2000~09年の執筆物

概要

エイズの世界的な蔓延や、エボラ出血熱の大流行の遠因となったザイールの過去の歴史を検証した論文である。ザイールの惨状は豊かな鉱物資源に群がる西洋資本と、その資本と手を結ぶ一握りのアフリカ人が多くのアフリカ人労働者を搾取する体制から生まれたものであるが、その基本構図はベルリン会議後の1886年に承認されたベルギーのレオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」によって築かれた史実を論証した。その基本構図が、その後ベルギー領コンゴ、ベルギーから独立を果たしたコンゴ、アメリカに後押しされたモブツ大統領の独裁国ザイール、そして現在のコンゴ民主共和国へと引き継がれている点も指摘した。

本文(写真作業中)

ごんどわな復刊3号(24号、2001年1月)2-5ペイジ

 

コンゴの悲劇(一) レオポルド二世と「コンゴ自由国」

 

悲劇の始まり

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一頁が始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている……。

しかし、ここ三年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。」

赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの実情を、米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)にそう誌した。(註1)

レオポルド二世

シェパードはコンゴに赴いた最初のアフリカ系アメリカ人で、「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたのである。

1890年から20年間アフリカで過ごしたシェパードは、レオポルド二世の「コンゴ自由国」の下での「変わり様」を目撃した。

シェパードが続けて誌す。

「どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしてゆけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない。」(註1)

「認可」を出したのは、1865年に30歳で王位に着いたベルギーのレオポルド二世である。かつてスペイン、オーストリア、フランス、オランダの支配を受け、1830年に独立したばかりのベルギーは、大国フランスとドイツ両国に挟まれた弱小国家だった。両親も本人も、政略結婚を余儀なくされ、家族関係も冷たく、父母の情愛を受けずに成人している。

十歳から軍事教育を受けた王は学業に熱心ではなかったが、地理には関心を寄せた。貿易の利潤に興味を持ち、世界地図を眺めながら、いつかは植民地を手に入れたいと思うようになっていた。王位に着く前年に、イギリス所有のセイロン、インド、ビルマと、オランダ所有の東インド諸島を訪れてから、植民地獲得の夢はますます膨らんでゆく。

ほぼ20年後の1885年に、レオポルド二世は50歳で宿願の植民地「コンゴ自由国」を入手するのだが、小さな国の国王個人が、どうしてアフリカ奥地の広大な植民地を首尾よく手に入れることが出来たのか。

 

「コンゴ自由国」の成立

個人の植民地とは不思議な話だが、王の執念と、植民地列強の思惑と、時代の流れとが交錯して、現実に個人の植民地が成立した。

産業革命を果たした西洋社会は、作り過ぎた工業生産品を捌く市場と、労働者の安価な食料と工業の原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げていた。ヨーロッパでは、侵略を正当化するための世論が大勢を占めていた。

1876年に王は、アラブ人の奴隷貿易廃止と「野蛮人に文明を」という大義の下に国際アフリカ協会を設立し、本部をブルリュッセルに置いた。すべて、植民地獲得への布石だった。

王は、初めからアフリカに拘ったわけではなく、薄れつつあった王室の権力を取り戻しさえ出来れば、植民地はどこでもよかった。しかし、当時すでに植民地はすべて西欧列強の手中にあり、世界地図の空白は、赤道直下のコンゴ川流域だけだった。世界地図の空白は、ヨーロッパ人「未到」と、他の植民地で手一杯のイギリスも、その地域を挟んで牽制し合うフランスもドイツも、まだ手を出していないという意味合いを含んでいた。王は、その空白に目をつけ、すでに東側から大陸横断を終えて、支援者を探していた英国人探検家ヘンリ・スタンリーに、密かに急接近を開始した。

情報から、王は、コンゴ川流域が植民地には最適と判断し、直ちに、450人の首長からただ同然の価格で広大な土地を買収させた。

スタンリーは、情報と世論の支持とを得るには欠かせない人物だった。世論の操作と外交術に長けた王は、イギリス、ドイツ、フランスの首脳を宮廷に招いては、手厚く遇した。成否の鍵を握るアメリカには、自らも乗り込み、大統領官邸との繋ぎ役には、南部の黒人人口の増加に脅威を感じ、アフリカに黒人を移住させたがっていた下院外交委員会議長のジョン・モーガンを選んだ。アメリカと、「小国なら却って実害がない」と考える西欧主要国の支持を得て、1886年のベルリン会議で、王個人が所有する植民地として「コンゴ自由国」が承認された。

 

