続モンド通信・モンド通信

続モンド通信32(2021/7/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜28:編註書And a Threefold Cord

  編註書については一度詳しく書いていますので(→And a Threefold Cord by Alex La Gum)、今回は出版の経緯と授業について書こうと思います。

And a Threefold Cord(1991年、表紙絵小島けい画)

前回の日本語訳→「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)

宮崎医科大学に来る前に5年間、大阪工大などで非常勤として一般教養の英語を担当していました。最初の年は修士課程を修了しても博士課程でどこも門前払いを食らい、先輩がいた大阪工大で辛うじて世話してもらった夜間3コマ、月4万8千円の非常勤で大学の授業を始めました。最後の年は明石の家の近くの神戸学院大学や、通うのに片道2時間半ほどかかった桃山学院大学など週に16コマもやりました。→「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(ホームページより)

大学での授業は初めてでしたが、試験のための英語の授業がずっと嫌だったので、一般教養の英語は有難かったです。専任の話が理事会に認められず組合で交渉する間非常勤で来て下さいと言われた大阪経済法科大学では、わいABCもわからへんねん、という学生もいて授業そのものが成り立たないクラスもあったので、授業が当たり前に出来るクラスは天国のように思えました。英語も伝達の手段だから使えないと意味がない、「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、と非常勤で授業をしながら自然に授業の方針が決まっていました。折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材で意識下に働きかけ、自分や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、そんな方向性です。人のテキストを使い、短時間に成績が出せる筆記試験が一番楽ですが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けましたし。まわりはそんな人がほとんどでした。

宮崎医科大学での一年目は、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)の“The Glory of Negro History”(1964年)を使いました。非常勤の5年間で使っていたこともありますが、この500年ほどのアングロサクソン系を中心とした侵略過程の中で、侵略を正当化するために刷り込まれた白人優位、黒人蔑視の意識について考え、自分自身や世の中について考える機会が提供出来ればと考えたからです。修士論文で取り上げたリチャード・ライトや、アメリカの学会MLA(Modern Language Association of America)での発表をきっかけに南アフリカのアレックス・ラ・グーマを取り上げる過程で、そんな流れになりました。詩人ヒューズの歴史物語は、作者自身が朗読した音声もあり、アレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ「ルーツ」や、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンのドキュメンタリー「アフリカシリーズ」の映像なども使えるので最適でした。

“The Glory of Negro History”(南雲堂)

ライトについては→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)、ラ・グーマについては→「 MLA(Modern Language Association of America)」(2020年2月20日)、アフリカ系アメリカの歴史については→「アフリカ系アメリカの歴史 」(2020年8月20日)、アフリカの歴史については→「アフリカの歴史」(2020年7月20日)

ずいぶんと前のことなので記憶が怪しいところもありますが、たしか医学科の授業が始まってすぐに、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのA Walk in the Nightの編註書を薦められたと思います。それがテキストの最初です。→「 A Walk in the Night」(2021年5月20日)

A Walk in the Nightの表紙(表紙絵小島けい画)

学生として授業を受けている時は、テキストにはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作っていた、そんな感じです。その時は学生に本を買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。非常勤も含めてクラスは結構持っていましたので、出してもらったものは何とか買ってもらえました。

ある日編集者の方から東京都立大でこのテキストを使ってくれた人がいますよ、と電話をもらいました。早速連絡を取り、東京で会ってもらいました。南アフリカの作家の英文をどんな人が授業で使いはるんやろ、という素朴な疑問からです。会ってみると、宮崎の高校を出た後一橋大学に行き、学生時代に英文エセイコンテストの賞品でイギリスに留学、そこでアフリカ文学に出会ったとか。よう出来はる人は違うわ、と感心しました。

つれづれに

歩くコース1の⑥・・・

歩くコース1の⑤の続きである。

アパートの間の小道、突き当りが踏切

工事中の道路を左折したあと、少し歩いて右折すると、少し先の突き当りに日南線木花駅南側の踏切が見える。木崎上(きさきうえ)踏切と言うらしい。その東側に木崎浜がある。サンマリーン球場の前の道路を通り、清武川の堤防を東に行くと木崎浜に出る。堤防から突然日向灘の視界が広がる光景は見応えがある。直線距離はそう長くないので、建物や舗装道路が造られる前は防砂林を抜けて早く浜に出られる抜け道があったかも知れない。踏切付近からプラットホームと駅舎が見える。

