2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在

ハラレに行く前の何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて書きながら、反アパルトヘイト運動の集会に出たり、講演に呼ばれて話をしたりしていました。国立大学に職を得て在外研究に行けることになった時、本当は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行きたいと思っていました。しかし、申請時の1991年はまだ南アフリカとの文化・教育交流が禁じられていましたので(白人政府の良きパートナーですから経済的な繋がりは批評に強く、経済制裁や文化・教育交流の禁止は表向きだけの政策でしたが)、ジンバブエに行き先を変えました。南アフリカの入植者が住んでいたショナ人から土地や家畜を奪って作り上げた国なので制度が南アフリカとよく似ているうえ、アメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地であったこともあって、映画の中のあの赤茶けた大地を見たいなあと思ったからです。
ジンバブエは1980年に独立していますが、経済力は完全に白人に握られ、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけっているという点では、他のアフリカ諸国と社会の構図は同じで、大統領のムガベが支配する社会主義路線の一党独裁が続いていました。

そんな国で、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできました。ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市で、欧米並みのシェラトンもあります。1200メートルの高地にあって極めて過ごしやすい土地でした。気候も温暖で、庭にはマンゴウやパパイヤがなっていました。

白人街の500坪ほどの借家

大学と子供の学校に近く、自転車で通える範囲内で、という条件で家を探してもらいました。「ジンバブエには少数の貴族と大多数の貧乏人しかいませんので不動産事情が恐ろしく悪く、ホテル住まいも覚悟して下さい」と言われていましたが、出発の2週間前に、「新聞広告が効いて、家が見つかりました」と連絡をもらい、一軒家に住むことが出来ました。アレクサンドラ・パークという白人街の500坪ほどの家で、大きな番犬と「庭番」付きで家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)でした。

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ゲイリー(ガリカーイ・モヨ)

  住み込みで24時間拘束される「庭番」のゲイリー(通称で、本名はガリカーイ・モヨ)とはすぐ仲良しになりました。正直な優しいクリスチャンで、住み始めてから10日ほど後に、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段白人の家主がいる場合家族はいっしょに住めないようですが、僕らが住むようになって家族を呼び寄せたのでしょう。私たちの2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)とゲイリーの3人の子供たちはすぐ仲良しになり、毎日ボールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだりして楽しそうでした。
庭で遊ぶ子どもたち

ゲイリーの月給が170ジンバブエドル(42000円ほど)、子供たちが蹴っていた段ボールが140ドル、番犬の餌代が150ドル、何とも複雑な気持ちでした。

ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約一万人、当時は70パーセントがアフリカ人、農学部に小象がいたりして広々としていましたが、体育館もなく、図書館の蔵書も極めて貧弱でした。大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどなく、あっても経済的には使えない人がほとんどなので、授業の間、質の悪い紙のノートに、インクの出の悪いボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。
ジンバブエ大学教育学部棟

新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、白人街にあるキャンパスの広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。

ジンンバブエ大学ではアレックス・ムチャデイ・ニュタとい教育学部の3年生(最終学年)と仲良くなりました。その年の終わりにジンバブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生でした。自分のいる寮に案内してくれた時、いっしょに食べたアイスクリームのお礼にと、金もないのにコーラをおごってくれたのが出会いでした。食べること自体が難しい大半のショナ人にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」だと、アレックスは言っていました。

ジンバブエ大学学生寮ニューホール

画像アレックス

直接お世話になった英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書き、22冊も出版をしていました。
ツォゾォさん

大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から大変でしたし、滞在中も、搾取する側の人間として、搾取される側の歪みばかりが感じられて終始息苦しいばかりでした。

行きにロンドンに10間滞在して、亡命中だったアレックス・ラ・グーマ夫人のブランシさんと、帰りにパリに1週間滞在して、リチャード・ライトの国際シンポジウムでお会い出来たソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。

ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で

ソルボンヌ大学を背景にミシェル・ファーブルさんと家族で

アレックスが部屋に連れて来た学生の最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。日本ではジンバブエに行く前にライオンに気をつけてねと何度も言われました。お互いを知らないで、グローバル化もないやろ、そんな気がしました。

以降、英語の授業の中で、アフリカやアフロアメリカの話題を取り上げ、滞在中に感じた加害者側の息苦しさを、学生に語るようになりました。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (3) ②今日的諸問題:ザイールの苦難

