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続モンド通信33(2021/8/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究

 在外研究では、希望した南アフリカのケープタウンには行けず、北隣のジンバブエに行きました。

文部省で申請手続きをした1991年は、微妙な年でした。一年ずれていたら、行き先も変わっていたのになあと今になっても思います。ネルソン・マンデラが釈放された1990年とアパルトヘイト制度が廃止された1992年の狭間の年で、政府が南アフリカに対する政策を180度転換させたからです。まともに影響を受けたわけです。

それまで日本は長い間、アパルトヘイト政権と手を組んで、アフリカ人の安価な労働力にただ乗りして暴利を貪ってきました。アフリカの人たちの人権を無視する白人政府と手を結びながら、国際世論を気遣って文化交流の自粛を謳っていましたから、文部省は国家公務員を南アフリカに派遣するわけにはいかなかったのです。私は歴史の大きな渦に巻き込まれたということでしょう。

黒船に開国を迫られて以来、欧米に追い付け追い越せの政策を取って来たわけですから当然の結果ではありますが、1988年には南アフリカ政府との貿易高が世界一になり、国際的な非難の矢面に立たされました。当時の政財界と南アフリカの白人政権との橋渡し役が自民党の二階堂進と石原慎太郎。その一人を東京都民は三度も都知事に選びました。今なお自民党の支配が続き、大半の国民の意思を無視して経済を優先させ、オリンピックを強行したのも、ずっと同じ路線を突っ走っているからでしょう。

結局ケープタウンには行けず、南アフリカの入植者が第2のヨハネスブルグを夢見てアフリカ人から土地と家畜を強奪して造り上げた白人の国ジンバブエに短期で3ケ月、家族と一緒にいくことにしました。家族とアフリカで暮らす、ドナウルド・ウッズが友人ビコのために書いた伝記を基にリチャード・アッテンボローがジンバブエで製作したアメリカ映画『遠い夜明け』に出て来る赤茶けた大地を見る、そう心に折り合いをつけてジンバブエ大学に行きました。

在外研究については、帰国後すぐに大学の報告記事(→「海外研修記『アフリカは遠かった』」、→「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」)を書いていますので、今回は前後の経緯について書こうと思います。

ジンバブエ大学教育学部棟

1988年の四月に宮崎医科大学に来た時、英語科には7歳年上の助教授とアメリカ人の外国人教師がいました。小説を書く空間が欲しくて大学を探しましたから、研究室は何よりでしたが、まさか公費で外国に行ける在外研究の制度を利用できるとは思ってもみませんでした。僕を推薦して下さった人の人間関係や大学全体の内部事情などから、必ずしも歓迎されていない人事だったとあとでわかりました。ただ、前任者が辞めたあと欠員状態が続いて、英語科の同僚は在外研究を引き延ばしにされていたようで、僕の着任を待って、その年の秋からテネシー州(6ケ月)とスコットランド(3ケ月)に行きました。そして3年後の1992年度に、僕が在外研究に行くことになりました。

宮崎医科大学(ホームページから)

修士論文をアメリカの黒人作家リチャード・ライトで書いたのも、南アフリカのアレックス・ラ・グーマを読み出したのも、今から思えば大きな流れに巻き込まれていたからでしょう。ライトを選んだのは、行くところがなくて選んだ大学に、アメリカの公民権運動やアフリカの独立運動に関連するテーマで研究をしていた人たちが少なからずいたことと深く関りがあります。ライトだけでなく、ボールドウィンやエリスンなどを英語購読のテキストで使う人もいましたし、黒人英語や黒人文学や公民権運動などの特殊講義をやっている人たちもいました。アフリカ系アメリカにしてもアフリカにしても、小中高ではほとんど扱いませんし、大学でも研究のテーマにする人たちは少数でしたから、今から思えば、その大学に行っていなかったら、おそらくライトには出会っていなかったでしょう。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

リチャード・ライト(小島けいこ画)

ライトをやれば、ルーツとしてアフリカについて考えるのは自然の流れですし、当然南アフリカのアパルヘイト政権と日本との関りに気づきます。反アパルトヘイト運動に加わって活動したのも、ラ・グーマの表題で科学研究費を申請したのも、在外研究の行き先をラ・グーマの生まれ育ったケープタウンにしようとしたのも、何の不思議もありません。→「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)

アレックス・ラ・グーマ(小島けいこ画)

