2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑧経済的依存

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカ大陸に変革の風が吹き荒れたとき、欧米の指導者は直接の政治支配をこれ以上は続けられないと悟り、より容易く、より効率的に第三世界から搾取し続けるにはどうすればよいか、また中国で起きたような社会主義化を防ぐにはどうすればいいのかを考え始めました。植民地支配に代わる新しい形の支配形態を新植民地主義と呼び、エンクルマは大きな脅威と考えました。その実態について次のように述べています。

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

開発途上国の問題で外国からの干渉をやめさせるためには、名目が何であるにしても、新植民地主義を研究して理解し、公表して積極的に対抗する必要があります。新植民地主義者が使う手口は巧妙で変化に富んでいるからです。その人たちは経済分野だけでなく、政治、宗教、イデオロギーや文化の領域までも操作します。

アジアやアフリカ、カリブ海地域や中南米の元植民地地域の戦闘的な人たちと向かい合うようになって、帝国主義は単に戦略を変えました。帝国主義は何のためらいもなく、国旗も、嫌われていた植民地官僚もなしで済ませます。つまり、旧植民地に独立を与え、開発のための「援助」がそれに続くというわけです。しかし、そのような言葉を装って、以前はあからさまな植民地支配で達成していた目標を、今度は数え切れないほどたくさんの方法を考え出して達成するのです。それは、「自由」について語りながら同時に植民地主義を恒久化しようとするそういった現代的な企みの総体で、
今では新植民地主義として知られるようになりました。

新植民地主義者の先頭に立ったのは、中南米で長い間その力を行使してきたアメリカ合衆国です。アメリカは当初は手探りで、ヨーロッパ大陸の大半の国が戦争でアメリカに借金をした第二次大戦後は確かな足取りで、ヨーロッパに対抗しました。それ以来、ペンタゴン(米国国防総省)は方法論的には完璧に、細かい配慮まで配りながらその支配力を強化し始め、その具体的な例が世界の至る所で見受けられるようになりました。」
[『新植民地主義:帝国主義の最終段階』(NEO-COLONIALISM: The Last Stage of Imperialism, 1965)]

新植民地主義(NEO-COLONIALISM)

アフリカ諸国に与えた独立はアメリカには脅威ではありませんでしたが、共産主義の影響による社会主義化だけは容認出来ませんでした。アメリカ資本はラテンアメリカの場合ほどアフリカに興味はなかったものの、アフリカに対するアメリカの投資は著しく拡大して行きました。第二次世界大戦の後、資本は多国籍化されました。ヨーロッパの経済は大戦によって崩壊して全体的な力が低下し、アメリカの大企業が国境を越えて著しく成長して拡大しました。多国籍企業の多くは、アメリカの企業です。

大戦以来、第三世界でのアメリカの政策は、旧植民地列強と競い合うなかでアメリカの経済的な影響力を増加させました。自国を大事に思うアフリカ人に対する支援は、影響力を持つための戦略の一部でした。アメリカは将来のアフリカ人指導者に対する奨学金や自国を大事に思うアフリカ人に対する経済援助という形を取りました。その狙いは、独立後に親米派の指導者を養成することでした。
アメリカは独立を認められたアフリカ人政権に援助をしましたが、それはひとえに経済分野で旧植民地列強に取って代わり、共産主義の影響を防ぐためでした。アメリカはアフリカでのヨーロッパの役割を引き継ぎ始めました。

多くのアフリカ諸国が独立を認められ、自分たちの国旗を手にしましたが、同時に、経済の依存関係を継続させました。労働力の植民地分配方式は引き継がれ、主要な経済分野は外国人によって支配されました。生産物の多くは輸出品として売られ、その輸出品の大半は石油、銅、綿、珈琲、カカオ、落花生のような加工していない原料でした。アフリカの輸出の5分の4以上は、ヨーロッパ諸国向けでした。アフリカの輸入品の4分の3は、そういった国からでした。西ヨーロッパが依然として優勢でしたが、アメリカ合衆国と日本もまた、主要な貿易相手国でした。アフリカ諸国間内では、ほとんど貿易は行なわれませんでした。

