ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 四 ゲイリーの家族
概要
一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は、借りた家の家主に雇われていたゲイリーの家族の話です。(写真作業中)
本文(写真作業中)
(一九九二年・ハラレ)
ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族 玉田吉行
家族
ハラレに暮らし始めてから一ヶ月ほど経ったある日、ゲイリーの家族がやって来ました。普段は侘びしい一人暮らしのゲイリーと一緒に冬休みを過ごすためです。奥さんはフローレンス、長男はウォルター、長女がメリティ、次女がメイビィです。すべて英語の名前、どうしてショナ語ではないんだろう、メイビィは「多分」という意味なのか。考えれば、おかしな名前です。名前としては初耳です。
フローレンスは鼻筋が通っていて、涼しげな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちです。私の長女と長男は、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せませんし、二人の方も日本語しか話せません。遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。
歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ると、部屋に帰りかけています。どうするのと聞いたら、写真を撮るのですから一帳羅に着替えて来ますということでした。
庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってみても顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを固定し、よそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初対面だから仕方がないのかなとも思いましたが、フィルムがなくなってカメラ屋に行き、二十四枚撮りのフィルム一本が三十八ドルで、その焼増し料が百ドル近くもすると知った時、気軽に笑えなかった理由がわかったような気がしました。写真を撮るのも、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはいないでしょう。
子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールは既に持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは百六十九ドル九十九セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は百八十九ドル九十九セントでゲイリーの月給を優に超えていました。総じて、生活必需品ではないこういった品物の値段は高いようです。何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも五十ドルくらいでした。硬式用のテニスボールを一個下さいといって、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、一個三十五ドルでした。どのボールも充分に元が取れるほど、子供たちには役に立っていました。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようでした。大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。
冬休み・夏休み
子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。北半球から来た二人にとっては最高の夏休み、南半球にいるウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て五人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようでが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。
ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。
メリティは、はにかみ屋さんです。表面には感情をそう表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女です。お互いに感ずるところがあるのか、長女と一番近かったように思います。メイビィは茶目っ気たっぷりでした。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれます。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度も何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩しませんでした。表情はいつも真剣そのものだったのです。
ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめで、最後まで変わりませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも二人が庭に出てくるのをじっと待っていたようでした。
私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、三人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインでした。ゲイリーの子供たちを見ると、デインはいつも大きな声で吠えるのです。陽気なメイビイも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込みました。
よく観察していますと、デインは白人には吠えませんが、アフリカ人を見ると必ず吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、ボーイとして働くゲイリーと元メイドのグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれたジンバブエ大学の学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。家主のスイス人のおばあさんの親戚だという中年女性や男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人にはデインは吠えませんでした。最初から吠えられなかった私たちは、デインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。
南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があって、アパルトヘイト政権を支えたその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えると言われたそうです。犬を借りて、極右翼のアフリカーナーの偏狭性を表現したものでしょうが、デインを見ていると、そんな南アフリカの話を思い出しました。恐らく仔犬の頃から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないでしょうか。子供たちが五人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。その甲斐があったのでしょうか、休みが終わる頃には、五人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになっていました。
トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持って来た色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。
長女は日本で使っている中学二年生用の英語の教科書を持ってきて、六年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じた時には、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。
ジンバブエ大学の学生から、日本には街にニンジャが走っていますかと真顔で聞かれましたが、ウォルターとメリティとメイビィが大きくなった時、そんな質問はしないような気がしました。
(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)
執筆年
2006年
収録・公開
未出版(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です)
ダウンロード
「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」 (255KB)