「コンゴ自由国」

王は生涯に一度もアフリカに行かなかった。本国から指示を出し、当初は象牙で、後にはゴムで利潤をあげた。力による支配を強行し、劣悪な条件下でアフリカ人を働かせ続けた。

1888年には、ベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げた。

支配の根底には、アフリカ人蔑視の考え方があり、鞭打ちなどの残忍な手法を用いた。象牙の輸送には、急流地域では陸路を使うしかなく、大量の人夫が必要だった。当然、多くの犠牲者も出た。特に、ゴムを運ぶための鉄道建設では「レール一本を繋ぐのにアフリカ人一人の犠牲者が出た」とまで言われた。

1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起きた。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。アジアやラテンアメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの二十年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業を強いられた。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされたが、その支配は23年間に及んだ。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能だが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されている。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われる。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んだ。

 

(註)

 

1) Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost A Story of Greed, Terror, and Heroism in  Colonial Africa    (Mariner Books, 1998)

 

2) 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びた。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号2-5ペイジ

 

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コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文

ジンバブ大学② ツォゾォさん

ハラレで暮らし始めてからしばらく経ったころ、「在外研究の計画を練りなおしてください」という手紙が舞いこんだ。日本を発ったあとに届いたジンバブエ大学からのもので、同僚の機転で転送されてきたのである。すでに家を借りて生活を始めているのに、まさかそんな手紙が日本から転送されてこようとは夢にも思わなかった。直接差出し人のツォゾォさんの部屋を訪ねたら、授業中だった。授業を中断して出てきたツォゾォさんと、科長室(CHAIRMAN)と書かれた狭い部屋で、二時間ほどは話していただろうか。しかし、七月七日の手紙を意に介している様子はなく、最後まで、手紙の遅れを詫びる言葉はなかった。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

こうして、ツォゾォさんの部屋に通う日々が始まった。

ある日ツォゾォさんの部屋に行ったら、表札の名前が変っていた。英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋だった。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいる。部屋にはコピー機まであり、秘書はパソコンを使っていた。図書館では一台のコピー機の前に人の列ができるし、手動のタイプライターでさえ貴重品だというのにである。それから二、三日後、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しの記事が「ヘラルド」に掲載された。「ヘラルド」はこの国の一大日刊紙である。かなり大きな記事だから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのだろう。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうだった。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくあった。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていた。インタビューを録音しているときなどは、何度もテープを止めなければならなかった。

「演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブウェに戻るか、迷いました」とも言う。

「大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですか」と尋ねたら、「ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよ」と言っていた。そう言えば、ツォゾォさんは「自分の車」に乗っている。それまであまり意識はしなかったが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのである。

「独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブウェを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですね」と言ったら、「まったくそのとおりですよ」とツォゾォさんが頷いた。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていた。

授業風景は日本の大学とはいささか違う。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっているが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはなかった。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もあるが、もう少し現実的な事情もある。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がない。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまう。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかない。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのである。質のよくないノートにインクの出方の悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのである。

しかし、演劇の授業はやや趣が違った。歌あり、演技指導ありである。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操をする。円になって踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせる。手拍子を取り、歌いながらである。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていた。発声のための体馴らしでもある例年十月に授業の集大成として公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていた。

十月四日の公演にはぜひ来てくださいと学生から言われていたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいない。何もなければ、パリにいるはずだった。

 

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんが生まれた1947年は第二次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期である。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていた。

ツォゾォさんは国の南東部にある小さな村で生まれた。その村には、第二次大戦の影響もほとんど及ばなかったと言う。

広大なアフリカ大陸である。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていた訳ではない。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会〓クランを形成し、一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめてきたという。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれたので、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。

ツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていた)に入学した1968年頃の社会情勢は非常に緊迫していた。1965年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからである。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていった。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていた。その政策によってツォゾォさんもジンバブウェ大学入学が可能になったという訳である。(大学案内によれば、入学者数は初年度1957年が68人、独立時の1980年が2240人、1990年が9300人となっている。ツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた1992年でも、学生総数は約一万人だと言われていたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かである)

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれている。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、1971年までの学生時代の三年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けた。

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていた。大学は白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言う。

学生1500百人のうち五分の一の300人がアフリカ人であったそうだが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、1971年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうである。その時は逮捕はされなかったものの、警察と激しく衝突したという。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾した。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えた。

 

1976年になると、アメリカが介入の手を延ばし始める。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからである。

アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返された。そして、1979年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立した。

翌年の1980年2月の選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、四月にはZANUのムガベを首班とする黒人政権が誕生した。

