1990~99年の執筆物

概要

(写真と概要は作業中)

本文

Robert・Mangaliso・Sobukwe

ロバート・マンガリソ・ソブクウェというひと

(一) 南アフリカに生まれて

「ゴンドワナ」20号(1993)14~20ペイジ

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ。一九二四年に南アフリカに生まれて、一九七八年に死んでいったソブクウェの名は、日本ではあまり知られてはいませんが、厳しい抑圧のなかでさえ、生涯渝(かわ)らぬ生き方をし続けたひとりのアフリカ人の生きざまに、私は強く心を惹かれます。

そして、三十年以上にもわたってソブクウェとその家族を支援し続けたベンジャミン・ポグルンドという人の存在にも、心を打たれます。

一九九◯年に出版されたポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト     これ以上美しく死ねるだろうか     』(ジョハネスバーグ、ジョナサン・ボール社)をもとに、ロバート・マンガリソ・ソブクウェというひとを紹介したいと思います。

フラーフ・レィニェト

ロバート・マンガリソ・ソブクウェは、一九二四年十二月五日に、父ヒュバートと母アンジェリーナとの間の第七子として、ケープ州南東部のフラーフ・レイニェトに生まれました(六人の男の子のうち、三人は幼くして死にましたが、十歳違いの兄アーネスト、二歳上の兄チャールズと姉エレノアの三人は無事に成人しています)

ヒュバートの父親は、バソトランド(現在のレソト)の出身で、第二次アングロ・ボーア戦争(一八九九~一九◯二)前に家族とともにその地を離れ、戦争直後にフラーフ・レイニェトに移り住みました。ヒュバートは、そこでコサ系のポンド人アンジェリーナと知り合って結婚し、ソブクウェが生まれています。ほかの黒人と同じように、ソブクウェの出生が正式に登録されることはありませんでした。

フラーフ・レイニェトは、ケープ州がオランダの統治下にあった一七八六年につくられた典型的な「白人」の町です。オランダ系の白人アフリカーナーが大勢を占め、町のはずれには、白人に安価な労働力を提供する黒人の居住区ロケーションがあります(一九二◯年の統計では、総人口一万七百十七人のうち、白人が五千百三十九人、カラードが三千六百七十七人、黒人が千八百八十三人、アジア人が十八人となっています)

カルーと呼ばれる赤土の乾燥性台地にあり、かつてはダチョウの羽毛の取り引きで栄え、今は羊や果物で潤おうフラーフ・レイニェトの町は、サンディズ川の恵みを受けて肥沃で、オランダ風の家並みも美しく、「カルーの宝石」と呼ばれています。

他の南アフリカの町と同じように、美しく整備された白人の町並みとは対照的に、ソブクウェの生まれたロケーションは、悪臭の漂う貧しい場所でした。もちろん、電気や水道の施設もありません。ソブクウェの育ったレンガづくりの家には、ほとんど家具らしい家具はなく、両親は古い鉄製のベッドで、子供たちは、土の地面の上にマット代わりに敷かれた麻袋の上で身を寄せ合って寝ていました。

父親は最初、町の役場に勤め、水路を維持する仕事をしていましたが、のちに羊毛の選り分けや、袋のラベル貼りをする店で働きました。かたわら、きこりのアルバイトもやり、町の市場で木を買っては家に持ち帰り、薪にしてロケーションで売りながら、家計を支えました。子供たちも交替で、朝早く起きて両親を助けました。母親は、何年もの間、町の病院の賄い婦や白人家庭のメイドとして働きました。

両親は、敬虔なメソジスト教会の会員で、住んでいる通りを「ソブクウェ通り」と名付けられるほど、ロケーションの人たちから尊敬されていました。自分たちは、貧しくて満足に学校に行けませんでしたが、子供たちには学校に行く機会を与えたいと願っていました。姉エレノアは、学校に八年間通ったのち、本人の希望ですぐに働き始めましたが、二人の兄は学校教育を終えて、教員の資格を取得しています。アーネストは、のちにイギリス聖公会の主教になりました。

ソブクウェは、ロケーション内のメソジスト教会の建てた小学校に六年間通いました。教会の長いすが机代わりの小学校の児童は黒人とカラードで、大半の子供たちは両親が貧しくて、途中から学校に来れなくなりました。小学校を卒業したのち、町にあるイギリス聖公会が経営する二年制の学校に四年間通いました。無償の初等教育とは違って、次の段階の中等教育を受けるための経済的な余裕が両親になかったからです。

高校から大学へ

一九四◯年、ソブクウェが十五歳の時に、兄チャールズと一緒に高等学校に行く機会が訪れました。学校は、フラーフ・レイニェトの町から二二五キロほど離れたヒールドタウンにあり、十九世紀にイギリスの宣教師達によってケープ州東部に創設された学校の一つでした。英文法と文学を基礎にしたキリスト教教育と教養教育が行なわれ、当時、黒人に教育の機会を与える中心的な学校でした。その年、高校に入学した黒人は五千八百八人で、全登録者数のわずか一・二五パーセントでしたから、ソブクウェも「選ばれた人」の一人であったことになります(黒人には義務教育の制度はありませんでしたから、「全登録者数」と言っても高校に入学する年齢層の一部にしかすぎませんでした。ちなみに、その年の白人の高校進学率は十六・四パーセントとなっています)

質素な寮生活でしたが、四十三年には、ケープ東部地域の黒人だけのテニスの試合で優勝するなど、スポーツに精をだしたり、学業に励んだりしながら、学校生活を楽しんでいます。際立った学業成績は白人教師の目をひき、三年間の小学校教員養成課程を終えたソブクウェは、その人たちに勧められ、学校の奨学金と校長のキャリー氏夫妻の援助を得て、二年制の大学進学課程に進みました。四十三年の八月から半年ほど、結核を患って入院していますが、復学してその課程を終え、四十六年末の大学入学許可試験では、優秀な成績を収めてフォート・ヘアの南アフリカ原住民大学(フォートヘア・カレッジ)に進学することになりました。

解放闘争への目覚め

フォートヘア・カレッジは、一九一六年に創設された黒人のための大学で、一時、白人が在籍していた時期もありますが、ソブクウェが入った年の入学者三百二十四人の内訳は、黒人二百六十人、カラード三十五人、アジア人二十九人でした。入学者のなかには、バソトランド出身者が十四人と他のアフリカ地域出身者が十八人含まれていました。女子学生はわずかに三十一人だけでした。

当時の黒人には、ケープタウンの大学とヴィットヴァータースランド大学のごく限られた枠以外に大学の門戸が開かれていませんでしたから、フォートヘア・カレッジには、優れた学生が集まりました。ボツワナの初代大統領セレツェ・カーマ、現ジンバブウェの首相ロバート・ムガベ、アフリカ民族会議(ANC)の元議長オリバー・タムボ、現議長のネルソン・マンデラなども、フォートヘアで学んでいます。

(本誌十号「セスゥル・エイブラハムズ   アレックス・ラ・グーマの伝記家を訪ねて」のなかで、九十九パーセントが白人で、黒人には授業にでることと図書館を利用することしか許されなかったためにヴィットヴァータースランド大学を一年でやめたというエイブラハムズさんを紹介しています)

二つの奨学金と、両親と兄アーネストからの僅かな仕送り、それにキャリー夫妻の援助に支えられて大学生活を始めたとき、ソブクウェは二十三歳になっていましたが、スポーツや学科以外のことに、あまり関心を示しませんでした。すでに解放闘争に係わっていた友人デニス・シウィサが入学前にソブクウェを訪ねて、闘争の話を持ちかけましたが、ソブクウェのあまりの関心のなさに気分を悪くして帰ってきたというほどでした。

そんなソブクウェが、解放闘争への意識に目覚めて、やがては国を左右する指導者になってゆくのですが、フォートヘアでの三つの出会いや出来事がのちのソブクウェに大きな影響を与えています。

一つは、二年次に取った「原住民行政」学によって、見る目を開かされたことです。黒人を管理、統制する諸法律の研究としての「原住民行政」学を通して、それまで自分がミッション系の学校で如何に白人中心の歴史を教えこまれてきたか、また様々な手段によって黒人が如何に抑圧されているかを知り、愕然としました。自分も含め、白人でない人たちが、貧困が同居する人種隔離制度によって劣等の意識を植え付けられたうえ、惨状に黙従することに慣らされてしまっている現状を、強烈に意識し始めました。ソブクウェにとって、それまで考えもしなかった見方でした。

