アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造

2020年2月24日2010年~の執筆物アフリカ

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造

『アフリカとその末裔たち2』

 第二次世界大戦で総体的な力が低下したとき、体力の回復を待ちながら第三世界で吹き荒れる独立への変革の嵐をやり過ごし、西欧諸国は新しい形の搾取構造を再構築したわけですが、体制を維持するための協力者、アフリカ人の新しい階級を創り出しました。
奴隷貿易と植民地時代に、アフリカ社会は西欧列強によって歪められました。基本的に、宗主国は仲介者としての支配階級と、安価な労働力としての労働者階級という二つの階級だけを作り、中産階級を意図的につくりませんでした。支配階級は、生産手段を支配し、他人の労働力を使って富を蓄積し、権力を拡大しました。不動産や車が持てるだけの資産を貯めることが可能な貿易商や店舗経営者などの中産階級は外国人を受け入れて、二つの階級の隙間を埋めました。従って、アフリカ人に許されたのは、大工仕事や鉄工、靴作りなどの単純な手作業だけでした。農産物や鉱物の安定供給が植民地の役目でしたが、ヨーロッパ人だけで支配するにはアフリカ大陸は大き過ぎ、事務員や電報係員、配達係のような下級職員や、植民地行政や西欧資本の会社で働く低い地位の従業員が必要でした。宣教師は、そういった職種に必要な初等教育を行ない、アフリカ人教師を育成してこの種の初等教育を普及させました。新しい型のアフリカ人中産階級がこうして育っていきました。
新しい中産階級は、学校へ通う特権が与えられ、西欧文化とキリスト教を学び、植民地支配を批判する本も読むようになりました。植民地の文化支配に反発する人もいましたし、独立運動を指導する人もいましたが、西欧人の特権的な生活様式を真似る誘惑に勝てませんでした。
独立後、そうしたアフリカ人は政府や行政機関や政党の最も重要な地位を占めました。このアフリカ人官僚と政治家は、自ら進んで新植民地政策のための中産階級の役割を引き受けて、もっぱら私腹を肥やしました。ヨーロッパの服や庭付きの家や車に使用人を好み、自分自身の給料を上げることに力を注ぎました。東アフリカや中央アフリカでは、そのような人たちは、ベンツに乗った人たちという意味で、「ワベンズィ」(WaBenzi)と呼ばれています。(1992年にハラレに滞在したとき、贅沢な車に乗っているアフリカ人がいる一方、ほとんどのアフリカ人は貧しくて苦しい生活を強いられていました。ベンツは広い庭付きの家一軒分と同じほど高価でした)。こういったグループは管理職中産階級とも呼ばれ、自分のために地位を使って経済的な基盤を得たり、ヨーロッパの土地を買う特権を得て土地所有者になったり、建設業や輸送に投資したり、外国企業で地位を得たりしました。

ジャカランダの美しかったハラレの街中

五十代後半まで教員や学生や留学生といっしょにバスケットをやっていましたが、ケニア出身のサヴァとも何年かいっしょでした。農学部で醸造学を専攻し、卒業後奈良の研究所に就職して行きました。サヴァが「日本に来る前、ナイロビ大学の教員でしたが、バイトを五つもしてましたよ。大学の給料があまりに低すぎましたから。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたね。大統領のモイが、ODA予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りも持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りですよ。それも丸ごとね!ニューヨークにビルがあって、マルコスやモブツと同じでスイス銀行にもすごい預金があります。今、モンバサで空港が『建設中』なんですが、そんな空港、一体誰が使えるんですか? 私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されましたね。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかどうか。十分に給料ももらえませんしね。1992年以来、政治的な雰囲気も変わって政府を批判出来ますが、選挙では結局モイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」と話してくれたことがありました。

バスケットをやってたサヴァや学生たちといっしょに

ケニアのモイ、ウガンダのアミン、中央アフリカのボカサ、ザイールのモブツ、ジンバブエのムガベ、フィリピンのマルコス、インドネシアのスカルノの独裁政権の悪評は、広く世に知られています。80年に政権に就いたムガベは90歳を過ぎた今も現役です。

行政に携わる人たちは、アメリカやヨーロッパとは違って、発展を推進する力とはならずに、新植民地支配の利益を誘導する仲介役にしか過ぎす、確固たる経済基盤がない場合がほとんどです。行政機構での高い地位が唯一の基盤で、27年間も君臨した前大統領ケネス・カウンダでもいとも簡単に投獄されたザンビアの場合のように、いかに高い地位にあっても安泰ではありません。

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カウンダ元大統領

ヨーロッパ列強が国の産業経済の発展を意図的に妨げてきましたので、独立時にはアフリカの労働者階級は比較的小さいもので、ローデシア(現在のザンビアとジンバブエ)とコンゴ(現在のコンゴ民主共和国)と南アフリカの鉱山グループに代表されるものくらいでした。鉱山労働者はたいてい非熟練工で低賃金の労働者でした。その制度がヨーロッパ人にとってはより効率的で利益があがるために、労働者は短期契約で働きました。
契約期間が終わると、別の労働者がその人たちと入れ替わりました。契約が終わった者は村に戻り、村に滞在しました。そういった短期契約労働者(早い話が給料が一番安く、いつでも切り捨てられるパートタイマーです)は東アフリカでも西アフリカにもたくさんいて、サイザル麻や棉花やカカオや茶の栽培や収穫をやらされました。短期契約労働者は鉱山や大農園や白人家庭のメードやボーイとして、いつでも補充可能な巨大労働源でした。
最も豊かな土地が奪われ、労働力を植民地経済に持っていかれたために、アフリカの農業は被害を受けました。植民地政策は意図的にアフリカ人農民が土地を所有し、産物を市場で売る機会を減らしましたので、アフリカ人の中産階級は大きくは育ちませんでした。

アフリカの農業が疲弊するにつれて、人々は都市部に移動してスラムがたくさん形成されました。ケニアのキベラ、ジンバブエのムバレ、南アフリカのソウェトなどは有名です。住人は親戚を頼ったり、密売や窃盗をしたり、小規模で不安定な仕事をして生計を立てようとしました。(宮崎大学医学部教員)