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続モンド通信28(2021/3/20)

 

アングロ・サクソン侵略の系譜25:体制再構築時の狡猾な戦略―ガーナとコンゴの場合

第二次世界大戦直後に、それまでの植民地体制から新たな搾取構造を構築した際に取った「先進国」側の狡猾な戦略について絞って書きたいと思います。第1回Zoomシンポジウム↓で大雑把に紹介した内容の詳細です。→「Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築」

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

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第1回Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―第二次世界大戦直後の体制の再構築

日時:(2021年2月20日(土)10:00~12:00発表:

発表者:

玉田吉行(多文化多言語教育研究センター特別教授):「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史(同センター准教授):「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦(同センター講師):「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

司会:中原愛(地域資源創成学部2年)

参加者:キム・ミル(地域資源創成学部2年)、得能万里奈(地域資源創成学部1年)、SILUMIN SENANAYAKE(工学部3年)、山田大雅(工学部1年)、國本怜奈(農学部1年)、金子瑠菜(防衛大医学部1年、杉井秀彰(工学部2年)、ルトフィア・ファジリン(宮大研究生)、ユ・ハンビッ(元宮大留学生)

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① はじめに

この五百年ほど、アングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国は、奴隷貿易による資本蓄積によって農業中心の社会から産業社会への「近代化」をはかり、奴隷制や植民地支配体制で暴利を貪り続けてきました。植民地争奪戦が余りにも苛烈で世界大戦の危機を感じて、宗主国はベルリンで会議を開きましたが、結局二度の世界大戦で殺し合いました。その結果、欧米諸国と日本の総体的な力は低下して、それまでの植民地支配による搾取構造を続けられなくなり、新しい形の搾取体制を再構築せざるを得なくなりました。自称「先進国」は自国の復興に追われますが、それまで抑えられていた「発展途上国」は欧米諸国に留学していた若き指導者を中心にそれまで無視され続けて来た権利を奪い返すために独立運動を展開し始めました。「発展途上国」の総体的な力が上がったわけではありませんでしたが、時の勢いとは恐ろしいもので、いわゆる祖国解放に向けての変革の嵐(The Wind of Change)が吹き荒れました。今回はガーナとコンゴでその時に取った「先進国」の狡猾な戦略に絞って書いて行きます。②ガーナの場合、③コンゴの場合、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行こうと思います。

取り上げるのはガーナとコンゴ、資料はクワメ・エンクルマとトーマス・カンザの著書とバズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」です。ガーナの初代首相エンクルマは自伝『アフリカは統一する』(Kwame Nkurumah, Africa Must Unite, 1963)を、トーマス・カンザは『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)を書き残しています。

「アフリカシリーズ」はアフリカを誰よりも総体的に眺められた英国人バズル・デヴィドスンの映像です。そこにはもちろん、二人の生き証人も登場しています。1983年にNHKで放送された45分8回シリーズの番組で、英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いたデヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。アーカイブにもなく、今となってはとても貴重な映像です。1980年代半ばに、先輩の小林さんの世話で大阪工業大学で非常勤講師をしている時に、英語の授業で使っていたLL教室でコピーさせてもらい、その後映像ファイルにして英語や教養の授業でも継続的に使ってきました。「アフリカシリーズ」については「続モンド通信」の連載の一つに書きました。「アングロ・サクソン侵略の系譜17:『 アフリカの歴史』」「続モンド通信20」2020年7月20日)

「アフリカシリーズ」

② ガーナの場合

それまで押さえつけられていたアジアやアフリカで独立に向けての胎動が始まったとき、宗主国はそれまでのようにその動きを押さえにかかりました。しかし得策ではないと見るや、押さえるのをやめ、独立過程を妨害して国を混乱させ、政敵を担いで軍事政権を樹立する戦略に切り変えました。予想以上に変革の嵐が激しかったのと、第二次世界大戦で疲弊した自国の復興に追われて植民地支配どころではなかったからです。混乱を引き起こし、これ見たことかと誹謗中傷し、アフリカ人に自治の能力はないと嘲りました。