もうひとつは、セスゥル・ントゥロコとの出会いです。「原住民行政」学によって目を開かされたソブクウェは、「原住民行政」学を担当していたントゥロコに出会って、その見方を深めてゆきます。

ントゥロコは、ヒールドタウン、フォートヘア、ケープタウン大学を卒業し、南アフリカ大学の通信教育課程で「原住民行政」学を学んだあと、一九四七年から五十八年までの十二年間、フォートヘアで「原住民行政」学を担当しました。

二人が最初に出会ったのは、ソブクウェが代表挨拶をした新入生歓迎会の時でしたが、「原住民行政」学を取った二年次から、ソブクウェは親友のシウィサとガラザ・スタムパとの三人でントゥロコの研究室に入り浸るようになりました。話題の中心は主に政治で、「原住民行政」に関する本はもちろん、イーストロンドン発行の「デイリー・ディスパッチ」や、ナイジェリアやゴールド・コースト(現ガーナ)から送られてくる新聞なども読むようになりました。全アフリカ人会議(三十五年創設)を通じて、政治的にも強い関わりを持っていたントゥロコの感化を受けて、ソブクウェは、単に国内の問題だけでなく、独立への胎動を始めていたアフリカ諸国や広く世界の情勢についても考えるようになっていきました。

最後のひとつは、ソブクウェが政治的に目覚め始めたのと、アパルトヘイト政権の誕生とが重なったという時のタイミングです。

三十年代前半に国民党と南アフリカ党の連合によって与党となり、三分の二以上の議席を獲得した統一党は、数の力にまかせて、三十六年には「原住民代表法」と「原住民信託土地法」を制定し、それまでケープ州一部の黒人に与えられていた投票権や土地の所有権を奪って、人種による隔離政策の礎を築き始めました。そして、一九四八年、時の事態をさばき切れなくなった統一党に変わって、国民党マラン政権が誕生し、オランダ系白人アフリカーナー、特に低所得者層のアフリカーナーの熱烈な支持を受けて、アパルトヘイト政策を強力に推し進めました。ソブクウェが二年生、「原住民行政」学に目を開かされ、解放闘争に関心を持ち始めたころのことです。

だんだんと厳しくなる抑圧に対抗して、黒人側もANCを中心に運動の新たな局面をむかえていました。四十三年には、それまでの消極的な闘い方に不満を抱くマンデラやタムボなどの二十代の青年たちが、ANCに承認されてユース・リーグを結成し、国内のヨーロッパ人と同等の諸権利の即時獲得を求めて激しい闘いを展開し始めました。やがて、フォートヘアにもユース・リーグの支部ができ、ソブクウェは友人とともに、中心的な役割を果たすようになります。

四十九年には、ヴィクトリア病院の看護婦のストライキの支援活動を通して、生涯の伴侶となるヴェロニカ・ゾドゥワ・マテと出会っています。卒業年次の五十年には、母校ヒールドタウンから教職の誘いがありましたが、断っています。説得に駆けつけた支援者のキャリー氏に、自分が立ち向かうのは白人ではなく、白人至上主義だとソブクウェは説明しますが、理解されず、それ以降の援助金も打ち切られました。白人の目に適った「原住民」の優等生だったソブクウェは、フォートヘアで、体制に立ち向かうアフリカ人に生まれ変わっていたのです。

五十年にフォートヘアを卒業したソブクウェは、トランスバール州スタンダートンのジャンドレル高校に赴任することになりました。

ヴェロニカとポグルンド

ジョハネスバーグから百六十キロ東にあるスタンダートンも、ロケーションをもつ典型的な白人の町でした。電気も水道もないロケーションは貧しく、学校には図書館もホールもありませんでした。週に五日、毎日八時から二時まで、歴史と英語と聖書の科目を担当し、聖歌隊の指導などもやりながら、教員でクラブチームを作ってテニスやサッカーに興じたりもしています。生徒や教師の間での信頼は篤く、一九五二年にANCが展開した不服従闘争の際にスタンダートンで集会を持った責任を問われて職を失ないかけましたが、学校の後押しもあって、以後政治を学校に持ち込まないという誓約書を書かされるだけで済んでいます。その年の暮れに、父親が亡くなっていますが、しばらくは教員としての穏やかな日々が続きました。

一九五四年の六月に、ソブクウェはその後も交際を続けていたヴェロニカと結婚し、すでに採用が決まっていたヴィットヴァータースランド大学バンツー語学科語学助手として、ジョハネスバーグのソウェトに移り住みました。講師よりも待遇は悪かったものの、ほとんどが白人で占められていた教職員のなかにあって、語学助手は黒人に許された唯一の常勤職でした。ソブクウェ自身はコサ語を話しますが、初心者のための実用ズールー語を担当することになりました。結婚当初、二人はヴェロニカの母親の家に同居しましたが、九ヵ月のちには、市営の住宅に移りました。白人のための労働力としてタウンシップに住む黒人には、家を買う権利は認められないうえ、入居する家は内装もされておらず、内装の工事に二百ポンドもかかっています。二百ポンドは、結婚の際にソブクウェがヴェロニカの母親に贈ったお金の二倍、大学での年収の半分近い金額でした。

寝室と居間、それに食堂と台所だけの小さな家で、電気もなく、ロウソクの火と灯油ランプの生活が続きました。母親の家で女の子が、新居に移ってから三人の男の子が生まれて家が手狭になりましたが、「夫は子供たちが大好きで、子供たちと一緒に過ごす時間も多く、よくお話を、特にコサのお話を語って聞かせていました」とヴェロニカが述懐するように、子供をまじえた楽しい家庭でした。朝七時に家を出て、五時半頃には家に帰る毎日で、家についている小さな畑で花や野菜を作ったりもしています。

五十五年にヴィットヴァータースランド大学の名誉学士課程への登録を認められ、二年間、音声学や社会人類学などを学んだのち、五十八年に名誉学士号を得ています。翌年から、政府は「白人」大学への黒人の入学を禁止し始めましたから、ソブクウェはバンツー語学科の名誉学士課程への登録を許可された最後の「黒人学生」となりました。

五十九年には、アフリカ人作家に関する諸宗派会議の顧問に指名されて、強化される検閲制度に反対する意見を述べたり、オクスフォード大学出版局のアフリカ言語の出版顧問をしたりするなど、語学の分野での地位を固めていきました。

しかし、楽しい家庭生活や守られた大学での教員生活に、ひとり満足しているわけにはいかなくなりました。まわりのソウェトの現実と時の情勢があまりにも厳しすぎたからです。フォートヘアで育んだ「新しいアフリカ」への思いを温めながら、ソウェト内のANCモフォロ支部に所属したソブクウェは再び解放運動に身を投じることになりました。定期的に自宅で会合がもたれ、ソブクウェのもとに、次第に人が集まるようになりました。 一九五七年、ポグルンドが最初にソブクウェと出会ったのは、そのような時期でした。当時、ポグルンドはある工業系の会社に勤めながら、自由党のトランスバール州委員会のメンバーとして、ソフィアタウン地区の黒人の支援活動をしたり、不服従運動にも加わったパトリック・ダンカンの主宰するリベラル派の雑誌「コンタクト」に寄稿したりするなど、反アパルトヘイトの運動に積極的にかかわっていました。ANCの会員を通してアフリカニストとしてのソブクウェの名前は既に知っていましたが、二人が会ったのはポグルンドが婚約者をヴィットヴァータースランド大学の教室に迎えにいった時のことです。ズールー語を受講していた婚約者が、たまたま講義室に居合わせたソブクウェを紹介してくれたのですが、第一印象はいかにも学者ふうで、気の弱そうなという感じだった、とポグルンドは述懐しています。当時、親しい人の間ではロバートとかマンギーとかロビーとか、支援者の間では「教授」とかと呼ばれていたソブクウェを、ポグルンドはボブと呼び、ソブクウェはポグルンドをベンジーと呼び合うようになりました。四月の終わりにはポグルンドが、ソブクウェに「コンタクト」への寄稿を依頼しています。ソブクウェは快く応じましたが、共産党員の妨害や白人受講生の懸念を恐れて、ペンネームで原稿を書いています。ポグルンドは、原稿を見て、アプローチの仕方が幼稚で、はっきりとした政治的な考察に欠けているという印象を持ちました。

