つれづれに

つれづれに:台風一過

寝ているうちに台風9号は通り過ぎ、台風一過、昨日はきれいに晴れていた。今日も朝から晴れていて、普段の夏の一日である。お盆を過ぎると朝晩凌ぎやすくなるが、まだまだ暑い日が続きそうである

家の近くから望む加江田の山

進路予想の地図を見ると、薩摩半島(向かって左側の半島)の枕崎に上陸し、都城から延岡、大分の津久見を通り、愛媛の佐多岬半島をかすめて広島の呉あたりに上陸して熱帯低気圧に変わったようである。台風の規模は大きくないが、熱帯的低気圧に変わってからの方が雨風の影響が大きかったらしい。

お昼過ぎに畑に出て、一度お昼を食べてから、ガレージでの作業をしたが、結果的には一番雨風が激しかったときに作業をしていたらしい。(→「台風9号」、8月8日)普段は放りっぱなしにしているので、物が飛ばないようにナイロンのロープで繋いだり、結構することがある。今回はついでに、玄関の塀のタイル張りの黒ずんだ汚れを掃除した。引っ越して来て十数年になるので、黒ずみかたも半端でない。以前ガレージの煉瓦貼り床の汚れをみがいてきれいにしたとき、玄関の所も少したわしで擦ってみたら汚れが落ちそうだったので、今回はやってみることにした。幸いかなりの雨が降りつけてくれたので、磨いた個所に自動的にかなりきついシャワーがかかるような感じできれいになった。雨合羽を着ながら、一番激しい雨風の中で塀を一心に磨いていたわけである。何をしてたんだろう?

作業疲れか、昨日は一歩も外にでなかった。夜中は冷房を切ってシャッターを降ろし、窓を開けたままにして寝ているが、昨日の晩はシャッターの音がうるさかったようで、ありす、ぴのこ、ジョバンニの三匹の猫は、週日ぐったりとして寝てばかりいた。おかげで、今朝は元気になったようで、食欲も旺盛である。

野良で大変な思いをした直後のありす(約9か月、小島けい画、パステル)→「母親になった猫」

今のありす(15歳)

梅とぴのこ(1歳前、小島けい画)→「梅とぴのこ」

向日葵とジョバンニ(1歳前、小島けい画)→「向日葵とジョバンニ」

今のジョバンニ(14歳)

昨日ずっとごろごろしていたお陰で、今朝は割と早く起きて、公園から木花神社まで歩いた。展望所から下のたんぼで稲刈りをしているのが見えたので、長い階段を降りて近くまで行き、写真を撮ってきた。次回は「超早場米」になりそうである。今年は稲刈りの写真を撮り損ねたと思っていたが、一台だけトラクターが作業をしていた。それも台風でなぎ倒された稲を刈っているまわりで烏が作業を見守るように眺めている、そんな光景が撮れたので、散歩にカメラを持って行った甲斐があったようである。もし、よく撮れていたら、であるが。

つれづれに

つれづれに:台風9号

来るときは突然である。台風9号らしい。すぐ近くに来ているようだ。さっきまで、暴風雨のなかで、雨合羽を着て作業をしていた。雨も風も強かった。午前中に畑で作業をするつもりをしていたが、なかなか体が動かず、畑に出たのはやっとお昼過ぎ。大根の芽を土に埋めたり、オクラや茄子を針金で固定したり、物干しも解体して地面に寝かしたり。物干しも飛んだことがある。去年はガレージの補修で梯子から落下して捻挫、痛みを「堪能」して松葉杖生活で難儀した。もう一年になるわけか。雨も風も、今は一時収まっている。このまま収まるとは思えないが、今回は短くて済みそうである。寝ている間に通り過ぎて、起きたときには青空が見られるようにと祈るばかりである。

先週は、「歩くコース②の2」、「山頭火の世界④ー防府②」、「アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究」を書いて・・・。自転車で買い物に行く途中に稲刈りをやっているのを見て、先に「つれづれに:超早場米」か。

突然の台風で、そんなモードがぷつんと切れてしまった。三十何年か前に宮崎に来て以来、すっかり台風にも馴染んだようである。何年か前に大阪に大きな台風が来て関西空港で車が流される映像を見たとき「台風が来たら外に出たりせんけどなあ」とつい思ってしまったから。「警報が出てますけど」と小学校に電話したら「警報くらいで休みにはなりません」と言われた。住んでみると、わかる。何回かすごいのがやって来た。ちょうど大根の芽が出た頃に大きいのが来て全滅、再度撒き直した種から芽が出た頃に大きいのが来てまた全滅、清武の農家の人が頭を抱えていた姿が今も目に浮かぶ。大学のある清武や田野地区では、霧島の灰が堆積して出来た豊かな黒土と霧島降ろしの寒風を利用して切干大根を作る。冬の風物詩になり、名物にもなっているが、太らせて量を増やすためにたっぷり化成肥料を撒いているのをみているので、土産に持って行くのは気が引ける。

もう八月である。(小島けいのカレンダー8月↓)

つれづれに

 歩くコース2の①・・・

コース1の二つ目の三叉路

1のコースは左折、2のコースは直進

歩くコース2の①で、木花神社に寄る一番長いコースである。

コース1では二つ目の三叉路を左折したが、コース2ではそのまま歩いて高台の道をほぼまっすぐに進む。左右に10軒足らずの人家がある。家と家との距離がかなりあり、神社までは少し距離がある。途中に畑もある。西米良大根をくれた人が、かなり広い畑で作業をしているところを時々見かける。梅の木も何本かあり、季節には道に梅がころがっている。「持って帰りますか?」と聞かれた梅はおそらくこの辺りの樹になった実のようである。そのまま歩くと、木花神社に高台から入る道に行き着く。