ガーナは当時イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれ「模範的な」植民地でしたから、欧米に留学経験のあるエンクルマなどの若き指導者に率いられる運動を押さえるために指導者を投獄して抑えにかかりましたが、時の勢いは抑えきれませんでした。そこで、戦略変えました。抑えきれないなら、独立の過程を可能な限り妨害したのち、「民主主義的な」選挙を経て独立を承認→独立後国内を混乱に陥らせたのち別の指導者を立ててクーデターを画策して軍事政権を樹立、傀儡を操作して国外から支配を継続する、という流れでした。のちに他の植民地でもほぼ同じような経過を辿っています。

1947年に故国に戻り、統一ゴールドコースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、大衆に促されてその職を辞して会議人民党 (Convention People’s Party) を指導して行くことを決意した時のことを次のように書き残しています。

「私を支持してくれる人びとのまえに立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。

これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義のしいた間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと ? 。このときから闘いは、反動的な知識人と首長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスロ一ガンをかかげた目ざめた大衆の三つどもえでおこなわれることになったのだった。」(エンクルマ著、野間寛二郎訳『わが祖国への自伝』筑摩書房、1967年(Kwame Nkrumah, The Autobiography of Kwame Nkrumah, 1957))

「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」

会議人民党を率いるエンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て、即時の自治を要求しました。当時エンクルマの右腕だったコモロ・べデマは当時の様子を次のように話しています。

「私たちは若く行動的で、演説も力強かった。もちろん、エンクルマの人柄も若い人をひきつけました。急進的で、確かに先輩たちより多くのものを求めました。即時自治も求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。」(「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」)

エンクルマは当選し、1957年に初代首相になりました。しかし、政権に就き、首相官邸に入った初日からイギリスの悪意を思い知らされることになりました。当日のことを伝記に次のように記しています。

「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。」(野間寛二郎訳『アフリカは統一する』(理論社、1971年、Kwame Nkrumah, Africa Must Unite, 1963)

『アフリカは統一する』

イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談するために中国を訪れている時にクーデターが起き、結局エンクルマは生涯祖国に戻れませんでした。1972年にルーマニアで寂しく死んだと言われています。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号、1985年)

③ コンゴの場合

パトリス・ルムンバ

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、もっと極端であからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどいませんでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。当時ルムンバ内閣で国連大使に任命されていたトーマス・カンザは当時の模様を次のように話をしています。(のちに『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)でも詳しく書いています。)

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学を卒業した者は私を入れて僅かに3人でした。

大国がコンゴに経済的な利権を確立するためにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予め肌で感じました。国連軍は主にアメリカやヨーロッパ諸国から資金を得ていますから国連軍介入も遅れ、コンゴはたちまち国際植民地と化してしまったのです。」バズル・デヴィドスン作「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」(NHK、1983年)

危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しましたが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ・セセ・セコ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

『パトリス・ルムンバの盛衰』

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(1984年に「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(「ESPの研究と実践」第5号、2006年)

④ アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

2019年の後半からコロナ騒動の渦中にいる今、その騒動の実態を把握し、今後を予測するにはあまりにも大きすぎて途方にくれるばかりですが、歴史とはそういうもので、いつか全体像を把握できるときが来るのかも知れません。

今回科研費のテーマに選んだこの五百年ほどのアングロ・サクソン侵略の系譜も、元々あまりにも大き過ぎてまとめられるものではありませんが、それでも侵略された側が残した記録の中にその形跡を見つけ出すことは可能です。

人々の幸せな暮らしを夢見て大衆から圧倒的な支持を受けて初代首相になったエンクルマもルムンバも無残に排除されてしまいましたが、その人たちが、あるいはその人たちの周りの人たちが残した痕跡を、後の世の人たちが辿り、その中から何かを掘り起こすことは可能かもしれません。そういった意味では、エンクルマの『アフリカは統一する』も、トーマス・カンザの『パトリス・ルムンバの盛衰』も、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」も後の世の人たちに伝えたかった魂の記録で、今回の作業はその中から何かを取り出す作業だったんだと思います。(宮崎大学教員)

バズル・デヴィドスン

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続モンド通信30(2021/5/20)

私の絵画館:アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night(玉田吉行)

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1 私の絵画館:

アイリッシュ・セッター(ローラ)とマーガレット(小島けい)

