2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。

5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。

入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。

結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。

マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。

そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。

その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、教育歴はなく研究業績もほとんどなし(「黒人研究」に2本だけ)なのに大学の職が見つかるわけないわなあ、どこも博士課程に入れてくれないし、ほんまどうしたらええんやろ、と文字通り、途方に暮れました。

教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職にはなりましたが。

7年在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

(→続モンド通信9(2019年8月20日)に収載)

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の23回目で、2011年度に開催したシンポジウム『アフリカとエイズを語る』の報告、6回シリーズの3回目(発表者2番目)、玉田吉行氏の発表についてです。

アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(3):玉田吉行氏の発表

「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」    玉田吉行

玉田吉行氏

 玉田と申します。よろしくお願いします。大学では英語を担当しています。1982年ころからアフリカについて考えるようになりました。その過程で考えたことも踏まえて、今日はアフリカのエイズのお話をしようと思います。

アフリカ大陸がエイズで大変なのは間違いないのですが、私たちが日頃接する報道が必ずしも実態を伝えているようには思えません。経済的に豊かな欧米諸国の情報が中心だからです。実際に苦しんでいるアフリカ人の声が、あまり伝わって来ません。

先ほどの服部くんの話にもありましたが、HIVは血液や精液で感染するのだから禁欲して貞操を守りコンドームを使えば予防できるという「ABCモデル」(Abstinence=禁欲、Be-faithful=貞操、Use a Condom=コンドーム)、そしてHIVに感染すれば抗HIV製剤で治療すれば発症を抑えて通常の生活が出来ると言われますが、そう言った生物学的、医学的な方法だけではアフリカのエイズ問題は語れないと思います。

私自身も何年か前にお腹を壊しておかゆを食べる生活が続いたのでよくわかりますが、
抗HIV製剤を飲めばいいとわかってはいても、胃腸の調子が悪い時に大量の薬を飲むのは苦痛です。実際にジンバブエに派遣された日赤の桜井さんという看護師さんが、あとで天満くんが話をするザンビアで処方してもらった抗HIV製剤を飲む40代の女性の話を報告しています。薬を飲み忘れると効果がないので桜井さんは家庭訪問をして指導を続けていたそうで、ある日11時頃に訪問して薬の飲み忘れがないかを尋ねたところ、
飲んでないというので理由を聞きました。すると女性は「薬をきちんと飲まなければ死んでしまうのはわかっていますが、空腹時に飲むと副作用がひどく耐えられないので、必ず食後に飲むようにしています。でも今日は食べるものがなくて、朝から食べ物を探していますがまだ手に入らないので飲めずにいます……。私だって早く薬を飲みたい……。」と涙ぐんで話をしたそうです。いくら薬があっても食べられない状態では薬は飲めないわけです。

エイズは病気とたたかうために本来人間に備わっている免疫機構がやられる病気ですから、充分な食事が取れない人には非常に影響力があります。食うや食わずの人が多いアフリカでは、先進国以上に深刻な問題で、贅沢な生活に慣れた先進国の人にはわかりづらいという面はあると思います。

2003年にアメリカの大統領ブッシュがアフリカのエイズ対策に150億ドル(約1兆350億円)を出すと声明を発表した場にいた元ザンビアの大統領ケネス・カウンダはその援助を実際に複雑な心境で受け止めています。直後のインタビューで、エイズ問題の根本原因は貧困であると発言したムベキについて聞かれて、次のように答えています。

違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、1200ドル(約108万円)で生活していますからね。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしてますから。もしうまく行って・・・将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかり食べて、ちゃんと風呂にも入り、何もかも何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね。

