アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-

2019年9月8日1976~89年の執筆物アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマへのインタビューの日本語訳で、インタビューは、コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なったものです。

本文(写真作業中)

《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》

 

時 1976年1月16日、27日

所 ダルエスサラーム大学(タンザニア)
玉田吉行 訳
—-南アフリカで政治的なかかわりを持つようになったきっかけについて、少しお話ししていただけませんか。
ラ・グーマ 両親が政治とかかわっていました。父は労働組合員でしたし、1924年に入党した共産党員でした。(注1) 7歳の時、母があるサーカスに連れて行ってくれました。母に、ピエロはどうしてこちらに背中ばかり向けて演技をするのか 、と尋ねました。それは、ピエロが白人観衆のためにだけ演技しているからよ、とのことでした。このことによって、ある程度の政治的意識が私の心の中に芽生えました。

—-南アフリカについてのあなたの展望はどんなものですか。

ラ・グーマ 私は南アフリカをひとつの統合民主国家、ひとつの民主主義国家だと考えています。従って、すべての人びとが、実際に融合してひとつの南アフリカになることです。

—-自伝『2番通り』(注2) の中で、E.ムファレレ (注3) は「文学的素材として南アフリカの状況が如何に月並みなテーマにしかならないかが今わかりました」(注4) と書いています。その意見にどの程度賛同されますか。

ラ・グーマ ムファレレと全く意見が同じというわけではありません。南アフリカは人種的偏見、民族主義、階級闘争などすべての矛盾が存在する国です。作家にとって南アフリカは一つの宝庫なのです。

—-南アフリカで書かれた小説について話していただけませんか。それらの小説はどんな状況の下で書かれたのですか。

ラ・グーマ 1960年に『夜の彷徨』(注5) を書きました。私は、官憲の手に葬られたある少年の短かい新聞記事をすでに読んでいました。そののち刑務所で数ケ月過ごしました。妻の協力を得て、どうにかその小説を書き上げました。一九六一年に釈放されたあと、ウーリ・バイア (注6) に会いました、その時、私の短篇を読んだことがあると知りました。当時、作家活動を禁じられていましたし、私の書いたものを引用すれば罰せられることになっていました。そこで、その原稿をウーリ・バイアーに渡したのです。(注7) それは1962年にナイジェリアで出版されました。1962年には『三根 (みこ)の縄』(注8) に取りかかりました。その原稿はベルリンのセブン・シィーズ出版社に郵便で送りました。その本は一九六四年に出版されました。『石の国』(注9) は拘留中の自らの個人的な経験を語っています。その作品は1964年と65年にかけて書きました。そうしている間に私は南アフリカを離れました。『季節終わりの霧の中で』(注10) は1967年にロンドンで執筆し、出版されました。

—-『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。

ラ・グーマ まず何より、「第六区」はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。

—-『夜の彷徨』は多少悲劇仕立てだと言えば賛成して下さいますか。

ラ・グーマ ええ、執筆する際に、そういう考えは心の中にありました。その物語は徐々に最高頂に達して劇的な緊張感を生み出します。

—-あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。

ラ・グーマ 私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力を切り売りすることを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。

—-現に南アフリカに存在する社会的状況が、あなたの選ぶ文学上の形態と何か関連がありますか。

ラ・グーマ たとえば、小説『夜の彷徨』では、「第6区」のイメージ、「第六区」の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。

—-あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人間的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表すためにそうしているのですか。

ラ・グーマ 私の場合、小説の中では、人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも、精神的にも疎外の問題を取り扱っています。

—-文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。

ラ・グーマ 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

—-小説を書く何か特別な方法を編み出されましたか。

ラ・グーマ いえ、特別には。私には決まった予定表といったものはありません。ある考えを広げていき、頭の中でそのプランを立てる、それから書き始めます。ただそのうちのいくらかを書くだけです。また、その考えをおし広げて、もう一度書きます。草稿は一本しか書きません。草稿を終えると手を加えます。組み立てについては、書く作業をしている間じゅう、変わることはありません。

—-あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか。

ラ・グーマ 亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも、主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます。

—-どんな形であれ、いままでに、ある特別な作家、もしくはある特別な文学的伝統の影響を受けたことがありますか。南アフリカのアフリカ文学に感化を受けたことはありますか。

