続モンド通信・モンド通信

続モンド通信37(2021/12/20)

私の絵画館:康太郎くん(ダックスフンド)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑯:アリスの小さな“きせき”(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜34:ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代(玉田吉行)

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1 私の絵画館:康太郎くん(ダックスフンド)

 康太郎くんと初対面したのは、3年前の秋のルーマーでです。

飼い主さんの若いお二人は、毎年群馬から、二匹の犬を連れて個展にいらして下さいます。ですから、ドアが開いてバギーに乗った二匹が入ってくると、私もオーナーの映子さんもいつものように、“一年ぶりだねえ。朔太郎くん!蓮太郎くん!”と話しかけましたが。

こげ茶色の毛の色もくりくりしたかわいい目も、それは“蓮太郎くん”だとすっかり思いこんだのですが、“実は康太郎なんです。”と奥様に言われて、びっくり!

まだ若かった蓮太郎くんでしたが、急な病気で亡くなってしまったとか。そしてその後、とても似ている康太郎くんと出逢われたということでした。

朔太郎くんと蓮太郎くんとクッション

 その年、群馬県内ですが引っ越しをされて、私が送った個展の案内は、お手元に届かなかったそうです。けれど、わざわざルーマーのホームページを見て、個展に出かけてきて下さいました。

そして、康太郎くんの絵のご注文となりました。<緑のなかで遊んでいるような感じで>というご希望で、“緑の草むらで遊んでいる康太郎くん”ができあがりました。

奥様とは、ルーマーで個展を始めて間もない頃お会いしました。カボチャが大好きな朔太郎くんと<二人>で静かにお食事中でした。

食後、朔太郎くんの絵を描いてほしいといわれ、背景のご希望をお聞きしましたら、ベッドとカボチャが好きなので、それでお願いしますと言われました。

 それまでは、長く装画で花を描いていた流れから、飼い主さんのお好きな花と一緒に描いていましたが。<モデルの犬ちゃんや猫ちゃんや飼い主さんがお好きな物と描く方がいいなあ>と考えを改め、以後は花と限らず、様々なご希望に添うようになり、今に至っています。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」12月

 ちなみに、2022年のカレンダーの表紙に、蓮太郎くんに登場してもらいました。

〆切りに追われ、事前に飼い主さんにおことわりできませんでしたが。

カレンダーをお送りしたところ、まっ先に、お二人は連太郎君を見つけられました。“あの愛くるしさは、他の誰でもない蓮太郎です!”とメールが届きました。

観覧車の緑色のカゴの左端が、そのかわいい蓮太郎くんです!

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑯:アリスの小さな“きせき”

 アリスは、5匹の子猫のお母さんです。

(水彩)

(パステル)

 キャンパスのグランドでの最初の出会いから、一大決心をして家につれてくるまで、何ヶ月もかかりました。

そうして、ようやく家に来た時には、すでにお腹に赤ちゃんがおり、24日後に5匹を出産しました。→「アリス」、→「母親になった猫」(2009年11月29日)

5匹のうち3匹(きいちゃん、さやちゃん、Mちゃん)は、優しいご家族と出逢うことができました。

合歓ときいちゃん

「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」7月

きいちゃんとクリスマスローズ

秋桜(こすもす)とさやちゃん

「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」10月

蔦(つた)とさやちゃん

「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」11月

アネモネとさやちゃん

むべとMちゃん

デルフィニウムとMちゃん

「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」6月

 →「合歓ときいちゃん」、→「クリスマスローズときいちゃん」、→「さやと蔦」(No. 86:2015年11月28日)、→「秋桜(こすもす)とさやちゃん」、→「デルフィニュムとMちゃん」(2010年6月)、→「郁子(むべ)とMちゃん」、→

結局、生まれつき体が弱い三毛の女の子<ぴのこ>と、

梅とぴのこ(No. 1)

梅とぴのこ(No. 1):「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」表紙

梅とぴのこ(No. 3)

梅とぴのこ(No. 3):「私の散歩道2020~犬・猫ときどき馬~」2月

水仙とぴのこ

水仙とぴのこ:「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」2月

梅とぴのこ(眠っているぴのこ)

 →「水仙とぴのこ」、→「梅とぴのこ」(No. 19:2010年2月21日)、

気が弱くてお乳があたらず、発育が遅れていた黒猫の男の子<ジョバンニ>を、お母さんの元に残しました。

向日葵とジョバンニ(No. 1)