ケネス・カウンダ

欧米のメディアや先進国の政府や製薬会社はこぞってムベキを批判しましたが、多くのアフリカ人はムベキに好意的でした。反応はまったく違ったわけです。

1994年にネルソン・マンデラが大統領になったとき政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズの問題は、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。最初はムベキも禁欲、貞操、コンドームという西洋流の「ABCモデル」に沿って対策を講じたようですが、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。1996年に抗HIV製剤が出まわり始めエイズは不治の病ではなくなりましたが、非常に価格が高くて南アフリカでは手が出ませんでした。1997年、ムベキは急増するHIV感染者に薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。製薬会社が地盤のゴアは製薬会社の利益を守るために、二国間援助の打ち切りをちらつかせて一国の代表を恫喝したわけです。

1999年に大統領になったムベキはエイズの問題と本格的に取り組み始めました。エイズ問題を含めアフリカの問題はアフリカで解決するというのがムベキの考え方で、2000年当初にはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていました。そして、国の内外から専門家を招待して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請しました。ダーバン会議の一週間前に「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言を発表し、ダーバン会議では内外の厳しい批判を浴びながらそれまでの主張を次のように繰り返しました。

私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。
私がずっと考えて来た疑問の一つは、安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうかということです。

エイズは免疫機構をやられる病気なわけですから、ムベキの主張は妥当だと思います。ロンドン拠点の英語の月刊誌「ニューアフリカン」はアフリカの官僚やビジネスマン、
医師や弁護士などに広く読まれているそうですが、1999年にガーナ出身のバッフォ・アンコマーが編集長になり、ムベキが大統領になって、歩調を合わせるように雑誌の傾向を大きく変えました。アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増え、扱うテーマも幅を広げました。
①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の副作用、⑤マスメディア、⑥貧困などが中心で、早くから西洋のエイズの見方と違う意見を出し、ムベキを擁護しました。

服部くんも言っていましたが、「先進国」ではエイズの起源がアフリカであると話題にしますが、アフリカ人の見方は違います。最初にエイズ患者が出たのはアメリカなのに、アフリカ起源説はおかしい、西洋社会は流行の責任をアフリカに転嫁している、と考えます。

また、アフリカと欧米で感染の仕方が異なっている点に注目して、アメリカ人の歴史家チャールズ・ゲシェクターは、1994年に「(1)エイズは世界で報じられているほど実際にはアフリカでは流行していないか、(2)エイズ流行の原因が他にあるか、である」という興味深い指摘をしています。ゲシェクターは主流派が言う「エイズ否認主義者」の一人ですが、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめています。しかし、政府も製薬会社も主流派もマスコミも、こぞってその会議を黙殺しました。

ゲシェクターが「(1)エイズは世界で報じられているほど実際にはアフリカでは流行していない」と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからです。エイズ検査が実施される以前は、医者は患者の咳や下痢や体重減などの症状を見て診断を下していましたが、咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の病気にも見られる一般症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛れ込んでいる確率が高かったわけです。エイズ検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものが信ぴょう性の非常に低いものでした。つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクターは判断したのです。

世紀の変わり目の2000年前後に「HIVの感染率が30%以上の所もあり、崩壊する国が出るかも知れない」という類の記事がたくさん出ましたが、潜伏期間が長くて10年から15年ということを考えても、十年以上経った今、エイズで崩壊した国はありませんから、
報道そのものの元データが不正確だったと言わざるを得ません。二つ目の「(2)エイズ流行の原因が他にある」とゲシェクターが考えたのは、アフリカがエイズ危機に瀕しているのは異性間の性交渉や過度の性行動のせいではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制度、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得ないからです。それは後にムベキが主張した内容と同じです。

先ほども言いましたが2000年前後にマスコミは意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てました。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます。」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませました。

それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものです。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なります。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなりますので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになります。
つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカのエイズの実態を反映したものではなかったわけです。

ではなぜそんなでたらめなデータがどうしてまことしやかに流れたのでしょうか。
理由は簡単です。日本の原子力エネルギー政策に似て、利害が複雑に絡んでいたからです。シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣は「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えました。別のウガンダ人は「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」と語りました。

シェントンが指摘するように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです。」莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけです。

