つれづれに

ずいぶんと冷えて来た。思っていた以上に時間がかかったが、何とか報告書が出来た。校正をして、今年中に送れますように。今年もあと一日で終わる。

2021年Zoomシンポジウム5

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」5:アフリカとエイズ

 エイズをテーマで2度科研費の交付を受けた。「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(平成15年~平成18年)と「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年~平成23年)である。両方とも文学と医学を結び付けた視点からエイズを考え直すいい機会になった。どちらのテーマも今回のテーマ「アングロ・サクソン侵略の系譜」に含まれる。(報告書を作っているので、PDFで送付可である)

奴隷貿易で資本を蓄積し、産業革命を起こして資本主義を加速させて、経済を拡大し続けて来ているのだから、当然搾り取られる側が被る弊害は大きくなっている。貧困や病気もそれらが表面化した結果に過ぎない。アフリカ系アメリカの歴史から辿り始めて、アフリカに目を向けるようになって、エイズをその流れの中で捉えるようになったのも、必然の結果である。その流れで、エイズの問題を考えてゆきたい。

交付された7年間での最大の成果は、エイズに限らず病気を包括的に見る、アフリカのエイズ問題はアフリカ人に聞くのが一番、ということだった。安い給料で働くしかないのに高価な薬が買えるはずがない、その日の食べものもないのに副作用の強い薬を飲めるわけがない、ほとんどのメディアを欧米諸国が支配している中でアフリカのエイズの状況を知る手立てがほとんどない、など考えればごくごく当たり前のことだ。ケニアの歴史で見てきたように、欧米や日本と手を組んだ政府に散散搾り取られて貧困に喘ぎ続ければ免疫力も低下して多くの人が病気になるのも当然である。エイズの問題も、貧困や病気を社会や経済などもっと大きな枠組みの中で捉えないと理解出来ないということである。

エイズも含め病気を包括的に見るべき、アフリカのエイズ問題はアフリカ人に聞け、と説くアメリカ人医師レイモンド・ダウニング(Raymond Downing)の著書 As They See It ? The Development of the African AIDSは非常に示唆的である。

エイズを包括的に見るために、ザンビアの元大統領ケネス・カウンダ、南アフリカの元大統領タボ・ムベキ、イギリスの雑誌「ニューアフリカン」の編集長バッフォー・アンコマーを紹介して、そのたちの言い分に耳を傾けるべきだと助言している。

欧米のメディアは抗HIV製剤が出来てエイズに打ち克ったように喧伝したが、カウンダは「いくらすぐれた薬が出来ても、満足に食べられないアフリカ人には抗HIV製剤だけがすべてではない」と言い、ムベキは「HIVだけがエイズの原因ではない。エイズ問題の根本原因は貧困である」と言い続けた。2003年に米国大統領ブッシュがアフリカなどのエイズ対策費用として抗HIV製剤に150億ドル(約1兆350億円)を拠出したあとにインタビューを受けたカウンダは次のように応じている。

「違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、HIV・エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、12000ドル(約108万円)で生活していますからね。数字は合っていますか。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしていますから。もしうまく行って……将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる……私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかりと食べて、ちゃんと風呂にも入り、何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、わざと言う言葉は使うべきじゃないか、わざとは撤回しますが、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね。」

ケネス・カウンダ

 さすがに貧困の原因の大半は先進国の搾取にあるとは言わなかったが、貧困をもたらす加害者アメリカに多額の寄付をされる現状にカウンダも苦笑せざるを得なかったに違いない。

ムベキはマンデラの大統領代行として新生南アフリカのエイズ問題を一手に引き受けた。当時のエイズ蔓延の状況が世界貿易機関(WTO)が決める知的財産所有権の例外条項である「国家的な危機や特に緊急な場合」と判断して、1997年に「コンパルソリー・ライセンス」法を制定した。しかし、製薬会社が後ろ盾の米国副大統領ゴアは南アフリカの状況は「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないと主張して圧力をかけ、国際的に非難を浴びた。ゴアは「ムベキとともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して」、「悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返した」と英国科学誌「ネイチャー」で批判され、マイノリティの票を失なって、結果的にブッシュに大統領選で僅差で負けている。