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エボラ特集を報じる南アフリカ週間紙

2013年12月にギニアで発生したエボラ出血熱は西アフリカで猛威をふるって多数の死者を出し、先進諸国は防疫体制の見直しを強いられました。米国では、快復後西アフリカから帰国した患者の目からウィルスが検出されて話題になりました。1995年のエボラ出血熱騒動は、エボラウィルスの脅威を描いた映画「アウトブレイク」や著書「ホットゾーン」の影響もあり、ベルリンの壁崩壊、アパルトヘイトの廃止、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災などの出来事と相まって、世紀末の大きな話題となりました。同時に、60年代のコンゴ騒乱に乗じて米国の梃子入れで政権に就いたモブツが30年後にまた大きく取り上げられることになりました。そして、2年後の1997年5月に、モブツは首都のキンシャサを追われ、モロッコへ逃亡して前立腺癌で死にました。

リチャード・プレストン『ホットゾーン』

カビラとカビラを支持する東部を中心とした反体制勢力は7ヶ月の内戦における勝利を宣言しました。勝利は、腐敗や経済不況にうんざりしていたザイール人に歓迎され、国際的にも受け入れられました。カビラはザイールをコンゴ民主主義共和国と改名し、国の首長として指揮をとり始め、1999年4月に選挙を実施し、排除したモブツの負の遺産を葬り去ることを約束しました。

ローラン・カビラ

カビラは国際的に認められましたが、その弱い政治基盤のために指導力に問題がある上、将来に対する戦略を持っていないのではないかと考える批評家もいました。欧米諸国、特にモブツの後ろ盾となって来た米国は、フィリピンのマルコスに求めたように、早期の選挙を強く要求しましたが、タンザニアの元大統領ジュリアス・ニエーレレや英国人歴史家のバズル・デビッドソンは強く反対し、鋭い切り口で欧米諸国の横暴を批判しました。

ジュリアス・ニエーレレ

ニエーレレは「率直に言えば、米国と欧州諸国は少しは恥というものを知るべきでしょう。過去35年間も虎皮の帽子を被った暴君を甘やかし、支え続けた奴らに、数ヶ月以内に選挙をしろとカビラに要求する道義上の資格などありません。奴らがいなければ、モブツはとっくにいなくなっていたでしょうから。と欧米諸国の破廉恥を指摘した上で「カビラに早期選挙を強いるのは非現実的」の中で次のように述べています

この早期選挙の要求は間違っています。民主主義への推移を望むザイールの人々はカビラに無理強いをすべきではありません。国は荒廃し続けており、零から国を再建しなければなりません。つまり、カビラは完全にやり直さなければならないのです。これには、隣国ウガンダのムセンヴェ二大統領が、イディ・アミンが残した壊滅状態から回復するために長い年月を要したように、かなりの時間がかかるでしょう。

もし米国が望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。

もし私たちが援助したいなら、選挙について考える前に、暫定政府と新憲法を含む国の基本的な政治構造を設立していく中でカビラを援助するべきです。

デビッドソンはその時の混乱を、アフリカの問題解決へつながるものとみなしてコンゴの進むべき将来を示唆しました。ベルギーの植民地勢力に奪われた富と自尊心と自己責任と意思決定の力が大惨事をもたらし、1960年のまやかしの独立後も延々と続いた過去の悲惨な歴史を振り返り、過去十数年の間に、このまやかしの独立に対する本当の反対運動が沸き起こるのを見てきたと述べました。それは地方自治と直接的な形態の自治のための中央政府と官僚からの権力移行を求める運動だと見なし、「ザイールの艱難、アフリカ的解決に誘(いざな)う」の中で次のように書きました。

バズル・デビッドソン

カビラはアフリカ人の自尊心にとってという点では本当によい知らせです。奇抜な観方かも知れませんが、その観方は二つの強い見込みに基づいています。一つは、外部の主要な勢力も、また別の騒乱と荒廃を経たのちにこの地域で得られるものがもはや何もないということです。冷戦の残酷な狂乱は過ぎ去り、処置もすべて終わりました。もう一つの見込みは、ザイールと呼ばれるこの国はもはや安全な搾取源として存在していないということです。つまり、ザイールの多くの人々は、ついに自分たちの利益を自分たち自身で管理出来るかもしれないという可能性が見えてきたのです。一世紀前にこの地で始まった無益な歳月は、終わりに近づいているのかもしれないのです。

