2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の16回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(16)第16章 豚野郎フィル

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(16)第16章 豚野郎フィル

フィル・オグンヤはカベテ大学を卒業した獣医で、今は地方管轄の獣医係官でした。リバーロード診療所までドクターGGの苦情を言いに来た朝に、私はその人に一度会ったことがありました。ンデルで1年前に治療を受けてあなたのことを知っていますと言うことでしたが、私の方は髭を生やしたその人の顔をまったく覚えていませんでした。ドクターGGは、獣医用の大きな注射針を使っていたにも関わらず、治療の効果は出ていませんでした。大きな注射針で15ccのペニシリンを筋肉内に注射したために、危うくフィルを死なせてしまうところでした。老医師の注射のせいで腫れ上がったフィルの臀部を調べて、大きな陰茎に梅毒性の初期の潰瘍があると診断し、ちょうど市場に出たばかりの新薬を試せば治るのではないかと勧めて、3日置きに通院するように言いました。4日後、フィルはみすぼらしい身なりの女性と一緒に現われ、私に妻だと紹介し、妻には病名を言わないで治療してくれませんかと言いました。

フィル夫人は夫が出て行くと嫌だと言い出しました。二人とも病気だから病院に行こうとしか夫は言わなかったので、どこが悪いのかを教えてもらわなければ困りますと訴えました。どうするのがいいのか迷いましたが、取り敢えず血液と尿の検査をして、2日後にもう一度来るよう伝えました。合計すると200シリングにもなる診察費と治療費を翌日診療所に持って来る約束をしていたのですが、結局フィルは来ませんでした。妻の検査結果が木曜に出ましたが、血液検査からはトレポネーマの兆候は見られませんでした。性器を調べたり大陰唇の生体検査をしても私には何の利益にもなりませんでしたが、フィルが妻に病気をうつした可能性は調べられたかもしれません。診療所のお金を使わなければ、夫人に高価な薬を提供するのは無理でした。そのために私は非常に厄介な立場に立たされました。私は夫人に、あなたにはどこも悪いところはないと思いますが、出来るだけ早く主人に会って話しをしたい、と正直に言いました。フィルが現われたのは1週間後でした。私は治療費は受け取りましたが、夫人の治療の手付金は受け取りませんでした。

「奥さんの同意がなければ治療が出来ません。奥さんの状態がどの程度なのか、深刻なのか深刻でないのかを判断するためには、性器を調べる必要があります。」と、私は言いました。

「だめです、妻には知らせないで下さい。」
「では、奥さんには、潰瘍の検査だと伝えましょう。」
「だめです。それは出来ません。」
「あなたには、事態がどの程度深刻なのかをお分かりでないようですね。梅毒を治療しなければ、奥さんを死なせるだけではなく、あなた自身にも再感染するんですよ!」と、私は警告しました。

獣医とは言え大学まで出た人間が、病気の診断や治療のことになると、どうしてこうも世間知らずになれるのかが私には分かりませんでした。しかし、何とかうまくこの問題を処理しなくてはなりませんでした。考えるまでもなく患者を治療しなければならないという職業上の縛りもありましたし、患者の秘密も守った上で、雇い主の利益も確保する必要がありましたから。私は金と医療倫理の板挟みで、身動きが取れませんでした。

「わかりました、奥さんの治療に200シリング払って下さい。何とか様子を見てみましょう。」と私が言うと、金が要ると言うが妻は病気ではないと言ったじゃないか、とフィルは激しく言い張りました。

オグンヤ夫婦を何日か治療したあと、二人の体内から梅毒トレポネーマがすっかり消えているのを確認しました。2週間後に、今度はマインバ夫人と同じ年格好の女性と一緒にフィルが再び診療所にやって来ました。

「ナオミと言います。妻にしたように治療してやって下さい。」
そう言って、フィルは出て行きました。

ナオミは5人の子供の母親で、一人はケニア中央病院の看護師をしており、フィルは夫の友人とのことでした。性器のまわりの苦痛が激しく、夫が病気を知れば鞭で打たれそうなので、友人に相談するしかなかったようです。大方、私とマインバ夫人の関係と似たようなものだろうと思ったので、フィルとどんな関係にあるのかを敢えて聞き出そうとは思いませんでした。ナオミはフィルと違って淋病で、診療所に3回来ただけで、簡単に治りました。