向日葵とジョバンニ(No. 2)

向日葵とジョバンニ(No. 2):「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」8月

向日葵とジョバンニ(No. 3)

 →「向日葵とジョバンニ2」

極端に神経質な性格であるうえに、過酷なのら猫生活が長かったアリスは、家に来て14年になりますが、今も触れることができるのは、私だけです。それも、朝大きなケージから出てくる時、扉を開けて待っていて、ようやくその時だけ(少し無理やりに)抱くことができます。

人との関わりは好みませんが、アリスは子供たちと気ままに平穏にすごしていました。

ところが、今年の1月、三匹がほぼ同時に、ごはんを全く食べなくなりました。子供二匹は獣医さんのおかげで危機を脱しましたが、アリスだけは、そうはいきません。なにしろ、出産後手術をして下さった先生が、迎えに行くと“この子だけはさわれないから、ケージのまま家につれて帰って。後でケージだけ返して。”と言われ、病院の大きなケージに入れたままタクシーで運んだ子です。

おいそれと病院につれて行くことは、とてもできません。

アリスは何も食べられないまま、3日目の朝には、飲んだ水と一緒に血まで吐きました。

その日は木曜日で休診のため、明日には本人が怖がっても、嫌がっても、また先生にご迷惑をかけるとしても、必ず病院につれていく!と、決めました。

ただ丸3日何も体に入っていないので、夜少しだけでも水分をと思い、相方が毎日作ってくれる甘酒を、ぐったりしているアリスを抱きかかえ(もはや、逃げる元気もありません)スポイトで少し口に含ませました。

が、それもすぐに吐き出しました。

どうしたらいいのだろう…と途方にくれている時。娘が電話で“(犬の)三太の時に葛を使ったから、アリスにもあげてみては?”と言ってくれました。

14年も前のことで、すっかり忘れていましたが。三太も葛のおかげでずいぶん助かったことを思い出しました。さっそくアリスにスポイトで、葛湯を少し飲ませました。

今度は、もどしませんでした。

 

翌朝。アリスを病院に連れていく前に、他の二匹にご飯をあげようと、準備をしていると、昨日まで食物を近付けるたび逃げ回っていたアリスが、いつもごはんを食べる場所で待っています。

“えっ?食べれるの?”と半信半疑で少なめにご飯を置くと、自分から食べ始めました。量は多くありませんが、少しずつ何回も食べるようになり、気が付けば2~3日後には、すっかり元のようになっていました。

アリスのなかでいったい何がおきたのか。どう考えても、小さなスポイトで1~2杯のくず湯が、血まで吐く状態だったアリスの胃を回復させ食欲をもどしてくれた、としか思えませんでした。

 

14年前の犬の三太のこと。ちょうどアリスとキャンパスで2回目に出会った頃、三太の胃ガンがわかりました。その時、先生には“手術も治療もしません”とおことわりをしました。残りの時間を片時も離れないで一緒にいよう、と思ったからです。

そのかわり、翌日からごはんをすべて手作りに変えました。そうして、それに鍋一杯のたっぷりの葛湯をかけました。食べるのが大好きだった三太は、毎回喜んで食べてくれました。くず湯で、胃を通過しやすくできれば、腸に届いて栄養になってくれる。そんな単純な考え、願いからでしたが、ほんとうに何も食べられなくなるまでの約2ヶ月間、三太はそれまでと全くかわらない食欲で食べて、散歩もしました。

 全く食べられなくなった時、東京から子供たちを呼び戻しました。

先に娘が帰ると、三太の表情が一瞬にして、<ふわあー>と和らぎました。そして、すっかり安心した明るい顔になりました。

2日後息子が帰った時には、嬉しさで、残りの力をふりしぼり立ちあがりかけました。娘が慌てて抱いて止めました。

立つのはあきらめた三太でしたが。横たわったままの姿勢で、顔はしっかり笑っていました。

“三太が笑ってる!”と娘が驚き、何枚も写真をとりました。

2~3日後、家族に囲まれて、みんなの呼ぶ声をききながら、三太は私の腕のなかで逝きました。とてもやすらかな顔でした。

 葬儀場に行ってくれた子供たちから、骨の大部分が青くキラキラ光っていた、と後で聞きました。娘は、それは薬のせいだと思ったようですが。治療はいっさいしていない、薬も飲んでいないと知り。あれがガン細胞だったんだ‥‥と絶句しました。

