2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (2) ①『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)

大学用テキスト『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)

1章で詳しく見て来ましたが、ヨーロッパ人入植者はアフリカ人から土地を奪い、課税して安価な労働者を大量に作り出すことに成功しました。アフリカ人は貨幣経済に投げ込まれ、田舎に住む人たちは税金を払うために仕事のある大都会に出稼ぎに出ざるを得ませんでした。白人以外はアパルトヘイト制度の下では白人地区での居住は認められていませんでしたので、出稼ぎに来た人たちは郊外の砂地や荒れ地に「不法に」住むしか選択肢はありませんでした。ラ・グーマはケープタウン郊外のカラード居住区に住むそんな人たちを取り上げました。主人公チャーリー・ポールズの家族がどうのようにしてそのスラムに住むようになったかは次のように描かれています。

ケープタウン近郊の地図(イギリス版 And a Threefold Cordより)

ポールズ一家の父親は、ずっと以前にその家を建てた。ポールズ一家の母親と一緒に 、田舎から都会に流れてきたときである。母親はすでにキャロラインを身ごもっており、ロナルドは洟垂(はなた)れ坊主で、怪我をした仔犬のようにくんくん泣きながら母親のスカートにまとわりついて離れなかった。父親はその土地を借りていた。土地は荒れた砂地を幾つかに仕切っただけの、がらんとして何もない空き地の一つだった。ちょうど、そのころ、高速道路から脚のように延びた土地に、ぶつぶつと出来物のようなぼろ小屋が立ちはじめ、たくさんの人びとがひしめき合って住みつくようになってきたのだ。
同じような流れ者のなかには、母親とロナルドを泊めてくれる人もいたが、父親とチャーリーは、家の材料をごみの中から探しだしたり、人に頼んでもらい受けたり、暗い夜に盗んだりした。錆びた波型鉄板や厚板や段ボールの切れ端、それにこんな物がと思われるような意外ながらくたも、一つ残らず、何キロも引きずって持ってきたのであった。横に石油会社の名前が入ったぺちゃんこにした灯油の缶と、チャーリーが集めたがらくたから引きぬいて石の上で金槌(かなづち)を使って真っすぐにした古釘の一入った缶があった。また、割れ目や穴に詰めるぼろ布、何本もの荷造り用の針金と防水紙、紙箱、古い金属片と針金の束、荷造り用木箱の横面の木、それに線路の枕木が二本あった。

『まして束ねし縄なれば』

物語には長男チャーリーの目を通した様々な出来事が描かれていますが、中でも父親の死と妹キャロラインの出産の場面が印象的です。父親は家族のために働きづめで体を壊し、雨漏りのする狭い家で骨と皮になって死んで行きましたが、死ぬ間際まで「もっとましな瓦屋根の家に住まわせてやりたかった」と子どもたちの心配をしていました。母親は苦しい生活の中から工面した掛け金で葬式の手配をして葬式を何とか済ませました。涙は見せませんでしたが、振る舞いそのものが哀しみの涙でした。
キャロラインは母親と同じく、雨漏りのする惨めな小屋で子供を産みました。叫び声で駆けつけた警官が、信じられないとあきれたほどです。
そういった日常は何も特別なものではなく、大抵の人たちはそんな状況の中でも何とか助け合いながら暮らしていたのです。
ラ・グーマは父親の影響もあって、早くから政治に目覚め、やがてはケープタウンのカラード社会の指導的な人物になりました。

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アレックス・ラ・グーマ

アパルトヘイトに反対してカラード人民機構の長として二百万人を率いながら、作家としても活動しました。当然、政府の脅威となり、何度も逮捕・拘禁され、亡命も強いられ、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は発禁処分を受けました。2作目のこの作品は、1作目の評判を聞きつけたドイツの出版社が獄中にいたラ・グーマと交渉をして出版が可能になりました。作品では雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気がうまく伝えられていますが、ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府が外国向けに作り上げた観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられて惨めな生活を強いられている姿を描きたかったからです。世界に現状を知らせなければという作家の自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から生まれた物語です。
大学用テキスト『夜の彷徨』(A Walk in the Night