フィルとはその後も会い続けて、二人の間に親しい気持ちが生まれたと思います。人間の医者が犬の医者と一緒に飲まないかとフィルがよく電話をかけて来て、私も喜んで付き合いました。フィルは愉快な話をする愉快な人物でした。一風変わった逸話の持ち主で、愛らしい女性や花や合成物や服に、きらきらするものがすべて苦手でした。

「光るものが必ずしも金とは限らないよ。このきれいな金を見ろよ。汚い金と同じくらい邪悪なものだよ。女も簡単に買えるんだからな。」
と、フィルは時折私を諭すように言いました。ある意味では、フィルは変わり者で、二流なものが大好きでした。シャツの襟もよれよれでないと気が済みませんでした。コートは清潔でしたが、いつも色の褪せたものでした。正当な理由のある金以外は信じませんでしたし、必要か正当なものでなければ最小限の努力しかしませんでした。

「例えば、ナオミだよ。俺みたいに結婚してるだろ。旦那は俺みたいにあいつを満足させてやれないんだ。これが俺の女房の話なら、大変だな。フィル夫人よりナオミが好きだったらどうしていけないんだ?」

それからフィルは、2人の女の秘密を打ち明けました。特に大きなフィルの体は、性癖が底なしであることを秘密にしていたナオミに気に入られました。フィルの結婚した妻は、最初から夫のセックスの仕方に馴染めず、最近では夫を拒むようになっていました。

「カベテ大学じゃ、女の子らがよく俺の噂をしてたって想像が出来るかい?例えば、アメリカ人の彼女がいたんだが、よく教室から引っ張り出されたよ。女房は俺が近づくのも嫌がるけどね。」と、フィルは自慢そうに言いました。

「最近、奥さんとセックスしようとしたことはあるのかい?」

私は尋ねました。

「ああ、そしたら、俺のアソコが入り込む隙もなかったよ。」
「ナオミとはどうなんだよ?」
「順調だよ。」

刺し傷による大量出血の患者の処置を手伝って欲しいとギチンガからケニア中央病院の第20病棟にかかって来た1本の電話で、フィルとナオミの関係は劇的な展開を迎えました。アイリーンは狂ったように叫び声を上げ、ギチンガ医師はアイリーンに縫合糸をしっかりと持っておけとすごい剣幕で言いました。それは今まで見てきた中でも一番不思議な運命のいたずらでした。臀部に深い傷を負った男は私の友人のフィル・オグンヤ、つまりアイリーンの母親のナオミの愛人で、傷はサウスBの自宅のベッドで二人を目撃したアイリーンの父親カマンジャに負わされたものでした。

「母親がここに来て、自分のせいでフィルが血を流していて、決して側を離れないわと私に大声で叫ぶなんて想像できます?このことは警察には言わないでほしいです。」と、アイリーンはすすり泣きながら言いました。

「巡回中の警官ではないんだよ。たとえ相手が悪事を働いていても、私たちの仕事は病人を助けることだよ。」と、ギチンガは何度も強調してきた事実を言いました。

私が後に「豚野郎」と呼ぶようになるフィルは、すっかり回復するのに1ヶ月もかかりました。フィルを刺したことで父親が母親から殴られたと聞いた時は、フィルの昼食に一服盛りたい気分になったとアイリーンは私に漏らしましたが、フィルの看護はしっかりとやっていました。

「まずは、ギルバートの装置にシアンを入れなければ。」と、いつか誰かがやってくれないだろうかと半ば期待しながら、私は嘲るように言いました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 21

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(16)第16章 豚野郎フィル

2000~09年の執筆物

<解説>

* 横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)に連載したワムグンダ・ゲテリア著『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。日本語訳のタイトル一覧のあとに表紙絵の画像を添え、作品の解説と<1>「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」を載せています。