ラ・グーマ ええ、私の受けた文学教育はかなり伝統的なものです。ドストエフスキー、ゴーリキー、スタインベック、それにディケンズを読みました。私が思うのは、人は社会的状況によっていやおうなしに新しい特徴を見い出すということです。比喩的表現の技法とか比喩的表現の内容とか、小説の場面の設定とか。アフリカ文学の中にはいくらか読んだものもありますが、影響を受けたとは言えません。その上、南アフリカには、アフリカ文学のほかにイギリス文学もあるのです。

—-最初の小説を書かれた時、南アフリカで出版出来ると考えられましたか。特にどんな読者層のために書かれたのですか。

ラ・グーマ 私はその本が書きたかったから書いたのです。そして南アフリカで出版されたらと願いました。ケイプ・タイムズ紙 (注11) はその書評を書きました。それから発禁処分となったのです。私は主に南アフリカの人たちのために書いていますが、同時に英語を使っている人々のためにも書いています。

—-南アフリカには短篇小説が多いのですが、それをどう説明されますか。

ラ・グーマ 他より短篇小説の方が、烈しさの度合いは強く、それが今の南アフリカの状況により適っています。南アフリカではまず何より執ように事態を批判する必要性があります。次に出版の問題があります。つまり、短篇なら出せる雑誌がたくさんあるのです。

—-ロシアの批評家ルナチャールスキー (注12) は「芸術の神髄は、特殊的、一時的なものを、普遍的、恒常的なものにかえることであり、出来得る限り広範な読者の心に感化を与えることである」と言っています。あなたに関して言えば、南アフリカの現状ではその目的は妨げられてはいませんか。

ラ・グーマ 芸術性のゆえにそんなことはありません。芸術性によってものごとは普遍的になります。
—-再びムファレレを引用しますが、南アフリカの創作について「人間を人間として考え政治環境の犠牲者としては考えない時など、ほとんど一瞬たりともない」(注13) といっています。その意見にどの程度賛成されますか。

ラ・グーマ 問題なのは人びとの威厳であり、作家は人びとを人びととして描かなければなりません。私は、小説の中では、特殊な社会背景の中での平均的な経験や人間の反応を書き表そうと努めました。洋の東西を問わず、作家は常に人間を取り扱います。要は何を優先させるかの問題だと思います。

—-それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。宣伝やうたい文句は避けねばなりません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、二つは違った活動なのです。

—-批評家ドドスン (注14) は「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(注15) (1974年9月) の中で「ある南アフリカの文学作品の写実的表現には人びとや社会環境と政治機構との因果関係を辿ろうとする試みが見られない」と言っています。その意見に賛成されますか。あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか。

ラ・グーマ 自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作においては、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。そめ目的は読者の心を動かすことなのです。

—-小説は人びとに影響を与えたり、自分たちの現状について考えさせたりすべきだというのは、はっきりしていると思います。あなたの小説は南アフリカ内では読めず、南アフリカ外の人びとだけが読めるわけですが、その事実に満足しておられますか。

ラ・グーマ いえ、決して満足してはいません。中には本来の役目を果たしている作品もありますが、そのことはほとんど慰めにはなりません。

—-多くの批評家はあなたが楽天家だと言っています。それは当たっていますか。

ラ・グーマ そうです。私は楽天家ですよ。「なぜ」ですか。それは私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります。そして、今の南アフリカの状況を恒常的な特質だと、私は考えていないのです。

 

 

この記事は、フランスのソルボンヌ大学が発行している AFRICAN NEWS LETTER (仏文) 24号 (1987年1月) 8~14ペイジの “Interviews de Alex La Guma" (英文)を、同大教授主幹ミシェール・ファーブル(Michel Fabre) さんとインタビュー者、コートジボアールのアビジャン大学教授リチャード・サミン (Richard Samin) 氏の諒解を得て翻訳したものです。本年3月27日付けのサミン氏からの手紙によると、この記事は1976年1月16日と27日にタンザニアのダルエスサラーム大学で行なった2回のインタビュー記事をサミン氏が合成したものである。同年1月から2月まで当大学の客員作家にむかえられていたラ・グーマは、文学部主催のアフリカ文学国際会議で “African Literature and the Materialist Conception of the Arts" と “Literature and the Anti-Imperialist Struggle" の両論文を発表している。内容はアジア・アフリカ作家会議の「ロータス」誌 (Lotus) とアフリカ民族会議 (ANC) の「セチャバ」誌 (Sechaba) に発表された論文と同趣旨のものであったとのことである。更に、ラ・グーマの個人的印象については、筋金入りの活動家という評とは違い、非常に物腰が軟かく、ユーモアの感覚に富み、絶えず冗談をとばしたり、微笑みを絶やさなかったとのこと。サミン氏の研究にも好意的で、ロンドンでの研究・調査に際しては、いつでも快よく会見の要請に応じてくれたから、それだけよけいに、1985年10月12日、訃報に接したときの悲しみは大きかった、と綴られている。アパルトヘイトと闘い続け、夢半ば、異郷の地で果てたアレックス・ラ・グーマヘの追悼の意をこめ、このインタビューの記事を翻訳したが、作者紹介の、或いは作者研究の一助になれば、と願っています。

