2000~09年の執筆物

概要(作業中)

宮崎大学医学部の留学生用のニューズレターです。

 

写真ニューズレター

本文(作業中)

 

 

あとがき From the Editors

宮崎大学「ニューズレター」3号をお届けします。旧宮崎大学、旧宮崎医科大学を卒業または修了された人たちのお手元に届きますように。1号は旧宮崎医科大学、2号は宮崎大学医学部、今回は宮崎大学教育文化学部・医学部用に編集しました。4号からは、全学部用に編集する予定です。

宮崎大学は「世界を視野に、地域から始めよう」“Look at the World, Start with the Community” を目標に掲げ、地域に根ざしながら国際的に羽ばたける魅力ある大学を目指しています。留学生にとっても魅力ある大学にして行きたいと思います。この「ニューズレター」がささやかながらでもお役に立てれば幸いです。原稿にご協力下さった方々に深くお礼申し上げます。

消息をお送り下さい。OB・OGからのメッセージとして掲載したいと思います。  (玉)

A Newsletter No. 3 of University of Miyazaki (UOM) for the alumni of the former Miyazaki University (MU) and the former Miyazaki Medical College (MMC). Issue No.1 was published by MMC, No. 2 by the Faculty of Medicine, UOM, and now, No. 3, by the Faculties of Education and Culture / Medicine. The next issue will be published jointly by all the Faculties.

We hope our motto, “Look at the World, Start with the Community” will lead us to an ideal University based up on the community yet one that is also active in international fields. We also hope our university will capture the hearts and mind of students abroad. We hope that this newsletter to our alumni abroad will be of some help.

I would like to offer many thanks to those who helped us edit this newsletter. We look forward to any information, which we like to include in the next issue in a section entitled “Messages from OBs and OGs.”                                (Tama)

執筆年

2006年

収録・公開

8ペイジ 印刷物、大学HP公開

ダウンロード

2000~09年の執筆物

概要

宮崎医科大学の最初で最後の留学生用のニューズレターです。

すでに統合して宮崎医科大学医学部になっていましたが、2003年度10月の年度途中の統合でしたので、授業などは翌年の4月からでした。

医科大学では学生科の予算もあったようで、国際交流委員会を担当していた名和さん(寄生虫、統合後研究担当の副学長)が留学生用の外部予算も取っていたようで、留学生の日本語指導などの謝金にも使っていたようです。僕も依頼されましたが、すでに担当していたドイツ語の人と関わりたくなかったので断っていました。

その予算で留学生向けのニューズレターをと考えたのでしょう、学生課から僕のところに回ってきました。国際交流委員会の副委員長もやらされてましたから、その関係もあったのでしょう。「黒人研究」でも少し編集作業をしていましたので、すんなり引き受けました。予算もあったのでしょう。きれいな紙にきれいな印刷に仕上がっています。

 

写真ニューズレター

本文(作業中)

執筆年

2004年

収録・公開

8ペイジ 印刷物、大学HP公開

ダウンロード

宮崎大学医学部留学生ニューズレター2号(173KB)

英語 Ra2(2)

13~15回目授業については、課題の講評、成績についてといっしょに「13~15回目授業・成績について」のところに書くね。今日提出してもらった課題の分も読んでからになるんで、今日中に書けないかもしれないけど。そのあと、研究室から成績の登録をしときます。家からは出来ないんで。