<一覧>

<1>→「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」No. 5(2008/12/10)
<2>→「(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所」 No. 6(2009/1/10)
<3>→「(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」No. 8(2009/3/10)
<4>→「(4)第5章 ベネディクト神父」No. 9(2009/4/10)
<5>→「(5)第6章 メアリ・ンデュク」No. 10(2009/5/10)
<6>→「(6)第7章 イアン・ブラウン」No. 11(2009/6/10)
<7>→「(7)第8章 ハリマ」No. 12(2009/7/10)
<8>→「(8)第9章 マインバ家」No. 13(2009/8/10)
<9>→「(9)第10章 ンデル警察署」No. 14(2009/9/10)
<10>→「(10)第11章 リバーロード診療所」No. 15(2009/10/10)
<11>→「(11)第12章 初めてのX線機器」 No. 16(2009/11/10)
<12>→「(12)第13章 行方不明者」No. 17(2009/12/10)
<13>→「(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」No. 18(2010/1/10)
<14>→「(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」No. 19(2010/2/10)
<15>→「(15) 第15章 ユーニス」No. 20(2010/3/10)
<16>→「(16) 第16章 豚野郎フィル」 No. 21(2010/4/10)
<17>→「(17) 第17章 医師用宿舎B10」No. 22(2010/5/10)
<18>→「(18) 第18章 ナイセリア菌」No. 23(2010/6/10)
<19>→「(19) 第19章 花婿の値段」No. 24(2010/7/10)
<20>→「(20) 第20章 四十年間の投獄」No. 25(2010/8/10)
<21>→「(21) 第21章 一九七九年モンバサ」No. 26(2010/910)
<22>→「(22) 第22章 仮論文」No. 27(2010/10/10)
<23>→「(23)第23章 一匹狼の医者」No. 28(2010/11/10)
<24>→「(24)第24章 一九八二年」No. 29(2010/12/10)
<25>→「(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」No. 30(2011/1/10)
<26>→「(26)第27章 男の赤ん坊」No. 31(2011/2/10)
<27>→「(27)第28章 カナーンホスピス」No. 32(2011/3/10)
<28>→「(28) 第29章 カナーン証明書」No.33(2011/4/10)
<29>→「(29) 第30章 タラで過ごした一週間」No.34(2011/5/10)
<30>→「(30) 最終章」No.35(2011/6/10)


<『ナイスピープル』の解説>

『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが81年、ケニアでは84年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。
著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(92年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。
医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

『ナイスピープル』の表紙(表)

『ナイスピープル』の表紙(裏)

 

<1>



<1>「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」「モンド通信」No. 5(2008年12月10日)

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―① 著者の覚え書き・序章・第1章

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

「エイズにやられる危険性は殆んどないという危険な思い込みが富裕層に蔓延していることもあり、今や世界で15万人近くもいると言われているエイズ患者は、きっと今年中に倍になると思います・・・・」
1988年           世界保健機構医師    ジョナサン・マン

著者の覚え書き

『ナイスピープル』の中で、どうしても書いておきたかったことがあります。1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙の切り抜きです。3年後に今その記事を再現することになりました。

「アフリカのエイズ、未曾有の大惨事となった危機」(ハーデン・ブレイン報告)
(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。
この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。
アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。
病気がますます広がって、既に深刻な専門性の高い職業人の不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的・政治的・社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。
世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では研究者が「驚くべき割合」と記述するような確率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。
第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味では、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」
世界の多くの国では、基本的に同性愛者間の性交渉や静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきましたが、アフリカでは主に異性間の性交渉を通して病気が広がっています。
アフリカでは、70年代後半から80年代前半に病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。
アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。
WHOのエイズ特別計画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1. 75米国ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをして教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。