しかし合意された最終案は、白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまった。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わらなかったので、大半のアフリカ人の生活は苦しいままであった。

独立闘争での働きも大きかったので、ツォゾォさんは、新政権の下で重用されている。1984年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まった。1986年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、二年間で演劇と映画の学位を取ったそうである。帰国後、1992年の8月に副学長補佐に昇進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77ペイジ

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ジンバブエ大学② ツォゾさん

2000~09年の執筆物

概要

ジンバブエ大学の英語の授業で出会ったアレックス。教育学部3年生で、住んでいる学生寮に案内してくれ、友人も紹介してくれました。相性がよかったのか、いろんな話をして、アフリカ人の住むムバレにも案内してくれ、インタビューにも応じてくれました。長女と長男の英語の相手をしてくれ、長男とはカンフーのアチョーというかけ声をかけながら楽しそうに戯れたりしていました。卒業後は外国に出稼ぎに行くと行ってたけど、どうしてるかなあ。

本文

ジンバブ大学 ①  アレックス

ツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では五人の学生が授業を受けていたが、その中にアレックスがいた。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドゥルネイムのアレックスが英語の名前である。

アレックスと仲よしになったのは、偶然である。

教育学部棟を背景に

 アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていた映画・映像に関する特殊講義だった。

教育学部棟

 2回目の授業の時、ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出ていった。学生は1時間ほどして戻ってきたが、処女作の出来栄えが気になるらしく、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出した。

映画・映像に関する特殊講義のツォゾォさん

 私も誘われて、約束の金曜日の2時に、ツォゾォさんの部屋まで出かけて行った。しかし、半時間が過ぎても、人の気配がない。ツォゾォさんの部屋も閉まったままである。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わした。

ムタンデといっしょに

 階段の踊り場で、話をしながら三人でしばらく待ってみたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せなかった。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれた。

構内のアレックス

 図書館や管理棟や学生会館に案内してくれた。会館の入り口で、アイスキャンディを買い、三人は食べながら並んで歩いた。3本で、3ドル程度だったように思う。

ジンバブエ大学構内

 それから、アレックスが住んでいる寮に案内された。最上級の3年生用の寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで一時田舎の自宅に帰るらしい。机とベッドが備え付けられた狭い部屋だが、日当たりもよく清潔な感じである。3食付きで、共同のシャワーがあると言う。

学生寮ニューホール

 部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあった。

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスがいう。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多い。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変なのである。もちろん誘った私が払うつもりでいたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出した。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにした。

帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれた。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと話したら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですと言う。コーラの値段を聞いたら、中身は一本75セント(20円足らず)ですと教えてくれた。

長男に英語を

 アレックスとは色々な話をした。

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが言う。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えた。

寮でアレックスは、何人かの友人を紹介してくれた。それぞれ国中から集まってきた精鋭だが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいた。街には日本のメイカーの自動車が溢れているし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにである。

かっこいいジョージ(小島けい画)

 アメリカのニンジャ映画の影響らしい。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこだねと説明したら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言う。

しかし考えてみると、実質的に国内唯一の総合大学ですらこうなのだから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自らの利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいだろう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしみついている。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言う。周りの者も頷いている。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが怒りだした。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのである。

アレックスと

 車中心のこの社会では、車は必需品には違いないが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思った。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えた。

アレックスの生い立ち

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りの田舎で生まれた。田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようで、学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行ったそうだ。

中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活は小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした」と続けた。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった1979年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……」

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、1990年から大学に通うようになった。

借家内でアレックスと

 アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べるとという意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の一人が辞任した1989年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……」と私が話し始めると「それは実際には少し違います」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

ウォークマンで尾崎豊を聴くアレックス

 独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。

お昼に行ったシェラトンで従業員の人といっしょに

 最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪えているようだった。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです」と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの記事が掲載されていた。

記事では、アレックスの指摘した税金の重さについての言及はなかったが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

アレックスのい従姉妹と長女と、スクエア・ガーデンで

 私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104ペイジ

「ごんどわな」22号

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ジンバブエ大学① アレックス

2000~09年の執筆物

概要

アフリカのエイズの深刻な状況を、ジンバブエの例を軸に、分析したものです。

ヨーロッパ人はアフリカ人から土地を奪って課税することによって大量の低賃金労働者を作りましたが、売春婦が通う労働者の住まいがエイズ感染の温床になっています。売春婦を介して感染した男性が、村に帰って配偶者に感染させて事態を深刻化しています。最新のエイズ治療薬も大半のアフリカ人には無縁です。そういった負債とエイズに苦しめられているアフリカの危機的な状況を分析しました。アフリカと医学をつなぐテーマとして医学生の英語の授業で取り上げる中から生まれました。

