2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の6回目で、リチャード・ライトの「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(6)で「地下に潜む男」を読むようになった経緯、(7)で「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECION)、(8)で作品の中の擬声語表現に取り上げるようになった経緯、(9)で作品の中の擬声語表現、について書いています。今回は「地下に潜む男」を読むようになった経緯、です。

本文

ほんやく雑記の6回目です。

前回は詩人ポール・ダンバーの詩「愛しいわが子よ」の表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きましたが、今回はイリノイ州シカゴが舞台の「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(写真1:リチャード・ライト)

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)はアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960) が書いた中編小説で、1944年に「クロスセクション誌(Cross-Section)に収載されています。死後出版された『八人の男』(Eight Men, 1966; 晶文社、1969年)にも再録されていますが、1956年には既に、ハックスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894-1963)、トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828-1910)、モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant, 1850-1893)、サロヤン(William Saroyan, 1908-198)の小説と並んで Quintet – 5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられる程の評価を得ています。

1973年に ミッシェル・ファーブル氏(Michel Fabre)の伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright、写真2)が出版されてからは、この小説が従来の人種問題から脱皮しようとした試みとして注目され、後続のアフリカ系アメリカ人作家ラルフ・エリスン (Ralph Ellison, 1914-1994) などにも少なからず影響を及ぼした作品として再評価されました。

物語は、無実の罪を押し着せられた主人公が偶然に逃げ込んだ下水溝での様々な体験を経て警察に自首した時には既に真犯人は捕えられており、逆に警官に気狂い扱いされた挙旬、最後は元の下水溝に葬り去られてしまうという割り切れないものですが、作品が評価されたのは、主人公の<地下生活>を通して人種によって差別されたアフリカ系アメリカ人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質に気付き得る有利な立場にいるという点を描き出そうとした視点や、主人公が相手に気づかれない有利な立場から垣間見る様々の「現実の裏面」のスリリングな展開や、音や色に関する鮮やかな表現に負うところが大きいと思います。今回は中でも音に関する擬声語表現をほんやくと絡めて書こうと思います。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の時間で、たぶん青山書店から出たテキスト(写真3)で、だったと思います。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって活動しているものもいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のメシが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人です。十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」(「ゴンドワナ」3号8-9ペイジ)→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

第二次大戦前の神戸外事専門学校が戦後の制度改革で神戸市外国語大学になったそうで、教員の中には今までやらなかった分野を専門にする人たちもいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

おそらくそんな流れの中で、英語の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになったのだと思います。

続きは、次回に。

次回は「ほんやく雑記(7)イリノイ州シカゴ2」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記⑥『 イリノイ州シカゴ 』」(「モンド通信」No. 96、2016年8月3日)

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2016年8月用ほんやく雑記6(pdf 469KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の5回目で、オハイオ州デイトン出身の詩人ポール・ダンバー(Paul Laurence Dunbar, 1872–1906)の“Little Brown Baby”という詩を取り上げます。表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きました。

本文

ほんやく雑記の5回目です。

前回はアレックス・ラ・グーマの『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台になったケープタウンの第6区を取り上げ、ほんやくをする人の気持ちの大切さについて書きましたが、今回はオハイオ州デイトン出身の詩人ポール・ダンバー(Paul Laurence Dunbar, 1872–1906)の“Little Brown Baby”という詩を取り上げます。表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きたいと思います。(写真:ポール・ダンバー)

わが子と戯れる父親について詠んだ短かい詩は、次のように始まります。

 

輝く瞳の愛しいわが子よ、

こっちに来て、パパのお膝にお座り。

閣下、何をしておられたのでありますか?お砂のパイでもお作りでしたか?

涎掛けを見てごらん、パパと同じくらい汚れているね。

お口を見てごらん、きっと、糖蜜だろうね。

マリア、こっちに来て、この子の手を拭いてやってくれないか。

蜜蜂が来て、この子を食べちゃいそうだから、

ねばねばして、甘いからね!

Little brown baby wif spa’klin’ eyes,

Come to you’ pappy an’ set on his knee.

What you been doin’, suh – makin’ san’ pies?

Look at dat bib – you’s ez du’ty ez me.

Look at dat mouth – dat’s merlasses, I bet;

Come hyeah, Maria, an’ wipe off his han’s.

Bees gwine to ketch you an’ eat you up yit,

Bein’ so sticky an’ sweet goodness lan’s!