玉田吉行氏

私自身アフリカに関心があったわけではありません。ほとんど知りませんでした。ジンバブエを国の名前ではなく、笛の一種だと思っていたほどですから。読んだり書いたりする空間がほしくて大学を探そうと考え修士課程に行き、修士論文のテーマにアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトを選びました。人種差別のひどかったアメリカ南部の出身で後にシカゴからニューヨークに移り、最後はパリに渡った人です。パリでガーナの独立についての訪問記『ブラックパワー』を書いたのですが、それが私のアフリカとの出会いです。

1985年にミシシッピ大学でライトの国際シンポジウムがあり参加して、ライトの伝記を書いていたソルボンヌ大学の教授だったミシェル・ファーブルさんとお会いしました。
それまで英語をしゃべらないと決めていたのですが、憧れの人に自分の思いが伝えられないのが悔しくて英語をしゃべろうと決めました。

その会議でゲストスピーカーだったケント州立大学の教授伯谷嘉信さんから1987年の会議で発表しないかと誘われました。その会議の「英語と米語以外の英語による文学」という部会で南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて発表しました。それが南アフリカとの出会いです。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

作品の背景が知りたくて色々と調べている過程で、16世紀初めに始まった西洋の侵略の歴史を垣間見ることになりました。西洋社会は1505年の東アフリカのキルワでの虐殺を皮切りに、西海岸での350年にわたる大規模な奴隷貿易によって莫大な富を蓄積し、その資本で産業革命を起こしました。大量の工業製品を生み出し、その製品を売るための市場の争奪戦でアフリカを植民地化し、やがて二つの世界大戦を引き起こしました。大戦で総力が低下したために一時アフリカ諸国に独立を許しますが、やがては復活を果たし、今度は援助と開発の名の下に、多国籍企業と投資の現在の体制を再構築して今日に至っています。侵略を始めたのは西洋人ですが、奴隷貿易や植民地支配では首長などの支配者層が西洋と取引をし、新植民地支配でも、少数のアフリカ人が欧米諸国や日本などと手を携えて大多数のアフリカ人を搾取して来ました。何よりの問題はその搾取構造が今も続いているということです。エイズ問題もそういった歴史の延長線上で考えなければ、実像を捉えることは出来ないと思います。

南アフリカに渡った入植者はアフリカ人から土地を奪って課税をして大量の安価なアフリカ人労働者を生み出し、その人たちを鉱山や大農園や工場や白人家庭でこきつかいました。

私は1992年に在外研究の場所にジンバブエ大学を選び、家族で二ヶ月半、ハラレで暮らしました。白人から一軒家を十万円で借りたのですが、敷地が500坪もありました。

大きな番犬がいて、家主が雇ったゲーリーというガーデンボーイが住んでいました。すぐに仲良しになり、月給が4200円ほど、結婚して3人の子供がいて、一年の大半は家族と離れて暮らしていると知りました。遊びに来たゲーリーの子ども3人と私の子供二人のために買ってきたバスケットボールが500円ほどで、ゲーリーの給料よりも上でした。
番犬のえさ代が4000円ほどでした。今まで本で読んでいた内容と同じような世界が広がっていました。日本が加害者側にいるという意識が離れなかったせいでしょうか、ハラレにいる間じゅう、息苦しい思いがしてなりませんでした。

ジンバブエ大学は唯一の総合大学でエリートが集まっていましたが、学生に聞かれた最初の質問は「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。当時米国のニンジャ映画がはやっていたからでしょう。私は「日本でもたくさんの人がアフリカ人が裸で走ってると思ってるよ。こっちに来る前に、ライオンに気をつけてね、と多くの人から言われたし。」と答えました。これでは国際交流も何もないと思って、帰ってからは、やがては指導的な立場に立つ医者の卵に、世界での日本の位置や社会での自分の位置を考えてもらえるように、何より自分について考える材料になればと考えて、前にも増してアフリカのことを授業で取り上げるようになりました。