本文

アフリカとエイズ                

深刻な状況

アフリカのエイズ事情は深刻である。

その深刻さを伝える二つの記事は、私には衝撃的だった。

一つは、英日刊紙「インディペンダント」(1995年7月)のジンバブエについての報告記事で、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という一節である。(註1)

もう一つは、英科学誌『ネイチャー』(1999年7月)の記事で、アメリカの製薬会社の突き上げを喰って、大統領選出馬の野心を抱く副大統領ゴアが、南アフリカに対して頻りに、コンパルソリー・ライセンス法撤廃への圧力をかけているという内容だった。(註2)

 

画像『ネイチャー』(1999年7月)

アフリカで実際にエイズ治療に当たった医師は、その深刻さを肌で感じ取っている。

英国人医師リグビィ氏は「アフリカで働こうと心に決めたとき、アフリカのエイズ問題の深刻さを私は充分承知している、と信じていました。しかし、(アフリカでの医療活動を経験した)今、本当に事態の深刻さが分かっている人がいるとは、私には信じられません。」と『イギリス医学誌』(1995年6月)のなかで告白している。(註3)

1998年8月のケニア米大使館爆破事件で、血塗れの犠牲者の救急治療に当たる医療関係者のニュース映像を見ながら、米国人医師スティーム氏は、背筋の凍る思いをしたと誌している。(註4)

スティーム氏はケニアでの医療活動経験者で、爆破事件の時も、エイズ事業の視察を終えたところだった。ナイロビでの若者成人人口のHIV(ヒト免疫不全ウィルス)感染率は約25パーセントで、手術を伴なう救急治療室でのHIV感染の危険度は極めて高いと言われている。今回の視察で出会った若い米国人外科医は、ボランティアとして田舎の病院で複雑な手術を行なう予定だったが、感染に備えて、二重の手袋をはじめ、ケニアでは入手出来ない緊急時用の抗HIV剤などと、輸血の必要性が出た場合にヨーロッパの病院に空輸してもらえる保険の準備をしていたという。それだけに、手袋もつけずに血塗れの患者の治療に当たるケニア人医師や看護婦たちの映像を見た時の衝撃は大きく、現状では「悲しいことだが、エイズ流行病で爆破以上の死者が出て、その死者の中にはこの事件で危険に晒された医療関係者が間違いなく含まれるだろう」と予測せざるを得なかった。アフリカの厳しい現状を垣間見た者の偽らざる実感だろう。

HIV

私もジンバブエに滞在したあと、よく似た思いに捉われたことがある。

1992年に、私は首都ハラレで、家族と過ごす機会を得た。住宅事情が悪いらしく、ホテル住まいも覚悟していたが、運よく一軒の家を借りることが出来た。家賃は月約十万円で閑静な白人住宅街にあり、約五百坪ほどの広さだった。

ハラレ借家

ゲイリーというアフリカ人青年と大きな番犬が私たち四人を出迎えてくれた。ゲイリーは「ガーデン・ボーイ」(庭番)として家主のスイス人老女に雇われており、庭の片隅の小さな部屋に独りで住んでいた。

ゲイリーとデイン

アフリカで家族と暮らすのが滞在の主な目的だったので、ゲイリーとはすぐに仲良くなった。長い休みに入るころ、家族を呼び寄せて、狭い部屋に五人で暮らし始めた。ゲイリーの子供と私の子供も、奥さん同士もすぐ仲良しになった。同じ敷地内で、二ヵ月半の大半をゲイリーの家族といっしょに過ごすこととなった。

庭で遊ぶ庭で子供たち

ゲイリーの月給は四千円ほどだった。経済格差があるので単純には比較できないが、子供たちに買ったバスケットボール一個が五千円ほどで、ゲイリーの給料よりも高かった。女性の給料は更に低く、一日二百円ほどで「メイド」が雇え、普通は朝八時から夕方の四時までが勤務時間のようだった。日本にいる時に、南アフリカでは洗濯機を買う人がいないと聞いたことがあったが、「メイド」がはるかに経済的な「洗濯機」の機能を果たしていたわけである。

ある日、運転手付きの車を借りて、ハラレから少し離れたゲイリーの田舎の家を訪ねた。何家族かの親戚が集まって暮らしていたが、むこうの丘の麓辺りまでが家の土地だとゲイリーが教えてくれた。ずいぶん広い土地がありながら、かつてはゲイリーの父親が、そして今はゲイリーが、家族と離れて一年の大半を街で過ごす生活を余儀なくされていた。