授業評価アンケートのことを言い忘れてたんで、原田くんに連絡を頼みました。よろしく、ね。以下、原田くんが使う連絡用のクラス名簿です。

1 30190034 アダチ ヒナタ 足達 陽向
2 30190070 アンドウ ヨシキ 安藤 由貴
3 30190106 イトウ ホナミ 伊藤 保奈美
4 30190144 ウエダ ヒメカ 上田 媛香
5 30190151 エンドウ アサト 遠藤 朝音
6 30190179 オガタ ナギサ 緒方 渚
7 30190201 オニツカ ユキ 鬼塚 由貴
8 30190225 カイ サヤカ 甲斐 彩香
9 30190238 カイ ヒロト 甲斐 大翔
10 30190328 キハラ ナオヤ 木原 尚也
11 30190366 コガネマル タクヤ 小金丸 拓哉
12 30190377 コダマ タイスケ 児玉 泰祐
13 30190405 コバヤシ リユウト 小林 里雄人
14 30190414 コマツ アキヒロ 小松 晃大
15 30190450 ササキ トモヤ 佐々木 智哉
16 30190467 サトウ ヒロム 佐藤 大夢
17 30190540 タナカ ミサキ 田中 美早紀
18 30190593 トノオカ トシキ 外岡 俊輝
19 30190609 ナカガワ ヒロム 中川 大夢
20 30190685 ナガヨシ ユウカ 永吉 有佳
21 30190690 ニシ リヨウタロウ 西 亮汰郎
22 30190724 ハツトリ コウスケ 服部 公典
23 30190748 ハヤシ コウヘイ 林 航平
24 30190773 ハラダ カズヒロ 原田 一宏
25 30190803 フジノ モモカ 藤野 百香
26 30190827 マツウラ レナ 松浦 玲菜
27 30190830 マツオカ イマリ 松岡 伊毬
28 30190858 ミズタ ミク 水田 光虹
29 30190876 ミヤザキ ジユリ 宮崎 朱里
30 30190894 モリモト モモ 森本 桃
31 30190908 ヤマシタ ミク 山下 未来
32 30190917 ヤマダ ヨシマサ 山田 祥正
33 30190935 ヨシオカ モモカ 吉岡 萌々花

アンケートのやり方を書いた学生支援課から貰ったファイル(PDFにしました)です↓

02_R01後期_学生による授業評価(学生用マニュアル)掲示用

 

 

 

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

1985年に伯谷さんからMLA (Modern Language Association of America)に誘われたとき、ライトの発表だと思っていましたが、帰ってから届いた手紙では、English Literature Other than British and Americanと言う小さなセッションでアフリカの作家で発表をということのようでした。ライトの小説を理解したいという思いでアフリカ系アメリカの歴史を辿り、奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き始めていましたし、黒人研究の会の月例会での発表も半分はアフリカ関連でしたし、アフリカの作家の発表でもやれそう、さて、誰にするか、と割りとすんなりと切り替えが出来ました。

伯谷さんと奥さんの路子さんと長男の嘉樹くん

身近にアフリカのことをやっている人も多かったですし、大阪のこむらど委員会に手紙を出して反アパルトヘイト運動の集会にも参加したりしていたからもあったと思います。日本では専門にやっている人はいないようでしたので、アレックス・ラ・グーマをやってみようかと思いました。

ちょうどその頃、一冊の本『アレックス・ラ・グーマ』が届きました。1985年のライトのシンポジウムで知りあったミシシッピの本屋さんのリチャーズさんからでした。「もしラ・グーマの資料が入ったら送って下さい」とお願いしていたというわけです。

Alex La Guma

本格的な作品論・伝記を読んで、著者のセスル・A・エイブラハムズさんに会いたくなりました。ラ・グーマが亡命先のハバナで急死していなければ、たぶんキューバに会いに行ったと思いますが、その時点でラ・グーマのことを一番よく理解している人だと感じましたから。

さっそく住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を出すと、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が返ってきました。

手紙の通り北アメリカに行って電話しましたが、残念ながら繋がりませんでした。オハイオ州の伯谷さんのところに泊めてもらったり、ニューヨークに出かけたりしながら、電話をかけ続けました。何とかお会い出来たのは一週間ほどしてからです。

 エイブラハムズさん、レイチェルと。奥はローズマリーさん

南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の最悪の裏切り国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて、丸々三日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。七月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生一万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、一年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

エイブラハムズさん

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

ラ・グーマ

1985年に念願のファーブルさんにお会いして英語を話せるようになろうと決めてやり始めていましたが、まだ十分とまではいかずにいましたので、マイクロカセットテープをたくさん持って行って録音させてもらいました。帰ってから当時親交のあったイギリス人のジョンに手伝ってもらって内容を繰り返して確かめ、記事にまとめました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ” (August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

サンフランシスコで家族と

翌年ブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に誘われ、主に北米で亡命中の50人ほどの前でラ・グーマの初期の作品について発表し、日本での南アフリカ事情についてもお話しました。亡命先のロンドンから駆けつけたブランシ夫人とも初めてお会い出来ました。MLAで発表した原稿と、その時発表した原稿を元に作品論も書き、黒人研究の会でも紹介しました。

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(「中研所報」20巻3号359-375頁)

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」</a>(「黒人研究」58号36頁)

会議でのブランシさん

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になって長年の「管理職になって役に立ちたい」という願いを叶えました。学長を二期務めた後、米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校に招聘教授として招かれました。その頃に一度メールの遣り取りをしたきりです。

あの頃中学生だったレイチェル、変に気が合っていっしょに餃子を作るのを手伝ってくれたりしましたが、今頃どうしているでしょうか。(宮崎大学教員)

レイチェル