それほど病気が広がっていたにもかかわらず、“苦しい”と一声もあげず、最後まで穏やかにいてくれたことは、三太の私たちへの優しい心配りと葛のおかげだった、と今も思います。

 

そして、今回のアリスの<小さなきせき>も、葛のおかげだと思うのです。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜34:

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」4

ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

今回はケニアの歴史の4回目で、ケニヤッタが欧米諸国や日本と手を結んでしまった以降の、主にケニヤッタとモイの時代についてである。

ケニヤッタは独裁者になったが、一人でやったわけではない。取り巻きがたくさんいたのである。ケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU)の「帝国主義と手を携える将来像」を描く上流小市民階級と、後にKANUに加わったケニア・アフリカ人民主同盟(KADU)の上流小市民階級の人たちで、欧米諸国や日本の番犬になっても我が身の利益を優先できる集団だった。その人たちは、外国資本を後ろ盾に、誰憚ることなく独裁政治を強行した。

ジョモ・ケニヤッタ

 コンゴのモブツ独裁政権が崩壊し、ローラン・カビラが国の舵取りを任されたとき、アメリカや欧米諸国は、早期に「民主主義的な」選挙の実施を迫ったが、誰よりもアフリカを知るデヴィドソンは「もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。」と牽制している。

デヴィドソン

 ケニアのような文化の高かった国ではアフリカ人すべてを敵に回すのは得策ではないので、アフリカ人の取り込みも重要な戦略の一つだった。従って、戦前も取り込まれて宗主国に協力するアフリカ人がいたわけだが、戦後西欧諸国や日本が植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に、多国籍企業による貿易や投資による経済支配に体制を移行したとき、アフリカ諸国に新しい階級を創る必要性があった。その人たちが、ケニアの場合、「外国資本と手を携える将来像」を描く上流小市民階級で、絵に描いたように「先進国」の番犬となった。

広すぎるアフリカ大陸を植民地支配するには、下級事務職員や地位の高くない従業員が必要で、最初は宣教師が初等教育を担っていたが、次第にアフリカ人教師を育成して初等教育を普及させるようになり、新しい型のアフリカ人中産階級が育っていった。その人たちには学校へ通う特権が与えられ、ヨーロッパ文化やキリスト教を学ぶようになった。植民地批判の書物も読むようになり、植民地の文化支配に反発する人もいたが、大半のアフリカ人はヨーロッパ人の特権的な生活様式を真似る誘惑には勝てなかった。

独立後、そうしたアフリカ人が政府や行政機関や政党で重要な地位を占めた。自ら新植民地政策のための中産階級の役割を引き受けて私腹を肥やし、庭付きの家や車や使用人を好んで、自らの給料を上げることに没頭した。ドイツ車ベンツに乗る人たちが多かったので「ワベンズィ」(WaBenzi)と呼ばれ、ケニアでは、「買弁階級」(’comprador class’)とも言われた。その集団が、まさにケニヤッタとその取り巻きからなる少数の上流小市民階級だったのである。

ケニヤッタとその取り巻きは、自分たちに反対する人たちをことごとく排除した。ルオ人の長老オディンガのケニア人民同盟を1969年に禁止したあとも、多くの人たちを抑え込んだ。作家のグギ・ワ・ジオンゴも犠牲者の一人で、拘禁され、亡命を余儀なくされた。グギは隣国ウガンダのマケレレ大学を出て、英国、米国で学んだ知識人である。植民地体制が「原住民のために設立した」大学で西洋流の教育を受け、ジェイムズ・グギの名で小説を書いていた。日本でも何冊か翻訳されている。国際的な評価も受け、様々な会議にも招待されていた。もちろん、日本にも招待されている。1972年にグギ・ワ・ジオンゴに改名、翌年には、アジア・アフリカ作家会議からロータス賞を受賞した。そういった国際的名声も、体制の脅威にならなかったが、母国語のギクユ語で書いた脚本をギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通してグギの作品を理解し、自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めてから、グギは反体制の象徴になった。1977年にほぼ1年間国家最高治安刑務所に拘禁されたのち、アメリカに亡命した。亡命先で『拘禁されて:一作家の獄中記』を出している。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

 『拘禁されて』に「植民地文化の傲慢さよ!その盲目的で自惚れに満ちた野望には限度がない。抑圧される側の抑圧する側への服従、搾取される側と搾取する側の平和と調和、ご主人さまを敬愛し、ご主人さまが末永く私どもをお治め下さいますようにと神に祈るべき下僕、これらは、警官の靴と警棒と軍隊の銃剣と、選ばれた少数派の目の前にぶら下げられた個人的な天国という人参によって、入念に躾けられた植民地文化の審美的な究極の目標だった……。」と書いた。