アフリカの原材料の取引で暴利を貪ったのは大手の民間会社で、商取引の機密は固く守られました。多国籍企業が近代産業の技術開発を統制しました。多国籍企業は多くの国で産業を私有化し、製造分野を殆んど独占しました。しばしば民間会社は、経済の分野で支配的な地位を保持しました。独立騒動で、旧宗主国以外の資本にも門戸が開かれました。アメリカ合衆国は資本を増やし、日本と西ドイツもアフリカ資源の新しい争奪戦に加わりました。

1960年、南アフリカのアパルトヘイト体制に対抗してパンアフリカニスト会議(PAC)のメンバーが積極行動に出たとき、警察は無差別に発砲してあのシャープヴィルの虐殺の悲劇をまねきました。国連が非難決議をして経済制裁を始めたとき、日本と西ドイツはその機に乗じて第二次世界大戦で途切れていた通商条約を再締結しました。日本の場合、八幡製鉄(現在の新日鉄)が翌年に5年の長期契約を結んでいます。見返りに白人政府は居住地に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の称号を日本人に与えて貿易の便宜をはかりました。その辺りを境目に日本は高度経済成長期に入り、南アフリカは指導者を失なって長い暗黒時代に入りました。南アフリカの人たちはこの時の日本政府の対応を裏切り行為と捉えています。以降、現地の安い労働力を使って生産したトヨタや日産などの工業製品を売りつけ、ウランや金やダイヤモンドやレアメタルなどの原材料を輸入して莫大な利益を得てきています。

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ソブクエを筆頭に警察署に向かうデモ隊:ベンジャミン・ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト これ以上美しく死ねるだろうか』より

大企業が輸出用に加工する農産物もあります。自動車だけでなく、ラジオや冷蔵庫などの組み立て工場が多くのアフリカ諸国で見られるようになりました。その組み立て工場は、安いアフリカの労働力を利用するために、現地につくられています。

今日、殆んどすべての西側先進諸国は、何らかの形でアフリカに投資しています。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造

『アフリカとその末裔たち2』

 第二次世界大戦で総体的な力が低下したとき、体力の回復を待ちながら第三世界で吹き荒れる独立への変革の嵐をやり過ごし、西欧諸国は新しい形の搾取構造を再構築したわけですが、体制を維持するための協力者、アフリカ人の新しい階級を創り出しました。
奴隷貿易と植民地時代に、アフリカ社会は西欧列強によって歪められました。基本的に、宗主国は仲介者としての支配階級と、安価な労働力としての労働者階級という二つの階級だけを作り、中産階級を意図的につくりませんでした。支配階級は、生産手段を支配し、他人の労働力を使って富を蓄積し、権力を拡大しました。不動産や車が持てるだけの資産を貯めることが可能な貿易商や店舗経営者などの中産階級は外国人を受け入れて、二つの階級の隙間を埋めました。従って、アフリカ人に許されたのは、大工仕事や鉄工、靴作りなどの単純な手作業だけでした。農産物や鉱物の安定供給が植民地の役目でしたが、ヨーロッパ人だけで支配するにはアフリカ大陸は大き過ぎ、事務員や電報係員、配達係のような下級職員や、植民地行政や西欧資本の会社で働く低い地位の従業員が必要でした。宣教師は、そういった職種に必要な初等教育を行ない、アフリカ人教師を育成してこの種の初等教育を普及させました。新しい型のアフリカ人中産階級がこうして育っていきました。
新しい中産階級は、学校へ通う特権が与えられ、西欧文化とキリスト教を学び、植民地支配を批判する本も読むようになりました。植民地の文化支配に反発する人もいましたし、独立運動を指導する人もいましたが、西欧人の特権的な生活様式を真似る誘惑に勝てませんでした。
独立後、そうしたアフリカ人は政府や行政機関や政党の最も重要な地位を占めました。このアフリカ人官僚と政治家は、自ら進んで新植民地政策のための中産階級の役割を引き受けて、もっぱら私腹を肥やしました。ヨーロッパの服や庭付きの家や車に使用人を好み、自分自身の給料を上げることに力を注ぎました。東アフリカや中央アフリカでは、そのような人たちは、ベンツに乗った人たちという意味で、「ワベンズィ」(WaBenzi)と呼ばれています。(1992年にハラレに滞在したとき、贅沢な車に乗っているアフリカ人がいる一方、ほとんどのアフリカ人は貧しくて苦しい生活を強いられていました。ベンツは広い庭付きの家一軒分と同じほど高価でした)。こういったグループは管理職中産階級とも呼ばれ、自分のために地位を使って経済的な基盤を得たり、ヨーロッパの土地を買う特権を得て土地所有者になったり、建設業や輸送に投資したり、外国企業で地位を得たりしました。