しかし、五十八年の半ばにポグルンドがジョハネスバーグの英語朝刊紙「ランド・デイリー・メイル」の記者になった頃には、ソブクウェに対する印象ははっきりと形を変えていました。最初にソブクウェから感じた気弱なイメージが、実はソブクウェ流のためらいで、楽しい家庭生活や守られた大学の生活と黒人の自由を獲得するための闘いとの狭間で、自分が何をすべきかを決めかねている正直な人間の苦悩であったと理解したのです。六月半ばには、ある友人にあてた手紙のなかで、ポグルンドは次のように書いています。「ソブクウェは気高く、明晰で、思慮深く、極めてすぐれた感性の持ち主でした。接すれば接するほど、私は好きになって、感化を受けています……何とも偉大な男です」

五十八年初めに、ローレンス・ガンダが編集長になってから「ランド・デイリー・メイル」は、黒人地区での取材をもとに、黒人の活動や居住区の生活などをより多く報じるようになり、体制批判の色合いを強めました。したがって、ポグルンドも記者として黒人居住区や集会に頻繁に出入りすることになり、公私にわたるソブクウェとの親交もますます深まっていきました。

 

パン・アフリカニスト会議

四十八年からの十年間で、国民党政権は体制を固め、五十八年四月の第二回の白人だけの選挙では三分の二の議席を確保して、更に徹底した体制づくりを開始しました。

集団地域法によって、居住区だけでなく、商業区域も人種による分離が明確にされただけでなく、白人に都合のいい居住区が強制的に白人地区に塗り替えられていきました。その結果、追い出されたり、色々な都市から流れてきた黒人が、ジョハネスバーグ南西部の広大な農地に移り住んで、ソウェトが生まれたりもしています。

ロケーションの再編成に向けて、農村部での強制立ち退きも行なわれ、政府主導型の「原住民政策」が強力に推し進められました。

ストライキも組合活動も法律で禁じられた黒人労働者は、白人雇用者の思いのままで、労働局の設定する最低賃金さえも保障されずに、大多数が生活最低基準以下の生活を強いられました。

黒人・白人間の教育費や教員の賃金の格差は広がり、白人大学への入学制限や政府の夜間学校への妨害などで、黒人の教育への門戸はますます狭められていきます。

背徳法やパス法での締め付けも厳しくなり、列車だけでなくすべてのバスにもアパルトヘイトが適用されるようになりました。

五十八年に首相になったヘンドリック・ファブールトは、政府のブレーン南アフリカ原住民問題局(SABRA)に「分離発展」の政策を研究させ、ミニ独立国家を作って黒人を外国人に仕立てるという、のちのバンツースタン政策の基礎がためを始めました。

こうした厳しい状況のなかで、ANCは大きな転機をむかえていました。政府の圧政に対抗するという問題のほかに、もう一つ大きな内部事情を抱えていたからです。指導部の指導力不足や財政難による軋轢(あつれき)もありましたが、何よりの問題は、アフリカ人による、アフリカ人の闘いを主張するアフリカニストを中心にする闘い方の路線をめぐっての紛糾でした。反逆裁判や活動禁止処分などによる政府の激しい締めつけに対抗して指導部を支持するようにという要請にもかかわらず、ケープ地区では既に二派に分裂、五十七年の半ばには、トランスバール地区で二派の対立が公の場に持ち出されるほどの事態に陥りました。闘い方の路線をめぐる対立は、もはや単なる各地区だけの問題ではなく、ANC全体の今後を左右する大きな課題となりました。

そうした緊迫した状況のなか、五十八年十一月はじめに、年次総会と特別会議を兼ねたトランスバール会議が開かれました。富の平等な分配をめざして、肌の色や人種の区別なく共闘するのがANCの基本方針だとする指導部と、闘い方が四十九年に採択された行動計画に沿っておらず、階級闘争を掲げるコミュニストや他の人種との協調の度合いに比べて、アフリカ人同士の団結の問題が軽視され過ぎていると主張するアフリカニストが真っ向から対立しました。実行されませんでしたが、会議の主導権を握るために、アルバート・ルツーリ、タムボ、マンデラなどの指導層を会議の前夜に誘拐するという計画もありました。それだけ、白人やコミュニストと協調しながら闘ってきたANCの柔軟路線に対するアフリカニストの積年の不満が大きかったということでしょう。一方では、アフリカニスト三人を狙撃するために三人の殺し屋が雇われていたという話もあります。ソウェト十人委員会で知られる医師タト・モトラナのように、アフリカニストに協力的で、コミュニストに感化され過ぎる指導部に批判的であることは認めながらも、隣国ジンバブウェなどの例をあげて、それでも分裂だけは回避すべきだと主張した人もいましたが、だれも時の流れを食い止めることは出来ませんでした。

この段階でソブクウェが一番恐れたのは、アフリカ人同士による流血の惨事でした。出席者六百人のうちの百人を占めるアフリカニストの多くは長い棒切れをもって、後部席に陣取っていました。夜になって、公式代表の審査をする資格委員会の選挙の開票の際には、会場内は緊迫し、一触即発の状態となったため、ソブクウェたちは、会場の外に出たほどでした。ただ一人の白人出席者ポグルンドも、危害が及ぶかも知れないと両陣営から忠告を受けて、会場をあとにしています。翌朝、タムボはこん棒などをもった百三十人の護衛隊を引きつれて会場に臨み、入場を厳しく制限してアフリカニストを締め出したため、ANCの分裂が決定的となりました。午後五時に、ソブクウェの起草した手紙がタムボに手渡されました。

この時期のソブクウェは、解放闘争と大学の教職との狭間で、個人的に非常に苦しい立場に立たされ、厳しい選択を迫られていました。積極的に闘争に係わっている以上、もはやヴィットヴァータースランド大学にはいられないと思い始めた頃、ケープ州東部グラハムズタウンのローヅ大学バンツー研究科から、常任講師としての誘いがあったからです。これ以上は政治に係わらないという誓約書を、との条件が付いていましたが、待遇や社会的な地位、あるいは将来性などから考えても、通常なら、願ってもないチャンスでした。迷いながら、とりあえず誓約書の件だけは断ったものの、最終的な判断を下せないまま、時が過ぎていきました。

ANCと決裂した五ヵ月後の五十九年四月、アフリカニストたちは、同じ会場で新しい組織の結成式を行ないました。会議は、予定より三分早く始められました。二時間や三時間、遅れることが当たり前になっていたANCの旧弊から、先ずは改めようというソブクウェの意気込みでもありました。会議では、パン・アフリカニズムを唱えるガーナの首相エンクルマやギニアのセコゥ・トゥレ大統領からのメッセージが読み上げられたあと、パン・アフリカニスト会議の名称と緑・黒・金の三色のシンボルカラーが採用され、議論の末、次の五つの目標が決められました。

(一) アフリカ・ナショナリズムに基づいた国民戦線に、アフリカ人を統合、集結させること。

(二) 白人支配を打倒するため、また、アフリカ人のための自己決断の権利を履行、    保持するために闘うこと。

(三) 各人の物質的、精神的な利益を優先するアフリカ社会民主主義を打ちたて、維持するために働き、尽力すること。

(四) アフリカ人の教育的、文化的、かつ経済的発展を促進すること。

(五) アフリカ人同士の連帯を強めることによって、南アフリカ同盟とパン・アフリカニズムの概念を伝え、広めること。

そして、満場一致の推薦をうけて、ソブクウェが議長に選ばれました。(続)

一九九二年春                    宮崎にて

*二十一号の続編には、ソブクウェの年譜と南アフリカ小史を添えています。

*        *

[参考]

南アフリカ観光局(東京都港区赤坂)発行の「南アフリカ全国主要観光地ガイド」には、ソブクウェの生まれたフラーフ・レイニェトが次のように紹介されています。

Graaff-Reinet/グラーフ・レイネ■1786年以来の由緒ある町。中でも1812年に建った 古い牧師館レイネ・ハウスはケープ・オランダ風住宅の粋といえる優雅な佇まいをみせている。後年の修復も原型を損なわぬ見事なもので、内部は18~19世紀の家具で飾られている。裏庭の葡萄の木は1870年に植えたとか、幹の太さは世界一と評されている。開館:月~金09:00~12:00・15:00~17:00、土09:00~12:00、日祝10:00~12:00。十字架と切妻屋根が美しいオールド・ミッション・チャーチは修復されて南アフリカの代表的な芸術家たちの作品を集めた“ヘスター・ロバート・アートコレクション”を展示している。開館:平日10:00~12:00・15:00~17:00、土・日・祝10:00~12:00。レイネ・ハウスの向かい側にあるレシデンシー館や、ドロスティホフ通りに並ぶ19世紀の木造建築も美しく、見逃せない観光スポット。

