がよほど珍しかったのか、タクシーの運転手が目を白黒させたあと、にやにやと笑っていました。英語で怒鳴り散らす事態になるとは、夢にも思っていませんでした。

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おばあさんと言い争った門の辺り

「チサライ」

折角の別れの時間を邪魔されて気持ちの治まらないまま、出発の時間となってしまいました。タクシーの前で、ゲイリーたちと最後の別れを惜しみました。二人で抱き合いましたが、私の顔がゲイリーの胸あたりでした。暗くてよく分かりませんでしたが、みんな泣いているようでした。

長女はアレックスとジョージと一緒に前の車に、あとの3人は後ろのタクシーに乗りこみました。いよいよ最後です。

しかし、まだ最後にはなりませんでした。私たちの乗った車が、途中で前の車を見失って、あらぬ方向に走り出してしまったからです。空港を知らない運転手がいるなんて。しかし、場所を知らない運転手に実際に巡り合わせて1時間ほど付き合った経験がありましたので、真っ青になりました。運転手に、降りて誰かに道を確かめるように頼みました。

白人街で

何十分かの遅れで、ようやく空港に到着しました。長女とアレックスとジョージが荷物の脇で首を長くして待っていました。

それほどの時間の余裕はありません。子供たちを2二に任せて、さっそくチェックインを済ませました。手続きはそれほど待たなくて済んだのですが、子供たちの所へ戻ろうとすると、一度入場したら待合室には戻れませんとガードマンが言います。何ということでしょうか。

激しく言い合いました。言い合っていても埒があきませんので、制止するガードマンと私が問答している間に、妻が擦り抜けて待合室にいる子供たちを呼びに行きました。どんどん人が増えて身動きができないほどの待合室でしたが、子供たちと荷物はアレックスとジョージにしっかりと守られていました。しんみりとお別れも言えませんでしたが、アレックスとジョージがいてくれてよかった、有り難かった、と思いました。

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ジョージの肖像画(小島けい画)

ショナ語でさようならはチサライと言います。慌ただしい出発となりましたが、これで辛うじて飛行機に乗り込めます。2ヵ月半のハラレでの生活の感慨より、正直ほっとした気持ちの方が強かったように思います。昇降口を昇って、機内に入る前に「チサライ。」とそっと呟きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年5月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記23 チサライ」(No.57)

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「ジンバブエ滞在記23 チサライ」