 私が乗馬で通う牧場の犬たちは、代々<アイリッシュ・セッター>という犬種です。賢くて人なつっこく、走るのが大好きな犬たちです、

通い始めて間もない頃、レイチェルという犬が子供を産みました。全部で何匹だったか、6~7匹もいたでしょうか。レイチェルは一生懸命にお乳をあげましたが、とても追いつきません。

すると、いつも横にいるお婆ちゃんにあたるルーシーのお乳が、突然出始めました。それからは毎日、交替で子供たちにお乳を飲ませる日々となりました。

そんなことが実際に起きるのだ!?と、生き物の不思議にびっくりしたのを覚えています。

「レイチェルと子供たち」

 お婆ちゃんのルーシーは、それから長く生きましたが、何年か前に静かに息をひきとりました。

オーナーのメグさんに、これでルーシーを描いてほしいと渡された写真は、目を閉じて寝ているルーシーに夕日が射し、毛が黄金色に輝いていました。

その毛の色が描きたくて、少し濃い目の紙を使いました。花は木立ちダリアを選びましたが。カレンダーのこの絵を見たある方が<この世ではないような>と言われました。

<ルーシーと木立ちダリア>

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 意識したわけではありませんが、ルーシーが天国で安らかに眠っていてくれたら……そう見えてもいいかなあ、と思いました。

いつのまにか年を重ねたお母さんのレイチェルも、ゆったり座っていることが多くなり、次はレイチェルとマーガレットを描きました。牧場にいる猫たち<ジェリー>(上)と<ジャガー>(横)にも登場してもらいました。

<レイチェルとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 牧場の下には日豊本線が通っています。

夕方に解き放たれた犬たちは、大喜びで牧場内を走り回りますが、時には雑木をわけ入り線路まで行ってしまうことがあります。

ずっと牧場で暮らしている犬たちはそのあたりのことがわかっているのでしょうが。やってきて間もないシェルターは、若くて元気がありすぎたため、ある日、電車にはねられて亡くなってしまいました。

<シェルターとログハウス> No. 54

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」11月

 このことがあってから、もう繰り返さないようにと、広馬場の少し上に、がけをけずって細長いドッグランが作られました。今では、みんないつでも自由に走り回っています。

<シェルター>では「モルディブの海」という絵も描きました。

<モルディブの海>

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」8月

 この絵を見たメグさんは、「シェルターを思い切り走らせてあげたくて。たった一度、シェルターだけを連れて海に行ったことがありました。その時のことを思い出します。」と静かに話されました。

シェルターが旅立った後にも、牧場では子犬たちが産まれました。何匹かいるなかで、牧場に残ったのがエリーとメイです。

幼なくて可愛いい二匹を、ラベンダー畑と一緒に描きました。

<エリーとメイとラベンダー畑>

カレンダー「私の散歩道2016~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

 そしてこの絵は、レイチェルの子供の<ローラ>。2年前に亡くなった彼女を、オーナーがお好きなマーガレットと描きました。後ろは、牧場に何頭もいる、小さな種類の山羊です。産まれて間もないおぼつかない足どりで、ぴょんぴょん跳ねる子山羊たちです。

<ローラとマーガレット>

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」4月

(小島けい)

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑨:贈り物(小島けい)

人の世は、一年前よりもさらに、先の見通せない状況になっていますが。季節は、人知れずきちんと少しずつ移っていて、山の黄緑が勢いを増し<山笑う>頃になりました。

そのような自然のなか、鳥たちはいつも通りの営みを続けています。

2年前、アトリエのベランダの庇(ひさし)に鳥が巣を作りました。その時のことを私は<巣立ちの後に>(「ナミブ砂漠」「続モンド通信8」2019年7月20日])という文章で、次のように書きました。

「この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。

2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。

ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。

2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。

鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。

草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。

アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。

鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。

それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。

そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。

ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。

そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。

卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。

その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。

数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが。その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。

もうすぐ、夏です。」

今回も、しばらく前から毎朝ベランダのあたりでしきりに鳥の鳴き声がしていました。猫たちが何か用事ありげに、2階のアトリエに通うところも一緒でした。

それでも、<まさかねえ・・・>と半信半疑だったのですが。先日机にむかっていると、後ろでバタバタと音がします。気づかれないようにそっと外をのぞいてみると、エサをくわえた親鳥が、やはりアンテナに一度止まり、そこから上の巣へと飛びました。2年前よりも小さく、モズを少し細くしたような姿でした。