 

そのあと父親は、一日じゅうも笑みも絶やさない可愛いわが子を見つめながら、突然からかい始めます。「パパはお前なんか知らない、きっといたずらっ子だと思うよ」「戸口からこの子を砂場に投げちゃおう」「この辺りに、いたずらっこなんて要らないから」「この子をお化けにやっちゃおう」「お化けよ、お化け、戸口から入っておいで」「ここに悪い子がいるから、食べてもいいよ」「父さんも母さんも、もうこんな子は要らないから」「頭から爪先まで飲み込んじゃって下さい」と脅された子供は、ぎゅっと父親にしがみついてきます。そして、最終連です。

 

ほらほら、やっぱり、ぎゅっとしがみついて来ると思ったよ。

お化よ、もう帰っておくれ、もうこの子はあげないないから。

もちろん、迷子でもないし、いたずらっ子でもないよ。

父さんを許してくれるいい子で、遊び相手で、喜び。

さあ、ベッドに行って、お休み。

お前が、いつも平穏無事で、こうして素敵なままでいられたらどんなにいいだろうね。

お前がこのまま私の胸の中で、子供のままでいられたらどんなにいいだろうね。

輝く瞳の愛しいわが子よ!

Dah, now, I t’ought dat you’d hub me up close.

Go back, ol’ buggah, you sha’n’t have dis boy.

He ain’t no tramp, ner no straggler, of co’se;

He’s pappy’s pa’dner an’ playmate an’ joy.

Come to you’ pallet now – go to yo’ res’;

Wisht you could allus know ease an’ cleah skies;

Wisht you could stay jes’ a chile on my breas’

Little brown baby wif spa’klin’ eyes!

 

アフリカ系アメリカ人の言葉(いわゆる「黒人英語」)で書かれたこの詩はなかなか難しいですし、仕事帰りの父親が小さなわが子と戯れる様子は微笑ましいのですが、最後の仮定法の二行に来ると、ちょっとほろっとしてしまいます。

小作人(『1200万の黒人の声』より)

ダンバーは早くから詩を書いて白人の編集者に認められて国際的に有名になったそうですが、33歳の若さで亡くなっています。ダンバーの生きた頃は、アフリカ系アメリカ人には厳しい時代でした。奴隷貿易で大儲けをした南部の荘園主と、奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こしてのし上がった産業資本家が、奴隷制をめぐって南北戦争で殺し合い、法的に奴隷制は廃止されたものの、経済力の拮抗する対立の最終決着はつかず、結局アフリカ系アメリカ人は奴隷から小作人に名前が変わっただけ、苦しい生活は変わりませんでした。1890年代に入ると「奴隷解放」によって自由を夢見て南部から北部へどっと人が押し寄せますが、安価な単純労働しか求められないアフリカ系アメリカ人には厳しい現実は元のまま。特に本来なら知的労働者になるべき人たちには特に厳しい時代です。

小作人(a sharecropper)、Twelve  Million  Black  Voicesから↓

炎天下の綿摘み作業、Twelve  Million  Black  Voicesから↓

Richard Wright’s Twelve  Million  Black  Voices (1941)

merlassesは砂糖黍の絞り滓、口のまわりをべとべとにして汚くしているのは、長くて汚い仕事から戻って来た俺といっしょ、今は俺の胸の中で何とか平穏にいてもらえるが、大きくなって仕事があっても安い辛い仕事ばかり、カラーラインを越えようものなら、白人のリンチ。このまま、俺の胸の中にいてくれたらなあ、という切なる父親の願いに、ほろっとしてしまいます。人種差別反対を声高に唱えるより、「現在事実の反対の仮定」を意味する「仮定過去」を最後に二つ並べた表現の妙は、心にじんと迫ります。

リンチの一場面(『1200万の黒人の声』より)

アメリカ文学会の会誌か何かでLittle brown baby wif spa’klin’ eyes が「きんきら目玉の小さな褐色の赤ちゃん」とほんやくされているのを見かけて違和感を覚えたことがあります。「きんきら」「目玉」「赤ちゃん」は論外ですが、それより「褐色の」が気になりました。

次回は「ほんやく雑記(6)イリノイ州シカゴ」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

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2016年7月用ほんやく雑記5(pdf 286KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の4回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのラ・グーマは最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台となった自分自身が生まれ育ったケープタウンの第6区をめぐってです。わりと有名な出版社の、わりと有名な大学の教員が翻訳したひどい翻訳の一例です。意外とこの類いは多く、翻訳の90%が信用出来ないというのも、あながち否定出来ないような気もします。

本文

ほんやく雑記の4回目です。

前回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)に出て来るソウェト(Soweto)をめぐって書きましたが、今回はケープタウンの第6区を取り上げ、ほんやくする人の気持ちと文脈から想像することの大切さについて書きたいと思います。

ラ・グーマは最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台に自分自身が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。第6区は1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。(写真1:第6区の今と昔)

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

原題は A Walk in the Nightで、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はそのほんやくについてで、アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。(写真2:第6区ハノーバー通り)

次回は「ほんやく雑記(5)オハイオ州デイトン」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」(「モンド通信」No. 94、2016年6月19日)