序章

ムンビの葬式にはたくさんの参列者がありました。ドクターGGには友人が多数いて、それも生存中のンデル出身の友人が多数いると誰もが信じていました。これまでドクターGGは、数多くの出産と少年の割礼に立ち会ってきました。咳や淋病熱の患者もたくさん診てきましたし、最近では、「スリム病」という独りよがりの診断を信じ切っている患者も助けてきました。
私は敢えてドクターGGを見ませんでした。ずっと耐えてきた苦しみがわかっていたからです。父娘の絆が他の誰よりもずっと深いのを、長年身近にいた私はよく知っていました。娘を心から大切に思い、ムンビもまた父親をとても大事に思っていました。一度ムンビに、父親と同じくらい大切に思えた人はあなただけよ、と言われたことがあります。しかし私がムンビの思いに応えることが出来なかったのですから、私への思いが枯れても仕方のないことでした。私が与えられなかった温かい家庭と家族を求めて、ムンビは私のもとを去り、ヘルシンキへ発ってしまったのです。
ムンビは私にはずっと特別な人で、聡明で勇気もあり、決断力もありました。また、本当に素直な人で、メアリ・ンデュクのように偏見を持ったり、人に厳しい態度を取ったりすることもありませんでした。自分の感情に素直で、自分の感じることや信じることを隠さなかったのです。そうした正直さゆえに居ても立ってもいられずに、生まれて来た男の子の父親であるブラックマン船長に忠実であれと信じながら外国に渡ったのです。
辺りを見回すと、ムンビの母親が何事もなかったかのような顔をして立っているのが見えました。とても死者を悲しんでいるようには見えませんでした。私に気がついて微笑みましたが、私はとても笑える状況ではありませんでしたので視線をそらし、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバが動揺しながらも話し続けるのを見つめていました。なぜ性格のまるで違う二人が一緒にいるのだろう、と私は不思議に思い、その時、自分がそれまで見てきた、人と人とが織り成してきた出来事に思いを巡らせました。アイリーンがドクターGGの隣に立って、自分の職場の同僚を慰めようとしているのがはっきりと分かりました。自分の娘が遠く離れたフィンランドで死んだと聞かされた時に、ドクターGGが心に受けた打撃の大きさを思わずにはいられませんでした。
いよいよ、持っていた花を棺に投げる私の番になりました。たくさんの参列者がムンビに最後のお別れをして遺体から離れて行くのを、私はずっと見ないようにしていました。花が棺に落ちたその時、それまで必死に堪えていた涙が溢れてきました。最後に泣いたのは何時だったかは思い出せませんでしたが、私はその温かい液体が流れるままにしていました。ここに横たわるムンビ、愛おしく、素直で、決して争わず競争相手にも道を譲るような素敵な人だったと私は思い返しました。ムンビは、私とメアリ・ンデュクとの仲が原因でモンバサを離れましたが、自分の産んだ男の赤ん坊が私の迷惑になると考えてカナンホスピスを去り、馴染みの人たちと気楽に暮せるようにと願って、帰郷したブラックマン船長の後を追ってこの国を去ったのです。
ガイ神父は30年以上も前に、ラザラスという名の男性の病気をイエス様がお癒しになったという説教をされたことがあります。神父は、民に神の偉大さを信じさせようとしてその男は病気になったのだ、と言われました。ムンビも同じ理由で死んだのだろうか、と私はふと思いました。タラ高校で何度も言い聞かされた愛の神は、ムンビに死をもたらし、私の医者としての資格を奪いそうになった疫病を引き起こした神と同じだったのでしょうか。ディン・シン医師は同じ神を信じていました。ワウェル・ギチンガもそうです。ディン・シン医師は辛うじて逃亡できましたが、ギチンガ医師は逃げ切れませんでした。神とは、ある者には与え、ある者には与えないという差別をする神だったのでしょうか?メアリ・ンデュクが生き残っているのに、ムンビのような聖人を殺した同じ神・・・。こんなことを考えながら、私の心はすっかり混乱していました。
ドクターGGの娘の亡骸を納めた棺に背を向けて、私はその場から立ち去りました。その時誰かが、私が倒れないように腕を掴んできたのを感じました。シスター・アイリーンでした。仕事に忠実なこの看護師が、私にどんな過酷な出来事が起きても、いつも傍にいてくれたことを私は思い出していました。そうです。病める者や悩める者が心安らかにいられるように、アイリーンのような聖人をも神様は遣わして下さっているのだという事実にも気が付きました。私はアイリーンを見つめ、私のことを気遣ってくれる人が本当に必要だとしたら、アイリーンこそが喜んで私を大事にしてくれるだろうと思いました。