この作品の翻訳が出版された1992年からずいぶんと歳月が流れていますが、今も多くの人が作品に描かれたような惨めなスラムで暮らしています。1994年に全人種による選挙が行なわれ、アフリカ人の政権が誕生はしましたが、それは白人とアフリカ人の全面対決を避けた妥協の産物でした。南アフリカの豊かな鉱物資源と無尽蔵に得られる安価な労働力から暴利を貪り続けているアメリカやイギリス、日本や西ドイツなどの先進国が自分たちの都合を優先し、富の配分を変えてアフリカ人の生活水準を上げるために一番大事なアフリカ人の賃金を引き上げる問題を先送りにしたからです。
制度的にはアパルトヘイトはなくなりましたが、ラ・グーマの描いた世界は今もほぼ現実の世界として残り続けています。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑩自信と譲歩

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカは今も飢えや貧困、病気や民族紛争などで苦しみ続けています。私たちは1994年のルワンダ大虐殺に大きな衝撃を受け、たくさんの難民が今も彷徨っています。そして、HIVの感染率はアフリカでは驚異的です。

そういった問題は慢性的で、人類によって人工的に創られ、第二次世界大戦後も形を変えて搾取構造が温存されたことによって引き起こされた必然的な結果です。しかし、それらの諸問題を解決出来るのも、同じ人類でしかないでしょう。問題を解決するには、二つのことが欠かせません。搾取し続けている先進国側の経済的な譲歩と、アフリカ諸国が持つ自分たちへの自信です。

デヴィドスンは「アフリカシリーズ」の締めくくりでも、次のように訴えています。

たとえ自分たちの努力が小さくても、援助に頼り過ぎずに、アフリカ諸国が自分たち自身が立ち上がることが最も大切です。かつて豊かで自給自足の生活をしていた人々たちが、飢えの地獄で喘ぎ苦しむことを強いられているのです。輸出用の換金作物を作らされていた植民地時代と同じ線上に、今尚とどまっているのも一つの理由です。また、アフリカ諸国が大都市だけに多額の資金を投入し、地方の開発をなおざりにして来たことも別の理由です.

こういった問題と取り組むためには、先進国の経済的な譲歩が必要です。先進諸国は今でも尚、飢えで食料を必要としている国々から低価格で原材料を買い叩き、その国に高い値段で自分たちの製品を売り付けています。もしこういった関係が今後も続くなら、アフリカ諸国の苦しみは増すでしょう。今私たちは、アフリカ人が本当に必要としているものは何かを問いかけられているのです。

こういった厳しい状況のなかでも、アフリカは戦争や紛争や饑餓や貧困をも乗り越えて何とか前へ進もうとしています。しています。その闘いは、抑圧された歴史を覆した自信、未来への夢に支えられています。

先進国は奴隷貿易と植民地支配を通じてアフリカの富を搾取して来ましたが、今も尚、形を変えてその搾取は続いています.私は、それがたとえどんなに難しくても、変えるべき時に来ていると信じます。私たちが搾取してきた富をアフリカ人に返す時が、来ているのです。(「アフリカシリーズ8」)

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バズル・デヴィドスン

自信もまた大切です。より大きな経済グループの形成も選択肢の一つになるでしょう。元タンザニアの大統領ジュリアス・ニエレレは次のように指摘しています。

今アフリカの将来に必要なものは、統合してより大きなグループを形成する経済的な必然性ですが、その枠組みを超える筋道はまだほとんど見えません。南部アフリカ地域では南アフリカを中心に経済的活動を推進する必要性を認めています。東アフリカ地域では、ケニアとタンザニアとウガンダもその必要性を認めています。

その過程は、ヨーロッパのように経済の枠だけでは終わらずに、政治的な統合にまで発展するというのが私の見方です。一度アフリカ諸国に人々のために働く政権が出来れば、経済的な必要性からだけではなくて、政治的に統合が必要であるという筋道が理解出来るでしょう。

今は資本主義が花開く時です。非常に力に満ち溢れています。アフリカはこれまで破壊され続けてきました。しかし、誰も社会主義を推し進めるつもりはありません。また、もし誰かが富を分かち合う人々のことを考えないよう類のおかしな開発をしようとしても、それもうまく行かないでしょう。富が上から流れ落ちても結局はスイス銀行に落ち着いてしまうような開発は、モブツのような独裁者の後では、時代遅れというものでしょう。市場は富を生み出しますが、富を配るわけではありません。腐敗も当然起こります。

