英語 Rb1(3)

<連絡事項>

来週は休講(先週23日の1コマと振替です)

8・9回目の授業で、残りはあと6回です。

<今回3コマ目>は

Test 1 Part 5(Readingの4種類のうちの一つ、先週Listeningと勘違いして書いてたね)英文の穴埋め4択問題、サンプル5題、問題40計45題。やってもらったり僕がやったり、一部抜けてたり。解説も配ったんで、大体あの調子で繰り返しやるといいと思います。

文法問題なので、5文型、8品詞、用言・体言、節・句、副詞、分詞についてプリントを使って少し解説をしました。わかっている人にはお節介やったかも。あやふやなところがあった人は、チェックしとくとええね。

問題を丁寧にやると、やっぱり時間かかるね。でもその積み重ねで、最後は自分でやるしかないわけやから、自分でやってスコア取りや。個人的にもいつでも協力するんで、遠慮なく。一回受けて結果を見てから、本気でやりたいと思う人も、いつでもどうぞ。協力するから、ね。

<4コマ目>は

コメント(中峯くん、服部くん、林くん、原口さん、春山くん、開田さん)を聞き(遠くから来てる人もいるんやねえ)、「グレースランド」の冒頭のTownship Jiveを観て、聴いてもらってから

バンツースタン→(安価な労働力の例として)ダーバン郊外の砂糖黍畑で働く12歳のアフリカ人少年(農場で)→ヨハネスブルグの金鉱山(1972年頃と1987年ころ)→労働組合委員長のインタビュー→たこ部屋(Compounds, Hostels)から鉱山近くの粗末な売店に行く茂みで待ち受ける売春婦の映像を観て聴いてもらい、最後に「グレースランド」のスティメラを観て、聞いてもらいました。

前々回、前回で読んでもらった内容の映像を少し見てもらえたと思います。

<次回は>

コメント→ハラレの話→アパルトヘイトと解放運動の映像、それでも時間があったら、「アフリカの蹄」を少しでも。

スティメラを歌い、トランペットを吹いていたヒュー・マセケラ

来週は火曜日2コマ目の工学部の授業が終わってから金曜日まで吉祥寺。去年は吉祥寺に3回と名古屋に1回行きました。科学研究費を旅費ででも使わんと使い切れへんからね。医学科では個人の研究費も結構あったし、他にも科研費や外部資金もあったんで、毎年何回か吉祥寺と神戸を拠点にうろうろしてました。宮崎医大に来てから、30年以上、毎年何回か行っています。

神戸三宮のセンター街、週日の昼間に

ハラレに行ってからは外国に行くのが億劫になり、1988年にカナダ、2010年ころにタイのプリンスオブソンクラ大学に行った切りです。カナダには北アメリカに亡命中の南アフリカの人が50ンほど集まった会議に呼ばれて話をするために行きました。

会議でのアレックス・ラ・グーマ夫人ブランシさん

タイは、医学科生の実習用の英語を担当してるのに、実際の病院での実習を見ないとちょっと後めたいなあという気持ちもあって、同僚の横山さんが行ってる途中に二日ほどこっそりと行きました。大学の学生寮に泊まったけど、今から思うと、ホテルの方がよかったのになあと思います。バーツに対して円は強いから、結構いいホテルに泊まれたやろにねえ。

ソンクラの学生と医学部の6年生、ソンクラ大で

タイの人たちのもてなし方は尋常ではなく(いい意味で。行った学生は、こんなに世話尾してもらうんやったら、日本にタイの学生が来た時にもっともてなしとけばよかったなあ、と必ず言うくらい)、いろいろ招待されるのがわかってたから、こっそり行くことにしました。酒の席がどうも苦手やし、知らない人の多いところでいろいろ聞かれてしゃべるのもあんまり好きではないんで。それでも小児科医の人に学生といっしょに夕食に誘われました。御殿のようなところに住んではって、食事もメイドさんが作ってくれはったようです。タイの料理は辛いそうやけど、洗練された上品な味で、すんなりおいしく食べたような気がします。