 

 

《紹介》

アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma) 南アフリカ、ケープタウン生まれのカラード作家。ケープ・テクニカル・カレッジ修了後、アパルトヘイト反対闘争を指導、何度か投獄、自宅拘禁を体験ののち、1966年ロンドンに亡命。アジア・アフリカ作家会議事務総長などを務める。1969年には同作家会議のロータス賞に選ばれ、翌70年のインド、ニュー・デリーでの第4回大会で受賞。1976年ダルエスサラーム大学の客員作家としてむかえられる。(滞在は1月からだが、2月には 、心臓病のためロンドンに戻っている。1978 年、アフリカ民族会議(ANC)カリブ代表としてキューバのハバナに赴任。1981年には来日、川崎市での「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」などに出席。1985年10月11日夕刻、心臓発作のため、ハバナにて死去。なお、邦訳については、本文中の『夜の彷徨』(注4参照)のほか、短篇小説「コーヒーと旅」(“Coffee for the Road")〔土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集「』(鷹書房、1977年)〕、荒木のり訳「タシュケントヘもう一度」(“Come back to Tachkent" 1970) (「新日本文学」1971年3月号)、石井碩行訳評論「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid",1975) (「新日本文学」一九七七年四月号)がある。

 

《参考》

アパルトヘイト
1948年オランダ系白人を中心とする国民党が政権をとって以来、南アフリカ共和国が採用している人種隔離政策。異人種間のあらゆる結婚を禁じた「雑婚禁止法」、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人とのあらゆる肉体交渉を禁じた「背徳法」、全住民が白人、黒人(アフリカ人)、有色人種(カラード、アジア系)に区分されて登録される「住民登録法」、特に都市とその周辺地域で、白人、黒人、有色人種の個々の居住区を設定し、混在して住むことを禁じた「集団地域法」などを法制化し、南アフリカ政府は白人優位を維持してきたが、国際世論をかわし、5倍の人口の黒人に完全な市民権を与えないための方法として、ホームランド政策をとっている。その政策は、南ア黒人を民族別に十ケ所の地域(ホームランド)に押し込め、その地域を独立国とみなし、南ア国内に住む黒人はすべて、いずれかのホームランドから出稼ぎに来ている外国人として扱うことによって、黒人住民から南ア国籍を奪っている。そして、低賃金で雇える外国人出稼ぎ労働者を確保することによって最大限の経済利潤をあげようとするアパルトヘイト体制の主柱をなしている。なお、ホームランドは国際社会では、独立国として承認されていない。これらの人種差別制度の手続き法的なパス法では、16歳以上の黒人は身分証(パス)の携帯を義務づけれ、パスを持たずに白人地域に立ち入ることは許されないし、パスがあっても、特別な雇用契約がない限り72時間以上、白人地域にはとどまれないことになっていた。現ボタ政権は、84年9月には、カラードとインド系には参政権を認め、白人、カラード、インド系からなる3人種別の2院制議会を誕生させたり、85年4月には雑婚禁止法と背徳法を撤廃したり、86年4月にはパス法廃止宣言を出したりするなど、一連の対黒人融和策を打ち出してきたが、一方では85年10月18日の詩人モロイセ氏の処刑強行や非常事態宣言などの「力」による制圧姿勢を強めており、多数派の黒人には、未だ参政権も与えていない。それは、昨年来日したデズモンド・ツツ主教(現大主教)が「アパルトヘイトと闘う」と題した講演の中で「私はノーベル平和賞を受賞しました。私は55歳です。私は母国において投票権を持っておりません」と語ったとおりである。(ツツ師は8月6日に広島で「86平和サミット基調講演」を、7日には東京日比谷公園大音楽堂でその講演を行なっている。講演要旨は「朝日ジャーナル」誌9月5日号に収録され、そのもようが10月12日深夜に「"名誉白人〃に問う・南アツツ主教は訴える」と題して日本テレビ系で放映された。
現在、反対制の非合法組織アフリカ民族会議 (ANC)、統一民主戦線 (UDF) などを中心に、アパルトヘイト打破をめざす解放闘争が続けられている。本年4月20日にはANC現議長オリバー・タンボ氏が来日、中曽根首相、倉成外相と会談した。同24日には、大阪の四天王寺学園で約1000名の聴衆を前にして「アパルトヘイト撤廃のために、日本が経済制裁を強化するよう、それぞれ応援していただきたい」と訴えた。UDFの提唱者アラン・ブーサック牧師が教会団体などの招待で来日、8月には外務省の招待で再来日の予定である。南ア問題について、新聞では、断固とした経済制裁の必要性を説く坂本義和氏(ツツ主教歓迎委員会代表)の「南ア問題と『国際日本』」(朝日新聞1986年8月1日夕刊)、本では、ツツ師の『南アフリカに自由を』(桃井・近藤訳、サイマル出版会、1983年)、ブーサック師の『アパルトヘイトに抗して』(君島訳日本基督教団出版局、1986年)、楠原彰『アフリカの飢えとアパルトヘイト-私たちにとってのアフリカ』(亜紀書房、1985年)、篠田豊『アパルトヘイト、なぜ? -南アの実情、歴史、そして私たち-』(岩波ブックレット no.51、1985年)、伊高浩昭『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト-』(サイマル出版会、1985年)、英連邦賢人調査団『アパルトヘイト白書-英連邦調査団報告-』(笹生ほか訳現代企画室、1987年)などがある。又、アフリカ行動委員会編パンフレット『アパルトヘイトとニッポン』(1986年) や国連からもパンフレット『南アフリカの政治学』(国際連合広報センター、1986年)など多数のアパルトヘイト関係の資料が提出されている。テレビ番組では、昨年7月14日のNHK特集「南アフリカで今何が起きているか-非常事態宣言一カ月泥沼の人種対立」と、本年3月25日のNHK海外秀作ドキュメンタリー「メイドとマダム・アパルトヘイトの断面」(1986年イタリア賞特別賞受賞) が、最近の南アの緊迫した情況を伝えている。