開発が人々を助けることになり、開発に人々に責任に負える正しい政府がかかわる限りは、イデオロギーとしてどんな呼び方をしようが私は構いまません。こういった考え方を受け入れる新しい世代の指導者が現われることが、これからのアフリカの希望です。(「カビラに早期選挙を促すのは非現実的」「ロサンゼルスタイムズ」誌掲載)

ジュリアス・ニエレレ

多くの日本人は、日本は安全で豊かな国であると言いますが、効率優先。大量消費に基づく忙しい生活に満足する人はそう多くはありません。たくさん稼いで、たくさん消費しています。高度先端技術は便利で豊かな生活をもたらしてくれますが、同時に、精神的な意味で何かが奪われているとも感じています。絶え間なく続く活動に疲れ切っている人もたくさんいます。

慌ただしい生活の中で、毎日あくせくと働くことを強いられて、自分が近視眼的になってしまっていることに気付きます。社会問題に関心を示さなくなっている人もいます。とても残念なことですが、アパルトヘイトの下でのあの厳しい状況の中でさえ、南アフリカの人たちに国に希望を持とうと言えたスティーヴ・ビコのようには、自分の国のために希望を紡ぎましょうと言えないのは、残念な限りです。どれくらいの日本人が自分の国に希望を持っているでしょうか?

私たちは自分が先進国の側にいるという事実を忘れてはいけないと思います。私たちが使う電気は、アフリカの人々の安価な労働力を搾り取って得られた南部アフリカ産のウランがあるからこそ供給が可能です。日本の高度先端技術も常に餓えるか死ぬかのぎりぎりの状態で生きることを強いられている南アフリカの抗夫が堀り出した希少金属によって維持されているのです。私たちは自分たちの生き方を、考え直す必要があると思います。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長

『アフリカとその末裔たち2』

開発や援助は、投資や貿易に加えて、新しい形態の搾取機構の重要な手段です。多くの資本が、社会基盤、経済投資(コミュニケーション、電気通信など)、社会的投資(学校、病院など)に使われています。その投資は、輸出依存を強めるように計画されていて、外国の個人投資家たちにとっての必要条件でした。

開発援助(多国間援助、二国間援助)は国際機関や数カ国間での同意を得て認められる仕組みです。重要な機関は、世界銀行グループと国際通貨基金です。

世界銀行グループは、復興と支援のための国際銀行(国際復興開発銀行、通常は世界銀行と呼ばれています)、国際開発協会、国際金融公社で構成されていますが、アメリカの資本が支配的です。世界銀行は社会基盤の建設のために、個人資本の国際投資に安全な橋渡し役をしていて、時には国際世論に反しても革新主義政権の支援を中断することもあります。国際開発協会は、世界銀行を利用できない貧しい国に、金利なしで長期の貸付を行なっています。国際通貨基金は、通貨の貯蓄不足時に信用貸付で不足を補ない、システムの崩壊を防いでいます。

新しい搾取構造のもうひとつの戦略は、高い割合の利子を利用していることです。1962年の発展途上国71ヶ国は外国から270億ドルもの借金があり、利子とサービス料を50億ドルも支払っていました。1956年から1962年の間の推計では、56の発展途上国に300億ドル(約3兆2566億円)の資本が輸出され、債務国からは利子など150億ポンド以上(約2兆9817億円)の金が引き戻されていました。つまり、開発や援助の名目で金を貸し、大半は自国に回収して高い利子を押しつける、それがヨーロッパ人同士が殺し合った二つの「世界大戦」のあとに再構築した、新しい形の搾取構造の実態です。しかも、加害者側、現に搾取構造によって多大な恩恵に与っていても、アフリカは貧しいから日本が援助してやっている、と思い込んでいる人たちもたくさんいます。さらに、巧妙なのは、国際通貨基金、国際復興開発銀行、国際金融公社、国際開発協会が、借り手に、さまざまな劣悪な条件を課していることです。経済の情報を流すように約束すること、世界銀行が見直した計画や政策を受けること、貸付金の使い方について助言を受け入れることなどを習慣的に強要しています。

「発達なき成長」

新しい搾取構造の下では、アフリカの経済は歪み、恒常的に機能が麻痺したままです。経済は拡張を強いられながら、本当の発展は期待できません。強制的に成長させようとしても、発展が伴いません。多くを売って、更に多くを購入するからです。その上、世界市場での原材料の価格は、まさに原材料を買う先進国が巧みに操作するのです。この新しい形態の搾取構造が続く限り、発展途上国が成長することはあり得ません。バズゥル・デヴィドスンは「アフリカシリーズ」(1983、NHK)のなかでジェリー・ローリング(元ガーナ大統領)の自重気味に語る以下の訴えを紹介しています。

