つれづれに

歩くコース1の⑤

前回は南瓜(かぼちゃ)についてのエセイを挟んだが、今回は歩くコース1の④の続きである。

廃屋の東側何軒かと公民館を通り過ぎると、小さな道に突き当たる。その角を左折したあとすぐに右折すると、何軒かの民家と学生用マンションやアパートが何棟か続く。農家が不動産として学生用のアパートを建てたようで、所々に建物の間に畑が残っている。野菜畑を作っている所もあるし、草が生い茂っている所もある。大学からは少し離れているが、もう少し東側一帯にも結構学生のマンションがある。大学生協が建てて管理しているアパートやマンションもある。

最初に見える学生用マンション

突き当たりが少し広い道路になっており、もう何年も工事中である。もうすぐ完成するような気配だが、確信はない。毎年市が予算を計上して業者に回し、細く、長く工事を続けているようだ。

小道を左折した北側の工事中道路

清武町は市に編入されたが、年度末になると水道管を掘り返す恒例の工事は今も続いている。「同じ個所を掘り返してようやるわ」、と三月の終わり頃に自転車で工事をしている横を通りながらいつも同じことを考える。これが、国会議員の建設族が公共工事を引っ張って来て地元に業者に金を落とす、見返りに当たり前のように投票して国会議員にして国会に送りこむ、その構図と似ている。宮崎に来た頃、ある日2階建てプレハブの選挙事務所が突如建って、大勢がわっと押しかけている光景を見て、その勢いに後ずさりしたことがある。

アパートの間の野菜畑

公務員に書類を書き換えさせて追及されてものらりくらり、あからさまに選挙資金一億五千万を出して議員を生み出しても知らぬ存ぜぬを繰り返すばかり、国民が反対しようとオリンピックを平然と強行する、「誰が見てもおかしいやろ」、といくら思っても、自民党が強いわけである。

地方も国も構図は同じ、ひょっとしたら人が集まると、企業にしろ役所にしろ学校にしろ、同じようなことを繰り返しているのかも知れない。人の性(さが)だと思えばそれまでだが、なぜか哀しい。南アフリカの歴史を概観し、教養の授業をしながら『アフリカ文化論』という本にまとめたことがあるが、南アフリカの歴史と哀しき人間の性(さが)という副題をつけた。国は違っても人は同じことを繰り返しているようである。

『アフリカ文化論』表紙

『アフリカ文化論(一)南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社、2007年)

立ち退き問題もあったようで、まっすぐに最短距離とは行かずに曲がりながらも長い工事期間を経て、間もなく道路は完成しそうである。右折すると、その先には新築工事を終えて、Aコープが新装開店の準備中である。

工事中道路の突き当り左側がAコープ

つれづれに

南瓜(かぼちゃ)が・・・

南瓜がかなり勢いをつけて来た。歩くコース1がまだ終わってないが、今回は南瓜の続きである。

勢いを増す南瓜

勢いをつけているのはわかってはいるが、なかなか竹の柵が終わらない。もちろん無理をすれば出来ると思うが、帯状疱疹も消えていないし、いろんな個所に出る小さな湿疹もあるので、ゆっくりのペースでやるしかないようである。例年より4日早い梅雨明け宣言が7月11日に出されたようなので、真夏日の陽ざしで熱中症にやられる可能性も高い。2年前はマスクをして強い日差し、気が付いたら田んぼの中に自転車ごと突っ込んでいた。一瞬意識が飛んだようで、車が行き交う所でなくて事なきを得た。

完成しない竹の柵

よう出来たもので、胡瓜(きゅうり)、オクラ、茄子(なす)、トマト、南瓜(かぼちゃ)、ピーマンなどの夏野菜は勢いがいい。今年はブロッコリーを未練がましく苗を遅くに植えてみたが、実が白っぽい色になったり、中から腐ったりして、季節には勝てないことを実感した。店先に並ぶブロッコリーは、室内で温度を調節して、たくさん殺虫剤を使わないと商品にはならない。タイなど海外からくる野菜は、それに船便で腐らないようにポストハーベストの薬剤も使われているだろうから、とても食べる勇気はない。