執筆年

1993年

収録・公開

「ゴンドワナ」20号14-20ペイジ

ダウンロード

ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて

1990~99年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマの第二作 And A Threefold Cord (イギリスクリップタウン社一九八八年刊)の日本語訳で、初めての翻訳本です。初版は西ドイツベルリンセブンシィーズ社で一九六四年に出版されました。

クリップタウン社刊

 教科書版の注釈書(一九九一刊)を英語の授業で使っていましたが、門土社の關功さんのお誘いを受けて、翻訳しました。学生時代に、教員の姿をみて、翻訳本と教科書は出さないと思っていましたが、教科書についで翻訳本も出すことになりました。

注釈書 And a Threefold Cord(一九九一刊、表紙絵小島けい画)

 一九九二年に家族でジンバブエの首都ハラレにいたときに、本が届きました。表紙絵は、奥さんに描いてもらいました。衛星放送で見たナミビア辺りの映像からイメージをもらい、自分の理想の犬を放して、水彩で描いてくれました。

本文(写真作業中)

『まして束ねし縄なれば』(門土社、平成四年、1992年)

大切なブランシにこの本を捧げます

目次は↓

序 5 (収載)

まして束ねし縄なれば 17

アレックス・ラ・グーマの思い  169 (収載)

地図(南アフリカとケープタウン) 174

南アフリカ略史アレックス・ラ・グーマ年譜 175

ここでは①ブライアン・バンティングの「序」と②「アレックス・ラ・グーマの思い」を掲載します。

南アフリカで「芸術のための芸術」という概念を持ち出すのは容易なことではありません。人生そのものが執拗に様々な問題を投げかけ、その執拗さを無視できないからです。世界中を見渡してみても、この国ほど、頭に「政治的」という言葉がつく問題に人々が深くかかわっている国も少ないでしょう。アパルトヘイト政策は、始めた人たちが政略的な理由からその政策を否定している今日でも、人生のあらゆる局面に顔を出し、(白人の、カラードの、あるいはインド人の) 国会議員であれ、実業家であれ、労働者や聖職者、あるいは運動家や芸術家であれ、その政策の必然的な結果から逃れることはできません。もし、芸術というものに意義があるとすれば、この国の人々に取りついて離れない強迫観念や、南アフリカの人々の魂を憔悴させ、時には魂を崩壊させる感情を映しだすべきです。

反対勢力の激しい政治論争に恐れをなしたり、抗争の激しさに圧倒されたり、あるいは単に恐怖心を抱いて、自分の立場を明らかにしてある判断を示すよりも沈黙を守ろうとする作家もいることは確かです。しかし、全体として、まだ歴史は浅いながらも、南アフリカ文学ははっきりと政治的な状況を意識していることを示してきました。色々な事実に怯むことなく、人生や真実を大切に思う人たちによって、最も優れた、味わい深い文学が生み出されてきたのです。

いくらそのつもりでも、南アフリカのすべての人々が様々な事実を知るのは容易なことではありません。人口登録や居住区の人種による隔離政策は厳しく、黒人と白人の間の分け隔ては非常にはっきりとしていて、両者の接点は極めて少ないのです。したがって、法的な障害があり過ぎて、現実に親しく付き合うのは極めて稀なことです。白人が黒人の生活を書こうとすれば、経験によるより、むしろ直感や当て推量に頼らざるを得ない場合が多くなります。そのために、時には人物の扱いが上すべりになっていたり、ごまかされたりしている場合もありますが、自ら望んだり意図したりしたものでないだけに、かえって残念です。

南アフリカの黒人作家は、白人の作家に劣らず、うまく洗練された形で全体の状況を描きだすのが難しいと感じながらも、作品を通して、南アフリカの全体像をただすのに大きな成果を収めてきました。黒人作家には、たえず一つだけ、白人作家よりも有利な点があったのです。つまり、南アフリカの人口の大多数を占める黒人に悲劇をもたらしている条件や状況を、詳しく、個人的に知っているという点です。白人の作家は、法律や習慣や黒人と比較すれば極めて安楽な生活によって保護され、人種の闘争からワン・クッションおかれた社会に所属しながら、どちらかと言えば、自分が直接かかわってはいない戦闘の状況を描く従軍記者に似た立場から、南アフリカの闘いを遠くから観察します。しかし、黒人作家の場合は、戦場で実際に闘っている戦士としてものを書きます。南アフリカのドラマがもっとも強烈に演じられるのは、黒人の生活の真っ只中においてです。喜びも悲しみも、嬉しさも厳しさも、その人たちの心の奥深くで感じたもので、たいていの白人の経験の枠をこえた状況のなかで体験したものです。

ブルドーザーで一掃され、今は歴史の中に消えてしまいましたが、かつては活気に満ちたカラード社会の中心地であった、ケープタウンの第六区に生まれ育ったアレックス・ラ・グーマの作品は、その街の姿を鮮明に描き出しています。アレックスは、ジミー・ラ・グーマの長男として、一九二五年に生まれました。父親ジミーは、南アフリカ闘争の草分けの一人で、当時すでに、通商産業労働者組合(ICU)、アフリカ民族会議、それに南アフリカ共産党の業務で、重要な役割を演じていました。共産党では、党が一九五〇年に解散させられるまで、中央委員会の一員でした。生まれた年から、一九八五年にハバナで死ぬ間際まで、政治は、アレックスの生命そのものだったのです。

トラファルガル・ハイスクールとケープ・テクニカル・カレッジを終えたあと、解放闘争に常時専念するようになるまで、事務員や会計係や工員として働きました。若年ながら共産党に入党し、党活動が禁止されるまで、党のケープタウン地区委員会のメンバーでした。その後も政治活動を続け、自由憲章が採択され、アフリカ民族会議の主導で会議運動が始まるきっかとなった、歴史的な一九五五年の国民会議の準備をするために、重要な役割を果たしました。

一九五〇年代には、政府の承認を受けて、国民党政権が、カラード社会に激しく襲いかかりました。体制は、人口登録法と集団地域法の条文をたてに、カラードのすべての権利を剥奪し、生活のあらゆる局面に人種隔離政策を押しつけようとしたのです。何千人もの人々が逮捕され、人種別に分類するという浅ましい作業に屈してしまいました。トランスバール州で人種別再分類の作業を担当した係官の手にかかった自らの苦い体験を、ある女性が次のように語っています。

検査官は、初めは右側から、次に左側から、私の横顔を見ました。それから、髪を念入りに調べました。目の細かい櫛をちゃんと持っていて、髪を少し摘むと、毛先のほうに櫛の目を入れたのです。そのあと、鼻に触って、おまえの母親の鼻はどんな形をしているかと聞きました。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)の副議長として、アレックス・ラ・グーマは、こういった非道な行為に抵抗する最前線に立っていました。のちに、アレックスはSACPOの議長を引き継ぎ、その立場から、ケープタウンのバスにアパルトヘイト政策を導入しようとする動きに反対して、抗議運動を展開しました。(SACPOは、のちに南アフリカ・カラード人民会議と改名されました)

一九五五年八月のケープタウン会館での抗議集会で、ラ・グーマは次のように語っています。

みんなが国民会議の旗の下に団結すれば、自由と民主主義を求める闘いに敗れることはありません。南アフリカ国内だけでなく、国外にも、我々の側には、何百万という味方がついています。自由憲章が新しい南アフリカの基礎となり、未来は我々のものなのです。

一九五六年十二月五日、国じゅうで百五十六名の男女が警察に逮捕されましたが、アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。百五十六名は軍用機でヨハネスブルクに運ばれ、反逆罪で起訴されて裁判にかけられました。告訴側は、自由憲章で述べられた民主的な諸権利は極めて過激なものであり、国民会議を主催した人たちは、目的を達成する唯一の手段として武力と暴力によって政府の転覆をはかっていたに違いないと主張しました。この法廷論争と政治闘争については、裁判所で起訴事実が却下され、被告が自分たちの普段の生活に戻れるようになるまで、ほぼ五年の歳月が必要でした。

南アフリカで、積極的に政治活動をする人や、体制に反対して闘う人の生活は、決して正常ではありません。一九五八年のある夜、アレックスは暗殺計画の標的にされ、机に向かって仕事をしていた部屋の窓から二発の銃弾を撃ちこまれました。その一発は外れましたが、もう一発がアレックスの首をかすめました。暗殺者に見せかけた犯人の捜査は行なわれず、二、三日してからアレックスはポストに投げこまれた「おまえを殺りそこなって残念だ。またやって来る。愛国者」という匿名の手紙を受け取っています。