木崎上踏切

木花駅プラットホーム

木花駅から南に運動公園駅→曽山寺駅→子供の国駅→青島駅→折生迫駅と続く。曽山寺駅以外は利用したことがある。宮崎から鹿児島県の志布志までの日南線である。自由律俳人の種田山頭火は二度宮崎に来て、一度は志布志まで足を延ばしているようである。南の果ての駅には浮浪者なども行き着くので、警官の取り締まりも他より厳しく、行乞(ぎょうこつ)の時に尋問されて早々に宮崎へ舞い戻ったと日記「行乞記」に書き残している。托鉢僧のように行乞でその日の糧を得ていた山頭火は、流れ者、浮浪者の一人に分類されたらしい。4年前の後期の学士力発展科目で「俳人種田山頭火の世界」を開講したとき、詳しく調べ直した。足跡を辿るきれいな写真を入れて、微に入り細に入り書いてくれているサイトも多かった。山頭火ブームに便乗して、熊本、宮崎、大分にも結構な句碑が建てられたようである。何か所かの句碑は実際に足を運んだ。工学部の学生が、山頭火が自殺を図ったあと得度させてもらった法恩寺を訪ねて写真を撮り、パワーポイントを使って結果を発表してくれた。市街地にある宮崎公立大学に非常勤で行き始めたときに、日南線を使うようになった。その時が木花駅を見た最初である。

列車は次の運動公園駅に向かう

志布志には医者をしている卒業生に誘われて訪ねたときに志布志駅を、飫肥城跡で飫肥駅を、海水浴で大堂津駅を、都井岬の野生の馬で串間駅を利用した。都井岬には一泊したが、海産物が苦手なので、ご飯とたくあんしか食べるものがなくて閉口した記憶がある。味噌汁にまで、魚の固まりが入っていて吐きそうになった。

学生相互交換制度でタイの学生や医者が来たとき、学生は毎回車でその人たちを飫肥城と日南メッセと鵜戸神宮に案内していたが、それにも便乗出来ず、鵜戸神宮にも行けずじまいになりそうである。山頭火と宮崎公立大学はいずれ項を改めて。

踏切を渡り抜け道を通って、県道に出る。半時間足らずの行程で、そこが折り返し地点である。次回はその辺りから。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

つれづれに

歩くコース1の⑤

前回は南瓜(かぼちゃ)についてのエセイを挟んだが、今回は歩くコース1の④の続きである。

廃屋の東側何軒かと公民館を通り過ぎると、小さな道に突き当たる。その角を左折したあとすぐに右折すると、何軒かの民家と学生用マンションやアパートが何棟か続く。農家が不動産として学生用のアパートを建てたようで、所々に建物の間に畑が残っている。野菜畑を作っている所もあるし、草が生い茂っている所もある。大学からは少し離れているが、もう少し東側一帯にも結構学生のマンションがある。大学生協が建てて管理しているアパートやマンションもある。

最初に見える学生用マンション

突き当たりが少し広い道路になっており、もう何年も工事中である。もうすぐ完成するような気配だが、確信はない。毎年市が予算を計上して業者に回し、細く、長く工事を続けているようだ。

小道を左折した北側の工事中道路

清武町は市に編入されたが、年度末になると水道管を掘り返す恒例の工事は今も続いている。「同じ個所を掘り返してようやるわ」、と三月の終わり頃に自転車で工事をしている横を通りながらいつも同じことを考える。これが、国会議員の建設族が公共工事を引っ張って来て地元に業者に金を落とす、見返りに当たり前のように投票して国会議員にして国会に送りこむ、その構図と似ている。宮崎に来た頃、ある日2階建てプレハブの選挙事務所が突如建って、大勢がわっと押しかけている光景を見て、その勢いに後ずさりしたことがある。