今も科研費があるからアメリカでもアフリカでも行こうと思えば行けるんやけど、どうもその気にならないまま。教授はビジネスクラスを使ってもええ規定らしいけどね。もちろん、使ったことないけど。

英語 Ma1(2)

<連絡事項>

来週は東京行きで、授業なしです。合同ですでにやった1回分です。

次回は最初に4章をさっとやりますので、準備しといてや。(今日するつもりやたけど、準備できてない人も多かったようなので。)

9回目、残り6回です。

<今回は>

最初に課題を集めました。出来るだけ早う読むつもりやけど、自分のやった課題の評価を聞いて次回に反映させたいと思ってる人は、メールか直接かで聞いてくれれば対応するつもりです。

それから映像。ひょっとして、砂糖黍農園、金鉱山(1970年代初頭と1987年)、労組委員長の解説の映像、繰り返してみてもらったんやろか。誰も何も言ってくれんかったんで。

金鉱近くの南アフリカの娼婦、40年代から60年代のアフリカ人の抵抗運動の映像、1955年の国民会議、PACとソブクウェ、シャープビルの虐殺と武力闘争、マンデラのBBCの映像も見てもらえました。なかなか貴重な映像もあったと思います。

それからハラレの話、時間的に短かったんで全部は紹介できなかったけど、本にするつもりの分をメールマガジンにわけて連載したのがあるので、どうぞ。1987年のカナダへの取材のときに買ったEOSのいいのを持って行って、いい写真がたくさん撮れたと思います。その一部を紹介しました。

「ジンバブエ滞在記一覧」

<次回は>

4章をやってから、「遠い夜明け」の編集版。最初にエボラとコンゴに関するプリントを並べておくんで、取ってや。

次回に、また。

 

英語 Ma1(1)

<連絡事項>

来週は東京行きで、授業なしです。合同ですでにやった1回分です。

次回は最初に4章をさっとやりますので、準備しといてや。(今日するつもりやたけど、準備できてない人も多かったようなので。)

9回目、残り6回です。

<今回は>

最初に課題を集めました。出来るだけ早う読むつもりやけど、自分のやった課題の評価を聞いて次回に反映させたいと思ってる人は、メールか直接かで聞いてくれれば対応するつもりです。

それから映像。ひょっとして、砂糖黍農園、金鉱山(1970年代初頭と1987年)、労組委員長の解説の映像、繰り返してみてもらったんやろか。誰も何も言ってくれんかったんで。

金鉱近くの南アフリカの娼婦、40年代から60年代のアフリカ人の抵抗運動の映像、1955年の国民会議、PACとソブクウェ、シャープビルの虐殺と武力闘争、マンデラのBBCの映像も見てもらえました。なかなか貴重な映像もあったと思います。

それからハラレの話、時間的に短かったんで全部は紹介できなかったけど、本にするつもりの分をメールマガジンにわけて連載したのがあるので、どうぞ。1987年のカナダへの取材のときに買ったEOSのいいのを持って行って、いい写真がたくさん撮れたと思います。その一部を紹介しました。

「ジンバブエ滞在記一覧」

<次回は>

4章をやってから、「遠い夜明け」の編集版。最初にエボラとコンゴに関するプリントを並べておくんで、取ってや。

次回に、また。

 

英語 Ta1(9)

6回目の授業でした。コメントも聞けなかったし、トーイックの過去問も出来なかったね。でも大切な二つを話出来たと思います。一つは折角大学に来て考える機会を持てたんやからこんな時間を大事にして自分について、社会について、これからのことについて考えてもらえれば。トーイックが将来仕事を選ぶとこに必要なら、あるとき集中してやるのも必要なんやないやろか。アメリカに無条件降伏させられて英語を押しつけられてるなかで持つようになった英語が出来ないという劣等の意識は英語が出来るようにならんとなくならないんやないやろか、そのために英語をやるのも一つの動機になるかも、みたいな話です。

