続モンド通信・モンド通信

続モンド通信31(2021/6/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜27:日本語訳『まして束ねし縄なれば』

 ある日、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのAnd a Threefold Cordの日本語訳を薦めて下さいました。宮崎医科大学で授業を始めて暫くした頃だったと思います。授業用の英文註釈書A Walk in the Night(1989年)とAnd a Threefold Cord (1991年)をすでに出してもらっていましたので、その流れだったと思いますが、その時は思いが及びませんでした。

And a Threefold Cordの表紙

学生として授業を受けている時は、テキストと翻訳にはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作り、日本語訳を出していた、そんな感じです。

しかし、出版事情はかなり厳しく、自分で出せば200~300万は必要だと言われました。僕は出たものを学生に買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。当時の授業は100分で通年30コマが基本でしたから、テキストは年に一度、医学科の場合、一学年100人ですから、そうたくさんは捌(さば)けません。しかし、非常勤でも何コマか行っていましたので、全部合わせるとそれなりの数が捌(さば)けたと思います。それに、仮説を立てての論証文という課題の参考図書にして、同じ出版社の他の人の本も買ってもらいました。書いた人は新聞記者や大学の教員が大半でしたが、自分で売る人はいませんでしたから。よく考えたら、元々構造的にもアフリカ関係のものが売れるはずはありません。大体、小中高でほとんどアフリカは扱いませんし、「アフリカ文学?」というのが実情です。英米文学にかかわる人は多くても、アフリカ文学の学部も大学院もありませんし、先進国は第3世界から搾り取りながら、アフリカを助けてやっていると勘違いしている人が大半なのですから。せいぜい、僕のように英語の分野で大学の教員になってからたまたまアフリカ文学をやり始めた、くらいしかないわけです。

ラ・グーマを読むようになった経緯については→「MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月)、テキストについては→「A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年4月)に、作品については→「『三根の縄』 南アフリカの人々①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁、1990年8月)と→「『三根の縄』 南アフリカの人々②」「ゴンドワナ」17号6-19頁、1990年9月)に書いていますので、ここでは①タイトル、②表紙絵、③日本語訳について少し触れておこうと思います。

① タイトル

ラ・グーマは聖書の伝道之書第4章9節~12節(ECCLESIASTES IV: 9–12)を本文の前にエピグラフとして載せ、その中の一部And a threefold cordをタイトルに使いました。ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について語る第4章は「ここに我身をめぐらして、目の下に行われる諸々の虐げを視たり。ああ虐げらるる者の涙流る、これを慰むる者あらざるなり。また、虐ぐる者の手には権力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり……」で始まります。おそらく、ラ・グーマの目には、この1節が南アフリカの現実の姿と重なったのでしょう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、エピグラフに用いられた4節は「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。/即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。/又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。/人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり。」(Two are better than one; because they have a good reward for their labour. / For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up. / Again, if two lie together, then they have: heat, but how can one be warm alone? / And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken.)と続きます。

作品論を書いたときはその日本語訳の『三根の縄』をタイトルに使いましたが、編集者の方が『まして束ねし縄なれば』を考えて下さいました。その時は「うまいこと思いつくもんやなあ!」と感心しただけでしたが、本となって送られてきたときには、改めてそのタイトルでよかったなあとしみじみ思いました。今もその思いは変わりません。

② 表紙絵

日本語訳の作業をしているときに社長さんから電話があり、妻に表紙絵を依頼して下さいました。元々絵が好きで、働きながら神戸の伊川寛さんの絵画教室に通って油絵を描いていました。教室の人たちが年に一度神戸元町のたじま画廊で開くグループ展にも出品させてもらっていました。伊川さんは小磯良平と同じ世代の画伯で、なかなか洒落(しゃれ)た絵を描いておられました。宮崎に来る前は二人の子供と仕事でいっぱいいっぱいの生活でしたので、週に一度土曜日の午後に二時間ほど教室の時間を絞り出すのがやっとでした。ずっと描きたい思いを抱えたまま慌ただしく毎日を過ごしていましたが、何とか大学が決まったとき、僕と交代して仕事を辞めました。絵を描く時間が出来ると大喜びでした。宮崎に来てからは毎日楽しそうに絵を描き始めました。元々体力がないので塗りかえのきく油絵はきつく、一発勝負の水彩とパステル主体で最初は花を描き、近くにある公園の菖蒲園に毎日通い詰めていました。水仙や椿、桜やポピー、薊(あざみ)や菫(すみれ)、イリスや牡丹(ぼたん)、捩花(ねじばな)や紫陽花(あじさい)、秋桜(こすもす)や木通(あけび)、白い一重の山茶花(さざんか)や木立ちダリヤなど、花や実を調達するのは僕の役目で、描いた絵は当時流行っていたプリントゴッコでカードにしました。それを出版社にも送っていたので、声をかけて下さったのでしょう。