花から実に1

今は夏野菜が虫にやられないように、希釈した酢を噴霧器で撒き、特にオクラにたくさんつく臭いのきつい薄黄土色の小さな虫と茄子に付くてんとう虫を殺している。虫に罪はないのに、残酷な話である。

花から実に2

陽差しがきついので、夕方陽の沈んだ頃に畑に出るか、作業をする辺りだけ、青いビニールシートで陰を作って作業をするしかない。手間を怠ると、オクラは葉を巻くし、茄子も虫にやられて葉っぱは筋だけになる。

胡瓜の花

今は乾燥したオクラと大根とブロッコリーの鞘、葱(ねぎ)の葱坊主から種を採っている。葱と大根の種は大きい方だが、オクラはかなり小さい丸型、ブロッコリーはそれより更に細(ほそ)くて小さいので、ピンセットを使って一粒一粒つまんで瓶に入れている。手間がかかる。

胡瓜もお化け胡瓜にして、ピーマンも太らせ、オクラも枯れるまで置いてから種を採って撒いてみるつもりである。二期作が可能な気もするが思い通りにいくとは限らない。葱(ねぎ)もやってみたいが、無理かも知れない。

お化け胡瓜、細身の種類の胡瓜なのでまだ大きくなる

九州南部はすでに梅雨明け宣言が出ている。お盆過ぎには朝晩も少し過ごし易くなるのだろうが、当分はカンカン照りの真夏日が続く。一日一日なんとかやり過ごして辛うじて生き延びている感じだが、三匹の猫ともども支障なく暮らせているのだから感謝するばかりである。

5匹の子供を産んだアリスは14歳、一緒にいるジョバもピノコも13歳に

 

つれづれに

歩くコース1の④

廃屋の隣に何軒か家があり、しばらく行くと公民館がある。何年か前から旧宮崎中学校跡で夏祭りを始めた。地域おこしの一環ということらしい。夕方、公民館の傍を通ったことがあるが、駐車場にたくさんの車が止まっていた。青年団の人たちが集まって、準備の打ち合わせをしていたようだ。

自治会用の公民館

その向かい側に「急傾斜地崩壊危険個所」の掲示が見える。高台の一部を削り取って道を造ったために、急傾斜地が出来たようである。十数年前に今の家に引っ越しをして来て以来、大雨が降った直後に四度も地面や山肌が滑り落ちている場面に遭遇している。

「急傾斜地崩壊危険個所」の掲示

一番印象に残っているのは、南側からの車道用の坂道である。どどっという感じで崩れていて、道路に大きな亀裂が入っていた。丘陵地帯の高台に作った公園に入るための車道を造成した箇所が一部崩れ落ちたのである。もちろん大雨も想定して造られたのだろうが、想定外の長雨が続いて地盤が緩んで持ち堪えられなかったということだろう。修復工事が終わるまで、しばらく通行止めになっていた。運悪く車が通り合わせていたら、事故になっていただろう。

その時の豪雨では、近くの山肌でも何か所かで崩落事故が起きていた。杉の伐採で緩んだ地盤の所も、そうでない所も崩れ落ちていた。どぉーーーーん、ずづっという感じで、迫力があった。山肌の草や樹々がほとんど流れてしまった個所もあった。元々この地方は岩盤が弱くて脆(もろ)いから崩れ落ちやすいという解説を後から聞いた。折生迫から白浜の近くによく出かけるが、白浜からホテルのサンクマールまでの間の崖崩れは、規模が大きかった。バスが通れるようにホテルまでの迂回路を急造してその場を凌いでいたが、その後の工事も大々的で、期間も結構長かった。あの規模の崖崩れは、いつでも起こり得る、見ていてそんな感じがした。

修復されて目立たないが大幅の修復の跡が残っている南側からの坂道

もう一つは、その坂道から公園に入る辺りである。トイレの周りの小径脇が大幅に崩れ落ちた。大きな石と鉄筋を組んで補強工事が行われた。さほど影響はなかったが、もちろん期間中、小径は通れなかった。

トイレ脇の小道の横の傾斜地

公園の北端の民家の東側の道路脇も崩れた。民家の西側は短いコースでお墓を抜ける時に歩くが、広い空き地で崖崩れの心配はない。舗装された部分は無事だったが、崖の崩れ方が激しかったので、工事が大掛かりになった。砂利を引いて道を造り、ショベルカーを持ち込んでいた。ここも修復にかなりの時間をかけていた。今は砂利を引いた道路跡に草が生い茂っている。