ゲイリーの家

1505年のヴァスコ・ダ・ガマらによるタンザニア沖合の島キルワでの虐殺を皮切りに、西洋人はアフリカ大陸の侵略を開始した。西アフリカでは奴隷を売買して富を築き、蓄えた資本によって産業革命を起こす。人類は生産手段を手動から機械に変えて、大量の製品を作りだすようになる。製品を売り捌く世界市場が必要となり、市場の争奪戦が繰り広げられた。植民地時代の幕開けである。アフリカはその餌食となった。

侵略の要は、効率よく人のものを掠めとる点にある。まずアフリカ人から土地を奪い、課税をする。貨幣経済に巻き込まれたアフリカ人は僅かな現金を求めて村を離れ、都会に出て行くしかない。あり余る低賃金労働者の出来上がりである。季節労働者と呼ばれる人たちで、通常は14ヵ月くらいの短期契約である。パートタイム契約は馘切りも簡単で、賃上げの心配も少なく、経営者側には効率のいい雇用形態である。鉱山や農場脇のコンパウンドと呼ばれるたこ部屋で、一年の大半を家族と離れて過ごす。あるいは、白人家庭で「ボーイ」や「メイド」と呼ばれながら、家内労働者として扱き使われる。

ゲイリーもその一人だった。庭木の水遣り、番犬の世話、老女のための買物や使い走りがゲイリーの仕事の内容だった。一月四千円余りの賃金で大の男が一日の大半を拘束されて過ごす。名こそ奴隷ではなかったが、扱き使われている事実に変わりはなかった。帰国当日の朝にスイスから戻った老婆の電話を受けたゲイリーの狼狽振りは、見ていても気の毒なくらいだった。家に入る時は靴を脱ぐように命じられていた「ボーイ」が、私たちの友人として、こともあろうに「靴を履いたまま」居間で寛いでいたからである。(註5)

庭でゲイリーと

アフリカに行く前、私はアフリカの状況を一応は知っているつもりでいたが、アフリカの現実は圧倒的すぎた。帰国して目にする「日本」との格差がありすぎて、しばらくは心の整理がつかなかった。

それだけに、アフリカのエイズ事情の深刻さが、身に沁みる。

歴史の皮肉

『HIV感染症』の著者秋山武久氏は、梅毒とエイズの二大性病をハイチ人が媒介したという説を支持している。(註6)

コロンブスがハイチ島から持ち帰った風土病がのちに梅毒として世界に広がった、ザイールに滞在していたハイチ人が持ち帰ったHIVがハイチ島内での流行を経てアメリカへ伝播されたという説である。いずれの場合も、それほど激しくなかった風土病が、感染経験のない地域に伝播して、突如猛威をふるいだしたというものである。

かつて「奴隷調教」の場に利用された(註7)カリブの島「ハイチ」から運ばれた風土病にヨーロッパ人侵略者たちは苦しめられた。今また、アフリカからカリブの島を経て侵入した病原体に侵略者の子孫たちは悩まされている。歴史の皮肉である。

今回の場合、アフリカ内陸部に住む人たちの間で蔓延していた風土病が、売春婦を介して都市部へ伝播してHIV感染症に変貌し、その病気が圧政を逃れて帰国したハイチ人によってハイチ島に運ばれ、島内流行の後、アメリカに渡ったと考えられている。風土病の山村から都市部への伝播とハイチ人の移動は、レオポルド二世→ベルギー→モブツと続く容赦のない圧政によってもたらされた人々の貧困と深く係わっている。ことに、モブツ独裁政権を長年に渡って公然と支援し続けたのがアメリカであってみれば、エイズは侵略者への見事なしっぺ返しである。

レオポルド二世

しかし、最大の犠牲者はアフリカ人である。奴隷貿易、植民地支配を経て、今も続く新植民地支配に喘ぎながら、HIV感染症の追い打ちを受け、今やまさに大陸存亡の危機に瀕しているのだから。

HIVの特徴、アフリカの特異性

HIVの特徴は、病原ウィルスが主に、免疫を司るリンパ球ヘルパーT細胞を標的にして増殖し、感染者の免疫力を低下させることである。しかも、現在のところ、一度感染すると、ほぼ全員が感染死する不治の病である。

1981年に最初のエイズ患者が発見されてから数年後には、ウィルスの構造や伝播形式も明らかにされている。したがって、感染の予防方法も確立されているわけだが、感染者は増加し続けている。この流行病が、主に異性間性交によって伝播される性感染症であるためである。