第一章 イバダン大学

大学生活は快適なものでした。卒業後は本当に特別な人間、人類を苦しめる色んなもの治す、神に近い人間になるのだ、という大きな野心をもって医学書を読み漁りました。私たちは、犬や猫や馬を扱う獣医よりも当然、優位であったはずです。何しろ私たちは、より優れた種、すべての生きものの中でも最も偉大なホモサピエンスを治療することになるのですから。結核、マラリア、淋病、梅毒など、人間が患らうようになった色々な病気。私たちは本当に天からの授かりものではなかったのでしょうか?
大学は「UCI」と呼ばれていましたが、そのUCIから退学者が出ました。どうもその学生は、マーティン医師の心臓の標本を盗んだということで、クラス全体に回された標本を最後に手に取ったのが、その学生だったというわけです。標本が消えて無くなり、次の週の月曜の朝に、アデンクレが切れ切れの調理済みの肉を持って授業に現れ、「心臓を料理したんだ」と得意気に言い放ったのです。マーティン医師は怒り狂ってこれでもかとアデンクレを罵りましたが、アデンクレは医師を見てにやっとするだけでしたので、マーティン医師はますます怒り狂うのでした。
そんなとき、私はマラリアにかかってしまいました。どうにか体が持ちこたえますように、と皮肉まじりに祈りました。最終試験が1週間後に迫っていて、今度ばかりは神に裏をかかれたと思いました。頭は煮えたぎるように熱く、背中じゅうに細かい針が刺さっている感じです。苦痛ですっかり弱っていたところへ、あのアデンクレが、ジャジャ診療所のベットに横たわる私に会いにやって来ました。
「おい、マラリアなんかで死ぬなよ。マーティン先生が俺の退学にこだわらなきゃ、あんたを治してやれたかも知れないのにな。」とアデンクレはピジン訛りの英語で冗談めかして言いました。そこへ、180センチもある変わり者の英国人医師ウィリアム・ボイドが部屋に入って来て私に口を開けるように言うと、無造作に体温計を口に入れました。何だかとても嫌な感じがしました。
国じゅうを巻き込んだ凄まじいビアフラ戦争の猛威にも耐え、神に見捨てられたナイジェリアの泥沼の五年間を何とか生き永らえはしましたが、今や私は何とも哀れな肉の固まりになり果てていました。
普段は見かけない医師が信じられないといった顔つきで私を一瞥したあと、「たしかに、相当ひどいな。」と言いました。それから、記録用紙に何かを書きつけて、そのまま部屋を出て行きました。
医師が出て行くと、アデンクレが記録用紙を手に取りました。そして注意深くそれを調べてから、私は死にかけだと言うのです。熱が40度ありました。私はその日を決して忘れません。相変わらず頭はがんがんしていました。身をよじって、何も口に出来ず、目が眩み、とうとう気絶してしまいました。私は意識を失なったのです。
司祭が私を起こしたに違いありません。目の前に平服を着たその司祭が立っていて、神のご加護に与りますか、と聞くのです。
「出て行ってください。あんたらは、頭がぼんやりしてものも言えなくなった時だけやって来るんだな。元気な時に来てくれと、あんたの神に言っといてくれ。」
「何て不遜なことを。本当に、今、神のご慈悲が要らないのですか?」
「それどころか、神が僕を病気にしたのなら、治してくれ、と言いたいですよ。僕は何も悪いことはしていない。むしろこの世の中から、神が創り給うた病気を消滅させようと人生の5年間を犠牲にしてきたんです。それなのに、その神様の思し召しの結果が、この態ですよ。」
イバダン診療所のベッドの中で、まさにその瞬間、私の中で何かがぷちんと切れたんだと思います。もはや、神の慈悲も愛も美徳も信じることが出来ませんでした。何百万という物乞いや売春婦、目や手足の不自由な人やその他社会の底辺で暮らす人たちはどうなのか?司祭は、そういう人たちもすべて神の子だと見なしていますが、では何故、来る日も来る日もある病気を治療するためにと、製薬実験室で何億という大金が使われているのか。
アデンクレは医学科課程を修了出来ませんでした。コーラ・ダンボ教授が署名して、アデンクレの退学の文書を議会に提出したのです。
私たちは学位を取得する前に、ダンボ教授が学生全員に読みあげた嫌な書類の内容をひとりひとりが確認して、署名をしました。

「わたくし、ジョゼフ・ムングチは、人に奉仕するために我が身を捧げることをここに固く誓います。患者の健康を第一に考え、守秘義務を守ります。危機的な状況にあっても、受胎したその時から、人の命を最大限に尊重します。人道に反して、医学知識を使うことはありません。」