公園端の民家脇の小道の傍(そば)の傾斜地

最後は短いコースの途中で、旧宮崎中学校前へ出る曲がり角の手前での崖崩れだった。傾斜地に大きな竹が生えてはいるが、道路脇が大きく崩れたうえ、地盤も緩んでいたので通るのも危険な状態だった。ここもわりと長い間通行止めになっていた。二十数件しか民家がないので普段はそうたくさんの車は通らないが、それでもそこそこの車が道路を使っている。通行止めにはなったが、旧中学校側の民家二軒は崩落個所の手前を曲がって坂を下れば大きな道に出られるし、反対側の民家も大回りすれば高台から東側にも南側にも出られるので、道路が寸断されて孤立するという事態は免れた。しかし、地盤が緩いし、修復しても長雨が続けば、いつでも崩落する可能性は高いと実感した。

短いコースの途中、旧宮崎中学校跡地の手前

豪雨や地震があると、崖崩れのニュースを見聞きする。普段歩くコースで崖崩れを目にするとは思ってもいなかったが、その災禍は便利さと引き換えに得た開発の代償の一部で、そんな危うい文明の中で暮らしていることを嫌でも思い知らされる。

つれづれに

歩くコース1の③

歩くコース1の②の続きである。

二つ目の三叉路を左折、緩やかな坂を下る

水道局の加圧基地から少し歩くと右側に一軒の廃屋が見える。以前は老夫婦が住んでいた。トタンで出来たおそらく6畳と4畳半くらいの建物が崩れている。中のものはそのままのようである。南側は崖の竹林、北側にも大きな樹が何本か植わっていて、建物には陽が入らないので、年中暗くてじめじめしている。ときどきドアが開いていて、土の土間の裸電球が見えた。

僕が生まれた播州の小さな町の家も同じようなものだった。戦後のどさくさに急増された粗末な一軒家のひとつで、屋根が油紙では危ないからと消防署から言われてトタンを張ったそうである。親戚が固まって住んでいたようで、従弟も何人かいた。暗い、穢い、臭いイメージしかない。貧乏人は自分が貧乏だという自覚に欠ける。その場所が当たり前で、決して自分から出て行こうとしない。その意識が一番嫌だった。赤痢や疫痢がよく流行(はや)り、どぶやそこら中にDDTの白い粉が撒かれていた記憶がある。僕は疫痢にやられ、姉は2回も赤痢に罹(かか)り死にかけたそうである。

行くところがなくて入った大学の夜間学生だったが、なぜか将来にテキストを作ったり、翻訳はしたくないなと思っていたが、よりによって、ケープタウンのスラムの話の日本語訳を出版してもらうことになった。雨漏りの音や、暗い、穢い、臭いイメージなどが感覚的にわかったのは皮肉な話である。

ナイジェリア版表紙(神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

『まして束ねし縄なれば』表紙(小島けい画)

編註テキストの付録の地図(空港のマークの下の黒塗りの辺りのスラムが舞台)

最近翻訳の経緯についてまとめた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜28:日本語訳『まして束ねし縄なれば』」(玉田吉行)

作者のアレックス・ラ・グーマを読むようになった経緯については→「MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月)、テキストについては→「A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年4月)に、作品については→「『三根の縄』 南アフリカの人々①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁、1990年8月)と→「『三根の縄』 南アフリカの人々②」「ゴンドワナ」17号6-19頁、1990年9月)に書き、翻訳こぼれ話のようなものも少し書いた。→「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)、→「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)、→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)

廃屋の西側に八朔の樹があって、主(あるじ)が居なくなっても、毎年実をつける。去年は何個かもらって帰り、半分に切って金木犀の樹に刺した。年末から春先まで、山に餌がなくなるのか、鳥たちが実を啄(つい)ばみにやって来る。宮崎に来る前の朝霧の家では、たしか梅の木に二つ切りの蜜柑を刺していた。目白や鵯(ひよ)などが多かった。

まだ落ちないで実をつけている八朔