2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で、文部科学省科学研究費(平成30~34年度基盤研究C、4030千円)の交付を受けました。今回はその概略です。4年前に定年退職したとき、もう「研究」せんでもええんかな、とちらっと思いましたが、元々書いたり読んだりする空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取って大学を探し始めただけですから、厳密な意味で「研究」するとかしないとかの概念そのものが僕には元々ないんだったと思い直しました。

辛うじて38歳で宮崎医科大学に教養の英語学科目等の担当の講師として不時着、医学部では運営は教授だけで、それ以外は研究に専念をという方針のようで、書いたり読んだりするための理想的な空間でした。それでも大学では授業と「研究」は避けられません。幸いなことに、人も授業も嫌いではなかったですし、修士課程と非常勤講師の7年間ですでにたくさん書きためていましたので、「研究」のふりは出来そうでした。科研費も1年目に申請し、単年でしたが「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年度一般研究C、1000千円)が交付されました。実際にはアパルトヘイト政権と手を組んで甘い汁を吸いながら、表向きは人権侵害反対のポーズを取る国の方針に忠実な文部省には、反アパルトヘイトを掲げて闘った南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ関連のテーマは許容範囲内だったのでしょう。門土社(横浜)のおかげで印刷物が多かったのも決め手の一つだったかも知れません。

今回申請書を出すとき、「学術的背景、核心をなす学術的『問い』」の欄には次のように書きましたが、それが「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要です。

定年退職で時間切れと諦めていましたテーマで、再任により申請出来るようですので、機会を有り難く使わせてもらおうと思います。(語学教育センター特別教授二年目、一年毎の更新、最長十年)広範で多岐に渡るテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、

リチャード・ライト(小島けい画)

ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、

 

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

アフリカの歴史と奴隷貿易、とそれぞれ10年くらいずつ個別に辿って来ましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思います。

ライトの作品を理解したいという思いでアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でその人たちがアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして最初の著書『箱船21世紀に向けて』(門土社、1987)にガーナへの訪問記Black Power(1954)を軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズと広がって行きました。

辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ五百年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(The Pentagon、アメリカ国防総省)で開発された武器を個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

ジンバブエ大学教育学部

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んで350年に渡って行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えて来て、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants(Mondo Books, 1995)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(Mondo Books, 1998)にまとめました。

奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残して来ました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

作品を理解したいという思いから辿った歴史ですが、今度は歴史に刻まれた文学作品から歴史を辿りながら侵略の基本構造と侵略のなかで苦しめられてきた人々の姿を明らかにするのが今回の目的です。その過程で先人から学び取り、将来の指針となる提言の一つでも出来れば嬉しい限りです。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開

前回は「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要でしたが、今回は着想に至った経緯と今後の展開についてです。

<着想に至った経緯>

アフロアメリカの作家リチャード・ライトの小説を理解したいという思いで歴史を辿り始めたのですが、アフリカ系アメリカ人は主に西アフリカから連れて来られたのだと初めてアフリカに目が向きました。まだアパルトヘイトがあった時代で、アメリカで研究発表をしたり、反アパルトヘイト運動の一環で講演を頼まれてやっているうちに、次第に世界と日本、第三世界と先進国の関係が見えて来ました。おぼろげに見えて来たのは、次のような構図です。

リチャード・ライト(小島けい画)

イギリスを中心にした西欧諸国のこの五百年余りの侵略で、人類は二つの大きなものを変えました。生産手段と武器です。それを可能にしたのは1505年のキルワの虐殺に始まる西欧の略奪とそれに続く大西洋で繰り広げられた奴隷貿易によって蓄積された資本です。その資本で産業革命が可能になり、生産の手段を手から機械に変えました。人類は捌き切れないほど大量の工業生産品を作り出せるようになったわけです。あとは金持ちの論理で進んで行きます。さらなる生産のための安価な原材料と労働力が植民地戦争を産み、二度の世界大戦で殺し合いをしてもめげずに、開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配に制度を再構築して搾取構造を温存し、現在に至っています。その体制を維持するために剣から銃、終にはミサイルや原爆まで開発し、武器産業が「先進国」の重要な産業にもなっていて、在庫がだぶつくとアメリカは世界のどこかで戦争を起こして来ました。