ジェリー・ローリング

ココアの生産がどうなっているか考えてみましょう。ココアを必要とする人、先進国がその品物の価格を決定しています。ココア1トンが3500ポンドを支払ってくれていた時代もかつてはありました。現在は、大体1000ポンド辺りくらいしか出してくれません。結果的に、もっともっと働いてココアを生産し、あなた方に「黄金」のココアを献上しなければならないんです。一方では、あなた方先進国からの品物は、その品物の価格は上昇、ただただ上がり続けています。私たちに押しつけている先進国の製品にアフリカ人はすっかり洗脳されて、製品が必要というだけでなく、製品を欲しがるという段階にまで来ています。

根本的な問題は、構造と体制の問題で、本当にたくさんのアフリカ人が何とかその問題を解決しようと努めてきました。しかし、大抵の人が失敗しました。ジュリアス・ニエレレもその一人で、ニエレレは同シリーズの中で次のように嘆いています。

1回目の開発計5年画を準備していた時、サイザル麻の値段は1トンにつきの通貨切り下げ以前の旧イギリスポンドで148ポンドでした、トン当たり148ポンドだったんですよ。この価格はそう続かないだろうと考え、1トンが平均で95ポンドなるようにという基準で計画を立てました。しかし、実際には70ポンド以下に下がりました。とても太刀打ち出来ませんよ・・・。私たちに何ができます?本当に何が出来ますか。第一次生産者に何が出来ます?サイザル麻をどうしろと言うんです、食べるんですか、一体サイザル麻をどうしろと言うんですかね。サイザル麻を生産したら、売るしかないんですよ。もし、世界市場の価格が下がったら、私たちに何が出来るんですか。弱肉強食の世界で、一体私たちに何が出来ると言うんですか。苦しむのは、いつも私たちですよ、ほんとに。

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ニエレレ元大統領

1980年代の半ば頃までに、国は巨額の外債と農業、産業製品の生産が落ち込んで立ち行かなくなっていました。タンザニアは世界銀行からの外国債継続の資格を得るために「構造上の調整」という思いきった計画を受け入れざるを得なくなりました。政府はウジャマー政策の下で比較的うまく行っていた医療や教育のような政策の見方の見直しを迫られました。1985年、ニエレレは大統領職を退きました。(宮崎大学医学部教員)

 

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑧経済的依存

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカ大陸に変革の風が吹き荒れたとき、欧米の指導者は直接の政治支配をこれ以上は続けられないと悟り、より容易く、より効率的に第三世界から搾取し続けるにはどうすればよいか、また中国で起きたような社会主義化を防ぐにはどうすればいいのかを考え始めました。植民地支配に代わる新しい形の支配形態を新植民地主義と呼び、エンクルマは大きな脅威と考えました。その実態について次のように述べています。

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

開発途上国の問題で外国からの干渉をやめさせるためには、名目が何であるにしても、新植民地主義を研究して理解し、公表して積極的に対抗する必要があります。新植民地主義者が使う手口は巧妙で変化に富んでいるからです。その人たちは経済分野だけでなく、政治、宗教、イデオロギーや文化の領域までも操作します。

アジアやアフリカ、カリブ海地域や中南米の元植民地地域の戦闘的な人たちと向かい合うようになって、帝国主義は単に戦略を変えました。帝国主義は何のためらいもなく、国旗も、嫌われていた植民地官僚もなしで済ませます。つまり、旧植民地に独立を与え、開発のための「援助」がそれに続くというわけです。しかし、そのような言葉を装って、以前はあからさまな植民地支配で達成していた目標を、今度は数え切れないほどたくさんの方法を考え出して達成するのです。それは、「自由」について語りながら同時に植民地主義を恒久化しようとするそういった現代的な企みの総体で、
今では新植民地主義として知られるようになりました。