ムベキは2000年に南アフリカダーバンで開催された世界エイズ会議でも同じ主張を繰り返して欧米のメディアに散散叩かれたが、二つの意味で歴史的な意義があった。一つは、病気の原因であるウィルスに抗HIV製剤で対抗するという先進国で主流の生物医学的なアプローチだけによるのではなく、病気を包括的に捉える公衆衛生的なアプローチによってアフリカのエイズ問題を捉えない限り本当の意味での解決策はありえないというもっと広い観点からエイズを考える機会を提供したことである。そしてもう一つは、1505年のキルワの虐殺以来、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配と形を変えながらアフリカを食いものにしている先進国の歴史を踏まえたうえで、南アフリカでは鉱山労働者やスラムを介して現実にエイズが広がり続けているのだから、その現状を生み出している経済的な基本構造を変えない限り根本的なエイズ問題の解決策はないと、改めて認識させたことだった。

タボ・ムベキ

 免疫不全の疾病と戦うのに、免疫力を弱める根本原因の貧困問題を考えずに、抗HIV製剤を声高に叫ぶ欧米や日本のマスメディアの方が明らかに不自然である。胃腸の調子がおかしい時に大量の薬を飲むのも、食べるものがない状態で副作用の強い薬を飲むのも苦しいだけなのだから。

「日赤看護師・助産師が出会った人々~ジンバブエにおけるHIV・エイズ対策事業~桜井亜矢子看護師による報告(前橋赤十字病院、2007年5月21日から11月20日にマショナランド・ウェスト州にて活動)」はそんな当時の実情を伝えている。

「エイズ治療薬はある。でも……

HIV感染者やエイズ発症者などで在宅看護のケアを受けている患者さんの中に、ザンビア出身の40代の女性がいます。彼女は1年以上前から毎月ザンビアに行き、エイズウイルスの増殖を抑える抗レトロウイルス薬(以下、ARV)を処方してもらい内服しています。以前、彼女を家庭訪問したとき、ARVを飲み忘れることはないかと尋ねたところ、『絶対に忘れない。これは、命綱だから』と真剣な表情で答えていました。

それから1か月、再び彼女の自宅を訪問したところ、彼女の顔の皮膚がやや黒ずみ、硬くなっていました。彼女にARVをきちんと飲んでいるか尋ねたところ、毎日欠かさず飲んでいると答えてくれました。ところが、『今日は飲みましたか?』の質問に彼女はうつむいてしまいました。すでに11時を過ぎています。本来であればとっくに飲んでいなければならない時間です。

『この薬は決められた時間に飲むように言われませんでしたか?』と確認すると、『薬をきちんと飲まなければ死んでしまうのはわかっている。しかし、この薬は空腹時に飲むと副作用がひどく耐えられないので、必ず食後に飲むようにしている。今日は食べるものがなくて、朝から食べ物を探しているがまだ手に入らないので飲めずにいる……。私だって早く薬を飲みたい……。』涙ぐむ彼女を前に、私は返す言葉が見当たりませんでした。」

アンコマーは、欧米のメディアに対抗して、「ニューアフリカン」で様々な角度からエイズ問題を取り上げ、問題提起をし続けた。「ニューアフリカン」のエイズ問題に関する記事全部に国立民族学博物館でほぼ目を通したが、極めて示唆的だった。ロンドン拠点の「ニューアフリカン」は1966年創刊の英語月刊誌で、「官僚やビジネスマン、医師や弁護士などや、アフリカに関心のある人たちには大切な雑誌」のようだ。永年英国に住むガーナ出身のアンコマーが1999年に英国人アラン・レイクに代わって編集長になった。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向を大きく変えた。アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増え、扱うテーマも、それまでのエイズ検査や統計の問題に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、幅を広げた。その後の約十年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心である。

アンコマーは早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来たが、米国の皮膚科医アラン・キャントウェルJrに原稿を依頼している。キャントウェルJrは、エイズと癌の研究者として数々の具体的な根拠を示して、HIVが米国産の人工ウィルスで、エイズが生物兵器の実験から生まれたものではないかと結論づけた。起源説を主張するロバート・ギャロやマックス・エセックスは政府や製薬会社やマスコミとの繋がりが強く、学問的に過去に重大な間違いをおかしてきたこと(日本の厚生省はギャロを信じて輸入した血液製剤を使い続けて、エイズ薬害を引き起こした)、1978年に男性同性愛者に実施されたB型肝炎の人体実験がエイズの発症に大きく影響した可能性が強いこと、過去に米国政府が人体実験を行なった疑いが濃いことなどがキャントウェルJrの根拠である。キャントウェルJrは1994年のエイズ会議の立役者の一人で、会議は政府や製薬会社やマスコミに黙殺された。

