アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』

2020年2月1日2000~09年の執筆物ケニア,医療

概要

『ナイス・ピープル』を医学的な面からではなく、文学の面から分析したものです。医学的な資料は多いのですが、人間の心の襞を写す文学作品はそう多くありません。いち早くエイズ患者が出始めたケニアの状況のなかで、右往左往する医師と患者の揺れる心の襞に焦点を当てました。

本文(写真作業中)

アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』              玉田吉行

アフリカ文学

ケニアの小説『ナイス・ピープル』を感心しながら読みました。メジャー・ムアンギの『最後の疫病』(二〇〇〇年)を読んだ時、エイズの問題が作家に咀嚼されてようやく小説になったかと思ったのですが、『ナイス・ピープル』は一九九二年に出版されていました。

欧米志向の強い日本では、アフリカに文学があることすら知られていないのが実状ですが、最初のエイズ患者が出た直後の社会状況と未知の感染症に振り回されるケニアの人々の心の襞を見事に描いています。

著者について詳しくは判りませんが、オーストラリアに留学中に目にした次の新聞記事がこの本を書く動機になったようです。

「著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに一九八七年六月一日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。三年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は二年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

医学部で英語の授業を担当し始めてから十八年目になります。最近は、授業に使えないかな、科学研究費が取れるかな、という不純な動機で本を読むことが多くなりました。その点では、この本はうってつけだった訳です。特に三つの点に牽かれました。

一つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている貴重な歴史記録だという点です。

二つ目は、医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられ、新植民地時代の構図が分かり易く描かれている点です。

三つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点です。大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知のエイズ患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける卒業論文とその審査過程、売春婦などが通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、これなら医学部の授業にも、科研用にも使える、と考えた訳です。作品を紹介しましょう。

「一九八四―謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチが、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を一九七四に卒業したあと、直ちにケニア中央病院で働き始めたという設定です。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガの指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続けます。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまいます。十年後、ギチンガから譲り受けた診療所で、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続します。

一九八四年、ムングチの元に、年老いたコンボと名乗る中国人がやってきます。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。二万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去って行きます。法外な大金に戸惑いを見せますが、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになりました。最初は性病性リンパ肉芽腫かと思いますが、どうも違うようで、ケニア中央研究所の図書館に入り浸った二日目に、同年十二月にアメリカで発行された以下の症例報告を見つけます。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと似ているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、百四十ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったのですが、元同僚の意見を求めます。ケニア中央病院の二人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、既に同病院でも米国人二人、フィンランド人一人、ザイール人二人が同じ症状で死亡しており、三人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれます。早速、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を目の当たりにします。

「私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は三人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私達を怪訝そうに見つめる救いようのない三人を見つめながら、言いようのない侘びしさを感じた。その時、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、酷く苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。」(『ナイス・ピープル』、百四十一)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちでした。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されて抵抗した為に暴力をふるわれました。噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようです。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わって蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけます。

元同僚のギチンガ医師は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと地方の療法師・呪術師を紹介してくれますが、実際の役には立ちませんでした。こうして、ムングチのエイズとの闘いが始まります。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、ムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことです。

「ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート五面、スカッシュコート三面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、百四十六ペイジ)

開発や援助の名の下に、西洋資本と手を携える現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されています。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、その階級の大半は外国人で埋められています。病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数、HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしています。幼馴染みンデュクの愛人ブラウンもギチンガ医師の娘ムンビの愛人ブラックマンも、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」です。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む三十四歳の青年で、勤務する大手の銀行で秘書をしているンデュクと愛人関係にあり、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しんでいます。エイズを発症し、英国で治療を受けるために帰国しようとしますが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆきます。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、二人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになります。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」です。妻のユーニスは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれます。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになります。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来ます。

性感染症専門医と性

ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれます。

ムングチは、メアリとユーニスとムンビと、同時に関係を持ちます。幼馴染みのメアリとは高級クラブで再会し、ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居しています。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れますが、ブラウンは後にエイズを発症して死んでいます。ユーニスはムングチが担当した患者です。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もありますが、夫がHIV感染の可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れます。ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのですが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になります。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられて結婚を決意しますが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供でした。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡りますが、エイズを発症して死んでしまいます。

おわりに

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニスと、異国の地でエイズを発症して死ぬムンビの三人と同時に性的な関係を持っていた訳です。売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書きました。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念します。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、信憑性を帯びて迫って来ます。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではありません。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度でしょうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環として生まれたものです。しかし、土地を奪われ、課税される農民と都市部で働かされる賃金労働者には、旧来の制度を踏襲し発展させる力はありません。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物なのです。大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負い切れない程の累積債務に喘いでいます。そこにHIVが猛威をふるい始めた訳です。二〇〇四年のCIAの推計では、ケニア全体の平均寿命は約四十五歳にまで落ち込んでいます。

ケニアをはじめとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに援助して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎます。

第二次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して、開発や援助の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えています。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっています。ケニアも重債務国ですが、ケニア政府は債務の帳消しには反対です。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからです。

日本政府は一九九三年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めました。このエイズの深刻な事情が進めば、外交政策に支障をきたすのが予測出来るからでしょう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのですから。

『ナイス・ピープル』を読んで、そんなことを考えました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2005年

収録・公開

mon-monde 創刊号 25~31ペイジ

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