実際上、ザイールの問題は見かけより厄介でないとわかるかも知れません。それはモブツ独裁制のあまりのひどさ故に、長い間見捨てられた人々が自分たちのことは自分たちでやれる体制が許されてきたからでしょう。もし、カビラが逃げのびている間、地方の人たちが自分たちのことを自分自身でやっていなければ、一体誰が、広大なキブ州の切り盛りをやってきたと言うのでしょうか。

「アフリカとその末裔たち続編」を出した1998年以降も、いろいろありました。カビラは暗殺され、子息が大統領になりましたが、政権基盤は弱く、民族紛争も絶えません。豊かな鉱物資源や肥えた土地や水にも恵まれる広大な国が、多国籍企業による貿易や、開発や援助の名目で行なわれている投資を通して今も先進国に食い物にされ続けている厳しい現状をあぶり出したエボラ出血熱騒動でした。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (3) ①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)

医学的な側面

HIV(ヒト免疫不全ウィルス)の構造図

エイズはHIV(ヒト免疫不全ウィルス)によって引き起こされ、性的接触や静脈注射を使う薬物乱用者の汚染された注射針の使い回しや、汚染された血液や血液製剤などの輸血を通して、体液(特に血液と精液)が交じることによって感染し、免疫機構が正常に働く人なら普通は起こらないカリニ肺炎のような日和見感染症が特徴の免疫系の症候群です。(性感染症の一つでもあります。)

HIVは主に、病原体の侵入から人体を守る細胞性免疫機構で重要な役割を果たしているTリンパ球に侵入します。T細胞の数が減少、つまり免疫力が低下しますと、複数の日和見感染症の症状があらわれます。HIVは本質的には、遺伝子情報の断片(たんぱく質の膜に覆われている9対の遺伝子)です。HIVは白血球(宿主細胞)に侵入し、その宿主細胞を自分自身のウィルス工場に変えてHIVを次々と産生することにより生き延びます。

複製の過程をまとめますと、

①HIVは、感染に対して体の防御を調整する宿主細胞(主にT細胞)にある受容体に取り付いて、表面を貫通し、タンパクの膜を脱ぎ捨てて、RNA酵素を放出します→

②ウィルスRNAは逆転写酵素(RT)によってDNAに転写されます→

③ウィルスのDNAは、インテグラーゼと呼ばれる酵素によって宿主細胞の染色体に組み込まれます→

④感染した細胞は、新たなウィルスのRNAを産生します。タンパク質と他のウィルス構成要素が、翻訳と呼ばれる過程を通して、RNAからつくられます→

⑤ウィルスのタンパク質はプロテアーゼによって小さく切断されます→⑥新しくつくられたタンパク質とRNA遺伝子は集まって、新たなHIVを形成します→

⑥新しくつくられたタンパク質とRNA遺伝子は集まって、新たなHIVを形成します→

⑦新しいHIVはその宿主細胞から出芽してその宿主細胞を殺し、移動してはまた別の宿主細胞に感染してその細胞を殺し、感染者の免疫機構の能力を奪います、

です。

それぞれの段階で潜在的な治療法の可能性がありますが、開発されているのは②の過程を阻害する逆転写酵素阻害剤と、⑤の過程を阻害するプロテアーゼ阻害剤です。逆転写酵素阻害剤とプロテアーゼ阻害剤の両方を併用する多剤療法はより効果的です。研究者はたくさんの薬を開発してきましたが、どの薬もHIVのライフサイクル(生活環)を永くは阻止出来ないでいます。HIVが体内に侵入して2、3週間もしますと、HIVは遺伝的に変異した数十億の子孫を産生します。薬剤は数十億の大部分を退治しますが、僅かのウィルスは生き残り、子孫を産生し続けます。逆転写酵素阻害剤とプロテアーゼ阻害剤の併用による多剤療法によって、HIVに感染してもエイズの発症を遅らせることが可能になり、
エイズは死の病ではなくなりました。すべてが薬との相性がいいわけではなく、耐性の問題も報告されています。しかも先進国でも費用は法外な値段です。開発途上国ではなお更です。