キャントウェルJr

 米国政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑は、医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言した1969年に遡る。マッカーサーは、専門家なら遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能であることを示唆し、「次の五年か十年の間に、既存の病原因子とはある重要な点で異なる新しい感染性の微生物を作る可能性があり、感染症から比較的容易に身を守るために頼っている現存の免疫学的な手法や治療方法では手に負えなくなると思います。」と証言したが、その証言は80年代初頭の最初のエイズ患者騒動と時期が符合している。

過去に米国がB型肝炎の人体実験を男性同性愛者に行なった事実や、癌研究の名の下に生物兵器の研究を継続し、放射能の人体実験を行なった疑いが濃いこと、それらが兵器産業や製薬会社などと密接に繋がっていたという構図を考えれば、「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」が主張し続けるエイズのアフリカ起源説より、エイズが人工的に造り出された病気であるという主張の方がはるかに信憑性がある。

製薬会社

 チャールズ・ゲシェクターも主流派の言う「HIV/エイズ否認主義者」の一人で、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめた。ムベキの大統領諮問会議にも招聘され、「ニューアフリカン」でも執筆している。しかし、政府も製薬会社も体制派も資金源が体制派のマスコミもこぞってその会議を黙殺した。

ゲシェクターが「(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していない」と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからだ。エイズ検査が実施される以前は、医者が患者の咳や下痢や体重減などの症状を見て診断を出していたが、咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の疾病にも見られる一般の初期症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛れ込んでいる確率が高かったわけである。検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものの信憑性が非常に低いものだった。1994年の『感染症ジャーナル』の症例研究では、「結核やマラリアやハンセン病などの病原菌が広く行き渡っている中央アフリカではHIV検査は有効ではなく70%の擬陽性が報告されている」という結論が出されている。つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクターは判断したのである。2000年前後に「30%以上の感染率で、崩壊する国が出るかも知れない」という類の記事がたくさん出たが、最長10年と言われる潜伏期間の長さを考えても、20年以上経った今、エイズで崩壊した国はないのだから、報道そのものの元データが不正確だったと言わざるを得ない。

「(2)流行の原因が他にある」とゲシェクターが考えたのは、アフリカがエイズ危機に瀕しているのは異性間の性交渉や過度の性行動のせいではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得ない。それはムベキが主張し続けた内容と同じである。

ゲシェクターが言う「患者数の元データが極めて不確か」に関しては、国連や世界保健機構(WHO)基準にも疑問を呈している。

チャールズ・ゲシェクター

 国連や世界保健機構(WHO)に関する記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものである。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なる。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなるので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになる。つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカの実態を反映したものではなかったわけである。

英国のテレビプロデューサー/ジャーナリストのジョーン・シェントンは研究者チームを連れてガーナとコートジボワールに渡って調査を行ない「ガーナで227名の患者に、コートジボワールでは135名の患者に『HIVと関わりのないエイズ』を発見した。すべての患者はアフリカに昔からある体重減、下痢、慢性的な熱、肺炎、神経的な疾病の症状を呈していました。しかもガーナの227名、コートジボワールの135名がHIVの陰性でした。」と報告した。

エイズ検査の結果も極めて不確かで、資金不足のためにアフリカの病院で一般に行われていたELISA法[酵素免疫吸着測定法]による血液検査では83%も擬陽性が出る可能性があると言われていたし、ロンドンでも研究所によって結果が違い、一ヶ月の間に検査結果が二転三転した例も報告されていた。ダウニングも、妻にELISA法での陰性の結果が出て、ナイロビの病院でウエスタンブロット検査を受けたが判定できないと言われ、結局米国で検査を受けて陰性ではないと判った経験があると綴っている。

シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣ジェイムズ・マクンビは「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えた。別のウガンダ人バデゥル・セマンダは「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」と語っている。

シェントンは「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです。」と指摘した。

アンコマーは「一番厄介なのは、世界中の人々がこれらの数字を額面通り受け取り、アフリカ人はほとんど誰もが頭からつま先までHIVウィルスにまみれ、もし今死ななくても、十年かそこらのうちに死ぬのを待っているだけだと信じることです。」と指摘し、「アフリカ自体が自身と誇りを持つために、今こそ各国政府は自身の無気力、無関心な態度を捨て去り、アフリカ起源説の無実の罪を着せられかけた1980年代初頭にハイチがしたように、これらの数字に正々堂々と反論して闘うべきです。死を待つだけと言われている2600万人の市民とともに生きているのは、最終的にはアフリカの政府なのですから。」と訴え続けた。