やっと衛星放送(BS)が始まった頃で、そのアンゴラのニュースの場面にお気に入りの犬を加えて、30分ほどでちゃっちゃっと水彩で殴り描きをして表紙絵の元が出来上がりました。注文をもらって描く今の絵はもっと時間をかけて丁寧に仕上げていますが、ほんとちゃっちゃっという感じです。しかし、変に気を遣わない分、勢いがあるのです。その絵を表と裏に重なるように分けて使って下さって、本が出来ました。↓

表紙絵(表)

表紙絵(裏)

元の絵

カレンダー(2020年8月)に入れた絵

その後次々と表紙絵を描かせて下さり、56冊にもなりました。出版された本の一覧です。→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

僕が雑誌に書かせてもらって世界が広がったように、妻も表紙絵の機会をもらって色も絵も幅が広がって行きました。二人とも、違う形で育ててもらいました。

今も妻が乗馬に通っている宮崎の牧場に来られていた大分の牧場主から誘ってもらったおかげで5年間(2008年~2012年)、大分県飯田高原→九州芸術の杜のギャラリー夢での個展に恵まれ、2013年からは世田谷区祖師谷の「ルーマー」→Cafe & Gallery Roomerで個展を続けています。去年はコロナ騒動で個展が叶いませんでしたが、今年は会場に行けない場合はZoomを使ってでも何とか開催したいと考えています。個展の詳細は→ 「個展詳細」、今まで描いたものはブログ→「小島けいの絵のブログ Forget Me Not」で紹介しています。

③ 日本語訳

翻訳は結構大変でした。理由はいろいろありますが、初めてだったこと、イギリス英語だったこと、それに物語で一文一文が極めて長かったことなどです。結局本文の日本語訳だけで一年半ほどかかりました。ワープロを使い始めた頃で、原稿をフロッピーで郵送したあと暫くしてから、社長夫妻と編集者のかたが手を入れて下さった印刷原稿が送られてきました。1割ほどは、読者のためにこの表現でどうでしょうかという提案のための付箋がたくさんついていました。翻訳した時のこぼれ話のようなものを少し書いています。→「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)、→「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)、→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)

終わった時ももう翻訳にはかかわりたくないと思いましたが、その後、グギ・ワ・ジオオンゴの『作家、その政治との関わり』(Writers in Politics)とワグムンダ・ゲテリアの『ナイス・ピープル』(Nice People)の2冊の日本語訳を言われて断れず、やっぱり一年半ずつかかって仕上げました。それぞれ200~300万かかると言われたまま出ていません。『ナイス・ピープル』はいつか本を出せるかも知れませんが、取り敢えずメールマガジンに分けて連載しませんかと言われました。→「日本語訳『ナイス・ピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)その解説→「『ナイス・ピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)その作品論→「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2002年)

『ナイス・ピープル』のタイトルは工夫しないといけませんねとおっしゃっていた社長さんも、『まして束ねし縄なれば』を考えて下さった編集者の方もお亡くなりになり、お会いすることはもう叶いません。

『ナイス・ピープル』の表紙

『作家、その政治との関わり』はケニアの政治状況だけでなく、韓国の民主化運動で死刑を宣告された詩人金芝河とアフリカ系アメリカの抑圧された歴史も含まれていたため、ケニアと韓国の歴史を丸々最初から、アフリカ系アメリカの歴史は再度辿る必要がありました。もちろんずいぶんと視野は広がりましたが、大学での仕事も格段に増え、その上出版できるかどうかも定かでない状況での作業はきつかったなあ、という感覚が残っています。あの時だったからこそ出来たのだと思いますが、今後も出版されることは、まずないでしょう。折角でしたので、独立時から新植民地体制に移行するケニアの状況についてはまとめて、英文で書きました。→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁、2003年。