アフリカ系米国人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学に職を得て医学に目を向けるようになって24年目になりますが、その過程で得た結論から言えば、アフリカとエイズの問題を考えても、根本的な改善策があるとは思えません。
英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的な改善策には先進国の大幅な譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。いつも授業の最後にため息しか出ないなあとつぶやくのですが、これから発表する3人は極めて前向きにアフリカと向き合っています。今回のシンポジウムに参加してくれたことを深く感謝し、この人たちに一縷の希望を託したいと思います。山下くんからよろしくお願いします。

次回は三番目の発表山下創:「ウガンダ体験記:半年の生活で見えてきた影と光」をご報告する予定です。(宮崎大学医学部教員)

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

執筆年

  2012年4月10日

収録・公開

  →「モンド通信 No. 44」

ダウンロード・閲覧

  (作業中)

2010年~の執筆物

概要

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告していますが、前号でご紹介した「『アフリカとエイズを語る』報告(1)」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)の続きで、最初の発表者服部晃好(はっとりあきよし)氏の報告です。

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(2):服部晃好氏の発表

会場で紹介するために司会進行役の南部みゆきさんが予め本人から聞いていたアフリカ滞在歴と経歴は以下の通りです。

「服部晃好(はっとりあきよし)北海道足寄我妻病院医師

1994年より1996年まで青年海外協力隊員(職種:理数科教師)として、タンザニアの地方都市キゴマの中学校で数学を担当、1998年より2000年まで青年海外協力隊コーディネイターとして、ケニアの首都ナイロビのJICAケニア事務所で教育分野を担当しました。その他、エジプト、南アフリカに短期(1~3ヶ月程度)滞在の経験があります。」

現在(2020/2/29)は北海道新冠郡の→「新冠町立国保診療所」の勤務医です。医師は2名のようです。発表ではパワーポイントのファイルを使ってたくさんの写真を紹介していますが、写真は省いてあります。

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「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」  服部晃好

服部晃好氏

今日は、『HIV/AIDSとアフリカ-東アフリカでの経験から考える』というテーマでお話をしたいと思います。

最初に簡単な自己紹介をします。
私は、元々、地元の工業大学を出て、地元の企業に勤めていたのですが、思うところがあって3年で会社を辞めて青年海外協力隊に参加しました。協力隊では東アフリカ・タンザニアの田舎の中学校で数学の先生を2年3ヶ月ほどしました。その後、一旦、日本へ帰ってきたのですが、アフリカの魔力にとりつかれてしまって、再度、協力隊がらみの仕事で今度は東アフリカのケニアで2年と少し仕事をしました。このようにアフリカで4年半程生活したわけですが、そのアフリカで色々な出来事があって医師を志すようになり、2001年に宮崎医科大に入れてもらい、2007年に無事に医師免許を頂いて、今は北海道で地域医療に関わっています。

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

最初に、私が滞在したタンザニアとケニアの場所をおさらいしておきますが、アフリカの東側、インド洋に面して並んでいます。両国の国境線の上には、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山があり、その周辺にはライオンや象などの野生動物のための国立保護区が多数ある、日本人が想像するいかにも「アフリカ」という景色が広がっているような所です。

タンザニアでの授業風景も少しだけ紹介します。煉瓦を積み上げただけの校舎、トタン屋根で天井がないのでスコールが降ると声がかき消されて授業にならない状態でした。黒板に見えるのは、実はコンクリートを塗った壁に黒いペンキで色を付けただけの物なので、一時間の授業で何本もチョークが折れて大変でした。ただ、生徒達はとても勉強熱心で、私の下手くそな英語の授業も真剣に聞いてくれるので、とてもやりがいのある仕事でした。

私が医師を目指す大きなきっかけとなったのが、タンザニアの中学校の同僚だったグゥイリエ先生です。タンザニアで生活し始めた頃、色々と苦労をしていた私を常に助けてくれたのがこの先生だったのですが、私が帰国する前にAIDSを発症してアッと言う間に無くなってしまいました。この先生の死をきっかけに、私は帰国後の進路として真剣に医師を考えるようになったと思います。