アフリカのエイズ問題をアフリカ人に聞くために、次はエイズの状況を描いたケニアの二冊の小説ワグムンダ・ゲテリア著『ナイスピープル』とメジャー・ムアンギ著『最後の疫病』である。

バッフォー・アンコマー

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜

普段の木崎浜、先に曽山寺浜、青島が見える

歩くコース4木崎浜で、写真が多いので、何回かになる可能性が大である。時々木崎浜まで自転車で行って、砂浜を半時間ほど裸足で歩くくらいなので、歩くコースに入れる?とは思ったが、実際に歩くのでコース4にすることにして写真もたくさん撮って来た。

今の学園木花台の家に来て近くを歩くようになって、清武からは実際の距離以上に気持ちの上で木崎浜は遠いんだなあと感じ始めた。もちろん、自転車に乗る生活のせいかも知れない。

1988年に宮崎に来て、宮崎神宮より北の東大宮に家を借りた。大学が清武にあったので、生活圏は自転車で通える東大宮近辺、大学のある清武近辺が主だった。もちろん行き帰りに宮交シティに寄ったり、当時3つがあったデパート(カードは使えなかった)に寄ったり、個人のパン屋や八百屋に寄ったりはしていた。医大は1974年に設置されたそうだから、越して来た時は十年以上が経ち、大学や役場の周りには学生用のマンションが建ち、学生を狙った飲食店もたくさん出来、ほぼ今のような形になっていたようである。医大に推薦してくれた人は創設のメンバーで、病院の向かいの官舎に住んでいたと聞く。その人に寄れば、周りは蛍だらけだったらしい。僕が通い出した頃に大学近辺で蛍を見かけたことはない。大学から帰る途中、沖電気を過ぎて、今の県立看護大の手前で蛍が飛び交うのを見て、思わず何匹か捕まえて持って帰り、子供たちに見せたあと、当時まだ使っていた蚊帳の中に入れた記憶がある。小さな川がコンクリート底に改修されてから蛍は見かけなくなった。

来た頃の宮崎医科大学(大学のホームページより)

高校の教員が7年と3か月、大学の非常勤が5年と自分専用の場所がなかったので、研究室は有難かった。部屋に入った当初は、教授の研究室は南側、それ以下は北側、電話も教授室と親子電話だった。医学部らしいと言えばそうなのだが、小説を書く空間が欲しくて来ただけだったので、それでも充分有難かった。

来た頃に事務の人に撮ってもらったらしい、髭が黒い

高校で授業を担当していたのは5年と3か月、そのうち4年間は担任をした。生きることをすっかり諦め、生きても30くらいまでやろなと漠然と考えてその日暮らしをしていたので、就職活動は考えもしなかったが、母親に突然100万用意してと言われて、方向が大きく変わってしまった。浪人と留年を4年していたお陰で、一番近かった5人が20万ずつ貸してくれた。5人ともまだ結婚していなかったので、何気に貸してくれたが、考えてみれば返すあてもない。母親に食い下がってわりと早く返したが、それ以降5人とは会っていない。合わす顔がない。30で死ぬにしても、人に借りてまで生きてはいけない、それまで定期収入は要る、教員採用試験なら何とかがまんして受けられそう、それが就職の動機である。幸い、高校紛争で下から突き上げられた人たちが教育委員会に多くいて、その人たちが面接官だったらしく、裸足に下駄を履いて面接に行っても合格した。高校紛争のお陰だったと思う。今なら合格していないだろう。なぜか高校用の教職課程を取っていて、2週間の教育実習に行った。最終日に教頭に2時間説教された。説教される謂れもないので、ずっと下から睨んでいたから、二度と会わないと思っていたが、ある日、駅前で会った。「何してんねん?」「歩いてますけど」「そうちゃうやろ、これからどうすんねん?」「高校の採用試験は通ってますけど」「新設やけどうちに来(き)、ほな」それが面接だったようである。ある日「一人産休に入るから、代わりに来てくれるか?」それが3ケ月の理由である。その人が「職務規定に髭はないから、伸ばせ、伸ばせ」と言ってくれなくても、髭は剃らなかっただけやけど。