「翻訳にはかかわりたくないな」と感じた学生の頃の思いは今も変わりません。

『作家、その政治との関わり』の表紙

つれづれに

南瓜に勢いがついて来ました。

近いうちに柵を拵えて登らせるつもりです。

柵が追いつきません。ここまでくれば隣に侵入しないように見張るだけ、秋には実をつけてくれるでしょう。何年か前から瓢箪形の南瓜を作ってますが、柔らかくて評判は上々です。吉祥寺の駅ビルで一個2000円の値札を見た時はびっくりしましたが、神戸から元町の間の店屋さんでは400円くらいで変に安心しました。

他に鞘オクラ、胡瓜、ピーマンが順調にが大きくなりかけています。そのうち食べきれなくなってまたお裾分けするようになりそうです。

オクラ、この3~4倍の高さになります

胡瓜は早めに採ると柔らかくて瑞々しいです

柵は竹でジャングルジムのようにするつもりです。台風の時は固定する必要はあるものの地面につかずにきれいな実が取れます。一年目は重みで竹が台風の時に総崩れ。それ以降は竹を鉄棒で固定するようになりました。

近いうちにジャングルジムのような柵が出来る予定。レタスの種を採るために花を咲かせています。かなり細かい種なので、うまく採れるかどうか。

すでに蚊にやられないように蚊取り線香を5~6本炊いての作業ですが、梅雨の合間の晴れ間は助かります。どうやら今度は土曜日くらいまで降らないみたいなので、南瓜の柵と、虫よけのためにせっせと希釈した酢を撒こうと思っています。

虫の勢いはすごいので、ブロッコリーやレタスなどの寒冷野菜はすでに採れませんが、この時期、まだ大根の葉が残っているのは酢のおかげのようです。今は15倍くらいに希釈して撒いています。あしたからまた竹取の翁です。

大根の葉はだいぶ虫にやられてますが。今日も何匹が青虫を潰しました。

つれづれに

先月久しぶりに「つれづれ」を更新したとき、「これからは決まった時間にいく必要もなく、時間はあるようですので、毎月20日に更新している続モンド通信に合わせて、せめて月に一回くらいは『つれづれ』も更新出来ればいいんですが。」と書いたものの、もう25日。遅ればせながら。

何とか滞っていた続モンド通信を今月は書き(「アングロ・サクソン侵略の系譜26:A Walk in the Night」)、4年間最終年度の科学研究費の前年度の最終報告を書きました。

大学にいる限り教育、研究、社会貢献を求められるようで、居やすいように研究をする振りをして何回か科研費をもらい、ごまかしごまかし退職したものの、退職後も専任に再任用され、また研究をする振りをして科研費をもらっています。まさか、その研究だけが残り大学の研究室を使うことになるとは、ほんと何が起こるかわからんもので。

30年以上もためた、学生からの課題や感想文を整理中で。小説に使えればと思って取って置いたものながら、ほんまにようさんあって。使えることを祈りながら、今年中には整理を終えて部屋も空にしないとと思っています。

小説の方も天気に合わせたように停滞気味です。一週間ほど前から虫にやられたか、帯状疱疹か、背中に変な発疹のようなものが。充分に機能を果たさないとまではいかなくてもあっちこっち体にもがたがきてるようで。どうも全般に停滞気味、という近況報告です。

畑はレタスやブロッコリーの季節が過ぎ、胡瓜、茄子、トマト、オクラ、南瓜などの夏野菜、青虫から蚊の季節に移っているようで。次回までには、規則正しい生活のリズムが取り直せるとええんやけど。牡丹がそろそろ今年も咲くかなあ。

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続モンド通信30(2021/5/20)

 

アングロ・サクソン侵略の系譜27:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変で、アフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、何とか在庫はなくなりましたが。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。ほんとうに、なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Books版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

 本の巻末にラ・グーマの略年譜・著訳一覧・南アフリカ小史・ケープタウン地図をつけました。

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

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A Walk in the Night by Alex La Guma