2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の4回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのラ・グーマは最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台となった自分自身が生まれ育ったケープタウンの第6区をめぐってです。わりと有名な出版社の、わりと有名な大学の教員が翻訳したひどい翻訳の一例です。意外とこの類いは多く、翻訳の90%が信用出来ないというのも、あながち否定出来ないような気もします。

本文

ほんやく雑記の4回目です。

前回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)に出て来るソウェト(Soweto)をめぐって書きましたが、今回はケープタウンの第6区を取り上げ、ほんやくする人の気持ちと文脈から想像することの大切さについて書きたいと思います。

ラ・グーマは最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台に自分自身が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。第6区は1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。(写真1:第6区の今と昔)

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

原題は A Walk in the Nightで、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はそのほんやくについてで、アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。(写真2:第6区ハノーバー通り)

次回は「ほんやく雑記(5)オハイオ州デイトン」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」(「モンド通信」No. 94、2016年6月19日)

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2016年6月用ほんやく雑記4(pdf 469KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の3回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)の中に出て来るソウェト(Soweto)という言葉をめぐってです。南アフリカもラ・グーマも全く知らない人が英語関連だからと頼まれて翻訳した最悪の一例です。意外とこの類いは多く、翻訳の90%が信用出来ないというのも、あながち否定出来ないような気もします。

本文

ほんやく雑記の3回目です。

前回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の中のケープタウン遠景を取り上げましたが、今回は同じ作家が書いた「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)に出て来るソウェト(Soweto)をめぐってで、ほんやくには言葉以外に内容の背景もとても大事です、という話です。(写真:ラ・グーマ)

ラ・グーマは作品の中で、オランダ系入植者アフリカーナーの国民党が1948年にアパルトヘイト(人種隔離政策)をスローガンに掲げて選挙戦を展開して単独過半数を得て以来、アフリカ人がアパルトヘイト下でものを書くことが如何に難しいかを具体的な例をあげて詳しく説明しています。

アパルトヘイト政権の強硬政策は現実にはイギリス系白人にもかなりの影響を与えており、ラ・グーマは、イギリス系のある白人教授が1972年9月にケープタウン大学で行なった講演の中で「もし英語を母国語とする人たちの経済力の影響がなければ、イギリス系白人の立場はアフリカ人の立場とさほど変わってなかったでしょう。」と述べたことを紹介しています。それからラ・グーマは次のように続けています。

・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのでしょうか。最もはっきりしているのは、多数派のアフリ人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っていて、その施設が無きに等しい場合もあるということです。「ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは」、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかありません。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されていて、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれています。国内にあるすぐれた図書館はアフリカ人には閉ざされ、ほとんどのアフリカ人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もありません。

“South African Writing under Apartheid”はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」(Lotus: Afro-Asian Writings 23 (1975): 11-21)に揚載され、2年後の1977年には「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(「新日本文学」1977年4月号)の日本語訳が出ています。問題は「  」内の日本語訳の部分です。

ほんやくした人は英文の “In the giant African township of Soweto, from which Johannesburg draws most of its labour force,….”を「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族・・・・」(96ペイジ)と訳しています。

何が問題なのでしょうか。

最大の問題は、1977年に「ソウェト」を知らない人が翻訳した、この雑誌は「ソウェト」を知らない人に翻訳を依頼して公刊したということです。

「ソウェト」はSouth West Township (of Johannesburg)のそれぞれの二文字を取った略語で、金鉱で栄える南アフリカ最大の商業都市の南西の方角にある黒人居住地区です。つまり、ほんやくした人は場所を人と考えたわけです。しかもご丁寧に「族」までつけています。

普通の人なら、南アフリカの著作についての翻訳をする際に「ソウェト」を知らない人に翻訳を依頼したりはしないでしょう。しかも1976年にはアフリカーンス語をアフリカ人に強制しようとした政権に高校生が中心になって抗議し、多数の死者を招く事態(ソウェトの蜂起)が全世界に報道されていますから、尚更です。

第二次世界大戦で旧宗主国が殺し合いで疲弊したあと、それまで一方的にやられ続けた第三世界の人たちは独立や解放を求めて立ち上がりました。その過程で自分たちの歴史や文化に誇りを持とうという動きも活発になり、それまで押しつけられた西洋の偏見を振り払おうとする人たちも大勢いました。アメリカの公民権運動ではそれまで呼ばれていたスペイン語由来のNegroを元奴隷主が偏見を持って使っていた蔑称であると拒否して、Black AmericanやAfro-Americanを使い始めました。族(tribe)もその一つです。理想主義的な人たちはその言葉使いに拘りました。少なくともそういった歴史背景を知り、アフリカ人への敬意があれば、普通の人は「族」は使わないでしょう。