さて、余談はこれぐらいにして、ここから本題のHIV/AIDSのお話をします。

今回、シンポジウムの最初の発表者ということで、HIV/AIDSの現況と生物学的なおさらいをした後で、私の東アフリカでの経験を元にしたお話をさせていただくつもりです。

まずHIV/AIDSの現況についてです。
国連・WHOの発表によれば、2009年におけるHIV感染者の推定値は、全世界で3330万人なのですが、そのうちサハラ以南のアフリカ(以下、SSA(Sub-Saharan Africa)と略記)には2250万人が居て、世界中の感染者の実に3分の2がSSAに集中していることになります。

次に、2009年に新たにHIVに感染した人の数ですが、全世界で260万人に対し、SSAでは1800万人と、これも世界の3分の2を超えています。

また、2009年の1年間で、全世界で180万人の方がAIDSで亡くなっているのに対し、SSAでは130万人と、これも断トツに高い割合となっています。

こうして見てくると、とても素朴な疑問がわいてきます。『なぜ、全世界のHIV感染者の2/3がSSAに集中しているのか』と。

これはケニア西部・ビクトリア湖に近いマタタ病院で撮影した写真ですが、左側はAIDSを発症して下痢や感染症で衰弱した成人男性、右側はお母さんからの垂直感染でHIVに感染した乳児で左大腿の感染の治療をしていました。この時期(1990年代末)、この病院では全入院患者の75%、つまり4分の3がHIV陽性だったと聞いています。

次の写真は、先ほどのマタタ病院がある地域のお葬式・埋葬の様子ですが、この地域ではHIV/AIDSによって沢山の方が亡くなり、毎週のようにこうしたお葬式が行われていました。右側の写真の白い衣装を着た人達が、亡くなった方のご家族ですが、この4人のうち3人はHIV/AIDSでご主人を亡くされているそうです。

ここで、再び先ほどの疑問に戻るわけですが、「なぜ、アフリカに集中しているのか」「なぜ、アフリカがHIV/AIDSの影響をこれほどまでに受けるのか」について、現地での経験を紹介しつつ少しだけ考えてみたいと思います。

ただ、その前に、あまりご存じでない方もいらっしゃるかもしれませんので、HIV/AIDSの基本的な事項について少しだけおさらいをしておきたいと思います。

まず、HIV/AIDSとはそもそも何かということですが、HIVはHuman Immunodeficiency Virus=ヒト免疫不全ウイルスという英語名の頭文字を並べたものです。このウイルスはCD4陽性Tリンパ球やマクロファージといった免疫を担当する細胞に感染することで、ヒトの免疫機能を低下・破壊していきます。そうして免疫力が低下することで様々な感染症や悪性腫瘍などに罹患しやすくなった状態を、Acquired ImmunoDeficiensy Syndrom=後天性免疫不全症候群と呼びます。通常、HIVに感染して数年から10年以上経過してAIDSを発症すると言われています。

HIVの生物学的なことも見ておきたいと思いますが、これがHIVの構造です。右側は電子顕微鏡の写真ですが、内部に遺伝子などを含む核の部分があり、その周囲を膜が覆い、その表面から多数の突起が出ています。この突起がヒトの免疫細胞(CD4陽性リンパ球など)に結合・感染する時に重要な働きをすると言われています。

HIVのリンパ球の感染および増殖の過程を模式的に表したのが次の図です。リンパ球の表面に結合したウイルスは、自分の遺伝子をリンパ球の内部に入れて、リンパ球の遺伝子に自分の遺伝子を組み込んでしまいます。そのためリンパ球が遺伝子に従って様々な活動を行うのに伴って、組み込まれたウイルスの遺伝子に従ってウイルスのコピーが作られ、それらがこのリンパ球から次々に放出されていくことになります。そして、このウイルスに感染したリンパ球は次第に死んでいきます。

これは先ほどのHIVウイルスの感染・増殖過程を電子顕微鏡で見たものですが、左側はウイルスがリンパ球の表面に接着・侵入していく様子です。一方、右側はリンパ球の内部で作られたウイルスのコピーが表面から次々に芽を出すように飛び出していく様子です。