1992年の在外研究は一つの転機になりました。国立大学の教員は国家公務員で、アパルトヘイト政権と密な関係にありながら、国は表面上、文化交流の禁止措置を取っていましたので、申請書を出した1991年には南アフリカのケープタウンには行けないと却下されました。かわりに、アメリカ映画「遠い夜明け」(Cry Freedom, 1987)のロケ地でもあり、南アフリカと制度のよく似た国ジンバブエに行き、奪う側、奪われる側の格差を実感しました。それまでいろいろ頭の中で考えていたものが、現実だったわけです。

しかしながら、加害者であるにもかかわらず、アフリカは可哀相だから助けてやっている、と考えている人が実際には大半です。以来、大学の教養に役目があるなら、意識下に働きかけて自分や社会について考える機会を提供することだと考えるようになりました。授業では出来るだけ英語を使い、映像や資料も集め続け、「概要」で紹介した英文書を二冊と、編註書A Walk in the Night(Mondo Books、1988)とAnd a Threefold Cord(Mondo Books、1991)、翻訳書『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)も出版しました。

医学生は教養を軽視する傾向があるうえ、馴染みのないアフリカだと拒否反応を示す人も多く、自然と医学と関連させる工夫をするようになりました。その中からエイズのテーマ「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年度~17年度基盤研究C、2500千円)と「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度、基盤研究C、3900千円)も生まれました。

旧宮崎大学と統合後は、教養が全学責任体制になって「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」なども担当し、『アフリカ文化論Ⅰ』(門土社、2007)も書きました。今も学士力発展科目「南アフリカ概論」や「アフロアメリカの歴史と音楽」などを担当、この3年間半で3400人を担当しました。

今回のテーマも、そんな「研究」と授業の中から、自然と生まれました。

<今後の展望>

奪う側、持てる側(The Robber, The Haves)は富を享受出来て快適ですが、奪われる側、持たざる側(The Robbed, The Haves-Not)はたまったものではありません。理不尽な思いを強いられたり、悔しい思いを味わった多くの人たちが文学や自伝や評論に昇華して、後の世に残しています。特にアングロ・サクソンに搾り取られできたアフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの系譜を辿り、文学と医学の狭間からその系譜を見てゆきたいと思います。それぞれの手がかりとする作品と明らかにするテーマは以下の通りです。

<アフロアメリカと人種隔離政策>

歴史とライトの自伝的スケッチ"The Ethics of Living Jim Crow, 1937″、小説Native Son(1940)、歴史的スケッチ12 Million Black Voices(1941)、自伝Black Boy(1945)、ミシェル・ファーブルさんのライトの伝記The Unfinished Quest of Richard Wright(1973?)、マルコムのMalcolm X on Afro-American History(1967)

<ガーナと独立>

ライトのガーナ訪問記Black Power(1954)とクワメ・エンクルマの自伝The Autobiography of Kwame Nkrumah(1957)と自伝Africa Must Unite(1963)

<コンゴの独立・コンゴ危機とエボラ出血熱>

トーマス・カンザの評論The Rise and Fall of Patrice Lumumba(1981)とリチャード・プレストンの小説Hot Zone(1995)、バズゥル・デヴィドスン(写真 ↓)のAfrican Series (NHK, 1983)

<ケニアと新植民地支配とエイズ>

グギの評論Writers in Politics(1981)、ワグムンダ・ゲテリアのエイズの小説Nice People(1992)、メジャー・ムアンギのエイズの小説The Last Plague(2000)

<南アフリカとアパルトヘイトとエイズ>

ラ・グーマのAnd a Threefold Cord(1964)、セスゥル・エイブラハムズのラ・グーマの伝記・作品論Alex La Guma(1985)、ベンジャミン・ポグルンドのロバート・マンガリソ・ソブクエの伝記Sobukuwe and Apartheid (1991)、レイモンド・ダウニングの評論As They See It – The Development of the African AIDS Discourse(2005)、メイ・ポン編The Struggle for Africa(1983)

アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、巧妙に支配を続けていて、アフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられて来たか、文学作品とエイズやエボラ出血熱―文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと思います。

最初は歴史を辿って行って結果的に作品に出会ったという流れでしたが、今回は作品から「アングロ・サクソンの系譜」を浮かび上がらせたいと考えています。

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の次の申請が可能なら、アフロアメリカのところで手に入れて手つかずのままの奴隷体験記An American Slaveの41巻と、エイズのところで集めて消化仕切れていないアフリカのエイズ小説19冊を元に、違う形でのアングロ・サクソン侵略の系譜を辿ろうと思っています。奴隷貿易がおそらく、この500年余りの歴史の中で最も後の世に影響を及ぼした出来事で、エイズが人類史上でおそらく最大の被害と利益を生んでいる病気だからです。

それと、また科研費の交付があり得るのか、を確かめてみたいという気持ちも、ほんの少しだけあるようですから。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」

初めてアメリカに行ったのは1981年で、高校教員のままで通った大学院一年生の夏です。修士論文の軸となるリチャード・ライト(Richard Wright)の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)のフォトコピーがニューヨーク公立図書館ハーレム分館にあるとわかったからです。

「クロスセクション」誌

「地下に潜む男」は教科書(青山書店、1969)も出ていましたし、『八人の男』(晶文社、1969, Eight Men; World Publishing, 1961)にも収められていましたので原作は手元にありましたが、作品の収載されている雑誌が見たかったのだと思います。それに、アメリカのことをするのに、アメリカに一度も行ったことがないのも気が引けるなあという気持ちもあったような気がします。

大学テキスト(青山書店9)

生まれたのは1949です。第二次大戦直後に生まれた世代は、否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験しているような気がします。神戸から電車で西に一時間ほどの小さな町に住んでいましたが、高校の頃に若い宣教師が自転車に乗っているのを家の二階からたまたま見かけるまで外国人を見た記憶がありません。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

入学した大学が外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、ずっと1ドル360円でしたし、学費も生活費も自分で都合しないといけない中では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。そのクラスメイトは、滞在中にお金やパスポートなど一切合切を盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから話をしていました。

ライトが移り住んだコース(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、までを辿ってみようと計画を立てました。コピーしたファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)の巻末の参考文献目録を旅行鞄に忍ばせ、サンフランシスコに何泊かしてからシカゴとニューヨークに行きました。1ドル280円台だったと記憶しています。

ナチェツ空港

5年間高校で英語の教員をしていましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。

目的は図書館での文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのですから。もちろんあるはずもありませんが、訪ねてみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら、持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも入り口に列が出来ていなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて、何だか騙された気分になりました。

ミシガンストリートで3時間ほどパレードを眺めていた時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていましたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の購読の時間で、青山書店のテキストです。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった別の「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって練習をしている同類も僅かながらいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

神戸市外国語大学全景(上)、木造学舎(下)大学HPより

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のめしが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

バリケード封鎖された学舎

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人で、共産党員のようでした。その人は十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/282“>「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」</a>(「ゴンドワナ」3号、1986年)

神戸市外国語大学ホームページの「大学のあゆみ(沿革)」によれば、1946年に設立された神戸市立外事専門学校が1949年に神戸市外国語大学に昇格(外国語学部に英米・ロシア・中国の3学科設置)しています。僕が入学した夜間課程が設置されたのは1953年、その年に語学文学課程、法経商課程の2コースが設置されています。

学生の時はよくは知りませんでしたが、語学文学課程を担当した教員の中には、おそらく1950年、60年代のアメリカの公民権運動やアフリカの独立運動の影響もあったと思いますが、それまであまり取り上げられなかった分野、アフリカ系アメリカ人やアフリカの歴史や文学や言語などの研究をしていた人たちが少なからずいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