反逆裁判が未だ結審しないうちに、一九六〇年三月二十一日のシャープヴィルやランガでの警察による大量虐殺や、国民党政権による非常事態宣言に続いて、国じゅうがさらに激しい騒動に巻きこまれていきました。法に従って、政府は全国で二万人を逮捕しました。〈怠け者〉や〈浮浪者〉の名のもとに、急遽刑務所内で極秘裡に開かれた私的裁判にかけられて、遠隔地での強制労働につかされる者も出ました。二千人以上の政治的指導者たちが、裁判なしに、最高五か月のあいだ、刑務所に拘禁されたのです。アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。アレックスは、本を読んだり、ものを書いたり、のちに成功を収めることになる自らの仕事の準備をしながら、その幽閉された退屈な数か月間を過ごしたのです。

アレックスは生涯を通じて大の読書家で、かなり早い時期からものを書く腕試しをやっていました。しかしながら、仕事として本格的にやり始めるのは、一九五六年にスタッフに加わった進歩的な新聞『ニュー・エイジ』の記者としてでした。アレックスはそのペイジを、ケープタウンの人々の生活や闘争についての漫画やニュース記事、物語やたくさんの印象的な写真などで飾り立てました。

「ニュー・エイジ」一九六二年八月六日 ラ・グーマの活動禁止を報じている。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)所蔵

その間じゅう、アレックスは政治活動も続け、嫌な思いを強いられる迫害にも決して気落ちすることはありませんでした。一九五六年、アレックスは、アパルトヘイト政策をとる事業や公共施設への経済的なボイコットを呼びかけるパンフレットを持って、許可証なしにニャンガ黒人居住区に入ったという理由で、ロナルド・シーガル、ジョゼフ・モロロングと共に逮捕されました。一九六一年には、ピーターマリッツブルク全アフリカ人会議の全国行動委員会のスポークスマンであるネルソン・マンデラが、ファヴールトの共和国宣言の式典に抗議して五月の終わりに三日間のゼネストを呼びかけた時、アレックス・ラ・グーマとカラード人民会議の仲間は、その呼びかけに応じて抗議運動に加わりましたが、逮捕され、政府がストライキの脅しに対処するために特別に成立させた新法の下で、裁判までは保釈金も積めない状態で、十二日間拘禁されました。ストライキが始まる前の大事な時期に指導者たちが刑務所にいるか、どこかに潜んでいたにもかかわらず、カラード社会の対応はすばらしく、ストライキの行なわれた三日間、ケープタウンの会社や商店は大きな打撃を受けています。

一九六一年六月に、アレックスは共産主義弾圧法で一切の活動を禁止されました。九月には不法なストライキを組織した嫌疑により、同法で起訴されましたが、その起訴はのちに取り下げられました。一九六一年十二月には、法務大臣からカラード人民会議の議長を辞めるように命じられました。しかし、同月、人々の忍耐は限界を越え、国じゅうのあらゆる地域の政府の建物や施設に対して向けられ一連の爆破事件は、解放運動の武力闘争部門、ウムコント・ウェ・シズウェの出現の前ぶれとなりました。

政府の反応は、悪名高い一九六二年の一般法修正令、いわゆる破壊活動法 (サボタージュ・アクト) で、なかでも、反体制の人間を自宅拘禁できる条文を含んでいました。一九六二年十二月に、アレックス・ラ・グーマは、一日に二十四時間、自宅拘禁を命ず、という通告書をつきつけられました。その通告の五年間に、アレックスを訪れることができる者は、わずかに母親と、妻の両親、それに過去、共産主義弾圧法に触れたり、活動を禁止されたりした経験のない医者と弁護士だけでした。

二十四時間の自宅拘禁生活をしていたという事実、その結果政治的な活動の可能性を完全に奪われたと言う事実でさえも、アレックス・ラ・グーマがさらに犠牲を強いられるという事態を救えませんでした。一九六三年に九十日間無裁判拘禁法が議会を通過したのに続いて、アレックスも逮捕され、裁判なしに拘禁されたのです。刑務所では、一日に二十三時間半、独房に監禁され、残りの半時間が「運動」と自分の時間にあてられるという孤独拘禁の状態におかれました。他の拘禁者の場合と同じように、アレックスも来訪者や読むもの、書くものを許されないばかりではなく、法的な助言者が近づくことも拒まれ、もっとも忌まわしい形の精神的な拷問を強いられて、警察の満足がいくまで尋問に答えることを強要される可能性もあったのです。

アレックスは屈しませんでした。アレックスにさらに圧力をかけるために、政府は、看護婦と助産婦をしていた妻ブランシも逮捕しました。二人の子供ユージーンとバーソロミューは、親戚が世話しなければなりませんでした。ブランシ・ラ・グーマは、のちに釈放されましたが、ほとんど同時に活動禁止命令も言い渡されました。当然の順序としてアレックスも釈放されましたが、保釈中の身で、発禁処分の文学書を所持していたとの罪で起訴される事態に直面しました。アレックスは有罪とされ、執行猶予つき三年の実刑を言い渡されたのです。

一九六六年、アレックス・ラ・グーマは再び拘禁されました。この頃までには、弾圧は非常に厳しいものになっていましたから、アレックスとブランシは二人の子供と一緒に祖国を離れることを余儀なくされました。家族は、最初ロンドンに落ち着き、イギリスにおけるANCの存在を強固なものにするために、大きな役目を果たしました。のちにアレックスがキューバでのANC主代表に指名されたとき、家族はハバナに移り住みました。アレックスとブランシの監督のもとに、何百人もの南アフリカの学生が、祖国では拒否された様々な分野の教育を受けることができました。

亡命の期間中、アレックスはできるだけ多くの時間を書くことに専念し、自らアジア・アフリカ作家会議の仕事にもかかわりました。アレックスは、世界平和評議会の議長の一人でもありました。一九八五年十月十一日、アレックスは、心臓発作のため、ハバナの病院で亡くなりました。六十歳でした。

死ぬ時までの数年間、アレックス・ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議の事務総長を務め、一九六九年にはその作家会議のロータス文学賞の受賞者になりました。一九八五年には、六十歳の誕生日を記念して、ソビエト連邦から民族友好勲章を、フランスからは文芸勲章を、コンゴからは文学賞を受けました。

アレックス・ラ・グーマが作家として、より広範な読者にその才能を最初にあらわしたのは、一九六二年の小説『夜の彷徨』の出版と同時でした。アレックスはすでに活動を禁じられ、喋ったり書いたりしたものは国内ではいかなる手段でも再現されることはありませんでしたから、最初の小説はナイジェリアのムバリ出版社から出版されました。二、三冊の本が密かに国内に持ちこまれ、人の手を経て読み継がれました。その本はただちに、想像力に富んだ優れた作品としての評価を得て世界中に出まわり、数力国語に翻訳されました。

その本は、わずか九十ペイジの長さの短篇小説です。しかし、そのペイジとペイジの間には、ケープタウンで最も色鮮やかな社会を構成した、カフェの常連や田舎者や客引き、労働者の夫婦、商売女やポン引きにちんぴらなど、ケープタウン第六区のさまざまなタイプの人物が登場するのです。建物がなぎ倒され、そこに住んでいた人たちが集団地域法によって四散させられて、第六区はすでにありませんが、かつて第六区を通ったことがある者は、その曲がりくねった混雑する通りを、その人間味あふれる騒がしさを、その臭いを、その貧しさと惨めさを、そして活発さと限りない多様性を忘れることはできないでしょう。いくら見た目が悪くても、その静脈の中には生命の鼓動が激しく鳴り響いていたのです。その鼓動があまりにも激しいので、今日まで度々その地区を「白人」地区に変えようと政府が努力してきましたが、黒人白人を問わず、ケープタウン社会全体の抵抗にあって、その計画は失敗に終わっています。人種差別をする人たちに土地を奪われたことに対する第六区の人々の憤りは、今日、ケープ西部の若者による政権と政策と軍隊に反対する全面的な闘争の中にこだましています。

1966年に強制立ち退きにあったケープタウン第六区の今と昔(タイム誌)