この500年のいわゆる先進国の横暴は形を変えて今も続いていますが、自分たちの侵略を正当化するために「白人優位」「黒人蔑視」を徹底して捏造してきました。

たまたま修士論文のテーマにアフリカ系アメリカ人作家のリチャード・ライトを選び、その作品を理解したいと歴史背景を探るうちに、奴隷として連れて来られた西アフリカに辿り着き、その延長でラ・グーマの作品や南アフリカの歴史に関わるようになりました。その過程でこの日本語訳をみつけたのですが、ほんやくには二つの言葉をどれほど理解しているかはもちろんのこと、書かれてある内容を理解するためには作品や作者の経緯や歴史背景をいかに知っているかも大事だなあとつくづく思った次第です。

次回は「ほんやく雑記(4)ケープタウン第6区」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」(「モンド通信」No. 93、2016年4月26日)

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2016年5月用ほんやく雑記3(pdf 310KB)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で、文部科学省科学研究費(平成30~34年度基盤研究C、4030千円)の交付を受けました。今回はその概略です。4年前に定年退職したとき、もう「研究」せんでもええんかな、とちらっと思いましたが、元々書いたり読んだりする空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取って大学を探し始めただけですから、厳密な意味で「研究」するとかしないとかの概念そのものが僕には元々ないんだったと思い直しました。

辛うじて38歳で宮崎医科大学に教養の英語学科目等の担当の講師として不時着、医学部では運営は教授だけで、それ以外は研究に専念をという方針のようで、書いたり読んだりするための理想的な空間でした。それでも大学では授業と「研究」は避けられません。幸いなことに、人も授業も嫌いではなかったですし、修士課程と非常勤講師の7年間ですでにたくさん書きためていましたので、「研究」のふりは出来そうでした。科研費も1年目に申請し、単年でしたが「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年度一般研究C、1000千円)が交付されました。実際にはアパルトヘイト政権と手を組んで甘い汁を吸いながら、表向きは人権侵害反対のポーズを取る国の方針に忠実な文部省には、反アパルトヘイトを掲げて闘った南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ関連のテーマは許容範囲内だったのでしょう。門土社(横浜)のおかげで印刷物が多かったのも決め手の一つだったかも知れません。

今回申請書を出すとき、「学術的背景、核心をなす学術的『問い』」の欄には次のように書きましたが、それが「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要です。

定年退職で時間切れと諦めていましたテーマで、再任により申請出来るようですので、機会を有り難く使わせてもらおうと思います。(語学教育センター特別教授二年目、一年毎の更新、最長十年)広範で多岐に渡るテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、

リチャード・ライト(小島けい画)

ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、

 

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

アフリカの歴史と奴隷貿易、とそれぞれ10年くらいずつ個別に辿って来ましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思います。

ライトの作品を理解したいという思いでアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でその人たちがアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして最初の著書『箱船21世紀に向けて』(門土社、1987)にガーナへの訪問記Black Power(1954)を軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズと広がって行きました。

辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ五百年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(The Pentagon、アメリカ国防総省)で開発された武器を個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

ジンバブエ大学教育学部

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んで350年に渡って行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えて来て、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants(Mondo Books, 1995)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(Mondo Books, 1998)にまとめました。

奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残して来ました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

作品を理解したいという思いから辿った歴史ですが、今度は歴史に刻まれた文学作品から歴史を辿りながら侵略の基本構造と侵略のなかで苦しめられてきた人々の姿を明らかにするのが今回の目的です。その過程で先人から学び取り、将来の指針となる提言の一つでも出来れば嬉しい限りです。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開

前回は「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要でしたが、今回は着想に至った経緯と今後の展開についてです。

<着想に至った経緯>

アフロアメリカの作家リチャード・ライトの小説を理解したいという思いで歴史を辿り始めたのですが、アフリカ系アメリカ人は主に西アフリカから連れて来られたのだと初めてアフリカに目が向きました。まだアパルトヘイトがあった時代で、アメリカで研究発表をしたり、反アパルトヘイト運動の一環で講演を頼まれてやっているうちに、次第に世界と日本、第三世界と先進国の関係が見えて来ました。おぼろげに見えて来たのは、次のような構図です。

リチャード・ライト(小島けい画)

イギリスを中心にした西欧諸国のこの五百年余りの侵略で、人類は二つの大きなものを変えました。生産手段と武器です。それを可能にしたのは1505年のキルワの虐殺に始まる西欧の略奪とそれに続く大西洋で繰り広げられた奴隷貿易によって蓄積された資本です。その資本で産業革命が可能になり、生産の手段を手から機械に変えました。人類は捌き切れないほど大量の工業生産品を作り出せるようになったわけです。あとは金持ちの論理で進んで行きます。さらなる生産のための安価な原材料と労働力が植民地戦争を産み、二度の世界大戦で殺し合いをしてもめげずに、開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配に制度を再構築して搾取構造を温存し、現在に至っています。その体制を維持するために剣から銃、終にはミサイルや原爆まで開発し、武器産業が「先進国」の重要な産業にもなっていて、在庫がだぶつくとアメリカは世界のどこかで戦争を起こして来ました。