次の写真も電子顕微鏡の写真ですが、リンパ球の表面から無数のHIVウイルスが飛び出してきているのがわかります。このように1個の感染ウイルスから無数のコピーを作られるプロセスが繰り返し行われ、最終的に免疫を担う細胞の数が減ってくると、様々な感染症などに罹りやすくなり、いわゆるAIDSと呼ばれる状態になります。HIVは血液や体液を介して感染していきます。主な感染経路は以下の3つです。

①性行為による感染(異性間・同性間ともに)、
②血液による感染(薬物などの注射に伴う針・注射器の使い回し、輸血など)、
③母子感染(出産時や授乳による)。

1980年代の前半、アメリカでAIDSが報告され始めた当初、AIDS患者は男性同性愛者や麻薬常習者が多かったために、そうした人々に対する社会的な偏見・差別がそのまんまHIV/AIDSに向けられて、今でも感染者には偏見が向かったりしていますが、性感染症である以上、HIV/AIDSは同性愛者や麻薬常習者の特別な病気ではなく、誰でも罹りうる病気です。

先ほど見たように、HIV/AIDSの問題点としては、私達の免疫細胞の遺伝子にHIVの遺伝子が組み込まれてしまうために、今のところ一度感染が成立するとHIVは体内から排除することができないということです。そうなると、HIVに感染させないようにするために、ワクチンという方法が最も効果的になるのですが、これまで30年近く研究されているにも関わらず、いまだに実用化はされていません(かなりいい線までは来ているようですが)。ということで、治療としては、先ほどのようなHIVの増殖を抑えるための薬を複数組み合わせて内服するという方法(ARTという)が主流です。

最近の治療法では、一応、ウイルスを検出できる限界以下まで少なくすることはできるようになっているので、HIVに感染してもAIDSを発症せずに生き続けることが可能になっていますが、HIVを完全に排除できているわけではないので、もし薬の内服を止めてしまうとウイルスの増殖が再び盛んになって、AIDSを発症することになります。このように、現在、HIVに感染した人々は、HIVの増殖を抑えつつ、HIVとともに生きていくことになるため、「HIV患者」「AIDS患者」ではなく、PLWHA:People Living With HIV/AIDS(HIV/AIDSとともに生きる人々)と呼ばれるようになっています。

今のところ、HIVは1930年代にアフリカの「サル免疫不全ウイルス」がヒトに感染するように変異したものと考えられています(科学的には)。つまりHIVの起源はアフリカにあると言えるわけですが、タンザニアで教師をしていた時の私の教え子達は、誰一人としてそれを認めようとはしませんでした。ある生徒が曰く、「アメリカで最初に発見されたのだから起源はアメリカだ。アメリカ人がアフリカ人にうつして、それがアフリカ人のフリーセックスで広まったんだ」と言っていました。

このセリフを聞いた私は、すぐに訂正しようかと思いましたが結局やめてしまいました。誰だって、こんな致死的な、しかも、偏見に満ちた疫病神の様なウイルスが自分達の所から出現したと思いたくはないだろうと思ったからです。HIVが仮にアフリカ起源であったとしても、別にアフリカ人を非難することには繋がらないだろうと思うのですが、当事者としての心情はそれだけでは済まされないのでしょう。ことの真偽はともかく、私達はアフリカ人のこうした心情にも、やはり理解の目を向ける必要があると思います。

さて、ここで最初の素朴な疑問に戻るわけですが、なぜSSAにHIV感染者が集中しているのでしょうか。先にお話したHIVの性質そのものは世界中で同じなのに、なぜアフリカだけがそんなに影響をうけるのでしょうか。

あるNGO(AVERT.ORG)のWEBサイトを見ると、HIVがSSAで蔓延した要因として、

①貧困・経済格差、
②社会の不安定さや政府の無策、
③男女不平等(女性軽視)、
④急速な都市化や伝統的な風習、
⑤性行動の違い、ほか多数の要因が指摘されていますが、