 アレックス・ラ・グーマは第六区をよく知っていました。ロジャー通り二番に住み、のちにガーランディルに移り住むまで、幼い頃の大半をそこで過ごしたからです。アレックスは、そこに住む人たちと、その人たちが「トラブル」と呼んでいたその人たちの問題を理解し、よく知っていて、心をこめ、細心の注意を払ってその問題について書きました。そこに登場する人物は、ペイジとペイジの間を生気なく気取って歩くような非現実的なものではなく、リアルで生き生きとした血肉の通った男性であり、女性なのです。その人たちは、世の中に無視され、軽蔑されて気落ちしてはいますが、生き延びて、食べたり飲んだり愛し合ったり、あるいは寂しさや恐怖に耐え、汚れを洗い流してくれる明日の夜明けを迎える自分たちの意志の固さを、執拗に物語っているのです。

アレックス・ラ・グーマの散文が鋭く訴えるのは、自分の環境をよく知り、完全に理解していたからです。効果をねらって努力するのではなく、芸術的な手腕と正確さで、労働者階級と権利を奪われた生活を浮き彫りにしています。住まいの壁にこびりついた汚れを感じ、裏通りのごみの山の臭いを嗅ぎ、街角のバーからどっと聞こえてくる笑い声を聞き、喧嘩の真っ最中に抜かれたナイフのきらっと輝く光を見ることができます。すべて、実際に目の前で起こっているかのように、劇的で、鮮明なのです。

アレックス・ラ・グーマが成功した秘訣は、物語の中の会話が人々が実際に話している会話に忠実であったことにもよっています。新しく刷り上がった紙幣のようにぱりっと音を立てながら、こちらをどきっとさせるような現実味を帯びて、人々の言葉が物語のペイジからあふれてきます。アレックスは、登場人物の言葉を次々と微妙に変化させながら、自分の語り口から物語の人物を創り出すこつを心得ています。それらの話は、真実のように、きびきびとして元気よく、ユーモラスで説得力のある、現に生きている人々の話なのです。

アレックスの書いたものは、法律に違反することなく、南アフリカで一般に読まれる可能性はありません。アレックスの名前は、活動を禁止された人のリストにまだ記載されています。重ねて念を押すかのように、一九六三年一月に郵便で『夜の彷徨』が国内に送られてきたとき、検閲官はその書が反政府的であると認定する、と宣告して、何冊もの『夜の彷徨』を押収しました。しかし、アレックスの書いたものは、それを押さえこもうとする検閲官の活動にもうち勝ち、その作品は長年にわたって、国内外の広範な評価を得てきました。『夜の彷徨』に続いて、一九六四年には『まして束ねし縄なれば』が出版されました。今回は、ケープタウン周辺に広がるスラムの生活を取り扱ったものでした。そこには、何万人という黒人 (カラードとアフリカ人) が小屋を立てて雨風を凌いでいます。その人たちは、「公式に認められた」住むための場所を持たず、生き延びる唯一の希望を自分たちに提供してくれる都市の周辺での不安定な生活にしがみついているのです。その住民の多くは存在する権利を保障してくれる書類もなく、度重なる警察の手入れや不安や貧乏の餌食となりながら、不法に都市地域に滞在しています。その人たちの家は、とにかく何とか雨露だけでも凌げるようにとあらゆる材料を使って立てられた粗末な小屋なのです。

それらの地域には、舗装された道路も、下水も、排水施設や電灯もありません。水も、バケツなどを運んで買いに行かなければならないのです。雨が激しく降りつけるケープの冬には、屋根は雨漏りがして、その辺りは一帯に水浸しとなり、地面はじゅくじゅくの状態です。どこに行っても、泥と惨めさの臭いが漂います。子供たちは泥の中で遊び、大人たちは泥に足を取られながら、暗闇の中を仕事に通うのです、それも、運よく仕事にありつけばの話なのですが・・・・・・。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。

その次のアレックス・ラ・グーマの小説は『石の国』(一九七六年) で、自らの獄中体験から生み出された、寒々とした壁や暗い廊下やガチャーンと響くドアの物語です。そのあと、危険で大胆不敵な地下活動を詳しく書いた『季節の終わりの霧の中にて』(一九七二年)、バンツースタンヘの強制移住に反対して闘う人々の抵抗運動を取り扱った『百舌鳥のきたる時』(一九七九年) と続きます。数々の短篇だけでなく、『アパルトヘイト―南アフリカの人種差別に関する南アフリカ人の著作集』(一九七一年) をも編集し、広くソビエト連邦を旅行したのちに『ソビエト旅行』(一九七八年) も出版しました。他にもたくさんの小品を書き、死ぬ間際には、新作『闘いの王冠』の執筆にいそしんでいました。

Stone Country (神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 アレックス・ラ・グーマの作品の特徴は、リアリズムと楽天性を混ぜ合わせたものでした。アレックスは人生に真っ向から立ち向かい、掃き溜めの底にいる人たちに対する不快感を隠そうとはしませんでしたが、力を合わせてやれば、虐げられた人たちが自分たちの世界を変革し、資本主義や搾取、人種差別や偏見という悪夢を終わらせ、理性と協調に基づく新しい世界が構築できるという確固たる信念をいつも持ち続けていました。しかし、説教師ではありませんでした。アレックスは、本質的に、細部にまで行き届いた鋭い目と温かいユーモアの感覚を備えた物語作家でした。アレックスに敵意はありませんでした。

『ニュー・エイジ』紙に書いた初期の作品 (一九五六年八月三十日) の中で、アレックスはケープタウンの人々の窮状を次のように見ていました。

年寄りの間で語られる次のような話があります。何年も前のある日、神さまは白人とカラードの人を召されて、二人の前に箱を二つお置きになりました。箱の一つは大変大きく、もう片方の箱は小さいものでした。そのあと、神さまはカラードの人の方を向いて、箱をどちらか選ぶようにとおっしゃいました。カラードの人はすぐさま大きい箱を取り、もう片方を白人に残しました。箱を開けたとき、カラードの人はつるはしとシャベルを見つけました。一方、白人の方は、箱の中に金を見つけました。

人は、自分の運命を解釈する様々な説明づけを行ないます。民間説話、迷信、神話などの形を取る場合もあれば、完全に論理に適っている場合もあります。しかし、いずれの場合にも共通して、抑圧や苦しみや苦難が現実の人生であるという自覚があります。そして人々は、辛さをユーモアで和らげ、単調な生活の苦い薬を風刺的な人生哲学という蜂蜜で甘くするようになりました。しかし、人々はいつも痛みを意識しているのです・・・・・・。

国勢調査では、私たちカラードの人口はほぼ百二十五万人と言われています。しかし、身元の確認を姓名とか肌の色とかでは行なわず、厳しさと喜び、楽しさと苦しさ、憧れと挫折、報われることのない辛く単調な仕事、絶望と飢餓、文盲、肺炎と栄養失調、笑いと悪徳、無知、天才、迷信、永遠の知恵と揺るぎない自信、愛と憎しみなどで行なえば、きっと数えること自体を諦めざるを得ないでしょう。人々は、違った表紙によって初めてそれぞれの違いが区別できる本と似ています。

そして、人はしょせん神ならぬ身、人間でしかないのですから、朝起きれば、夜の毛布を投げ捨て、太陽に顔を向けなければならないのです。

一九八八年      ブライアン・バンティング

②アレックス・ラ・グーマの思い

一九八一年、川崎にて。小林信次郎さん撮影

 翻訳しながら、さまざまのことを感じました。なかでも、強く感じたのは、言葉にこめられたラ・グーマの思いでした。

ラ・グーマの作品の根底に流れるものは、身近な人への思いやり、人を大切に思う心です。その思いをひとつひとつ真綿に包むように行間にこめ、アパルトヘイト体制の下で虐げられながらも、肩を寄せ合って生きている周りの人たちを描いています。真綿に包まれた言葉をひとつひとつほぐす翻訳をやっていくと、言葉にこめられたラ・グーマの思いが、行間から滲み出てくるのです。

ラ・グーマがどんな生涯を送ったかは、ロンドンに亡命中の同僚ブライアン・バンティングが新版を祝って本書に寄せた熱き序に譲ることにしますが、常々ラ・グーマが語っていたところを総合すると、ラ・グーマは二つの思いに駆られて物語りを書いています。一つは、後の世の人のために、特に若い人たちのために歴史を書き留めておきたいという思いでした。そこから第一作『夜の彷徨』が生まれています。ラ・グーマの生まれ育ったカラード居住地区ケープタウンの第六区を舞台に、そんな若者たちに焦点を当て、もしアパルトヘイト体制という抑圧がなかったら、ごく普通に生きたと思われる若者が、八方塞がりの中で、いともた易くちんぴらの世界に足を踏み入れてしまう状況を描き出しました。