種類は違うけれど<また鳥が来てくれた!>

気のめいるようなニュースが多いなか、ふあっと心のどこかが明かるくなりました。

このひそかな喜びは<同じ空間に、人間とはちがう生き物が、平穏に暮らしているよ>という鳥からの贈り物のような気がします。

きっとあとひと月もすれば、子供たちも飛び立ってゆくのでしょうが。それまでは今年も、私と猫の楽しみの日々が続きます。

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3 「アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変でアフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、在庫はなくなりました。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Book版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

ダウンロード

A Walk in the Night by Alex La Guma

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続モンド通信29(2021年4月20日) 

アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』

 アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』を再評価してみようと思います。

①出版の経緯、②ラ・グーマの思い、③『夜の彷徨』、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行きます。

①出版の経緯

アレックス・ラ・グーマ肖像画1(小島けい画)

 『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は1961年にナイジェリアで出版されています。国内ではラ・グーマは共産主義弾圧法(Communism Act)を改悪した一般法修正令(General Law Amendment Act)により、抗議運動も作家活動も禁じられていました。

アパルトヘイト廃止に向けての解放運動の有力な指導者でもあり、作家でもあったラ・グーマは何度か逮捕され、拘禁もされましたが、自宅拘禁中でも物語を書き続けていました。ブランシ夫人によれば、「原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠していましたので、警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されませんでした。」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年)ということです。

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき、『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されており、ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくようにブランシ夫人に指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡って国外に持ち出され、ナイジェリアで出版されています。

緊急時のラ・グーマの機転とブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、『夜の彷徨』は世に出ていなかったでしょう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました。」(セスゥル・エイブラハムズ『アレックス・ラ・グーマ』(Boston Twyne Publishers, 1985) )と言うラ・グーマの感想は本音だと思います。

歴史の偶然と、それを越える必然がなかったら、この作品は決してこの世に出なかったということでしょう。

ナイジェリアムバリ出版社1962年版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫)

②ラ・グーマの思い

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれています。インドネシア、オランダ、スコットランド系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」に分類され、「カラード」居住地区「第六区」で育ちました。

労働運動の指導者と優しくて心の寛い母親の影響で、労働運動を始め、アパルトヘイト政権が出来たあとは解放闘争に加わってストライキやデモなどに積極的に参加するようになり、1955年には南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の議長になりました。同年のクリップタウンでの国民会議には「カラード」の代表として参加しています。

約200万人のケープカラードの社会でかなりの影響力を持っていたこと、進歩的左翼系の週間新聞「ガーディアン」で文才を示していたことがきっかけで、廃刊に追いやられたあとを引き継いだ同系の「ニュー・エイジ」から記者の誘いを受けました。「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」を目標に、非白人社会での購読者を増やすために黒人社会で活躍できるスタッフを探していた新聞社の眼鏡に適ったわけです。その頃からラ・グーマは本格的に創作活動を始めました。「ニュー・エイジ」では「わが街の奥で」というコラム欄を持ち、国民会議でも反逆罪を問われて獄中にいた仲間を取材して紹介しています。

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」

 ラ・グーマの友人でもあり、よき理解者でもあった伝記家セスゥル・エイブラハムズさんによれば、ラ・グーマは二つの思いで作品を書いています。南アフリカで起こっていることを世界に知らせたい、南アフリカの歴史を記録したいという思いです。その二つの思いは、理不尽なアパルトヘイト政権と闘う中で生まれました。ラ・グーマは、南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いただけではなく、南アフリカの歴史を記録するということを強く意識していました。

1987年にエイブラハムズさんの『アレックス・ラ・グーマ』を読んだあと、カナダに亡命中のエイブラハムズさん訪ねて、いろいろ話を聞きました。本の中で、特に強調したかった点について次のように話をしてくれました。

「・・・私はアレックスが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのために南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということ、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかではなく、ひとりの人間としてみなされることこそ大切なのです・・・アレックスは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・すべての人間が人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがアレックスの一生の目標だったのです。」