そのようなアフリカやアフロアメリカに関心のある人たちの何人かが核になって、1956年に黒人研究の会を作り、研究会や研究誌の発行など、精力的に活動をしていたようです。修士号を取って高校の教員をやめたあと暫く研究会に入って、会誌や会報の編集などを手伝っていましたが、会誌や会報を見ながら、勢いあるなあと感心したのを覚えています。60年代70年代の神戸外大の紀要「外大論叢」の書かれたものの中には今読んでも勢いが感じられる論文が少なからずあります。

自分が意識していたかどうかにはかかわらず、おそらくそんな流れの中で、英語の購読の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになり、修士論文の軸にクロスセクション誌に載った短編を据えることになったのだと思います。

夜間にしろ大学には空間が欲しくて行っただけで、英米学科にもかかわらず英語はしませんでした。学生だと学割が使えるし、という極めて「不純な動機」で修士の試験は受けましたが、案の定「玉田クン、26人中飛び抜けて26番やったね」と好きな新田さんから言われてしまいました。それではと、新田さんにアメリカ文学で読むべき本を聞き、文学史や言語学や英作文の必須図書を自分で探して揃え、一年間目一杯準備をして二度目を受けた時も、結局は書いたものを消して出てきました。大学には行かないという思いの方が、その時は強かったのでしょう。

でも、七十路(ななそじ)足らずの春秋を送れる間に、「世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ」、ですね。その後、書くための空間を求めて大学を探し始めたわけですから。(宮崎大学教員)

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アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム

2回目のアメリカ行きはミシシッピで、初回から4年後の1985年でした。ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトの死後25周年の記念大会があるから行きませんかと、黒人研究の会で知り合った木内さんから誘いがあり、すぐに行くと決めました。ファーブルさん(Michel Fabre)にお会いしたかったからです。
実は、修士論文を書くときに読んだ伝記に感動して、ファーブルさんに読んでもらえるように自分の書いたものを英語訳してパリの自宅に送っていました。
“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”(Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.)元は→「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」(「言語表現研究」2号 1-14ペイジ。)

伝記を読んだときの感動をファーブルさんに伝えたい、自分が書いたもののレベルが知りたいと思い、手紙を書いて英語訳を添えました。返事はもらっていませんでしたので、ファーブルさんの反応も本人から直に聞きたいと考えたのでしょう。当時、何校かの非常勤講師はしていたものの、大学の口は見つからず経済的にもきつかったと思いますし、会議での僕の英語力にも問題はありましたが、後先を考えずに、取り敢えずミシシッピに行きました。今から思うと後先を考えてなかったなあと思います。地図を見て、ミシシッピ州立大学とテネシー州メンフィスはそう離れてないのでバスで簡単に行けるやろ、と思い込んだんですから。アメリカは車社会、テネシー州メンフィスからのバスの便は極めて少なく、結局タクシーで行くはめになりました。たしか4万ほど払ったと思います。
シンポジウムは11月21日~23日の3日間で12のセッションが組まれていました。7月初めに届いたパンフレットの通りで、すごい顔ぶれでした。会場に着くと早速、面識のあった発表者の一人伯谷嘉信さん〔Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982) の編者〕が、Keneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, Donald Gibsonさんを紹介して下さり、木内さんとファーブルさんはにこやかな挨拶を交わしていました。修士論文を書いたあともライトに関して書き続けていましたので、それぞれ本を通して名前はよく知っていましたが、実際に会えるとは思っていませんでした。

       シンポジウムパンフレット

ビニール資料入れ

23日のニューヨークタイムズ紙は、「ミシシッピはかつて逃げた『ミシシッピ生まれ』を誉めたたえる―ミシシッピはアメリカの息子に帰郷の機会を与える」("Mississippi Honors a 'Native Son’ Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son" )の見出しの次の記事を載せました。ライトがニューヨークで有名になりましたので、ニューヨークの新聞も取り上げたのでしょう。