首都ハラレの白人街に二か月半ほど家族四人で暮らし、ジンバブエ大学に通いました。それまで十年ほど南アフリカの歴史をやって、オランダ系とイギリス系の入植者が、アフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安価な労働力として農場や工場や鉱山や白人家庭で扱き使う一大搾取機構を南部一帯に打ち立てた経緯と構図がはっきりと見えるようになっていましたが、実際に行ってみて、「ほんまやった」と実感しました。行く前に世話して下さったハラレ在住の日本人の方から「この国には一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかいませんから、不動産事情は極めて悪く一軒家を探すのは困難です。ホテル住まいを覚悟して下さい」という手紙をもらっていましたが、まさにその通りでした。

ハラレの白人街で、スイス人から借りた500坪ほどの借家

以前のあからさまな植民地支配とは違って、戦後は開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配を行っていますので見えにくいのですが、日本は加害者側にいます。その意識がずっと心の奥にあって、ハラレにいる間じゅう、加害者意識が働いて、終始息苦しい思いをしました。ハラレからパリに着いてほっとしたのを実感した時は、加害者側に慣れてしまっている自分を特に意識しました。帰ってから半年間は、心のバランスが取れず、何も書けませんでした。しかし「今しか書けませんから是非に」と言って下さった出版社の方の励ましもあって、半年ほどでジンバブエ滞在記を書きました。出版は出来ていませんが、「いつか出版するとして、取りあえずメールマガジンに連載しませんか?」と言われて、一冊分を分けて連載しました。→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」、2011年7月~ 2013年7月)

11月初めのジャカランダの咲くハラレの街並み

ハラレに行ってから、もう三十年ほどになります。

つれづれに

 歩くコース2の②・・・

高台から入る道

木花神社の中を通る「 歩くコース2の①」(7月30日)の続きである。木花神社には高台から入る道を右手に進む。両側の竹林の中の平坦な小道をしばらく歩くと、正面の鳥居の前に出る。

鳥居をくぐって短い階段をのぼれば、本殿の前に出る。無人で、普段は誰もいない。時折、たぶん氏子の誰かが単独で作業をしているのに出くわす。訪れる人もあまり見かけない。最近では年寄り夫妻が二か所ある展望所の一つの長椅子に座って休憩したのを見かけたのと、運動用のジャージを着た若い人とすれ違ったくらいである。年に何回かは定期的に何かの行事で、人が集まるようである。

いつも思うのだが、何が祀ってあるんだろう。正面は格子が嵌めてあって、賽銭箱のガラスだけがお金を投げ込めるように切ってある。格子の間からカメラをいれて中を撮影した。夕方だったが、わりときれいに撮れている。祭壇には鏡とか供え物の酒などが並べてある。宮崎神宮も同じようだったような気がするが、お盆に紙切れ、たぶん護符のようなものが置いてあるようだ。ご神体が何なのか、わからないままである。

神や仏のような目に見えないがあると思われる絶対的なもの、創造物とでもいうようなものは、信じ方によるのかもしれない。小さい頃は南印度の廬舎那仏、よく言われるお釈迦さんに魅かれて少しの間かかわったことがあるが、心の中で葛藤があり、結論は「わからない」だった。わかったように生きるのには抵抗があり、絶対的なものがあるかも知れないが、「あると信じる振りはやめよう。わからないのだから」、それが結論だった。今もかわらない。

アフリカ系アメリカ人の作家からアフリカに関心が向いて、ガーナ、南アフリカ、コンゴ、ケニアについていろいろ読むようになった。ケニアに関しては、何人かと親しくしたことがある。親しくした人の一人はクリスチャンだった。ケニア人がクリスチャンであることが当たり前のように言うのにカチンと来て、ある日、「イギリスに侵略されて、キリスト教も押し付けられたのに、クリスチャンておかしいやろ、何がクリスチャンやねん」、と言ったら、「タマダサン、実はケニア山の麓には神様がいて、それがキリスト、本当はキリストは黒人やねん」とその人が言っていた。関西に住むギくユ人である。

次回は「 歩くコース2の③」、ケニアの続きを少々と、神社の境内を写真入りで紹介、か。

授業

Zoomトーイック:2021年8月14日

Part 7 (reading)の4問(153-154, 155-156, 157-159, 160-162)だけ。文章を読んで、ぱっと掻い摘んで内容を把握、それを少しやりました。短い期間にいかに内容をつかんで答えられるかが決め手になるんで。最後の20分ほどでアメリカに行った時の話をしゃべらせてもらいました。内田くんと中原さんにしか質問出来んかったけど。毎回20分ほどしゃべらせてもらえると有難いけど。コロナが落ち着いたら長女のいる吉祥寺近辺に引っ越すつもり、そこで僕の英語を生かしてなんか考えてるみたいで。4月から授業もやってないんで、あんまり使わないと使えなくなるかもと思ったんで。
少ししか進まないけど、最後やるのは自分しかいないんで、繰り返して、繰り返して繰り返してやって、短い時間内に答えるにはどうやったらええか、自分の体で感じるしかない、ね。
中原さんが次回もPart 7を希望してるみたいやけど、他の人はどう?