ケープタウンの第六区

 もう一つは、南アフリカで起こっていることを世界に知らせたいという思いでした。その思いから、第二作のこの『まして束ねし縄なれば』が生まれました。ラ・グーマは、舞台をケープタウン郊外のスラムに移し、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、スラムで暮らす住人が現実に悪天候に苦しめられている姿を描きました。ラ・グーマは、そのイメージをより鮮明に読者に印象づけるために、雨をうまく使っています。物語を雨で始め、雨で終え、しかも、主題にかかわる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包みました。バンテイングが序の中で言うように、この『まして束ねし縄なれば』は「全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅版画で捉えて」います。『夜の彷徨』は、一九六二年にナイジェリアで、『まして束ねし縄なれば』は六十四年にドイツで出版されました。しかし、六十一年暮れから開始された黒人側の武力闘争に対抗して急遽改悪された破壊活動法によって、六十二年の八月にラ・グーマがすべての活動を禁止されてから今日まで、ラ・グーマの作品を読むことも、引用することさえも、南アフリカ国内では、法律で禁じられています。裏を返せば、ラ・グーマとラ・グーマの作品が、体制側にとって大きな脅威であることに他なりません。宮崎県都城市に住む南アフリカ出身のコンスタンス・ヒダカ (Constance Hidaka) さんも「南アフリカにいるときは、もちろんラ・グーマなんて知らなかったヨ。だって、本がないもの」と話してくれたことがあります。

A Walk in the Night(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

And a Threefold Cord(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 ラ・グーマの物語は、一つ一つの文章も長く、取り立てて言うほどの展開もなく、いわゆる英米の小説とはいささか趣を異にしています。「プロットがない」「人物像の内面が深く掘り下げられていない」「表現が淡泊すぎる」と評する人もいますが、ラ・グーマは、何よりもケープタウンの普通の人びとの語り口で、ケープタウンの人びとの物語を語りたかったのです。ラ・グーマ自身の言葉を借りれば「形式的な構造とかいった意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。大抵そんなふうにしてできました。ある一定の決まった形を持つというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶのです。頭の中でいったんでき上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決まった形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います」ということになります。

翻訳に際して、コンスタンス・ヒダカ (通称コニー) さんに色々とお聞きしました。この物語は一九五十年代のケープタウン郊外のスラムを舞台にした話ですから、アフリカーンス語で書かれている部分も含め、辞書だけでは解決のつかない箇所が多すぎたからです。コニーさんは、私たちの国のことですからと、快く質問に応じて下さいました。ヨハネスブルクに生まれて、キンバリーに育ち、八十年代前半にはケープタウンにも住んだ経験のあるコニーさんは、根気よく説明して下さいました。そして、コニーさん自身がケープタウンの人に似た語り口を、たっぷりと聞かせて下さいました。

コニーさんは、八十八年八月にカナダで開かれたラ・グーマとベシー・ヘッド記念大会で録音したブランシ夫人 (Blanche La Guma、二ペイジに写真を載せています) のテープを聞いたとき、「これ、これなのヨ。ケープタウンの人の話し方。腕を組んで、じっと考え、大きなジェスチャーでゆっくりと喋る。そうだったでしょう。これなのヨ」と大声で言いました。その説明を聞いたとき、記念大会で、ラ・グーマとの生活を振り返りながら、大きなジェスチャーを交えながら、しみじみと語りかけていたブランシ夫人の姿が、目の前に鮮やかに甦りました。

ブランシ夫人

 また、コニーさんは、私の質問のあと、いつも本文をじっくりと読むのですが、読みながら堪え切れずに何度も声を出して笑うのです。そして言います。「ワタシ、ここに書いてあるのと同じのを南アフリカで何度も見たヨ。いまでも同じネ」。特に、ユーモラスに描いてあるンズバやアンクル・ベン、裸同然でごみの山の中をうろつく子供たち、スージーやロマンなどの人物描写を読みながら、「ほんと、そっくりなひとがいたヨ」と感心し、スラムの様子などに対しては、「今でも、いっしょなのヨ」と言って、悲しそうな表情を見せました。

ラ・グーマは、生涯、自分を大切にし、周りの人たちを思いやって生きてきました。ラ・グーマの伝記家でもあり、良き理解者でもあった南アフリカ出身のセスゥル・エイブラハムズ (Cecil A. Abrahams) さんは、そんなラ・グーマを「わが子を見つめる父親のように」と評して、次のように語ります。

セスゥル・エイブラハムズ さん

 アレックスは、事実、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。と言うのも、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けてきたと感じていたからです。また、自分たちが何らかの価値を備え、決してつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることができたらとも、ラ・グーマは望んでいました。ですから、あの人の物語を見れば、その物語がとても慈しむ心に溢れているのに気づくでしょう。あの人はいつも誰に対しても暖かくて、腹を立てて、「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらも、なお暖かい目で子供たちを見つめる父親のように、その人たちを理解しているのです。ラ・グーマの本を読めば、あの人が記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしていると感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕され、拘置され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面を見つめていました。いつも山の向う側を見つめていました。だから、他の人がよくないことをしても許せたのです・・・・・・。

激しい雨のなか、大空に向かって鳥が飛び立つ印象的な締めくくりは、チャーリーのその後の成長を暗に仄めかしています。それは、極めて厳しい状況のなかでさえ、みんなで力を合わせれば必ず何とかなるさというラ・グーマ流の楽観から生み出されたものでしょう。そこに絶望はありません。

ラ・グーマは、祖国の民主的な統合国家実現を夢見ながら、二度と南アフリカの地を踏めずにこの世を去りましたが、いま、ラ・グーマの果たせなかった夢を若い人たちが引き継いでいます。

アメリカ合衆国で公民権法が成立したのは一九六四年、実に、奴隷解放宣言より百年余りものちのことでした。その史実一つを取ってみても、アパルトヘイト法が廃止されたからといって、解放に向けての南アフリカの歩みが決して楽観的なものではないことがはっきりしています。しかし、九十一年八月の終わりに、エイブラハムズさんが政府の許可を得て南アフリカに一時帰国し、二十数年ぶりに家族との再会を果たしたという知らせなどを聞くと、ラ・グーマの夢の実現に向けて、少しずつは、歴史の流れが進みつつあるのだと思わずにはいられません。

印刷や編集などに携わった人たちと一緒に、『まして束ねし縄なれば』の翻訳ができてよかったなあと思います。と同時に、これが一つの機会となって、また新たな世界が広がってゆけばとも考えます。ブランシ夫人やコニーさん、今はイギリスに帰っている友人のジョン (John Bilingsley) をはじめ、ご協力下さった多くの方々に深くお礼申し上げます。

この『まして束ねし縄なれば』もすでに公のものですから、読者を得て版が重ねられ、不十分なところが改訂されて、よりよいものになってほしいと心から願っています。

一九九二年七月             宮崎にて                   玉田吉行

執筆年

1992年

収録・公開

翻訳書、門土社、表紙絵小島けい画

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』

1990~99年の執筆物

概要

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来たというカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に来てもらったり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

本文

-エジプト-古代歴史ゆかりの地 

マグディ・カァリル・ソリマン / 日本語訳 玉田吉行

「ゴンドワナ」18号(1991)2-6ペイジ

私の名前はマグディ・カァリル・ソリマンです。エジプトのアレクサンドリア大学獣医学部魚類病態学科の講師で、現在、文部省の十八ヵ月奨学生として宮崎大学農学部獣医学科博士課程に在籍しています。日本には家族で来ており、妻ソフィナズ・モハメドと愛娘アスマァがいます。家族全員、日本での生活を、特に宮崎での生活を楽しんでいます。このエッセイでは、エジプトとエジプトの名所旧跡をご紹介したいと思います。

とても温暖な気候と親切な人々で名高い古代歴史ゆかりの地、現代エジプトでは、人々がとても親切に、友好的に迎えてくれます。エジプトは、世界の「中心部」つまりあらゆる空路、航路の中心部(アフリカ北部)に位置しています。エジプトでは、歴史が息づいていて、他とは比べものにならないほど豊かな古代エジプト、ギリシャ、ローマ、コプト、イスラム的な遺跡から明らかなように、五千年以上もさかのぼる、今も生き続ける物語に思いをはせることが出来ます。エジプト全土は約百万平方キロ、人口は約五千五百万人です。国の正式な宗教はイスラム教、公用語はアラビア語です。