もう一つはアパルトヘイト政権の成立過程を見ていくなかで、金持ちは、持てる者は何でも利用して自分たちの富を守ろうとしてきたし、そのためなら平気で人も殺してきたし。人種差別がいいとか悪とかよく言われるけど、それは本質的な問題やなくて、実際は安い賃金で働かせて搾取するために、アフリカ人の賃金を上げないで搾り取るために、プア・ホワイト(アフリカーナーの大半、社会の底辺にいるアフリカ人と共闘して本来は搾取する側に賃上げを要求するべきなのに、体制側はプア・ホワイトを少し優遇してアフリカ人の賃金を据え置いた、つまり出来るだけ搾取出来る体制を作るために人種差別を利用した、ということです。

もちろん南アフリカだけではなく、支配者階級(the ruling class)は如何に搾り取るかを考えて来たわけで、今日も話をした大和朝廷の貴族、英語時代の徳川幕府、それ以降も続く幕藩体制=官僚体制、すべて同じ構図。

<今回>は

過去問Test 1 Part 1も出来ず、コメントは聞けずじまい。次回は是非。小川くんがテキストを日本語訳してくれました。その分の日本語訳を貼っておきます。

<次回>は

コメントを何人か聞いてから、THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEID(小川くん)の続き、今日やってもらえなかったMass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLE(阿久根さん)。歌と映像を少しでも紹介できるとええけどね。トーイックはやる時間があるやろか。

また、来週に。

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THE 1948 APARTHEID REGIME 1948年のアパルトヘイト政権

African resistance put a strain on the white alliance of the Afrikaners and the British, and created a crisis in the South African system. Social changes lay behind the increased African militancy, and the ruling party, close to mining capital, was unable to handle the situation.

アフリカ人が抵抗したので、アフリカーナーと英国人による連合政権は緊迫し、南アフリカの制度は危機的な状況に陥りました。アフリカ人がますます激しく抵抗する背景には様々な社会変化があり、鉱山資本に近い与党は、その状況にうまく対処出来なくなりました。

The manufacturing sector in South Africa grew rapidly during the War when the hold of imperialism loosened, and Britain and the United States needed consumer goods from abroad because their own production was focused on manufacturing armaments. This industrialization in South Africa meant a demand for more African workers. During 1939-49 the number of Africans in the private manufacturing industry grew from 126,000 to 292,000.

南アフリカの製造部門は帝国主義の支配力が緩んだ第二次大戦の間に急速に成長し、英国と米国が主に武器の製造に力を入れざるを得なくなったので、消費物資を外国から調達する必要に迫られました。こうして南アメリカの工業化は進みますが、その結果、もっとたくさんのアフリカ人労働者が必要になりました。1939年から49年の間に、私有の製造産業でのアフリカ人の数は126,000人から292,000に増加しました。

The new industries tried to attract labour by offering the African workers higher wages than they got in the mines and or the farms. But the white-owned agriculture had also expanded enormously during the War. And neither the farmers nor the mine owners were prepared to raise the African wages to compete with those in the manufacturing industry. Instead, they demanded a state regulated labour market, which would guarantee them a steady flow of cheap African labour.

新たな産業は、アフリカ人労働者が鉱山や農場でもらうよりも高い賃金を出して労働者を引きつけようとしました。しかし、白人所有の農業も大戦中に著しく拡大していました。そして、農場や鉱山を所有する人たちは製造産業の賃金と張り合ってアフリカ人の賃金を上げるつもりはありませんでした。代わりに、国が規制する労働市場、つまり自分たちに常に一定の安価なアフリカ人労働者を保証するように国に要求しました。

The whites in the new industries felt that their position was threatened by the African workers.

新しい産業で働く白人は、自分たちの地位がアフリカ人労働者によって脅かされていると感じました。