読めるようになるにはたくさん読む、聞き取るにはたくさん聞くしかないんやけど、それをスコアに結び付けることは、たくさんやる中でしか感じられないんやと思う。
今日話をした最初に読んだ英語の本が千ページ以上あったという話→「修士、博士課程」

神戸市外国語大学の当時の写真(大学ホームページから)

英語をしゃべるようになったきっかけ→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」

ミシシッピのシンポジウムでファーブルさんと

アメリカでの発表とハワイの話→「 MLA(Modern Language Association of America)」

クリススマスのワイキキの浜辺、南半球なので季節は日本と真逆

は少し前に、思い出して書いてるので、参考までに。

part 4 (Listening)もやれるようにしとくとええね。みんなの希望に添うようにするつもりなんで。

終わったあと内田くんがライティングをやってくれませんかと言ってたんで対応するつもり。他に希望があれば、個別にやってもいいと思ってるので、あればどうぞ。

つれづれに

つれづれに:超早場米

来た当時の宮崎医科大学(大学ホームページから)

1988年の3月28日に、家族で宮崎に引っ越して来た。子供が二人に、妻も働いていたし、僕は非常勤だけの無職の浪人時代が5年目になっていた。最後の年は専任の話のためにもと言われた分も含めて1コマ100分を週に16コマ、非常勤講師として一般教養の英語の授業やっていた。12コマが大阪で電車は満員、毎日がいっぱいいっぱいだった。妻は学校の後片付けもあったし、家では引っ越し作業、ほんとに最後はばたばたで、取り敢えず引っ越しを、とそんな感じで、西明石から新幹線に乗って、小倉で日豊線の特急に乗り換えた。

新幹線西明石駅

宮崎医科大学の人事が決まり、推薦者に紹介してくれた広島の人から電話を受けたとき「え、そんな遠いとこ、ほんまに行くんですか?」と聞いてしまった。今から思うとずいぶんと失礼なことを口走ってしまったが、何度か人事が最後にだめになっていたので決まるとは思っていなかったから、つい口に出てしまったのである。宮崎までは、実際、長かった。特に小倉からの5時間ほどが堪(こた)えた。今なら、飛行機に乗る。

引っ越し前に住んでいた朝霧近くの大蔵海岸

南国だという意識が働いて「ストーブなんか要らんやろ」と気軽に言ったのを今でも悔やむ。世話して下さった人に任せていたら宿舎は国民宿舎、雨も降って、寒い一日、散々の出だしだった。退職に伴う諸々を何とか片づけてきた疲労困憊の妻には、今でもその時の恨みごとを言われる。返す言葉もない。今なら宮崎観光ホテルに泊まるだろう。

大淀川河畔の宮崎観光ホテル

宮崎神宮駅の少し北辺りに一軒家を借りて生活が始まったが、着いた当初は寒いし、近所の人にはいろいろお節介されるし、幼稚園と小学校では関西弁をしゃべるからと集団でいじめられるし。今でも心の傷になったままだ。僕の都合だけで3人を連れて来てたが、三人には負い目を感じる。大学の人とは家の近くで会いたくない気がして、大学からは20キロ足らず離れた借家で暮らすことに決めていた。

借家近くの宮崎神宮

雨の降る中、空港からタクシーで家まで行ってもらったが、田植えのシーズンだった。まさか3月の末に田植えとは考えてもみなかった。英語科の年上の同僚が「台風が来る前に収穫できるように3月末に植える超早場米ですね」と教えてくれた。温厚な人で、いろいろお世話になった。

4年前の3月の終わり頃もこんな感じだった

住んでみれば、わかる。超早場米は、農業に携わる人の代々の知恵である。台風が来れば、外には出ない。身を守る術である。激しい雨風のなか、外に出る理由がない。台風前にすでに稲刈りが始まっていて、6日(金)に写真を撮った時は、半分程度がすでに稲刈りを終えていた。そこへ台風である。金曜日の夕方も、土曜日の午前中も作業をする人が多かったようだ。台風に備えての作業もあって、今年は稲刈りの写真を撮り損ねたと思っていたが、台風の翌々日に作業をしていたトラクターの写真を撮った。

少し画面を引けばもう何羽かの烏が、トラクターの後ろから撮ればあと二人が映っていた

台風前にすでに田起こしをしているたんぼもあった。起こす土のあとを何羽もの白鷺がついて歩く。格好のえさが掘り起こされるんだろう。これから何度かお目にかかれそうである。

田起こしの済んだたんぼ