決定的な要因を指摘することはできないとしています。

最近でこそ、HIV蔓延の背景にはアフリカ諸国が抱える根本的な問題(すなわち貧困)があると言われるようになっていますが、一般的にはSSAにおける性行動の違い、すなわち、SSAの人々が他の地域の人々に比べて性的にActive、悪く言えば「性に対してふしだら」、という前提での議論そして対策が基本になっているのは間違いないと思います。ここではそれについては詳しく触れませんが、アフリカ人の性行動が他の地域に比べてとりわけActiveという証拠は示されていないはずです。

HIVがSTDであることから、アフリカに限らずHIV/AIDSの予防・啓発における基本的なアプローチとして、『ABCアプローチ』というものがあります。『A』はAbstience(禁欲)、『B』はBe faithful(貞操、パートナーに対して誠実)、そして『C』がuse Condoms(コンドームの使用)を示したものであり、『ABC』でうまくいかないと『D』すなわちDeath(死)が待っていると説明されます。

これはケニアにおけるHIV/AIDS(予防)教育の様子ですが、事前に集会の案内をして子供からお年寄りまで村の広場などに集まってもらい、ビデオ上映や人形劇・寸劇などでわかりやすくHIV/AIDSの危険性や感染予防などについて説明し、最後はコンドームを配って終了・・・という感じでやっていることが多いようです。

アフリカでは『ABC』の中でも特に『A』と『B』がことさら強調される印象があるわけですが、それは複数の性的なパートナーを持つ人が少なからずいることが一因だと思います。

このような禁欲や貞操を訴えるスワヒリ語のポスターなんかもタンザニアにありましたが、例えば複数のパートナーを持つ人がいると言っても、それを『アフリカ人=性行動が活発』と短絡的に考えるのはナンセンスです。これからいくつか例をご紹介しますが、そこには社会的あるいは文化的な要因が存在しており、そうした背景をきちんと理解するなど相当に基本的なところからアプローチをしていかないと、有効な教育効果につながらないと考えられます。

HIV/AIDSの新規感染者は、現在、先進国では男性の割合が多いのですが、SSAでは他の開発途上地域に比べても女性感染者の割合が多く、全体の6割近くを占めています(2006)。特に若年者でその傾向が強く、15~24歳に限って言えば、SSAの女性感染者の割合は男性の8倍にもなっています。

生物学的に女性は男性よりも性交渉の際にHIVに感染しやすいのは間違いないのですが、それは当然世界共通であるはずです。SSAの女性感染者の割合が多くなっている背景には、経済的・社会的・文化的な理由があることを私達は理解すべきです。

例えば、これはケニア西部のカトリック系の診療所で週1回配給される食事をもらいに来ていた親子の写真ですが、母親は16歳でお腹には2人目の子供がいました。抱っこしている子供は推定2歳ですが、栄養失調で髪や眉が茶色に変色してしまっており、目もうつろな状態でした。このように若年で十分な扶養ができない状況でも妊娠をする現状があるということです。

ケニアの地図

私がタンザニアで教えていた学校の近くにも、このような看板を見つけることができました。書いてあるのは「Say No! to sugar daddy」とか、「Refuse offers from sugar daddies」とかだったりします。それぞれ「Sugar daddyにはNoと言おう!」とか、「Sugar daddyからの申し出を断ろう」という意味ですが、ここで言うSugar daddyとは、若い女性と性的な関係を持つ代わりに金銭や物品を与える年上の男性のことです。Sugar daddyそのものは欧米に元々あった概念ですし、日本では「援助交際」などという言葉もあるわけですが、アフリカの場合、学費を得たり家族を養ったりする目的、つまり、生活上やむを得ずこうした関係をもつ若い女性がいます。また、先進国と比べれば女性の地位の低さや交渉力の弱さは明らかです。伝統的に男性には複数の女性との性関係が容認される傾向にあったりするのですが、女性が安全な性行為を男性に要求する・・・具体的にはコンドームの使用を要求する・・・ことは困難ですし、そもそも男性の方が優遇される社会であり教育の機会も少ない傾向にあることからHIV/AIDSに関する知識が少ないなどの問題があります。更に、地域によってはイスラム教などの宗教とは別に伝統的に一夫多妻制が残っていたり、Wife inheritance(=亡くなったご主人の兄弟や親戚が、残された未亡人と結婚して彼女を養う制度)や、Purification(=未亡人の「禊ぎ」あるいは「清め」のためにある特定の男性と性交渉を行うこと)などといった、我々には馴染みのない風習が今も存在しており、HIV/AIDSの拡散につながっているという指摘もあります。