そして、無視され、ないがしろにされ続けて来た「カラード」社会の人々の物語を書きました。最初の物語が『夜の彷徨』でした。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」1987年10号10-23頁)

③『夜の彷徨』

『夜の彷徨』を書くきっかけは「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」というケープタウンの短い記事聞でした。「ニュー・エイジ」の記者として報道規制がある中で白人記者が充分に調査もしないで黒人社会の実態を報道する現状をラ・グーマはよく知っていました。ラ・グーマは充分その記事について調べたわけではありませんが、事情は理解出来ました。その辺りの経緯をラ・グーマは「この男がどのようにして撃たれ、パトカーの中で死んでいったのか、その男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。」と述懐しています。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心に展開されています。スリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもなく。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の生活の一断章、といった趣きが強く、アパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りです。

それらの特徴は歴史の記録家、真実を伝える作家を認じたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、「形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。ただ書き出しから始めて、おしまいで終わっただけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形は必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短くても長くても、頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。」と後にラ・グーマは語っています。また、「マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。」とも語っています。

そこには、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されています。

門土社大学用テキスト1989年版(表紙絵:小島けい)

④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

元々リチャード・ライトの小説を理解するために歴史を辿り始めて南アフリカやラ・グーマについて考えるようになったのですが、今回科学研究費(平成30~34年度)の交付を受けた「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロ・アメリカとアフリカ」では、アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、そして巧妙に支配を続けていて、アフロ・アメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられてきたかを、文学作品とエイズやエボラ出血熱など、文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと考えました。

エイブラハムズさんはラ・グーマについて次のように話をしてくれました。

「アレックス は、事実『カラード』社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・。』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・。」

エイブラハムズさん(1987年カナダの自宅にて)

 奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配というアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。『夜の彷徨』もその一つで、ラ・グーマが時代に抗い精一杯生きながら書き残した魂の記録だったわけです。

アレックス・ラ・グーマ肖像画2(小島けい画)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信29(2021/4/20)

私の絵画館:桜舞う(馬と桜)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑧:桜舞う(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』(玉田吉行)

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1 私の絵画館:桜舞う(馬と桜)(小島けい)

この絵は、今まで描いてきた馬の絵のなかでも大好きな一枚です。

桜舞う:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」4月

 モデルの馬は<スカイ>と<マックス>。どちらも私が牧場に通い始めた頃、そこで産まれました。

当時は夕方頃になると、他の馬たちと一緒に広馬場に放たれて、楽しそうに走っていました。ずいぶん以前の風景です。

数年後二馬とも、それぞれの経緯で、次の場所に移って行きました。

「桜舞う」と題した絵そのものも、九州芸術の杜で個展をしていた時、四国から来られたお二人(お母さんと娘さん)の、お母さんが気に入って下さり、ご購入されました。

桜の季節が巡ってくると、もう手元にはありませんがいつもこの絵を思い出します。そしてスカイとマックスは元気でいるかなあ?と、祈るような思いになります。

 

花のなかでも、私にとって描くのが一番難しいのが桜です。(桜①②③④)

(桜①)

(桜②)

(桜③)

(桜④)

それでも、動物たちと一緒に何枚も描いてきました。(桜と猫①②③)

(桜と猫①)ノアと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月

(桜と猫②)サクラちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2013~犬・猫ときどき馬~」4月

(桜と猫③)シロちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2014~犬・猫ときどき馬~」4月

犬と桜①②

カレンちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2012~犬・猫ときどき馬~」4月

ナナくんと桜:カレンダー「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」4月

犬と猫と桜

犬(ゴースケくん)と猫(さくらちゃん)と桜:カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」表紙

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑧:桜舞う(小島けい)

のあと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月原画

春は桜、ですが。

今年の3月は慌ただしく、一瞬住宅地横にある小高い公園を訪れただけでした。

私が絵を仕事として描き始めたきっかけは、横浜の小さな出版社<門土社>の社長さんから“装画を書きませんか”と声をかけていただいたことでした。

その社長さんは、東大の医学部を卒業した時、お父様から病院を建てるようにと送られたお金で、かわりに出版社を立ち上げたという変わった方です。

いわば、独断と偏見の固まりのような人でしたが。そのおかげで、何故か相方を弟のように気に入って下さり、私まで気にかけていただきました。

装画を描き始めた頃は、花のシリーズを二つ担当していましたので、ずいぶんと長い間花ばかりを描いていた時期があります。

その頃のことを→「のあと桜」(私の絵画館4 モンド通信 No. 20:2010年3月21日)という題で、次のように書きました。

 