外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地支配の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治や経済、文化や言語まで支配した。当時のケニアの文化状況を『作家、その政治とのかかわり』(1981)の中でグギは次のように指摘している。

「今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくりすると思います。

そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう……。

同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません……。

さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉をかえて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なものを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです……。」(「第3章ケニア文化、生存のための国民的闘争」から抜粋)

『作家、その政治とのかかわり』

1981年に韓国の金大中(キム・デジュン)、金芝河(キム・ジハ)に死刑宣言を出した朴正熙(パクチョンヒ)政権に抗議するために、神奈川県川崎市で日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」が開催された。その会議に、亡命中のグギも招待されている。そのとき、日本批判がことのほか厳しかった実状を作家の針生一郎が「川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。」と書いたあと、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語ったラ・グーマと「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけたリウスを紹介している。(1982年1月号「世界」)

川崎でのラ・グーマ(1981年に小林信次郎氏撮影)

私は55歳頃まで大学の体育館で学生や職員といっしょにバスケットの試合をしていたが、プレイしていた留学生の中にケニア出身の留学生がいた。ルヒア人のサバで、ある日、グギの翻訳のことで質問に応じてくれ、ついでに次のような話もしてくれた。

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODA予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今ODAの予算でモンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」

サバとバスケットをしていた人たち(たま撮影)

 サバは6年間大学院で醸造学を学んだあと、奈良先端科学技術大学に関係する企業に就職すると言って宮崎を離れた。ケニアに滞在経験のある医学生とイタリアンレストランで送別会をしたとき、食事をする前に「小腹が空いた」と言っていた。今はどうしているんだろう。

約13年間(1964年~1978年)大統領だったジョモ・ケニヤッタ(KANU)が死んだあと、副大統領のダニエル・アラップ・モイ(KANU)が引き継いで約24年(1978年 ~2002年)大統領をやり、その後、ムワイ・キバキが約10年(2002年~2013年)大統領をやっている。2期目の2007年の総選挙後に大規模な暴動があったものの、第3者の調停を受け、連立政権で行くことで折り合いをつけている。その後、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタが大統領になって約8年、現在二期目である。二期目は選挙結果に最高裁で無効の判決が出て世界を驚かせたらしいが、再選されている。、来年の2022年が次回の総選挙ではまた波乱が起きそうだと言われている。

どっちもどっちだが、目まぐるしく首相が交代する「先進国」の日本とは違い、欧米・日本の番犬を務めるケニアの大統領はまだ4代目である。東京のケニア大使館のサイトには「ケニアの生活は、素早い回復を成し遂げました。そしてケニアは、ムワイ・キバキ大統領の最後の期である2期目を向かえ、さらに強く、団結した国になっています。」とある。2007年12月の頃のことらしい。「先進国」と手を結んで少数の金持ちが好き勝手している国の出先機関が紹介する小史を、知らなければうっかり信じてしまいそうである。

次回は2021年Zoomシンポジウム5:アフリカとエイズ(1)である。

今年一番の出来のようである

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信36(2021/11/20)

私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑮:月は友だち?(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代(玉田吉行)

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1 私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ

 雪之丞くんと飼い主さんにお会いしたのは、2019年の個展でのことでした。

お父さんの背負っておられるキャリーバッグ一杯に、見事なふわふわの毛が広がっていました。

まんまるいかわいい目がとても印象的でした。

最初は<ルーマーちゃん>の絵をご覧になり、こんなふうに背景なしで、雪之丞くんだけで、というご希望でしたが。

ルーマーちゃん

 ラフスケッチをお送りしたりする間に、

① 写真のような構図(正面を向いて足がちょこんと出ている)

② お顔は笑っているように見えるものを。

③ 背景は優しい色合いに。

④ 雪之丞くんが大好きなおもちゃたちを一緒に。

というように、ご希望が具体化されていきました。

そして、大好きなおもちゃのお写真が何枚も届きました。

それらのなかから、かわいいうさぎさんとぞうさんの2つを選ばせていただき、雪之丞くんと一緒に描きました。背景には、雪之丞くんの美しい毛がひきたつように、明るい緑を置きました。

初めての“ペキニーズ”でしたが、とびきり愛らしい雪之丞くんと出会えて、幸運でした。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」11月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑮:「月は友だち?」