数年前に人々を震撼させたザイールのエボラ出血熱やインドの肺ペストなどの感染症は、致死率は高いが潜伏期間も短かく、そのうえ地域封鎖などの厳戒体制が敷かれるため、患者が回復するか、死亡するかすれば一応の終息をみる。

南アフリカの週間紙のエボラ出血熱の特集記事

それに比べて、このHIV感染症は、極めて質(たち)が悪い。感染しても無症状の期間が長く、その間、無意識に、ある場合は意識的に、二次感染が起こるからである。ウィルスの恐ろしさを知らなければ、当事者に意識されることもなく、性交渉を通じて病気は蔓延していく。

アフリカ大陸、特に南部はHIVの温床である。ヨーロッパ人が大量の低賃金労働者を作り出して、鉱山や農場近くのコンパウンドに住まわせていると書いたが、実は、そのコンパウンドに売春婦が通う。鉱山労働者が汗水流して稼いだ僅かな賃金のおこぼれにあずかるためである。「(ジンバブエの)ムランビンダ村の四千人強の人口の約10パーセントが売春婦で、鉱山労働者とほぼ同数である。その約半数の売春婦がHIVに感染していると警察は信じている」と報告記事が伝えている。(註8)

ムレワのゲイリー家族

売春婦を介して感染したアフリカ人男性は、契約が切れて村に帰り、その配偶者に感染させる。多重婚のところも多く、男性は通常、複数の性交渉の相手を持つ。しかも、統計によれば、男性から女性に感染させる率の方がはるかに高い。

そういった様々な事情が折り重なって、冒頭に引用した「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という悲劇が起こる。そして、男性の働き手を都会に吸い上げられている農村部では、不可欠な労働力として、あるいは残された子供や老人の世話をする担い手として農村経済を支えている女性たちが、次々とエイズにやられ、たくさんの子供たちを残して死んで行く。経済面でもその基盤そのものが、まさに崩壊しようとしているのである。

どの民族であれ、結婚していることが不治の病に感染する危険要素ならば、どうやって子孫を増やしていけばよいのか。娘たちに死なれ、残された年寄りたちはただただ途方に暮れる。

どうして子供らはみんな、死んでゆくんだろう?どうして若い者たちは、わたしら年寄りに孤児(みなしご)を残して、逝ってしまうんだろう?

そんな老婆の哀しみを伝える冒頭の記事(註9)は、1995年7月のものである。もう四年以上が経過した。

エイズ会議

1994年8月に横浜で開かれた第10回国際エイズ会議は、記憶に新しい。日本での開催とあって、アジア諸国のエイズ事情が詳しく紹介されたり、母子感染の際の逆転写酵素阻害剤AZTの効果や感染者の長期生存の症例報告があったりなど、会議の成果が日本でも連日報道された。(註10)

1996年のヴァンクーバー会議では、従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発された蛋白分解酵素阻害剤を併用する多剤療法の効果が報告されて、エイズが、ウィルスとの共生も可能な病気になるかもしれないと、誰もが希望をもった。その年をエイズ治療元年と呼ぶ記事も少なからずあった。(註11)そして、ワクチン開発への希望も膨らんだ。

しかし、1998年のウィーン会議は「視界に治療法も見えぬまま、悲観的に閉幕」した。(註12)多剤療法で副作用が出たという症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれた。そして、病気への最大の戦略は、やはり予防しかない、と再確認せざるを得なかった。

次回2000年のエイズ国際会議開催国南アフリカ、ダーバンの医師は「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者です」と言う。国際会議で議長を努める予定のその医師は「私は今まで抗エイズ治療薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えた。参加者はアフリカの厳しい現状を突き付けられて、ますます気を重くした。

しかし、そんな深刻な状況を、アフリカ諸国も、自称「先進国」も、深刻に受け止めているとは思えない。

本年9月のザンビアでのエイズ会議にアフリカの首脳は参加しなかった。世界で最も事態が深刻だとされる南部アフリカ六ヶ国は、大統領はおろか、一線級の官吏さえも送らなかった。主催国ザンビアの大統領も、会議に出なかった。エイズ患者、医療関係者、研究者など数千人が集まって、何とか対抗策を見いだせないものかと真剣に討議をしたにもかかわらずである。(註13)

「死にゆく大陸」

今のアフリカに、エイズよりも緊急の課題があるはずがない。

今夏、「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」という記事が出た。アメリカのゴア副大統領と通商代表部が、南アフリカ政府が1997年に成立させた「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めているが、その圧力が不当な干渉であるという主張である。(註14)