アフリカの惨状

「アフリカ大陸でのHIVの衝撃はあまりにも強烈すぎて、栄養や医学的な治療が改善されたお陰で平均寿命が30年ものびていたのに、その成果が相殺されてしまいました。ボツワナでは、平均寿命が60年代に見られた水準にまで下がっています。ジンバブエでは、1900年以降に生まれた子供の平均寿命が
10年も短くなってしまっています。」などの欧米諸国の報道に誇張があったにせよ、アフリカ大陸でエイズが猛威をふるっていたのは事実です。

「インディペンダント」紙(1997年11月30日)は、ジンバブエでエイズ患者の看護をしているルワファさんについて報告しています。ルワファさんはエイズ患者の家を訪問し、薬を処方したり、患者や家族に安心感を与えたりしています。

ジンバブエの地図

ある日、ルワファさんは2歳の女の子を訪ねました。その子は元気を無くし、笑顔を見せる力も残っていないようでした。ルワファさんは、地面に膝をついて、女の子を胸元に引き寄せ、抱き締めて「この子は微笑み方も忘れてしまったんです。」と言いました。

その少女の例は典型的で、祖父母と暮らし、両親と4歳の兄もエイズで亡くなりました。ルワファさんが訪ねた25歳の別の患者は、2人の子供を残したまま、3日前に亡くなっていました。年老いたおばが困惑して「どうして子供はみんな死んでしまうのだろう、どうして年寄りと幼い子供を遺して若者が死んでいくんだろう?」と言って泣きました。

別の職員はコンドームの箱を持って売春婦の所を訪ねていますが、コンドームを嫌う多くの男性がコンパウンド(たこ部屋)で家族と離れて独り暮らすことを強いられる出稼ぎ労働制度の下では、予防の大切さを教えるのは困難です。売春と、男性が複数の女性と性的関係を持つことが広く受け入れられている文化の中では、既婚女性が特に影響を受け易いのです。国連のある報告で、「大抵の女性にとって、HIVに感染する大きな危険要素の一つは、結婚していることである」と書いています。

田舎の地域では、若い女性の数が激減することによって、未だかつてない規模での経済的、社会的な危機が引き起こされる可能性があります。その女性たちが農業生産や、老人や病人や子供の世話の大部分を担っているからです。

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ジンバブエのムレワ村にて

先進国では抗エイズ治療薬で多くの人が恩恵を受けていますが、アフリカでは高価な新薬の治療の恩恵に与るのは困難な状況です。開発や援助の名の下に、資本投資や不均衡な貿易で先進国が開発途上国を食い物にするという政治的、経済的構造がアフリカを支配する限りは、根本的な問題解決は難しいでしょう。先進国の経済的譲歩が、先ず不可欠です。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (2) ② 『誉れ高き国会議員』(The Honourable MP)

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『誉れ高き国会議員』

前回のラ・グーマが描いたアパルトヘイト時代のスラムを描いた『まして束ねし縄なれば』に続いて、今回は独裁政権の続くジンバブエで辛うじて政権批判が作品にこめられている戯曲を選びました。ゴンゾウ・H・ムセンゲジィ(Gonzo H. Mesengezi )の『誉れ高き国会議員』(The Honourable MP)です。『誉れ高き国会議員』は、1992年にジンバブエ大学で在外研究をした時に見せてもらった英文科の授業で取り上げられていた英語の戯曲です。英語科では受講する学生が話し合ってテキストを選び、仕上げに毎年街で劇を上演するそうです。

ジンバブエ大学学生寮

 講義と実技を担当していたのは20冊以上の著書のあるツォゾォさん(英語科の科長代行)。オハイオ州立大学で映像と演劇の研究をしたそうで、授業は英語でやっていました。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん

 田舎の選挙区から選ばれた国会議員が、選挙民を忘れて贅沢三昧の日々を送る話です。二幕六場の短かい劇で、その概要です。

一幕一場。
国会議員シェイクスピアの愛人イザベラのマンションに教員時代の生徒だった青年チトが田舎から訪ねて来て、旱魃で飢えに苦しむ村人たちの惨状を訴えますが、突然妻が訪ねて来て国会議員は、青年と自分の愛人をカップルに仕立ててその場を凌ぎます。