 

《訳注》

(1) 父ジェイムズ・ラ・グーマ (James La Guma, 1894-1961) は、精力的な活動家で 、1950年に共産党が禁止された時には中央委員会の一員であった。家には活動家の出入りが激しく、多忙であったが、子供の教育への配慮も怠らず、息子アレッ クスに、政治的、文学的に少なからず影響を及ぼした。アレックス自身、1947年に青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフリカ共産党に移っている。1950年の党禁止の際には、その名が著名コミュニストの名簿に記載されていた。

(2) 原題は Down Second Avenue (London:Fabre,1959; Berlin:Seven Seas,1962; New York:Doubleday,1971)で、貫名美隆氏の邦訳『わが苦悩の町2番通り-アパルトヘイト下の魂の記録』(理論社、1965年)がある。邦訳副題が示す通り、きびしい人種隔離政策をしく南アフリカ共和国の首都プレトリアの一画に設けられたアフリカ人指定居住地区「二番通り」で過ごした幼少期から、一九五七年にナイジェリアに亡命したのち、あとがきを書くまでの著者自身の「魂の記録」が綴られている。

(3) エゼキエル・ムファレレ (Ezekiel Mphahlele,1919) 南アフリカ、マラバスタド出身の黒人作家。高校教員の時、バンツー教育法反対闘争を指導、52年に解雇、教職追放処分を受ける。一時「ドラム」誌の編集を担当、56年に南アフリカ大学で修士号を取得、57年にナイジェリアに亡命、「黒いオルフェ」誌を編集。ナイロビ、パリを経て、70年渡米、大学で教鞭をとる。78年祖国に戻り、現在ヨハネスブルグのヴィットヴァータースラント大学教授。著書には、既出の自伝のほか 、『流浪者たち』(The Wanderers, New York: Macmillan,1971; London: Macmillan,1972) などがある。

(4) 終章「おしまいに」(“EPILOGUE")からの引用。1957年9月にナイジェリアの首都ラゴスに着き、学校の仕事のめどがついたあと、この自伝の後半を仕上げながら、著者がナイジェリアと南アフリカを比較して述懐したところ。