ジャカランダの美しかったハラレの街中

五十代後半まで教員や学生や留学生といっしょにバスケットをやっていましたが、ケニア出身のサヴァとも何年かいっしょでした。農学部で醸造学を専攻し、卒業後奈良の研究所に就職して行きました。サヴァが「日本に来る前、ナイロビ大学の教員でしたが、バイトを五つもしてましたよ。大学の給料があまりに低すぎましたから。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたね。大統領のモイが、ODA予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りも持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りですよ。それも丸ごとね!ニューヨークにビルがあって、マルコスやモブツと同じでスイス銀行にもすごい預金があります。今、モンバサで空港が『建設中』なんですが、そんな空港、一体誰が使えるんですか? 私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されましたね。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかどうか。十分に給料ももらえませんしね。1992年以来、政治的な雰囲気も変わって政府を批判出来ますが、選挙では結局モイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」と話してくれたことがありました。

バスケットをやってたサヴァや学生たちといっしょに

ケニアのモイ、ウガンダのアミン、中央アフリカのボカサ、ザイールのモブツ、ジンバブエのムガベ、フィリピンのマルコス、インドネシアのスカルノの独裁政権の悪評は、広く世に知られています。80年に政権に就いたムガベは90歳を過ぎた今も現役です。

行政に携わる人たちは、アメリカやヨーロッパとは違って、発展を推進する力とはならずに、新植民地支配の利益を誘導する仲介役にしか過ぎす、確固たる経済基盤がない場合がほとんどです。行政機構での高い地位が唯一の基盤で、27年間も君臨した前大統領ケネス・カウンダでもいとも簡単に投獄されたザンビアの場合のように、いかに高い地位にあっても安泰ではありません。

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カウンダ元大統領

ヨーロッパ列強が国の産業経済の発展を意図的に妨げてきましたので、独立時にはアフリカの労働者階級は比較的小さいもので、ローデシア(現在のザンビアとジンバブエ)とコンゴ(現在のコンゴ民主共和国)と南アフリカの鉱山グループに代表されるものくらいでした。鉱山労働者はたいてい非熟練工で低賃金の労働者でした。その制度がヨーロッパ人にとってはより効率的で利益があがるために、労働者は短期契約で働きました。
契約期間が終わると、別の労働者がその人たちと入れ替わりました。契約が終わった者は村に戻り、村に滞在しました。そういった短期契約労働者(早い話が給料が一番安く、いつでも切り捨てられるパートタイマーです)は東アフリカでも西アフリカにもたくさんいて、サイザル麻や棉花やカカオや茶の栽培や収穫をやらされました。短期契約労働者は鉱山や大農園や白人家庭のメードやボーイとして、いつでも補充可能な巨大労働源でした。
最も豊かな土地が奪われ、労働力を植民地経済に持っていかれたために、アフリカの農業は被害を受けました。植民地政策は意図的にアフリカ人農民が土地を所有し、産物を市場で売る機会を減らしましたので、アフリカ人の中産階級は大きくは育ちませんでした。

アフリカの農業が疲弊するにつれて、人々は都市部に移動してスラムがたくさん形成されました。ケニアのキベラ、ジンバブエのムバレ、南アフリカのソウェトなどは有名です。住人は親戚を頼ったり、密売や窃盗をしたり、小規模で不安定な仕事をして生計を立てようとしました。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑥コンゴ危機

『アフリカとその末裔たち2』

ガーナが独立したとき、英国は独立の過程を妨害し、その後軍事政権を立てましたが、コンゴの場合も基本的には同じでした。

ルムンバが1960年に組閣したとき、最大の問題は国を実質的にどう掌握するかでした。国土は広く土地も肥沃で水にも恵まれ、鉱物資源も豊富です。電力事業に必要な銅の埋蔵量は世界でも有数で、その資源の活用は新政府の死活問題でした。当然大国が見逃すはずもありません。旧宗主国ベルギーの独立の過程の妨害は極めて悪意に満ちて、あからさまでした。政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置かず、ベルギー人官吏8000人を総引き上げしました。コンゴ人には行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入してコンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。

パトリス・ルムンバ(小島けい画)

当時国連大使を勤めていたカンザは当時の状況を「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の中で次のように語っています。

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学卒業者が私を入れて3人でした。
大国がコンゴに経済利権を確立するにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予知しました。すぐに国連軍の軍事介入が始まりました。もともと国連軍は主に欧米から資金を得ており、結局コンゴは国際植民地と化したのです。」

危機を察知したルムンバが国連軍の出動を要請したのですが、ルムンバはアメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。

モブツ・セセ・セコ

このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られた組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。(宮崎大学医学部教員)

 

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国

『アフリカとその末裔たち2』

ガーナの場合、英国は表向きは独立を認めながら独立の過程を極力妨害し、その後軍事政権を立てて搾取構造を温存しましたが、コンゴの場合、状況はもっと苛烈でした。
大衆に選挙で選ばれた首相のパトリッシュ・ルムンバが1960年に組閣したとき、旧宗主国ベルギーは、ベルギー人管理8000人を総引き上げして政権を大混乱させ、後に軍事介入、政権強化を図るルムンバは身の危険を感じて国連軍の派遣を要請しましたが、国連軍は米国大統領から暗殺命令を受けたCIA(中央情報局)の手によってルムンバが殺されるのを見守っただけ、その後米国がルムンバの閣僚だったモブツ・セセ・セコを担いで軍事政権を樹立するという悲惨な結果になりました。

パトリッシュ・ルムンバ

欧米に狙われたのはコンゴが水や土地や資源に恵まれているほか、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあったからですが、ことの起こりは1985~86年のベルリン会議で、コンゴがベルギーのレオポルド二世個人の植民地「コンゴ自由国」として承認されたことです。ベルギー王子の植民地獲得の夢、競争相手には取られたくないが小国ベルギーなら大丈夫と考えた英国とフランスと、アフリカ人奴隷人口の増加に悩みアフリカ大陸への送還策を模索していた米国の思惑、レオポルド2世の接待外交などが絡んで生まれてしまった歴史的な事実ですが、そこに住む人たちには悪夢でした。しかし、この時期を抜きにしてその後のコンゴを理解出来ません。

レオポルド二世

レオポルド二世自身は生涯アフリカには行っていませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の思惑と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えとが、皮肉にも一致して、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。
しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。
町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。
どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。

「認可」を出したのはレオポルド二世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人の傭兵部隊を組織し、多額の予算を出して中央アフリカ最強の軍隊に仕上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。
牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

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天然ゴムの採取:NHK「アフリカシリーズ」(1983年)より

(米国のテレビドラマ『ER救命救急室』の医師カーターがコンゴに行った際、迎えの車の中たくさんの義足が積まれているのを見て「地雷?」と質問したら「手斧」と返事が返ってきましたが、住民同士の「手斧」での手足切断はこの時期のレオポルド二世の暴虐の後遺症だという指摘もあります。)

欧米の反対運動で、王はベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に人口は半減し、約1000万人が殺され、王が植民地から得た生涯所得は、現在価格で約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した16歳の少女に惜しげもなく注いだと言われています。「コンゴ自由国」は1908年にベルギー政府に譲渡され、搾取構造もそのまま引き継がれました。国王の植民地軍は、その後、植民地政府の莫大な予算が注がれて、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。兵士がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。(宮崎大学医学部教員)