新植民地主義者の先頭に立ったのは、中南米で長い間その力を行使してきたアメリカ合衆国です。アメリカは当初は手探りで、ヨーロッパ大陸の大半の国が戦争でアメリカに借金をした第二次大戦後は確かな足取りで、ヨーロッパに対抗しました。それ以来、ペンタゴン(米国国防総省)は方法論的には完璧に、細かい配慮まで配りながらその支配力を強化し始め、その具体的な例が世界の至る所で見受けられるようになりました。」
[『新植民地主義:帝国主義の最終段階』(NEO-COLONIALISM: The Last Stage of Imperialism, 1965)]

新植民地主義(NEO-COLONIALISM)

アフリカ諸国に与えた独立はアメリカには脅威ではありませんでしたが、共産主義の影響による社会主義化だけは容認出来ませんでした。アメリカ資本はラテンアメリカの場合ほどアフリカに興味はなかったものの、アフリカに対するアメリカの投資は著しく拡大して行きました。第二次世界大戦の後、資本は多国籍化されました。ヨーロッパの経済は大戦によって崩壊して全体的な力が低下し、アメリカの大企業が国境を越えて著しく成長して拡大しました。多国籍企業の多くは、アメリカの企業です。

大戦以来、第三世界でのアメリカの政策は、旧植民地列強と競い合うなかでアメリカの経済的な影響力を増加させました。自国を大事に思うアフリカ人に対する支援は、影響力を持つための戦略の一部でした。アメリカは将来のアフリカ人指導者に対する奨学金や自国を大事に思うアフリカ人に対する経済援助という形を取りました。その狙いは、独立後に親米派の指導者を養成することでした。
アメリカは独立を認められたアフリカ人政権に援助をしましたが、それはひとえに経済分野で旧植民地列強に取って代わり、共産主義の影響を防ぐためでした。アメリカはアフリカでのヨーロッパの役割を引き継ぎ始めました。

多くのアフリカ諸国が独立を認められ、自分たちの国旗を手にしましたが、同時に、経済の依存関係を継続させました。労働力の植民地分配方式は引き継がれ、主要な経済分野は外国人によって支配されました。生産物の多くは輸出品として売られ、その輸出品の大半は石油、銅、綿、珈琲、カカオ、落花生のような加工していない原料でした。アフリカの輸出の5分の4以上は、ヨーロッパ諸国向けでした。アフリカの輸入品の4分の3は、そういった国からでした。西ヨーロッパが依然として優勢でしたが、アメリカ合衆国と日本もまた、主要な貿易相手国でした。アフリカ諸国間内では、ほとんど貿易は行なわれませんでした。

アフリカの原材料の取引で暴利を貪ったのは大手の民間会社で、商取引の機密は固く守られました。多国籍企業が近代産業の技術開発を統制しました。多国籍企業は多くの国で産業を私有化し、製造分野を殆んど独占しました。しばしば民間会社は、経済の分野で支配的な地位を保持しました。独立騒動で、旧宗主国以外の資本にも門戸が開かれました。アメリカ合衆国は資本を増やし、日本と西ドイツもアフリカ資源の新しい争奪戦に加わりました。

1960年、南アフリカのアパルトヘイト体制に対抗してパンアフリカニスト会議(PAC)のメンバーが積極行動に出たとき、警察は無差別に発砲してあのシャープヴィルの虐殺の悲劇をまねきました。国連が非難決議をして経済制裁を始めたとき、日本と西ドイツはその機に乗じて第二次世界大戦で途切れていた通商条約を再締結しました。日本の場合、八幡製鉄(現在の新日鉄)が翌年に5年の長期契約を結んでいます。見返りに白人政府は居住地に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の称号を日本人に与えて貿易の便宜をはかりました。その辺りを境目に日本は高度経済成長期に入り、南アフリカは指導者を失なって長い暗黒時代に入りました。南アフリカの人たちはこの時の日本政府の対応を裏切り行為と捉えています。以降、現地の安い労働力を使って生産したトヨタや日産などの工業製品を売りつけ、ウランや金やダイヤモンドやレアメタルなどの原材料を輸入して莫大な利益を得てきています。

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ソブクエを筆頭に警察署に向かうデモ隊:ベンジャミン・ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト これ以上美しく死ねるだろうか』より

大企業が輸出用に加工する農産物もあります。自動車だけでなく、ラジオや冷蔵庫などの組み立て工場が多くのアフリカ諸国で見られるようになりました。その組み立て工場は、安いアフリカの労働力を利用するために、現地につくられています。

今日、殆んどすべての西側先進諸国は、何らかの形でアフリカに投資しています。(宮崎大学医学部教員)