つれづれに

つれづれに:烏瓜(からすうり)

 

きのう散歩している時に、烏瓜を見かけた。色鮮やかな朱色である。9月も半ば過ぎ、今日は秋分の日で、暮れるのも随分とはやくなった。三十度を超す昼間の畑作業は無謀なので、陽が落ちる前頃から始めることが多い。秋の日のつるべ落とし、すぐに暗くなってしまう。

なかなか原稿の清書が進まない。パソコンを使う前はワープロ、その前は手書きで書いていたわけだが、その時はそれが当たり前で、長い手紙も手で書いた。久しぶりにやってみると、手がいうことをきいてくれない。二百枚くらいの原稿用紙が手に余る。手に余ることが増えすぎる、それが年を取ると言うことだろう。悪戦苦闘している時に「歴史をどう見るか」の続きは手に余る。「続モンド通信」も手付かずのまま、それで、烏瓜(からすうり)である。

三十数年前に宮崎に来るとき、それまで常勤職と二人の子供で一杯一杯で、絵を描く時間も取れなかった妻は、仕事を辞めて絵を描くことにした。最初は花を書いた。宮崎神宮の少し北辺りに一軒家を借りていたので、市民の森が近くで、そこの菖蒲園に毎日自転車で出かけていた。

花を集めるは僕の役目で、そのうち秋には実も集めるようになった。都会から来ると、草花は豊富である。春先はことに多彩だ。最初の秋は、木通(あけび)と烏瓜に明け暮れた。出版社から本の表紙絵のシリーズも描くように言われて、大忙しだった。今回花菖蒲の画像を探してみたが、まだパソコンを使ってない時期で、画像は見当たらなかった。辛うじて、本の表紙絵の画像があった。表紙絵用に送った原画はまとめて出版社の方が返送して下さっているので、そのうち画像にしておこうと思う。

● 出版された本の一覧です→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

烏瓜の実は食べられない。色が鮮やかなのは、空を飛ぶ鳥に見つけてもらい易くするためだそうである。鳥たちが啄ばんで食べた種が排泄されれば、種を運んでもらえるからだろう。種(しゅ)を保存するための共存共栄の営みの一環のようである。

宮崎に来た当初、絵の材料を集めるためにいつも花や実を探していたせいか、烏瓜がやたら目についた。しかし、最近はあまり見かけなくなったような気がする。

次は通草(あけび)である。

授業

Zoomトーイック:2021年9月11日

Part 7 (reading)の4問(163-164, 165-167, 168-171, 172-175, 176-180)。

前回と同様に、問題をやってから、掻い摘んで内容を把握、チェックする発音や関連語句や派生した内容。大野くん、田中さん、内田くんだけだったんで、1回か2回やってもらいました。
次回どうする?意見がなければ、続きでもええけど。

スコアをあげるのが目標なので、成果が出るように対応するつもりやけど、要は自分でどれくらいやるかどうか。

試験の日程に合わせて、どこどこをやったんで、そこをお願いしますと、2,3日前にメールをくれれば、たぶん日時を合わせて個別に対応するけけどね。

土曜日は何かと予定が入るみたいやから、都合が悪い場合は、個別に対応という形で大丈夫やと思う。あんまり低調なら、やめるかも知れんけど、今のところは継続可能。

僕の近況はホームページ→「ノアと三太」でもブログ→「ノアと三太」でも。4月から授業の分の更新がない分、「わりと「つれづれに」を書いてるかな。

つれづれに

つれづれに: 歴史をどう見るか

九月も中旬になり、彼岸花が咲き始めた。この頃に山頭火は山口の其中庵に移り住んだようだ。最初に詠んだのが彼岸花の句。

うつりきてお彼岸花の花ざかり             種田山頭火

春先に、ある人からメールで「歴史を正しく理解するとはどういうことなのでしょうか。」と聞かれた。科研費をもらっている手前何かしないわけにもいかなくて企画したシンポジウムに参加してくれた人に送ったお礼に対する返信メールの中でである。→「2021年Zoomシンポジウム」「続モンド通信27」、2021年2月20日)

僕は返事に次のように書いた。
「歴史いうても、目に見えんわけやし、実際に目で見えるのはほんのごく一部に過ぎひんからなあ……
……大学の職探しをしてて無職やったとき、世話になってた大阪工大の先輩から、『今ワシが書いてる雑誌にあんたも書いてみるか。雑誌を出してくれてはる出版社の社長さんにあんたの話をしたら、一度会いたいと言うてはったけど、どうや、会ってみるか?』と言われて、横浜でその人に会ったことが、その後に大きく影響したねえ。
何日かのちに、新幹線の新横浜の駅前の喫茶店で話をしたんやけど、その社長さん、座ったとたんに話を始めはって。
この国で縄文人が一万年以上も豊かな暮らしをしていたところに、大陸からツングースが入り込んで来て、平和に暮らしていた縄文人を蹂躙(じゅうりん)して蹴散らし、その後大和朝廷を作ったんです。その大和朝廷の末裔が跋扈(ばっこ)する関西の財界人と知識人、アングロ・サクソン系の人たちと精神構造が同じで、飽くなき上昇志向の人たち、侵略遺伝子の抑制因子の覆いが窮迫した情況に追い詰められた時にぽつんと外れ、その遺伝子を代々連綿と伝えて来た人たちです』
次に『ミトコンドリアが人間の細胞の中で共生し始めた時に……』と話が続いた。