国内、中国、フランス、西ドイツ、日本、コートジボワールからの57人の学者をこの落ち葉で美しい約221万坪のキャンパスにひき寄せたシンポジウムは、タイトルに「ミシシッピ生まれのアメリカの息子」を使っています。1940年に出版の後すぐにベストセラーになった、1930年代のシカゴの黒人の苦しみと白人の人種主義の重くて、痛ましい小説「アメリカの息子」は、もちろんライト氏の15冊の中でも一よく番知られている本のタイトルですが、数々の分科会がここミシシッピで、そして、わずか23年前にミシシッピ大学(愛称オル・ミス)の黒人学生第一号になったメレディス(James H. Meredith)を守るために約三万人の州兵が送られたまさにこの大学の構内で開催されたという事実を思うと、ここにおられる多くの方はどうしても信じがたいという思いが拭えないでしょう。」と、ロナルド・ベイリーは木曜日初日の参加者に語りかけました。
(The symposium, which has attracted 57 scholars from the United States, China, France, West Germany, Japan and the Ivory Coast to this lovely 1,800-acre, leaf-strewn campus, is titled “Mississippi’s Native Son." Even though “Native Son" is the title of one of the best-known of Mr. Wright’s 15 books―the harrowing novel of black suffering and white racism in Chicago in the 1930’s that became a best-seller soon after its publication in 1940―the irony of the symposium’s title is not lost on the sponsors.
“The fact that the sessions are being held in Mississippi, and on the very campus where only 23 years ago 30,000 Federal troops were sent to protect James H. Meredith when he became the first black to enroll at Ole Miss, “have struck many of you as incredulous," Ronald Bailey told the opening day audience Thursday…. )

参加者は百五十名ほど、前年に同じミシシッピ出身の白人作家ウィリアム・フォークナーの会議には一万人が参加したと聞きました。個人的にはフォークナーは読みづらく退屈でしたので、ライトの評価は低すぎるなあと感じましたが。

Black Metropolis の共著者、貫名さんに似た白髪の大御所 St. Clair Drake さんと話をしたり、Fabre さんのThe World of Richard Wrightと小説家M. WalkerのThe Daemonic Genius of Richard Wrightの出版記念パーティーにも顔を出したり、最終日の夜にはライト自身が出演して1951年にアルゼンチンで作られた映画「ネイティヴ・サン」も観ることが出来ました。
元々学者の話を聞くのは苦手の上、僕の英語力で発表を理解していたとは言いがたいのですが、それでも本の中でしか思い描けなかった世界が、広がった気がしました。
ファーブルさんに会うのが一番の目的でしたから、その意味では願いは初日にかなっていたわけですが、二日目の夜には伯谷さんの部屋に招かれて、Fabreさんと直にお話することができました。他にもMargolies、Kinnamon, John Reilly, Bakish, Nina Cobb, John A. Williams, James Arthur Millerさんや木内さんなどがいっしょでした。ただ、高校の英語の教師はしていましたが、アメリカ化に抵抗して英語を聞かない、しゃべらないと決めていましたので、思うように自分の意志を伝えられず、木内さんに、玉田さん、英米学科出身でしょ、通訳しましょか、と言われてしまいました。戻ってからテレビやビデオデッキを買って英語を聞き、独り言でしゃべる練習を始めました。七年後、ジンバブエからの帰りにファーブルさんを訪ねたとき、英語に不自由を感じなかったのは幸いでした。
Peter Jackson氏が Native Son の擬声語表現について言及された翌朝、すっと寄って来られて、肩をぽんと叩き、あなたと同じことを言ってましたねと声をかけて下さったとき、手紙の反応を直にファーブルさんから聞きたいという願いも叶いました。
シンポジウムの副産物もありました。伯谷から2年後のサンフランシスコのMLA (Modern Language Association of America)で発表の誘いを受けました。伯谷さんは、当時僕が住んでいた明石から見える淡路島生まれで、広島大学4年生の時にアメリカに渡り、その時はケント州立大学の英語の教授でした。MLAの発表については稿を改めて書くつもりです。(宮崎大学教員)

伯谷ご夫妻と長男の嘉樹くん

日本に戻ってから、シンポジウムについて黒人研究の会の例会で報告し、会報に載せました。
「黒人研究の会会報」(第22号 (1985) 4ペイジ)
「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21~23)」
(英語訳)→“Richard Wright Symposium"