(5) 原題は A Walk in the Night (Ibadan,Nigeria: Mbari Publications,1962; rept.London: Heinemann and Evanston, Illinois: Northwestern University Press, 1967 as A Walk in the Night and Other Stories)で、酒井格氏の邦訳が『全集現代世界文学の発見9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に収められている。ケープタウン、のスラム街「第六区」で職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれている。

(6)ウーリー・バイアー (Ulli Beier,1922-) ドイツの作家。編著『黒いオルフェ』〔Black Orpheus; an anthology of new African and Afro-American stories (London: Longman, 1964)〕、編著『アフリカ文学の紹介』〔Introduction to African literature; an anthology of critical writing from Black Orpheus (Evanston: Northwestern University press,1967)〕、著書『ナイジェリアの芸術』〔Art in Nigeria (Cambridge: University Press,1960)〕など、多数の編著書がある。

(7) 自宅拘禁中のラ・グーマが、どのようにして首尾よく当局の手を逃れたのかについて、亡命詩人デニス・ブルータスが「アパルトヘイトに対する抗議」と題する文章の中で次のように記しているのは興味深い。「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中も小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜局員か国際警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年、191~192ペイジ)

(8) 原題は And a Threefold Cord  (Berlin: Seven Seas,1964) で、『夜の彷徨』と同じく、カラード青年主人公チャーリー・ポールズと両親、弟妹、叔父、好意を寄せる未亡人フリーダなどの日常生活を通じて、アパルトヘイト体制下に呻吟する惨めなカラード社会の実態が綴られている。

(9)原題は The Stone Country  (Berlin: Seven Seas,1967) で、「政治犯」として投獄されたカラード青年ジョージ・アダムズが体験する獄中記。食事から一般的取扱いに至るまでアパルトヘイト体制のしみこんだ牢獄は、社会の生んだ「政治犯」も「殺人犯」もかかえこむ、まさに色のない「石の国」、ラ・グーマ自身の獄中体験をもとに、ラ・グーマの観点から、リアルに描かれている。

(10) 原題は In the Fog of the Seasons’ End  (London: Heinemann,1972; New York: Third Press,1973) で、カラード青年主人公ビュークスの地下活動を通じて、南アフリカのアパルトヘイト反対闘争が急速に進展していることを示唆している。小説は、1976年に殺された親友活動家バジィル・フェブルュアリと他の戦士たちに献じられている。

(11) 南アフリカ、ケープタウン発行の英字経済新聞。日刊、1986年創刊。

(12) ルナチャールスキー (Anatolii Vasilievich Lunachar’skii,1875-1933) ソ連邦の文芸批評家、劇作家、政治家。1917年の10月革命後、初代教育人民委員に選ばれ、モスクワ大学文学芸術部教授、初代スペイン公使などを歴任、南フランスで死去。ソ連邦の教育、社会主義文化発展のために大きな役割を演じた。文学史、芸術史の研究者としても活躍、ロシアの文学、音楽、演劇についての多くの論文、美学についての著作などがある。

(13) 自伝第23草「ナイジェリアヘの切符」 (“TICKET TO NIGERIA") からの引用 。パスポート、切符を手にしてナイジェリアに発つ直前に、多くの友人が出国を思いとどまらせようとした。教えたくても教えられず、書きたくても書けないと嘆くムファレレに「きみのほしい材料はすっかりここにある。だから刺激にはこと欠かない」と反論した友人にむかって「それが困るのだ、麻ひさせる刺激なんだ、ここのは、いつも動いていないとしびれてしまうのだ。何でもかんでも毒舌のかぎりに 、激烈に書きつづけなければいけないんだ」と答えた文章に続くくだり。

(14) ドドスン (Don Dodson) 同誌7巻2号 (1974年9月) の著者紹介によると、ドドスン氏は、米スタンフォード大学の Acting Assistant Professor of Communication でアフリカのマスメディアと大衆文化の専門家。論文 “The Role of the Publisher in Onitsha Market Literature." in Research in African Literature (Fall 1973) が紹介されている。

(15)「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(The African Studies Review) はアフリカ研究会 (The African Studies Association) の機関誌で、現在は、季刊で本部がカリフォルニア大学ロサンゼルス校に置かれている。経済、歴史関係の論文も多く、書評には定評がある。

4月29日           (大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

(翻訳)、「ゴンドワナ」7号19-24ペイジ

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