当時はようはわからんかったけど、僕とは違う次元で生きてはるということは肌で感じたな。東大の医学部を出て医者にならずに出版社をしてはったらしく、賦与されている才能も含めて、凡人過ぎる僕とは違い過ぎてほぼ共通点は見出せなかったけど、無為に生き存らえてしまった、余生を過ごすには残りの人生は長過ぎるという思いだけは共通している気がしたね。

その後、やっと宮崎医科大学に決まって医学生に授業をすることになったと報告したとき、予想以上に喜んでくれてはったみたい。引っ越しの当日に分厚い手紙が郵便受けに届いたな。昔医学生だった人から、これから医学生に授業をすることになった僕へのメッセージやったみたい。

赴任した頃の→「宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)

『……闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 「意識下通信制御」なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります……』
『……最近の学生は とくに 医学生は 頭の良い子ばかりだそうです なにしろ なんかの方法で 受験勉強をしなかった子は いないというのですから 〝学問〟に対する その真摯な態度と勤勉に 驚かずにはいられません これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に 己れの行く末を見つめ かっちりと計画がたてられる 頭の良い子であることを意味しています 鉛直方向によそみをすることなど 思いもよらぬ 天才少年です しかし〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟シン先生 この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます 学生たちの 眠っている 意識以前に 無言で語りかけてください 意識下通信制御です そうすれば シン先生の学生のなかから 医者や医学者ではなく 医家が 必ず 生まれることを かたく 信じてください そして もちろん 学生に 好かれるように行動するのではなく いつも 御自分からすすんで 学生のひとりひとりが 好きになるようにつとめてください 〝良い頭の〟学生は 医学生の責任だとはいえません 親はもちろん あらゆるものがよってたかって腕によりかけ 作りあげた〝高級〟人形であっても 愛着をもってやれば ある日 ぱっちり眼を開き 心臓が鼓動をはじめ 体のすみずみに しだいに ぬくもりがひろがっていくことが 必ずあることを忘れないでください それと 医学部の学生は 最優秀と考えられていますが 実際は 外国語も自然科学も数学もなにもかも まったくだめだということを 信じてください 子どもだから仕方のないことですが 世評がいかに 無責任ででたらめなものであるかを シン先生も 四月になれば いやというほど思いしらされるはずです たとえば 英語は 百分講義で英文科三ページがやっとのところを 医学部は十ページをかるがるとこなすのですが その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると こいつ ほんまに 入試をくぐってきたんかいな と思う奴ばかりです それでもうんざりして見捨てたりせず この愚劣なガキどもの ひとりひとりからけっして眼をはなすことなく しっかりと 見守ってやっていただきたい なにしろ まだ人類とはならぬこども なのですから』

意識下の言語に働きかける、それが僕の授業の方針やったかも。形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ、すべて。
たま」
「形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ」、そんな思いで、「歴史をどう見るか」を身近なことと結びつけながらしばらく書いてみたいと思っている。次回は「民主主義」か。

つれづれに

歩くコース2の⑤

木花神社の中を通る→「歩くコース2の④」(9月9日)の続きで、歩くコース2の最終回である。

神社は無人で普段は誰もいない。見晴らしのいい高台にあって、旧法満寺があった頃にはたくさんの伽藍があり、飫肥藩から定期的に大勢が訪れていたようだ。南の端に二か所の展望所があり、南側と西側が展望できる。南には加江田の山が広がっている。この景色を見るといつも、山頭火が1930年の行乞の旅で熊本から宮崎を歩いた際に詠んだとされる、

分け入っても分け入っても青い山

を思い出す。

東側には日向灘が広がっており、サンマリーン球場や、春のプロ野球のキャンプで使う室内用のドームが見える。

東側には下の道に出る階段がある。今回、階段の数を数えようと下から登ったら98段、どうして区切りのいい100段にしなかったのか、そんなことを考えながらもう一度数えながら降りてみたら、99段、その辺りのようだ。雨の後などはすべりやすい。急な階段である。

南からの登り口、階段下の鳥居が見える

県道の脇の幡、風の強いときは外すようだ

階段を降りて少し坂を下れば県道に出る。手前の三叉路を左折してしばらくいくと、歩くコース1の道にただり着く。その後は、コース1と同じで、サンマリーン球場の見える交差点で折り返し、木花駅、木花小学校、木花中学校を通って家に戻る。このブログではずいぶんと時間がかかってしまったが、ほぼ一時間ほどの一番長いコースである。

前回戦没者の慰霊碑に触れて、靖国神社や第二次大戦の話を書いた。

次回からはしばらく、種田山頭火の話と併行して、歴史をどうみるか、という大きなテーマで、留学生、教授会、学士力難民など身近な話と結び付けて書いてみたいと思っている。今書いている小説のテーマとも重なるので、この「つれづれに」を習作にでもするつもりなのか、少し下心があるのかも知れない。