感染者がエイズ治療薬の恩恵を受けやすいように、同薬の安価な供給をはかるために提案された同法のもとでは、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価なエイズ治療薬を生産する免許が厚生大臣から与えられる。また、その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれる。

抗HIV製剤

ゴア副大統領や国際的製薬会社は、開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定に違反していると主張する。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めている。今回の場合、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたるかどうかである。

南アフリカの法律を認めれば、南アフリカにならおうとする国が増えるのは間違いない。そうなれば、製薬会社は治療薬の開発に注ぎ込んだ莫大な費用が回収できないし、利潤も減るわけであり、利潤を追求する企業としては、その法律に反対するのも道理だろう。国会議員や副大統領に法律撤廃にむけての圧力をかけるよう要請するのも、通常なら、無理からぬことだろう。

しかし、今春南アフリカで行われた調査の結果、生殖年齢にある成人の22パーセントがHIVに感染していると推定され、2010年までに、エイズのために国民の平均寿命が四十歳以下になる見込みであることが明らかにされたのであるから、今の南アフリカの事態が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないとは言えないだろう。アメリカは、そういった事態を承知のうえで、圧力をかけているのである。

すでに述べた老婆の嘆きを伝える1995年のジンバブエの記事の最後に、今日の南アフリカを予想してこう記してある。

医療関係者はエイズは20年前に、ザイールやウガンダのような中央アフリカから輸送経路を通って、ケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエに南下し始めたとみている。優れた道路が整備され、季節労働者の歴史と男性が性交渉の相手を複数持つ文化があるために、ジンバブエは特にエイズに侵されやすい。次の標的は、南アフリカで、そこでは毎日550人の人々が感染していると推計する人もいる。(註15)

アパルトヘイトは廃止されたものの、アフリカ人の安価な賃金労働者、特に短期契約の季節労働者を基盤にする基本構造を変えられないまま政権を担当せざるを得なかったANC(アフリカ民族会議)内閣は、そのような重大な事態を察知して、1997年にコンパルソリー・ライセンス法を成立させた。つまり、このコンパルソリー・ライセンス法は、エイズ危機に対する緊急措置であって、特許料をめぐって国内業者に便宜をはかることを目的としたわけではない。

南アフリカに限らず、アフリカ諸国は奴隷貿易以来、イギリスを筆頭とする西洋諸国に富を絞り取られてきた。そして、富の搾取は今も続いている。搾取する側と搾取される側の富の格差は広がるばかりである。第二次世界大戦後は、戦略を変え、開発援助なる名目で、アメリカ主導の搾取構造を維持している。国際通貨基金(IMF)、世界銀行(IBRD、通常はWORLD BANK)などの機関を通じて金を貸して利子を絞り取っているわけである。(註16)もちろん、日本も搾取側にいて、1998年度のODA予算は百億円にのぼっている。(註17)

借金が嵩んで、個人ならとっくに破産している重債務貧困国が、36ヶ国もある。(註18)このままだと元も子もなくなってしまうと、主要国首脳がドイツ・ケルンに集まって知恵を出しあい、貧困国が保有する負債全体の三分の一を削減することにした。総額七百億ドル(約八兆四千億円)である。

主要七ヶ国(G7)のODAの中で、借款の占める割合が最も大きい日本は、借金の帳消しを渋っている。円借款の予算の約半分が郵便貯金や公的年金などを財源とする財政投融資からの借入金だからという財政上の事情をその理由にあげている。しかし、「アフリカ諸国の債務帳消しに必要とされるのは、日本の場合、単純に計算して約七千億円にすぎない。日本長期信用銀行に投入された公的資金とそう違わない金額で」ある。(註19)

債務の帳消しを渋っているのは日本だけではない。ケニアなどは新たに借金が出来なくなるのを恐れて債務帳消しを渋っている。大統領モイはアメリカやイギリスや日本と組んで、新植民地政策の片棒を担いできた。巨額な援助金を我が物にして約20年にわたる長期政権を維持してきた。何度か本紙にも登場した作家のグギさんも、我が友人のムアンギさんも祖国に帰れないでいる。次の「ケニア人のエコノミスト」の厳しい批判は民衆の本音だろう。

(債務帳消しの)救済を求めないことで救われるのはだれか。ずるずる援助を受けて延命する政府と、借金棒引きがなくてすむ先進国じゃないか。結局、何の特権もない庶民が貧乏くじを引き続けるのだけは変わらない。(註20)