医学士、化学士(イバダン大学) 署名 ジョゼフ・ムングチ

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翌朝、イバダン発ラゴス行きナイジェリア航空の8席セスナ機に搭乗しました。それから、ラゴス時間でちょうど午後七時に、新しい人生を始めるべき、愛しの故郷ケニア行きのパンナム機ボーイング707便に乗りました。
朝8時に、飛行機はナイロビに到着しました。1974年、6月28日の翌日の金曜のことです。弟のムセンビが、ナイロビ空港に私を迎えに来ていて、タラまでまっすぐ車を走らせました。我が故郷です。村中が歓喜の声で沸き立っていました。自分たちの医者の到着だと、全員が分かっているのです。しかし、私が独立して患者を診るには、ケニア中央病院でまだインターンとして働かなくてはいけないということは、皆殆んど知らないようでした。
「ジョゼフ、こっちへ来ておくれよ。」と母親が部屋から私を呼びました。
「うん、母さん。」
「おじいさんとこに行くんだよ。お前のでなきゃ、他の者の薬は嫌だと言ってきかないんだからね。」
「そうなんだ、母さん。でも、どうして?」
「マチャコスの医者は、医療費稼ぎに水で薄めた薬を出してるぞって、きかないんだよ。」
「そんなことが出来るのかい、母さん?」
「お前が出て行った頃のケニヤとは、今は違うんだよ。警察は、賄賂欲しさに、もっと犯罪者が増えるように祈ってるし、判事は、拘置所を犯罪者で一杯にしたがってるし、看守だって同じだよ。弁護士が、犯罪の片棒を担いでるっていうのも聞いたことがあるね。そのほうが儲かるんだってさ。お前のような医者だって、淋病や梅毒、ヘルペス患者がもっと増えてほしいのさ。結局仕事は増えるし、もっと儲かるからね。皆そう言ってるよ。」
「じいさんが社会の仕組みをそんな風に見てるんなら、僕のことはどう思ってるんだろうね。」
「ここの地区判事が、先日ある男から5000シリングを受け取ってから、2人の取引についてしゃべれないようにと、その男に死刑を言い渡したらしいよ。」
母親は相変わらずでした。永年タラの噂話には強く、この小さな町の最新情報を聞き逃すことはありませんでした。それにタラでは、情報を伝えるのにマスメディアなど必要ありません。噂がその役割を果たすのですから。しかも大抵の場合は、大袈裟に伝わりました。

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の1回目で、『ナイスピープル』とケニアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

『ナイスピープル』とケニア

「ナイスピープル」

『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが1981年、ケニアでは1984年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。

ケニアの地図

著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(1992年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。

著者紹介のある『ナイスピープル』の裏表紙

医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

ムアンギさん

ケニア人で身近で接したことがあるのは2人だけです。ひとりは四国学院大学の教員をしているムアンギさん、もうひとりは宮崎大学の留学生だったサバです。どちらもナイロビ大学を卒業したと言っていました。

画像

ムアンギさん

ムアンギさんとは兵庫県の明石に住んでいた1980年代の半ば頃に知り合いました。(ちょうどケニアなどのアフリカ諸国でエイズ患者が出始めた頃ですね。)詳しくは忘れましたが、神戸にある黒人研究の会で知り合ったような気がします。高校の教員を辞めて大学の職を探している時に、大阪工業大学でいっしょに非常勤をしたこともあります。1987年だったと思いますが、資料を探すためにニューヨークハーレムにある公立図書書館を訪れる前に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)に滞在していた大阪工大のESSの学生の宿舎に寄ったあと、キャンパスをいっしょに歩いたりもしました。日本では日本語しかしゃべってこなかったムアンギさんが、アメリカでは英語でしゃべりかけて来ました。ギクユの人でナイロビ大学を卒業したあと、国費で京都大学に坂本龍馬の研究に来たとか。卒業後に法学部の助手もやっていたそうです。同じギクユ人の作家グギさんが来日したときに世話をしたら、ケニアに帰れなくなったのだそうです。当時のケニヤッタ政権に反対する立場にいたグギさんの友人は、ケニアでは反体制の危険分子だったというわけです。

サバ

もう1人のサバはルヒアの人で、宮崎大学の体育館で他の留学生や教員といっしょにバスケットをやった仲です。当時は農学部大学院博士課程の国費留学生で、醸造とかが専門でワインを作ったりしていたようです。普段は週に1回いっしょにバスケットをするだけで、ほとんど個人的な話はしませんでした。ちょうど英文の2冊目の本を書いていた時で、どうしてもケニアの事情が知りたくて聞くことにしました。その時のことをまとめて、英文のテキストに載せました。以下の文章がその日本語訳です。