兵庫県立東播磨高校

旧宮崎大学は医大に赴任した年に木花に引っ越しをしたようである。同僚が私の赴任を待ってその年の秋から在外研究に出かけたので、その人が受け持っていた農学部の非常勤を頼まれた。来てすぐに、教育学部の旧校舎に挨拶に連れて行ってもらった。今の宮崎公立大のある場所にあって、通った大学と同じような木造の校舎だった。秋から木花の農学部の英語を担当し始めて、教育学部の人が、非常勤も含め全学の教養英語をまとめていたから、農学部担当予定なのに、教育学部に挨拶に行った理由を知ることになった。引っ越して来て間もなかったので、十年以上経っていた清武ほど周りは整備されていなかったようである。医大から旧宮崎大学に行く道も、ほとんど車が通らなかった。そのうち、体育館で学生や教員といっしょにバスケットをするようになったとき、終わってから木花温泉に行くようになった。だいぶ前に温泉は閉鎖したが、建物に看板が残ったままである。↓

いっしょに試合をしていた学生、留学生、職員のメンバー(たま撮影)

木崎浜は清武川の河口から加江田川の河口までの結構長い浜である。歩くと30分はかかるから2キロくらいはありそうである。

清武川河口

加江田川河口、向かいは曽山寺浜

次回は木崎浜を詳しく、歩くコース4木崎浜2である。

つれづれに

2021年Zoomシンポジウム4

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」4:

ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

今回はケニアの歴史の4回目で、ケニヤッタが欧米諸国や日本と手を結んでしまった以降の、主にケニヤッタとモイの時代についてである。

ケニヤッタは独裁者になったが、一人でやったわけではない。取り巻きがたくさんいたのである。ケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU)の「帝国主義と手を携える将来像」を描く上流小市民階級と、後にKANUに加わったケニア・アフリカ人民主同盟(KADU)の上流小市民階級の人たちで、欧米諸国や日本の番犬になっても我が身の利益を優先できる集団だった。その人たちは、外国資本を後ろ盾に、誰憚ることなく独裁政治を強行した。

ジョモ・ケニヤッタ

コンゴのモブツ独裁政権が崩壊し、ローラン・カビラが国の舵取りを任されたとき、アメリカや欧米諸国は、早期に「民衆主義的な」選挙の実施を迫ったが、誰よりもアフリカを知るデヴィドソンは「もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。」と牽制している。

デヴィドソン

ケニアのような文化の高かった国ではアフリカ人すべてを敵に回すのは得策ではないので、アフリカ人の取り込みも重要な戦略の一つだった。従って、戦前も取り込まれて宗主国に協力するアフリカ人がいたわけだが、戦後西欧諸国や日本が植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に、多国籍企業による貿易や投資による経済支配に体制を移行したとき、アフリカ諸国に新しい階級を創る必要性があった。その人たちが、ケニアの場合、「外国資本と手を携える将来像」を描く上流小市民階級で、絵に描いたように「先進国」の番犬となった。

広すぎるアフリカ大陸を植民地支配するには、下級事務職員や地位の高くない従業員が必要で、最初は宣教師が初等教育を担っていたが、次第にアフリカ人教師を育成して初等教育を普及させるようになり、新しい型のアフリカ人中産階級が育っていった。その人たちには学校へ通う特権が与えられ、ヨーロッパ文化やキリスト教を学ぶようになった。植民地批判の書物も読むようになり、植民地の文化支配に反発する人もいたが、大半のアフリカ人はヨーロッパ人の特権的な生活様式を真似る誘惑には勝てなかった。

独立後、そうしたアフリカ人が政府や行政機関や政党で重要な地位を占めた。自ら新植民地政策のための中産階級の役割を引き受けて私腹を肥やし、庭付きの家や車や使用人を好んで、自らの給料を上げることに没頭した。ドイツ車ベンツに乗る人たちが多かったので「ワベンズィ」(WaBenzi)と呼ばれ、ケニアでは、「買弁階級」(’comprador class’)とも言われた。その集団が、まさにケニヤッタとその取り巻きからなる少数の上流小市民階級だったのである。