刺すような冬の寒さが始まるとき、何マイルにも渡って美しく広がるエジプトの海岸には、暖かい太陽の光がふり注ぎます。他の海岸を圧倒するその陽の光は、太陽がエジプトの神であった古代を賞め讃えているようにも思えます。歳月が流れたにもかかわらず、太陽は今もエジプトに優しく、厳しい雪の寒さから遠く離れて冬の暖かさを楽しんだり、激しい日中の暑さから逃れて夏のさわやかな涼風を満喫することも出来ます。

世界的に知られた冬のリゾート地エジプトには、たくさんの美しい浜辺があります。サルームからラファまでの北海岸は一一八一キロ、スエズからハラィブまでの東海岸は約一◯八五キロの長さです。なかでもスエズ湾とアカバの海岸線が最も美しく、すばらしい珊瑚礁が広がり、他ではめったには見られない色鮮やかな魚がたくさん住んでいます。その一部でも見た人は、まるで地上で最も美しい絵画を見るように、記憶に焼き付いたすばらしいイメージを目や耳でもう一度確かめるために、何度も戻って来るに違いありません。

カイロ

カイロはエジプトの首都で、空路で訪れると、世界でも最もドキドキする町です。広い砂漠から突然、緑の谷が現われたり、夜には、無数のキラキラ輝く夜景が見えたり、町の中を優雅にくねって流れるナイル川が見えたりするからです。空から見るカイロの魅力の一つは、カリーファ、ファティミド、サラディンなどの古い町と高いビルや大きな広場とが混在する、古代と現代の姿が対照的に見えることでしょう。

(カイロの観光)エジプト博物館……この博物館には、コプト人教会(初期のキリスト教)を描いたたくさんのコレクションがあります。展示品には、建造物の破片、木の彫刻品、ガラス、土器、織物、鉄製の聖像、フレスコ壁画など、エジプト学者の興味をかきたてるような古代の遺品がたくさんあります。

サルタン・ハッサンモスク……紀元後一三五六年に建造された、アラブ建築の傑作です。カイロで一番高い二百二フィートの塔に加えて、コーランの文章が刻んである八本の大理石柱で支えられている、半球型の屋根に覆われた美しい中庭があります。また、お祈りの前の体を浄める儀式に使う中央の噴水やエナメル細工のガラスランプもあります。 サラディンの城……モカタン山の中腹にあり、城からはカイロ全体が見え、遠くはギザピラミッドが望めます。一一八三年、サラディン王によって建てられ、古代の城壁内には、アラバスタルモスクやソライマンモスクなどの興味深い建物がたくさんあります。岩の中、九十メートルの深さに掘ったジョセフの井戸もあります。城を後にする前に、もし時間が許せば、ここでの華麗なサン〓エ〓ルミィェール(音と光のショー)を見てみるのもいいでしょう。

エル・スークス(市場)……世界に知られる、市街地を迷路のようにくねるこのエジプトの通りは、古代オリエントと現代オリエントの魅力や色彩に満ちあふれています。たくさんあるそれぞれのスークス(市場)が市場全体を形成しており、そこに行けば、色々豊富な品物やみやげ物がそろっています。一番大きな市場エル・モスキーと、絹織物とじゅうたんが豊富なハーン・エル・ハーリーが、おそらく最も知られていて、そのうちのいくつかの通りでは、ある特定の品物を専門に扱っています。

エル・アズハルモスクとエル・アズハル大学……ここがイスラム教育の最も重要な中心であると考えられています。世界で一番古いとされるこのイスラム教大学は、紀元後九六九に創立され、そのモスクは、九七◯~九七二年にまでさかのぼります。

イスラム芸術の博物館……この博物館には、イスラム勢力が近東を支配していた時代からの、イスラム教芸術の世界でも最も貴重で、幅広いコレクションがあり、展示品は、モザイク画、ガラス細工から、貴金属にまで及んでいます。

 マニアル宮殿博物館……モロッコ、シリア、トルコ、エジプト建築折衷様式のこの興味深い博物館には、古いイスラムの木製品だけでなく、珍しいじゅうたん、織物、碑文、宝石などが収められていさす。

 ギザ・ピラミッドとスフィンクス……古代世界の七不思議の一つにたくさんのエジプトのピラミッド建築が含まれています。ピラミッドのそばには、ハフラの頭だと信じられている人間の頭と、権力の象徴と言われるライオンの体からなる大スフィクスが立っています。夜、ギザを訪れて、音と妖しい光の中で語られる人類初期の文明の話を聞きながら、息を飲むような夜の壮観を、ぜひ楽しんでみて下さい。

メンフィスとサッカーラ

カイロから南に二十四キロ行くとサッカーラがあり、そのなかのやしの森を抜けると、歴史的に有名なメンフィスに着きます。旅行会社などによって、この二つのすばらしい町への日帰り旅行がたくさん組まれています。言うまでもなく、一番おもしろいのは、ギザのピラミッドよりも遥かに古い、第三王朝(紀元前二十八世紀)のゾゥサル王によって建てられた階段ピラミッドです。

ロクソル

現代風の町ロクソルはカイロの南約六七一キロにあり、テーベの古代都市の一部で、メンフィスの次の、古代エジプトの首都でした。古い時代には、ホーマーがそう呼んだように、「百の門を持ったテーベ」が世界各地から訪れる人たちを引きつけました。その時代から、エジプトの地に旅行に来る人々は必ずロクソルを訪れて、遺跡をぶらぶらと見て歩いたり、過ぎ去った古い時代の懐かしい雰囲気を味わったりして来ました。寺院を尋ねたり、色々な銘文の刻まれた荘厳な墓に驚嘆したりしながら、忘れられない時を過ごすことになると思います。ロクソルはカイロから列車で十二時間かかります。その方面の列車はたいてい冷暖房が完備され、食堂車と寝台車がついています。カイロとロクソル間には、エジプト航空の定期便も飛んでおり、飛行時間は約九十分です。

アスワン

アスワンは世界第一の冬のリゾート地です。冬の穏やかな天候に恵まれ、エキゾチックな東洋とバイタリティあふれるアフリカの雰囲気が混ざり合った景色を見ながら、ゆっくりとくつろぐことが出来ます。アフリカへの重要な通路にたって、かつて古代テーベの王が彫像や記念碑のためのピンクの大理石を手に入れた地域の採石場に沿って、昔がしのばれるのも、この町です。今日その地域には、世界でも有数の技術の粋を集めた偉業と考えられているアスワンハイダムが作られています。カイロからアスワンまで、列車で十六時間の旅です。ここの列車も、たいてい冷暖房が完備され、寝台車と食堂車がついています。毎日、エジプト航空の定期便があり、飛行時間は一時間です。

宮崎に住んで

日本に来る前から、私は日本や日本人について、いい印象を持っていました。日本とエジプトが友好関係にあるばかりではなく、個人的に何人かの日本人の技師と接する機会があったからです。その人たちは、私の町アレクサンドリアで、中東でも有数の石油会社を作る協力をしていました。その人たちから、日本人が規律に厳しく、働き者で、時間を大切にすると聞きました。その人たちから、日本の文化についての考え方も聞きました。

日本に着いたとき、その考えが全く本当だということが分かりました。

私が日本に来てもう十か月が過ぎたなんて、信じられないくらいです。最初来た時は、自分の意思が伝えられるだろうか、友達ができるだろうか、買物に行けるだろうか、ひとりで旅行が出来るだろうかなど、本当に心配でした。でも、そんな心配は必要ありませんでした。宮崎に十か月住んで、だいぶ慣れ、たくさん友達も出来ました。こんな短い間に色々経験したことが、自分でも信じられないくらいです。私の場合、一番いい教授といっしょに研究が出来るのはラッキーでした。実際、教授の接し方は父のようで、同僚といっしょに研究しやすい環境を整えて下さいます。その上、たくさんの日本人と家族付き合いも出来ました。だから、妻ともども、日本の生活の仕方をたっぷりと経験できました。私の方から出掛けたり、あるいは来てもらったりする中で、日本の文化や私たちの国の文化についてお互いに理解を深められるのはありがたいと思います。心を開いて接して下さる親切な宮崎の人たちは、生涯忘れられない思い出になりそうです。私は、きれいな海岸や山があり、親切な人々のいる宮崎での生活を、いま楽しんでいます。

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」18号2-6ペイジ

ダウンロード

マグディ・カアリル・ソリマン「エジプト 古代歴史ゆかりの地」(翻訳)

1990~99年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

 

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」19号10-22ペイジ

ダウンロード

自己意識と侵略の歴史