アパートの間の野菜畑

公務員に書類を書き換えさせて追及されてものらりくらり、あからさまに選挙資金一億五千万を出して議員を生み出しても知らぬ存ぜぬを繰り返すばかり、国民が反対しようとオリンピックを平然と強行する、「誰が見てもおかしいやろ」、といくら思っても、自民党が強いわけである。

地方も国も構図は同じ、ひょっとしたら人が集まると、企業にしろ役所にしろ学校にしろ、同じようなことを繰り返しているのかも知れない。人の性(さが)だと思えばそれまでだが、なぜか哀しい。南アフリカの歴史を概観し、教養の授業をしながら『アフリカ文化論』という本にまとめたことがあるが、南アフリカの歴史と哀しき人間の性(さが)という副題をつけた。国は違っても人は同じことを繰り返しているようである。

『アフリカ文化論』表紙

『アフリカ文化論(一)南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社、2007年)

立ち退き問題もあったようで、まっすぐに最短距離とは行かずに曲がりながらも長い工事期間を経て、間もなく道路は完成しそうである。右折すると、その先には新築工事を終えて、Aコープが新装開店の準備中である。

工事中道路の突き当り左側がAコープ

つれづれに

南瓜(かぼちゃ)が・・・

南瓜がかなり勢いをつけて来た。歩くコース1がまだ終わってないが、今回は南瓜の続きである。

勢いを増す南瓜

勢いをつけているのはわかってはいるが、なかなか竹の柵が終わらない。もちろん無理をすれば出来ると思うが、帯状疱疹も消えていないし、いろんな個所に出る小さな湿疹もあるので、ゆっくりのペースでやるしかないようである。例年より4日早い梅雨明け宣言が7月11日に出されたようなので、真夏日の陽ざしで熱中症にやられる可能性も高い。2年前はマスクをして強い日差し、気が付いたら田んぼの中に自転車ごと突っ込んでいた。一瞬意識が飛んだようで、車が行き交う所でなくて事なきを得た。

完成しない竹の柵

よう出来たもので、胡瓜(きゅうり)、オクラ、茄子(なす)、トマト、南瓜(かぼちゃ)、ピーマンなどの夏野菜は勢いがいい。今年はブロッコリーを未練がましく苗を遅くに植えてみたが、実が白っぽい色になったり、中から腐ったりして、季節には勝てないことを実感した。店先に並ぶブロッコリーは、室内で温度を調節して、たくさん殺虫剤を使わないと商品にはならない。タイなど海外からくる野菜は、それに船便で腐らないようにポストハーベストの薬剤も使われているだろうから、とても食べる勇気はない。

花から実に1

今は夏野菜が虫にやられないように、希釈した酢を噴霧器で撒き、特にオクラにたくさんつく臭いのきつい薄黄土色の小さな虫と茄子に付くてんとう虫を殺している。虫に罪はないのに、残酷な話である。

花から実に2

陽差しがきついので、夕方陽の沈んだ頃に畑に出るか、作業をする辺りだけ、青いビニールシートで陰を作って作業をするしかない。手間を怠ると、オクラは葉を巻くし、茄子も虫にやられて葉っぱは筋だけになる。

胡瓜の花

今は乾燥したオクラと大根とブロッコリーの鞘、葱(ねぎ)の葱坊主から種を採っている。葱と大根の種は大きい方だが、オクラはかなり小さい丸型、ブロッコリーはそれより更に細(ほそ)くて小さいので、ピンセットを使って一粒一粒つまんで瓶に入れている。手間がかかる。

胡瓜もお化け胡瓜にして、ピーマンも太らせ、オクラも枯れるまで置いてから種を採って撒いてみるつもりである。二期作が可能な気もするが思い通りにいくとは限らない。葱(ねぎ)もやってみたいが、無理かも知れない。

お化け胡瓜、細身の種類の胡瓜なのでまだ大きくなる

九州南部はすでに梅雨明け宣言が出ている。お盆過ぎには朝晩も少し過ごし易くなるのだろうが、当分はカンカン照りの真夏日が続く。一日一日なんとかやり過ごして辛うじて生き延びている感じだが、三匹の猫ともども支障なく暮らせているのだから感謝するばかりである。

5匹の子供を産んだアリスは14歳、一緒にいるジョバもピノコも13歳に