ケニヤッタとその取り巻きは、自分たちに反対する人たちをことごとく排除した。ルオ人の長老オディンガのケニア人民同盟を1969年に禁止したあとも、多くの人たちを抑え込んだ。作家のグギ・ワ・ジオンゴも犠牲者の一人で、拘禁され、亡命を余儀なくされた。グギは隣国ウガンダのマケレレ大学を出て、英国、米国で学んだ知識人である。植民地体制が「原住民のために設立した」大学で西洋流の教育を受け、ジェイムズ・グギの名で小説を書いていた。日本でも何冊か翻訳されている。国際的な評価も受け、様々な会議にも招待されていた。もちろん、日本にも招待されている。1972年にグギ・ワ・ジオンゴに改名、翌年には、アジア・アフリカ作家会議からロータス賞を受賞した。そういった国際的名声も、体制の脅威にならなかったが、母国語のギクユ語で書いた脚本をギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通してグギの作品を理解し、自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めてから、グギは反体制の象徴になった。1977年にほぼ1年間国家最高治安刑務所に拘禁されたのち、アメリカに亡命した。亡命先で『拘禁されて:一作家の獄中記』を出している。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

『拘禁されて』に「植民地文化の傲慢さよ!その盲目的で自惚れに満ちた野望には限度がない。抑圧される側の抑圧する側への服従、搾取される側と搾取する側の平和と調和、ご主人さまを敬愛し、ご主人さまが末永く私どもをお治め下さいますようにと神に祈るべき下僕、これらは、警官の靴と警棒と軍隊の銃剣と、選ばれた少数派の目の前にぶら下げられた個人的な天国という人参によって、入念に躾けられた植民地文化の審美的な究極の目標だった……。」と書いた。

外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地支配の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治や経済、文化や言語まで支配した。当時のケニアの文化状況を『作家、その政治とのかかわり』(1981)の中でグギは次のように指摘している。

「今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくりすると思います。

そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう……。

同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません……。

さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉をかえて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なものを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです……。」(「第3章ケニア文化、生存のための国民的闘争」から抜粋)

『作家、その政治とのかかわり』

1981年に韓国の金大中(キム・デジュン)、金芝河(キム・ジハ)に死刑宣言を出した朴正熙(パクチョンヒ)政権に抗議するために、神奈川県川崎市で日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」が開催された。その会議に、亡命中のグギも招待されている。そのとき、日本批判がことのほか厳しかった実状を作家の針生一郎が「川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。」と書いたあと、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語ったラ・グーマと「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけたリウスを紹介している。(1982年1月号「世界」)

川崎でのラ・グーマ(小林信次郎氏撮影)

私は55歳頃まで大学の体育館で学生や職員といっしょにバスケットの試合をしていたが、プレイしていた留学生の中にケニア出身の留学生がいた。ルヒア人のサバで、ある日、グギの翻訳のことで質問に応じてくれ、ついでに次のような話もしてくれた。

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODA予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今ODAの予算でモンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」

サバとバスケットをしていた人たち(たま撮影)

サバは6年間大学院で醸造学を学んだあと、奈良先端科学技術大学に関係する企業に就職すると言って宮崎を離れた。ケニアに滞在経験のある医学生とイタリアンレストランで送別会をしたとき、食事をする前に「小腹が空いた」と言っていた。今はどうしているんだろう。

約13年間(1964年~1978年)大統領だったジョモ・ケニヤッタ(KANU)が死んだあと、副大統領のダニエル・アラップ・モイ(KANU)が引き継いで約24年(1978年 ~2002年)大統領をやり、その後、ムワイ・キバキが約10年(2002年~2013年)大統領をやっている。2期目の2007年の総選挙後に大規模な暴動があったものの、第3者の調停を受け、連立政権で行くことで折り合いをつけている。その後、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタが大統領になって約8年、現在二期目である。二期目は選挙結果に最高裁で無効の判決が出て世界を驚かせたらしいが、再選されている。、来年の2022年が次回の総選挙ではまた波乱が起きそうだと言われている。

どっちもどっちだが、目まぐるしく首相が交代する「先進国」の日本とは違い、欧米・日本の番犬を務めるケニアの大統領はまだ4代目である。東京のケニア大使館のサイトには「ケニアの生活は、素早い回復を成し遂げました。そしてケニアは、ムワイ・キバキ大統領の最後の期である2期目を向かえ、さらに強く、団結した国になっています。」とある。2007年12月の頃のことらしい。「先進国」と手を結んで少数の金持ちが好き勝手している国の出先機関が紹介する小史を、知らなければうっかり信じてしまいそうである。

次回は2021年Zoomシンポジウム5:アフリカとエイズである。

今年一番の出来のようである

つれづれに

2021年Zoomシンポジウム3

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカとエイズ」3:

ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。