借金に喘ぎ、エイズに攻められる。先進国が搾取の手を緩める気配もなく、先進国の番犬を任じるアフリカ諸国の首脳は、自らの野望を諦めようとはしない。このまま放っておけば、アフリカはまさに「死にゆく大陸」である。(註21)副題の「次の20年でエイズウィルスによって三千万人のアフリカ人が死ぬ。製薬会社はその事態を更に悪くしようとするのか?」は、アフリカの危機を言い得ている。

搾取する側もされる側も、今や我欲を張っている時期ではない。搾取するにも、エイズでたくさんの人が死に、大陸そのものの存亡が取り沙汰されているのである。

今まで富を絞り取ってきた国々は、アフリカがエイズの猛威に立ち向かえるように支援することで、今こそ富を返すべき時である。エイズ患者には抗エイズ剤の安価な供給をはかること、そして、予防対策に対しての援助を惜しまないこと、それしかないだろう。幸いウガンダの例がある。八十九年に最初のエイズ撲滅運動を始めたウガンダは、感染率が人口の約10パーセントの猛威にさらされている国だが、運動の成果があって最近では感染率が目に見えて低下しているという。(註22)その成果は、本年10月14日に死亡した元タンザニアの大統領ジュリアス・ニエレレもイギリスの歴史家バズゥル・デヴィドソンも高く評価した現政権があっての故だろう。大陸存亡の危機に際して、ウガンダの例を励みに、「先進国」も「発展途上国」も、出来るところからやっていくしかない。

ニエレレ

<註>

註1 カール・マイア「エイズ流行病、南部アフリカの人々をじわじわと絞め殺す」提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1995年7月30日)に収載の「インディペンダント」の記事。

註2 『ネイチャー』、1999年7月1日9号、1頁。

註3 註1と同じ記事。

註4 リチャード・スティーム「アメリカのワクチンがアフリカのエイズ恐怖を和らげるだろう」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月29日)。「ボルチモア・サン」へ特別寄稿した記事。

註5 英文書アフリカ・ツゥデイ・シリース第二巻『アフリカ、その末裔たち 植民地時代』(門土社、1998年)の中に、この時の滞在記を紹介した。

『アフリカ、その末裔たち 2』

註6 秋山武久著『HIV感染症』(南山堂、1997年)、1~31頁。

註7 マルコム・リトルは、暗殺される直前の講演でも、奴隷貿易で果たしたカリブの島々の働きを強調している。講演は『マルコム、アフリカ系アメリカ人の歴史を語る』(パスファインダー社、1970年)に収録されている。

『マルコム、アフリカ系アメリカ人の歴史を語る』

註8 註1に同じ。

註9 註1に同じ。

註10 わだえりこ「エイズ会議終わる、しかし課題は山積されたまま」、「デイリー・ヨミウリ」(1994年8月12日)。

註11 鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』」、「朝日新聞」(1997年3月20日)など。

註12 ローレンス・アルトマン「世界エイズ会議、治療法も視界に見えぬまま、悲観的に閉幕する」、「インターナショナル・ヘラルド・トゥリビューン」(1998年7月6日)。

註13 「アフリカ、会議に首脳が不参加のまま、エイズの解決策を探る」、「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月15日)。

註14 池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)。

註15 註1に同じ。

註16 前掲書『アフリカ、その末裔たち 植民地時代』の一章(6~32頁)で新植民地戦略を詳しく紹介した。クワメ・エンクルマ著『新植民地主義 帝国主義の最終段階』(パナフ社、1965年)とバズゥル・デヴィドスン著『アフリカは生き残れるか?』(リトル・ブラウン社、1974年)は示唆的である。

註17 「日本のODA、九十八年度、十億円に達する」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月28日)。

註18 「苦しい中で対応様々 重債務貧困国の実情と救済」、「朝日新聞」(1999年7月28日)。

註19 小野行雄「アフリカの債務帳消しに理解を」、「朝日新聞」(1998年12月28日)。

註20 註18に同じ。

註21 アレックス・スミス「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」、提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月12日)に収載の「インディペンダント」の記事。

註22 アン・ダガン「アフリカがエイズの猛威と立ち向かえるえるように支援することは」、「デイリー・ヨミウリ」(1999年10月15日)。

<推薦図書>

山本直樹・山本美智子著『エイズの基礎知識』(岩波新書、1998年)。

国立大学保健管理施設協議会特別委員会編『エイズ 教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年)。

秋山武久著『HIV感染症』(南山堂、1997年)

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14ペイジ

「ごんどわな」22号

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アフリカとエイズ