私がケニア出身の学生とケニアの状況について話をしたとき、その学生は現体制についての不満を言いました。「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で「工事中」の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』(横浜:門土社、1988年刊、英文Africa and its Descendants 2

何年か前に、現在長崎市民病院で研修をしている服部晃好くんとサバの送別会をしました。その時は、奈良にある関西文化学術研究都市の会社に就職すると言っていましたが、その後は会っていません。6年間ですっかり身につけた日本語で「小腹が空いた」などと言っていましたが、まだ日本にいるんでしょうか。

サバといっしょにバスケット

服部くんは名古屋の大学の工学部を出て暫くガス会社の研究所で働いたあと、海外青年協力隊の理科教師としてタンザニアのキゴマの中学校で3年過ごしたあと、ケニアでJICAの調整員を2年やったそうです。その後医学部を出て、いつかは再度アフリカに行くために、熱帯研究所のある長崎大学で医師の研修を受けることにしたそうです。
アフリカ音楽にも詳しく、会社を休んでユッスー・ンドゥールのコンサートに出かけたと言います。音楽の解説記事を頼んで、大学の授業でも使わせてもらっています。このシリーズでその解説記事なども紹介したいと思っています。

つづきは→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

  2009年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 35

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』を理解するために(1)―『ナイスピープル』とケニア

2010年~の執筆物

 2005年にEMPを初めてから毎年報告記を作りました。タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学とカリフォルニア大学アーバイン校の留学期や、提携校や近隣の大学も誘って行なったシンポジウムの報告書も作りました。英文も何冊かあります。PDFにしてダウンロード出来るようにしてあります。

EMP報告書 001

留学記 001

EMP報告書、留学記・報告記、シンポジウム一覧です。

<EMP報告書>

20112年度以降は作業中です。

2011年度

「2011年度後期EMP報告書」(2012年3月29日、全62ペイジ)
「2011年度前期EMP報告書」(2011年12月15日、全85ペイジ)

2010年度

「2010年度後期EMP報告書」(2011年3月15日、全63ペイジ)
「2010年度前期EMP報告書」(2010年12月15日、全67ペイジ)

2009年度

「2009年度後期EMP報告書」(2010年3月29日、全92ペイジ)
「2009年度前期EMP報告書」(2009年12月15日、全67ペイジ)

2008年度

「2008年度後期EMP報告書」(2009年3月末、全108ペイジ)
「The 2009 (February) EMP Report」(2009年3月29日、全71ペイジ、英文)
「2008年度前期EMP報告書」(2008年10月15日、全56ペイジ)

2007年度

「2007年度後期EMP報告書」(2008年3月29日、全35ペイジ)
「The 2008(February) EMP Report」(2008年3月15日、全38ペイジ)
「2007年度前期EMP報告書」(2007年10月15日、全50ペイジ)

2006年度

「2006年度後期EMP報告書」(2010年3月15日、全63ペイジ)
「The 2007(February) EMP Report」(2008年3月15日、全26ペイジ)
「2006年度前期EMP報告書」(2006年10月15日、全10ペイジ)

2005年度

「2005年度EMP報告書」(2006年3月29日、全34ペイジ)
「The 2005 EMP Report」(2006年3月29日、全33ペイジ、英文)
「2005年度EMP報告書・ソンクラ報告記」(2006年3月29日、全4ペイジ)

<留学記・報告記>

「留学記・報告記(5)-PSU・UCI」(2013年3月15日、全95ペイジ)
「留学記・報告記(4)-PSU・UCI」(2012年3月15日、全62ペイジ)
「留学記・報告記(3)-PSU・UCI」(2011年3月15日、全80ペイジ)
「留学記・報告記(2)-PSU・UCI」(2010年3月15日、全85ペイジ)

「ソンクラ大学留学記・報告記(1)2005年度~2008年度」(2009年3月29日、全102ペイジ)
「2008年度ソンクラ留学記」(2009年3月29日、全24ペイジ)

<シンポジウム>

「International Collaboration and University Education―Thai – Japan Joint Symposium―」(2009年2月22日、全43ペイジ、英文)
「海外提携校を活用した専門家育成のための大学教育―タイ日合同シンポジウム―」(2009年2月22日、全44ペイジ)