「花を描く時は、できる限り本物の花を目の前にして描きたい、と思います。色も形も香りも、自然に勝るものはないと思うからです。

そのためモデルとなる花を手に入れるのは、ひと苦労です。花屋さんで買うことのできる場合はまだ楽ですが、桜となるとそうはいきません。★ 続きは題をクリック ↑

桜はたいてい街路樹として植えられていたり、公園のなかにあります。大きな声ではいえませんが、絵を描くためとはいえ、公共のものを幾枝かいただくわけですので、非常に気を遣います。

避けられればよいのですが、たとえばずっと以前に描いた装画の場合、本の題名が「桜殺人事件」となっていましたので、桜以外の花は考えられませんでした。

『桜殺人事件』(門土社総合出版、1994/8/4)表紙絵

「本紹介16 『桜殺人事件』」

 その時は、雨の夜を選び、いよいよ決行という時。あさはかな私は、目立たないためには黒しかない、と思いました。黒の上着、黒のズボン、黒の長靴、黒の帽子。手には大きな黒の旅行バッグと黒の傘。

いざ出発、とでかけましたが、目的地の公園までには、車の通る道路を歩かねばなりません。夜遅めの時間を選んだつもりでしたが、車は思いのほか通っていました。でも、花泥棒をするわけですから、ライトに照らされて顔を見られてはいけません。対向車のライトが近付くと、黒装束で、散歩には不似合いな大きな旅行バッグをさげた相方と私は、パッと傘を下にさげ、顔を隠して通りすぎます。

その夜、そんな苦労をして、ほんの幾枝かをいただきました。

後日、お友だちのご夫婦に、その雨の夜の出来事を話したら、そんな不自然な格好をしていたらそれだけで目立ちすぎでしょう、と大笑いされてしまいました。なるほどなあ、と納得してからは、さりげない格好をして、さりげない大きめの袋をもって、桜の木に近付くようになりました。

今回、桜を見上げているのは、猫の“のあ”。7年前、渋谷中央郵便局の前で、生まれて間もない状態で泣き叫んでいたのを、娘が保護しました。

今では、この家で、新しい猫ファミリーと少し距離を保ちながら、犬のように人懐っこくすごしています。」

 

何年か前、私の絵の数少ない理解者であり、お友だちでもあった編集者の方が旅立たれました。明日手術で入院、という時電話があり、「退院したら、またお電話しますね」と約束して下さいましたが。電話の無いまま、長すぎる闘病生活となりました。

彼女を見送った数年後、30年以上家族のように接して下さった社長さんも、あちらの世界に逝ってしまわれました。

やはり桜は、美しすぎて、儚すぎます。

のあと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月

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3 「アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』

 アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』を再評価してみようと思います。

①出版の経緯、②ラ・グーマの思い、③『夜の彷徨』、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行きます。

①出版の経緯

アレックス・ラ・グーマ肖像画1(小島けい画)

 『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は1961年にナイジェリアで出版されています。国内ではラ・グーマは共産主義弾圧法(Communism Act)を改悪した一般法修正令(General Law Amendment Act)により、抗議運動も作家活動も禁じられていました。

アパルトヘイト廃止に向けての解放運動の有力な指導者でもあり、作家でもあったラ・グーマは何度か逮捕され、拘禁もされましたが、自宅拘禁中でも物語を書き続けていました。ブランシ夫人によれば、「原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠していましたので、警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されませんでした。」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年)ということです。

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき、『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されており、ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくようにブランシ夫人に指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡って国外に持ち出され、ナイジェリアで出版されています。

緊急時のラ・グーマの機転とブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、『夜の彷徨』は世に出ていなかったでしょう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました。」(セスゥル・エイブラハムズ『アレックス・ラ・グーマ』(Boston Twyne Publishers, 1985) )と言うラ・グーマの感想は本音だと思います。