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2016年6月用ほんやく雑記4(pdf 469KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の3回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)の中に出て来るソウェト(Soweto)という言葉をめぐってです。南アフリカもラ・グーマも全く知らない人が英語関連だからと頼まれて翻訳した最悪の一例です。意外とこの類いは多く、翻訳の90%が信用出来ないというのも、あながち否定出来ないような気もします。

本文

ほんやく雑記の3回目です。

前回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の中のケープタウン遠景を取り上げましたが、今回は同じ作家が書いた「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」("South African Writing under Apartheid”)に出て来るソウェト(Soweto)をめぐってで、ほんやくには言葉以外に内容の背景もとても大事です、という話です。(写真:ラ・グーマ)

ラ・グーマは作品の中で、オランダ系入植者アフリカーナーの国民党が1948年にアパルトヘイト(人種隔離政策)をスローガンに掲げて選挙戦を展開して単独過半数を得て以来、アフリカ人がアパルトヘイト下でものを書くことが如何に難しいかを具体的な例をあげて詳しく説明しています。

アパルトヘイト政権の強硬政策は現実にはイギリス系白人にもかなりの影響を与えており、ラ・グーマは、イギリス系のある白人教授が1972年9月にケープタウン大学で行なった講演の中で「もし英語を母国語とする人たちの経済力の影響がなければ、イギリス系白人の立場はアフリカ人の立場とさほど変わってなかったでしょう。」と述べたことを紹介しています。それからラ・グーマは次のように続けています。

・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのでしょうか。最もはっきりしているのは、多数派のアフリ人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っていて、その施設が無きに等しい場合もあるということです。「ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは」、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかありません。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されていて、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれています。国内にあるすぐれた図書館はアフリカ人には閉ざされ、ほとんどのアフリカ人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もありません。

“South African Writing under Apartheid”はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」(Lotus: Afro-Asian Writings 23 (1975): 11-21)に揚載され、2年後の1977年には「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(「新日本文学」1977年4月号)の日本語訳が出ています。問題は「  」内の日本語訳の部分です。

ほんやくした人は英文の “In the giant African township of Soweto, from which Johannesburg draws most of its labour force,….”を「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族・・・・」(96ペイジ)と訳しています。

何が問題なのでしょうか。

最大の問題は、1977年に「ソウェト」を知らない人が翻訳した、この雑誌は「ソウェト」を知らない人に翻訳を依頼して公刊したということです。

「ソウェト」はSouth West Township (of Johannesburg)のそれぞれの二文字を取った略語で、金鉱で栄える南アフリカ最大の商業都市の南西の方角にある黒人居住地区です。つまり、ほんやくした人は場所を人と考えたわけです。しかもご丁寧に「族」までつけています。

普通の人なら、南アフリカの著作についての翻訳をする際に「ソウェト」を知らない人に翻訳を依頼したりはしないでしょう。しかも1976年にはアフリカーンス語をアフリカ人に強制しようとした政権に高校生が中心になって抗議し、多数の死者を招く事態(ソウェトの蜂起)が全世界に報道されていますから、尚更です。

第二次世界大戦で旧宗主国が殺し合いで疲弊したあと、それまで一方的にやられ続けた第三世界の人たちは独立や解放を求めて立ち上がりました。その過程で自分たちの歴史や文化に誇りを持とうという動きも活発になり、それまで押しつけられた西洋の偏見を振り払おうとする人たちも大勢いました。アメリカの公民権運動ではそれまで呼ばれていたスペイン語由来のNegroを元奴隷主が偏見を持って使っていた蔑称であると拒否して、Black AmericanやAfro-Americanを使い始めました。族(tribe)もその一つです。理想主義的な人たちはその言葉使いに拘りました。少なくともそういった歴史背景を知り、アフリカ人への敬意があれば、普通の人は「族」は使わないでしょう。

この500年のいわゆる先進国の横暴は形を変えて今も続いていますが、自分たちの侵略を正当化するために「白人優位」「黒人蔑視」を徹底して捏造してきました。

たまたま修士論文のテーマにアフリカ系アメリカ人作家のリチャード・ライトを選び、その作品を理解したいと歴史背景を探るうちに、奴隷として連れて来られた西アフリカに辿り着き、その延長でラ・グーマの作品や南アフリカの歴史に関わるようになりました。その過程でこの日本語訳をみつけたのですが、ほんやくには二つの言葉をどれほど理解しているかはもちろんのこと、書かれてある内容を理解するためには作品や作者の経緯や歴史背景をいかに知っているかも大事だなあとつくづく思った次第です。

次回は「ほんやく雑記(4)ケープタウン第6区」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」(「モンド通信」No. 93、2016年4月26日)

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2016年5月用ほんやく雑記3(pdf 310KB)