月に眠る(2)

 私は夏が好きでした。

小・中・高から大学、大学院まで、ずっと“夏休み”があることも大きな理由でしたが。暑さそのものも、あまり苦になりませんでした。

ところが、ここ数年、その暑さに悩まされるようになりました。クーラーが苦手な私は、微妙な温度差が、体調に影響するようになりました。

もう一つの理由は、毎年個展をし、カレンダーを出すようになって、絵の〆切りが<暑さのまっ最中>と重なることでした。

昨年の夏は、その両方で、夜うまく眠れなくなりました。途中からは、環境を変えようと、アトリエに布団を運び込み(広々と敷く場所はないので)大きめの机の下に敷いて寝る、などという泪ぐましい努力もしました。

そんなこんなで困っていた時、娘が“裸足で土の上を歩くと、体に良いみたいだよ”と教えてくれました。

私は昔スキーで膝を痛めて以来、足首も痛めています。サポーターなしには出歩けませんので、裸足はあきらめ靴をはきますが。柔かい草の上を歩くのはいいかもしれない、と思いました。

以来、近くのキャンパスのグランドのすみっこ、草のところで、歩くことを始めました。一日1000歩。それも、普通に歩くのではなく、<ナンバ歩き>です。

日本地図を作った伊能忠敬が、高齢にもかかわらず毎日50kmも歩くことができたのは、ナンバ歩きのおかげだ、ということを聞いたからです。

伊能中図九州南半「古地図コレクション」

https://kochizu.gsi.go.jp/items/171?from=category,10,index-table

 右手右足、左手左足と最初は少しギコチなかったのですが。丹田にだけ力を入れ、あとは力を抜いていればよいとわかってからは、かなりスムーズに動けるようになりました。 始めた頃は夏の終わりでしたので、遅い時間でもグランドには少し人がいました。ある晩、グランド回りの外灯も消えたので、懐中電灯で足元を照らしながら歩いていると、走っていた学生さんが突然近付いてきて、“何を探しているのですか?一緒にさがしましょうか?”と声をかけてくれました。“いえいえ・・・・”と事情を話しましたが。ご親切に感謝して。それからは懐中電灯をつけずに歩くことにしています。

季節も移り、秋から冬に。夜グランドにくる人も少なくなりました。

シーンとしたグランドは寂しいのですが、見上げると夜空には星と月。特に月は、うすい三日月から徐々に満月になり、また新月になり、とその形が日々変わります。いつのまにか、毎日最初に月を見上げて、確かめるようになりました。

“今日は昨日より少し丸くなったねえ・・・”などと話しかけながら、今夜も1000歩、歩きます。

カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」11月

「月に眠る」(1)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」3

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信35(2021/10/20)

私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑭:秋にはコスモス・・・・(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史2(玉田吉行)

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1 私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス

 以前借りていた家には、50坪ほどの畑がありました。初めての秋、その畑は一面のコスモス畑となりました。

それまで親しんでいた花屋さんのか弱いコスモスではなく、人間の背たけを越え天に向かって咲きほこる、強いコスモスでした。

そこで、来年は畑だけではなく、家の周りすべてをコスモスの花で囲もう!と考えました。30cm間隔に穴を掘り、次々とコスモスの根を植えていきました。大変でしたが、“秋の家”を想像するだけでワクワクする作業でした。

家主さんは、お世話になっている先生でしたので、毎月家賃をもってお宅にお邪魔しました。まわりからは恐れられている方でしたが、毎月の私たちのアホな話を、結構楽しみにして下さっているご様子でした。

コスモスの“植樹”(?)を終えた後、お伺いしてその話をしたところ、ふだんはそれほど大笑いされないご夫妻が、一瞬目を見合わせおかしくてたまらないというように、笑いころげておられます。そうして、ようやく笑いがおさまった後、“コスモスは一年草だから、根を植えてもダメなのですよ”と、奥様が教えて下さいました。

20年前に、私たちは今の家を買い、何年か前にはその先生も旅立たれました。他の人たちには厳しかったようですが、息子さんしかおられない先生には、ちょうど娘のような感じだったのか、私たちには温かいまなざしでした。

コスモスの花を見ると、今よりもっとアホだった私たちと、先生を思い出します。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」10月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑭:「秋にはコスモス・・・・」