高台から入る道

神社には右手の道をそのまま進む。両側は竹林になっている。左の道の坂を下ると県道に出る。写真を撮っている時、たまたま車が坂道を登っていた。神社には下の南側からも入れる。県道からの坂道で、県道脇に幡が見える。坂道の途中にも幡と掲示板がある。

坂を上ると、鳥居と階段がある。坂道も階段もかなり急だ。自転車を押して登った時は難儀した。途中に車で来る人のために駐車場がある。

境内への正面入り口の鳥居

木花神社に寄るようになったのは偶然で、信仰心があるわけではない。高台の道を歩いている時にたまたま見つけて立ち寄ってみたのが始まりである。あとで木花駅舎の中の大きな観光案内写真にあるのをみつけた。境内で人に会うことはめったにないが、わりと有名な神社らしい。無人だが、氏子が世話をしているようである。西米良大根をくれた人が軽トラックに草刈り機を積んで高台から神社に入るところを見かけたことがある。地元の名士で、有力な氏子かも知れない。節目には人が集まっているようだ。(②に続く)

つれづれに

つれづれに:山頭火の世界③ー防府①

山頭火ブームに便乗して、あちこちで地域起こし政策の一環として山頭火を利用しているようである。防府市もその一つ、前回紹介した生家跡も今はきれいに整備されて観光の名所になっているらしい。

去年の春に、大分に住む卒業生が研究室に寄ってくれたとき、『アフリカの蹄』の作者帚木蓬生(ははきぎほうせい)にインタビューした地元の新聞記事5回シリーズと山頭火のパンフレット類を置いていってくれた。その中の一枚に「山頭火ミュージアム時雨館」の案内ちらしがあった。昭和五年(1930年)に熊本から宮崎まわりで大分に行ったときに、湯布院の湯平(ゆのひら)温泉に立ち寄っている。その温泉地に造ったらしく、入館料は100円とある。その卒業生は東京の大学になじめずに地元の大分に戻り、仮面浪人のつもりで大学に在学していて、単位とは関係なく3年次に取ってくれた僕の教養の科目で遭った。四年の後期に開講した「種田山頭火の世界」にも一度遊びに来てくれた。

移転後の山頭火ミュージアム

最近会ったときに、今度は防府市の「山頭火ふるさと館」の案内や企画のちらしを持って来てくれた。大分からは、山口は近いらしい。山頭火が生まれて育った山口県防府市が放っておくわけがない。

山頭火ふるさと館の案内ちらし

本名種田正一、明治十五年(1882年)、山口県佐波郡西佐波令村(現在の防府市)生まれである。大地主の家に生まれたようで、資料を整理して世に伝えた大山澄太が以下のように、当時の家の様子を語ってくれた老人の話を『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)の中で紹介している。

「この塀が七八間ばかりと、あの西側の二階建の一棟とが、昔の大種田の頃の残りで、その外は皆、あとで建てたものばかりであります。さあ屋敷はどの位ありましょう。八百坪あまりでしょうな。今はその跡にこうして十四五軒も住んでおり、私もその一人なのですが。へえ、何しろ大きい庄屋さんでして、母屋は高い草葺の屋根で、その裾に瓦のおだれが四方に出ておりました。大きな樹がたくさん植えてありましてのんた、わしらは正一さんと一緒によく蝉をとって歩いたものでした。わしの方が三つ歳上で、わしはもう七十六になりますが、あの頃の盛んであった大種田の屋敷の様子はまだはっきり覚えておりますのんた。それは大したものでした。ここから三田尻駅まで十町ばかりありましょうか、そこをのんた、大種田の人々は他人の土地をふまずに駅へ歩いて出るというようなことでしてのんた。ちょいとこちらへお出ませ、へえ、あんたは伊予の松山の方からやって来られたのでしたか。そうです。お母さんは、とても美しい人でしたが、正一さんが十一歳の時に、井戸に飛びこんで自殺せられました。その井戸は、たしかこの辺であったと思います。すぐに土を入れてつぶされましたが。あの時、わしや正一さんは、納屋のような所で、芝居ごっこをして五六人で遊んでおったのです。「わあ」と皆が井戸の方へ走って行ったので、わしらもついて行きましたが、猫が落ちたのじゃ、子供はあっちへ行け。と言うてよせつけてくれませんでした。

正一さんかな、とても善い人で、あれが悪いと言う者は一人もなかった。学校では、はじめはあまりよう出来ざったと思うが、中学へ上った頃からとてもよく出来るようになって、いつも一番だったということですが、わしらはその頃から、別々の道を歩くようなことになり、それからのことは少しも知りません。俳句をやることも、山頭火という名も一向知らずにいましたようなわけです。」

七八間 一間(いっけん)は尺貫法の長さの単位。約一・八一八メートル。/ おだれ 尾垂れ、屋根の庇 (ひさし)。/ 十町 一町(いっちょう)は、町を単位として一単位の土地面積。一〇段。三〇〇〇坪。

裕福な家に生まれたものの、家庭環境には恵まれなかったようである。のちに、行乞の旅の途中に妹を訪ねた時、「兄さんすまんことですが、のんた。近所の家が起きぬ間に、早く去んでおくれ、ほいと、ほいとと言われると困るからのんた。御飯はもうちゃんと出来ちょる。」と妹に言われたようである。(NHKドラマスペシャル「山頭火 何でこんなに淋しい風ふく」では、山頭火をフランキー堺が、妹を林美智子が演じた。)

その時に詠んだ句↓

うまれた家はあとかたもないほうたる

ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる

雨ふるふるさとははだしであるく 山頭火

山口県現防府市の生家跡地

「防府②」に続く。