一幕二場。
国会議員夫婦の寝室で妻が注射器とペニシリンを見つけて一悶着あり、国会議員は床の上で寝るはめに。

一幕三場。
食堂で、取るはずの休暇をマダムに取り上げられたガーデンボーイのスペンサーが、独立前の白人マダムよりも質(たち)が悪いと不満を並べ立てます。国会議員が何とかなだめたあと、妻がナイロビで買った日本製品の自慢を始めます。聞いていた青年チトは「日本の技術は疫病のように世界を荒らし回っています。ある日起きてみたら日本の科学者が首相になっていても不思議ではない程です。」と言いながら続けます。

日本は天才の土地
すべての島とは違う島
車が列をなしている光景が今目に入ります
明るい東京のネオンサインの下に
私たちのこの暗黒大陸を目指して
日本製のダットサンに乗ってわれらの司令官が危なっかしく車を乗り回します
日本製のパトカーに乗った警官が通りをパトロールします。

「カップル」に仕立てられた二人は帰り、国会議員は車でムバレ市場に向かいます。

一幕四場。
シェイクスピアの選挙区で、ある中年夫婦が旱魃で三日ほど何も食べていない人たちのために食事を提供し、人々は列をなして出される食事にがつつきます。農民の女性がクワショーカ(蛋白不足で起こる病気)にやられた赤ん坊を背中から下ろすと、赤ん坊は激しく泣き始めます。

二幕一場。イザベラの部屋で、議員から大手銀行に出す借金の申し込み書を渡されて、私設秘書と愛人を続ける自分の過去を振り返ります。小学校をでたあと街に出て仕事を見つけて、昼も夜も働いて秘書になり、ある日、大学卒業間際の初恋の相手に再開し、何度か部屋に行ったあと妊娠が発覚。報告すると、「卒業前の大学生がどうしてお前のような学のない女を孕ませるんだよ?」と言われて、捨てられます。そのあと職を変えて、最後に秘書になって、議員の愛人になりました。

二幕二場。
国会議員の選挙区で、選挙民を前にいかに自分が援助資金のかき集めるために世界を駆け回って成果を上げているかを語りますが、突如一人の農民が立ち上がり、怒りをぶつけます。

騙されるな、騙されるなよ。何年も同じことを聞いて来たよ。で、実際に何を見たかって?電車、そう、でも腹を空かせた人間にどんな電車が要るって?中学校、そう、しかし自分たちの手で拵えた中学校がある・・・・使ってない土地をきれいにして種を蒔き、私たちの家を建てた、それで何が起こった?警察犬を連れて警官が来た。ブルドーザーが俺たちの家を潰した・・・・ブルドーザーが作ったものを駄目にした、そして今旱魃だ。家もない。

作ったものもない。蔵は空っぽ、議員も村長もいない・・・。・・・この子供たちを見てくれ。完全にクワショーカ(栄養失調)にやられている。下痢で死にかけているのもいるし、飢えと渇きで死にかけているものもいる。俺たちはあんたを議会に送った、それであんたは何を持ってきてくれた?あんたは骨を追いかける犬みたいに小さな女の子の尻を追っかけてばかり。(イザベラを左手で抱きかかえながら)この子のお腹には子供がいて、父親はあんただ・・・。

議員は銃を抜いて構えますが、チトが飛びかかって銃を蹴り飛ばし、議員の怠慢を責め、みんなに「農民と労働がこの旱魃を乗り切ろう。自分たちの力と未来を信じよう」と語ります。

ビラ音楽が流れ、幕が上がります。

ジンバブエでは与党が圧倒的に強いために、政権を批判するのはかなり難しいのですが、この劇は社会問題にからめて暗に政権を批判している数少ない作品の一つです。公演の日にはすでにパリにいましたので、観劇はかないませんでした。招待されながら授業の成果をこの目で確かめられなかったのは、心残りです。

日本が批判的に描かれていますが、キャンパスで知り合った学生のアレックスは「日本は経済力があるんだから、外国人に日本語をしゃべらせればいいのに」と言っていました。南アフリカからイギリス系の入植者が来てからわずか百年程しか経っていないのに、大学構内ではアフリカ人同士が英語を使っていました。当時ハラレにいた日本人は百人足らずだと聞きましたが、街で見かける車の半数はMAZDAでした。かつて日本が台湾や韓国の人たちに無理やり日本語をしゃべらせた史実をアレックスは知っていたのかなあ?(宮崎大学医学部教員)

アレックス・ムチャデイ・ニョタくん