歴史の偶然と、それを越える必然がなかったら、この作品は決してこの世に出なかったということでしょう。

ナイジェリアムバリ出版社1962年版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫)

②ラ・グーマの思い

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれています。インドネシア、オランダ、スコットランド系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」に分類され、「カラード」居住地区「第六区」で育ちました。

労働運動の指導者と優しくて心の寛い母親の影響で、労働運動を始め、アパルトヘイト政権が出来たあとは解放闘争に加わってストライキやデモなどに積極的に参加するようになり、1955年には南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の議長になりました。同年のクリップタウンでの国民会議には「カラード」の代表として参加しています。

約200万人のケープカラードの社会でかなりの影響力を持っていたこと、進歩的左翼系の週間新聞「ガーディアン」で文才を示していたことがきっかけで、廃刊に追いやられたあとを引き継いだ同系の「ニュー・エイジ」から記者の誘いを受けました。「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」を目標に、非白人社会での購読者を増やすために黒人社会で活躍できるスタッフを探していた新聞社の眼鏡に適ったわけです。その頃からラ・グーマは本格的に創作活動を始めました。「ニュー・エイジ」では「わが街の奥で」というコラム欄を持ち、国民会議でも反逆罪を問われて獄中にいた仲間を取材して紹介しています。

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」

 ラ・グーマの友人でもあり、よき理解者でもあった伝記家セスゥル・エイブラハムズさんによれば、ラ・グーマは二つの思いで作品を書いています。南アフリカで起こっていることを世界に知らせたい、南アフリカの歴史を記録したいという思いです。その二つの思いは、理不尽なアパルトヘイト政権と闘う中で生まれました。ラ・グーマは、南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いただけではなく、南アフリカの歴史を記録するということを強く意識していました。

1987年にエイブラハムズさんの『アレックス・ラ・グーマ』を読んだあと、カナダに亡命中のエイブラハムズさん訪ねて、いろいろ話を聞きました。本の中で、特に強調したかった点について次のように話をしてくれました。

「・・・私はアレックスが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのために南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということ、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかではなく、ひとりの人間としてみなされることこそ大切なのです・・・アレックスは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・すべての人間が人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがアレックスの一生の目標だったのです。」

そして、無視され、ないがしろにされ続けて来た「カラード」社会の人々の物語を書きました。最初の物語が『夜の彷徨』でした。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」1987年10号10-23頁)

③『夜の彷徨』

『夜の彷徨』を書くきっかけは「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」というケープタウンの短い記事聞でした。「ニュー・エイジ」の記者として報道規制がある中で白人記者が充分に調査もしないで黒人社会の実態を報道する現状をラ・グーマはよく知っていました。ラ・グーマは充分その記事について調べたわけではありませんが、事情は理解出来ました。その辺りの経緯をラ・グーマは「この男がどのようにして撃たれ、パトカーの中で死んでいったのか、その男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。」と述懐しています。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心に展開されています。スリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもなく。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の生活の一断章、といった趣きが強く、アパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りです。

それらの特徴は歴史の記録家、真実を伝える作家を認じたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、「形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。ただ書き出しから始めて、おしまいで終わっただけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形は必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短くても長くても、頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。」と後にラ・グーマは語っています。また、「マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。」とも語っています。

そこには、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されています。

門土社大学用テキスト1989年版(表紙絵:小島けい)

④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

元々リチャード・ライトの小説を理解するために歴史を辿り始めて南アフリカやラ・グーマについて考えるようになったのですが、今回交付を受けた科学研究費(平成30~34年度)「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロ・アメリカとアフリカ」では、アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、そして巧妙に支配を続けていて、アフロ・アメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられてきたかを、文学作品とエイズやエボラ出血熱など、文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと考えました。

エイブラハムズさんはラ・グーマについて次のように話をしてくれました。

「アレックス は、事実『カラード』社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・。』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・。」

エイブラハムズさん(1987年カナダの自宅にて)

 奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配というアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。『夜の彷徨』もその一つで、ラ・グーマが時代に抗い精一杯生きながら書き残した魂の記録だったわけです。

アレックス・ラ・グーマ肖像画2(小島けい画)