1992年の在外研究は一つの転機になりました。国立大学の教員は国家公務員で、アパルトヘイト政権と密な関係にありながら、国は表面上、文化交流の禁止措置を取っていましたので、申請書を出した1991年には南アフリカのケープタウンには行けないと却下されました。かわりに、アメリカ映画「遠い夜明け」(Cry Freedom, 1987)のロケ地でもあり、南アフリカと制度のよく似た国ジンバブエに行き、奪う側、奪われる側の格差を実感しました。それまでいろいろ頭の中で考えていたものが、現実だったわけです。

しかしながら、加害者であるにもかかわらず、アフリカは可哀相だから助けてやっている、と考えている人が実際には大半です。以来、大学の教養に役目があるなら、意識下に働きかけて自分や社会について考える機会を提供することだと考えるようになりました。授業では出来るだけ英語を使い、映像や資料も集め続け、「概要」で紹介した英文書を二冊と、編註書A Walk in the Night(Mondo Books、1988)とAnd a Threefold Cord(Mondo Books、1991)、翻訳書『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)も出版しました。

医学生は教養を軽視する傾向があるうえ、馴染みのないアフリカだと拒否反応を示す人も多く、自然と医学と関連させる工夫をするようになりました。その中からエイズのテーマ「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年度~17年度基盤研究C、2500千円)と「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度、基盤研究C、3900千円)も生まれました。

旧宮崎大学と統合後は、教養が全学責任体制になって「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」なども担当し、『アフリカ文化論Ⅰ』(門土社、2007)も書きました。今も学士力発展科目「南アフリカ概論」や「アフロアメリカの歴史と音楽」などを担当、この3年間半で3400人を担当しました。

今回のテーマも、そんな「研究」と授業の中から、自然と生まれました。

<今後の展望>

奪う側、持てる側(The Robber, The Haves)は富を享受出来て快適ですが、奪われる側、持たざる側(The Robbed, The Haves-Not)はたまったものではありません。理不尽な思いを強いられたり、悔しい思いを味わった多くの人たちが文学や自伝や評論に昇華して、後の世に残しています。特にアングロ・サクソンに搾り取られできたアフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの系譜を辿り、文学と医学の狭間からその系譜を見てゆきたいと思います。それぞれの手がかりとする作品と明らかにするテーマは以下の通りです。

<アフロアメリカと人種隔離政策>

歴史とライトの自伝的スケッチ"The Ethics of Living Jim Crow, 1937″、小説Native Son(1940)、歴史的スケッチ12 Million Black Voices(1941)、自伝Black Boy(1945)、ミシェル・ファーブルさんのライトの伝記The Unfinished Quest of Richard Wright(1973?)、マルコムのMalcolm X on Afro-American History(1967)

<ガーナと独立>

ライトのガーナ訪問記Black Power(1954)とクワメ・エンクルマの自伝The Autobiography of Kwame Nkrumah(1957)と自伝Africa Must Unite(1963)

<コンゴの独立・コンゴ危機とエボラ出血熱>

トーマス・カンザの評論The Rise and Fall of Patrice Lumumba(1981)とリチャード・プレストンの小説Hot Zone(1995)、バズゥル・デヴィドスン(写真 ↓)のAfrican Series (NHK, 1983)

<ケニアと新植民地支配とエイズ>

グギの評論Writers in Politics(1981)、ワグムンダ・ゲテリアのエイズの小説Nice People(1992)、メジャー・ムアンギのエイズの小説The Last Plague(2000)

<南アフリカとアパルトヘイトとエイズ>

ラ・グーマのAnd a Threefold Cord(1964)、セスゥル・エイブラハムズのラ・グーマの伝記・作品論Alex La Guma(1985)、ベンジャミン・ポグルンドのロバート・マンガリソ・ソブクエの伝記Sobukuwe and Apartheid (1991)、レイモンド・ダウニングの評論As They See It – The Development of the African AIDS Discourse(2005)、メイ・ポン編The Struggle for Africa(1983)

アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、巧妙に支配を続けていて、アフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられて来たか、文学作品とエイズやエボラ出血熱―文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと思います。

最初は歴史を辿って行って結果的に作品に出会ったという流れでしたが、今回は作品から「アングロ・サクソンの系譜」を浮かび上がらせたいと考えています。

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の次の申請が可能なら、アフロアメリカのところで手に入れて手つかずのままの奴隷体験記An American Slaveの41巻と、エイズのところで集めて消化仕切れていないアフリカのエイズ小説19冊を元に、違う形でのアングロ・サクソン侵略の系譜を辿ろうと思っています。奴隷貿易がおそらく、この500年余りの歴史の中で最も後の世に影響を及ぼした出来事で、エイズが人類史上でおそらく最大の被害と利益を生んでいる病気だからです。

それと、また科研費の交付があり得るのか、を確かめてみたいという気持ちも、ほんの少しだけあるようですから。(宮崎大学教員)