中島みゆきさんに「アザミ嬢のララバイ」という曲があります。その歌詞のなかに<春は菜の花 秋にはききょう>という一節があり、気だるいメロディとともに、妙に心に残っています。

歌詞には不向きですが、私の場合は<春は桜 秋にはコスモス>となりそうです。

花の絵を中心に描いていた頃、春はめまぐるしいほどの忙しさでした。まさに<花の命は短かくて>。次から次へと、新しい花が咲き出すからです。花を追い、花に追われる日々でした。

そんな春とは違い、秋の花はとても少なく、私のなかでは、ずっと“コスモス”が秋の主役でした。

<花>

No. 1

No. 2

No. 3

No. 4

No. 5

No. 6

No. 7

No.8

No.9

 描く絵が、花から動物たちへと移ってからも、コスモスの花と一緒に描いてきました。

<犬とコスモス>

No. 1(もえちゃんとコスモス)

No. 2(ハーシュくんとコスモス)

No. 3(ターバンくんとコスモス)

No. 4(ポチとコスモス)

No. 5(寅次郎くんとコスモス)

<猫とコスモス>

No. 1(子猫とコスモス①)

No. 2(子猫とコスモス②)

No. 3(さやちゃんとコスモス)

No. 4(まりんちゃんぷりんちゃんとコスモス)

<馬とコスモス>

No. 1(ジャスミンとコスモス)

 これまでも何枚も描いてきましたが、これからもきっと、たくましく時に可憐なコスモスを、私は描き続けてゆくのだろうと思います。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(2 )

ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」2

ケニアの歴史の2回目である。

1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。

エジプトのカイロ博物館

 エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

砂漠の民トワレグ人

 トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。

スワヒリ都市と帆船ダウ

マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。

ダウを操る船乗り

 モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。

「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」

キルワとデヴィドスン

1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。

キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。

キルワ虐殺の版画

次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。

つれづれに

アフリカ史再考④:大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人

アフリカ史再考の4回目で、アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたか、である。

バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人の牧畜生活を取り上げてヨーロッパ人が到来する前に、長い間アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかについて書いていきたい。

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようである。

デヴィッドスンは、コンゴの森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説している。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていたので、固定した社会を持たなかった。

集団で川に橋を架けるピグミー

デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介している。

狩猟の準備をするサン人

その後、村を作り定住生活をするようになるが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要だった。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことである。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行くようになった。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいた。ケニア北部に住むポコト人もその子孫だと思われる。

ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂げる。

狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なもので、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれる。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけである。

デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。

ポコト人を紹介するデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住む。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければならなくなるので、村の人口は次第に減っていくが、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来る。毎年それが繰り返される。

ポコト人の主食はミルクである。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べるが、肉を食べるのは儀礼の時だけに限られる。ミルクと血だけで暮らすためにはたくさんの牛が必要になる。それに干魃などの天災にも備えなければいけないので、牛の他に、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになった。

女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っている。男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけである。

遙か北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われ始めた。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。断熱と防水の効果があるので、牛の糞は壁や屋根に塗りつける。そうして作った小屋は子牛や子山羊を昼間の暑さから守ってくれる。乳離れをさせる時にもその小屋が使われる。

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしている。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働だが、それをこなすのが女性の誇りになっている。

ポコト人女性

厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要である。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫で、カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませる。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニ退治に使う。

こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来ている。食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、そんな基本的な人の営みが営々と続いて来たわけである。

1992年にジンバブエに行った時、家族で住んだ借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなり、インタビューをさせてもらった。

ジンバブエ大学英語科教員のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながらインタビューに応じて、子供時代のことをしゃべってくれた。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれている。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそらしい。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたらしい。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれる。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だったようで、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたと言う。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたそうである。

ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたガリカーイ・モヨさんもインタビューに応じてくれた。

「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」

ガリカーイ・モヨさん(小島けい画)

ジンバブエ大学の学生のアレックス・ムチャデイ・ニョタさんもインビューに応じてくれた。普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、1日じゅう家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったらしい。「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスが言っていた。

3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話が中心、ポコト人と同じというわけにはいかないが、今も田舎では、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らすという牧畜が占める割り合いの多い暮らしをしている人たちが多いようである。ジンバブエの首都ハラレは1200メートルの高原地帯にあり、ケニアの首都ナイロビも標高1600メートルの高地にある。

「ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」(2013年3月)、→「ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」(2012年11月)、→「アレックスの生い立ち」「モンド通信」(2012年6月)

次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」である。