これらは、いわゆる「ジェンダー不平等」と言って途上国に共通した問題ではあるのですが、SSAに見られるこうした習慣、考え方、行動様式などを、私達の、あるいは西洋的な尺度だけで「未開」であるとか、「野蛮」だなどと即断しないように注意する必要があると思います。我々には理解しにくいものであっても、それぞれの民族、人々の中で長く受け継がれてきたのには、当然、何らかの理由が存在するからです。例えば、Wife inheritanceは未亡人やその子供をClan(部族)の中で継続的に扶養する目的で生じた制度であると考えられますし、Purificationについても霊的な存在を意識しての儀式的なものであると考えられるのです。現地の状況を客観的に評価した上で、適切な対応(ex. 行動変容のためのアプローチ)をとることが必要です。

話は変わりますが、私がタンザニアの中学で教えていた時、生徒達に何度かビデオを見せたことがあるのですが、ジュラシックパークを見せた時の反応はすごかったです。事前に生徒達には簡単な内容説明をしたのですが、見終わった生徒は誰もフィクションだとは思わず、実際に起こった事件の映像だと信じて疑いませんでした。確かに、我々も最初に見た時にはその精巧なCGに驚いたわけですが、日本の高校生ならこれを現実の話だとはまず思わないでしょう(タンザニアの生徒達の年齢は18~25歳ぐらいで、日本の高校~大学の年齢です)。生徒達があまりに真剣に「先生、俺にだけは本当のことを教えてくれ。どこであった話なんだ?」などと迫って来た時には、こちらの方が驚いてしまいました。

ただ、振り返って自分の周りをよく見てみると、私のいたタンザニアの田舎には動画はおろか色のついた絵や写真の類もほとんどありませんでした。とにかく圧倒的な情報の少なさがあり、当然、そうした情報を処理するとか、それを元に応用するとかといった力が養成されないのです。しかも中学校に入学できるのは同世代の子供の5%程度、つまり生徒達はほんの一握りのエリートということになります。とすれば、教育を受けていない(=受けられない)大多数の子供達の情報不足(教育の不足)は更に深刻なものと言えます。

個人的には、こうした国民全体への絶対的な教育の不足がHIV/AIDS対策においては大きなネックになっていると思っています。もちろん教育だけでなく、ジェンダー不平等、社会の不安定さ、進まない経済開発など、SSAの国々には様々な問題が山積していますが、その元凶はやはり「貧困」=「国力のなさ」であり、その背景には、奴隷貿易から植民地政策にいたるアフリカの国々が歩んできた歴史的な苦難と、現在も続く我々日本も含めた先進国の対アフリカ政策があると言えます(我々の裕福な生活がアフリカの人々の貧困の上に成り立っているのは意識しないとわかりません)。ただ、これについては、この後、玉田先生がお話くださると思いますので、ここでは触れないでおこうと思います。

これはケニアの首都ナイロビの写真です。ナイロビは人口が800万人とも1000万人とも言われるアフリカ有数の大都市で、市の中心部にはこのように高層ビルが林立し、自動車の大変な渋滞が常に起こっている状況なのですが、街の中心を少し外れるとアフリカ最大とも言われるキベラスラムが存在しています。この様子は、世界における我々とアフリカの縮図でもあると言えるのではないでしょうか。

最後に、私は現役の医者ですので、少し医療的な側面でSSAにおけるHIV/AIDSの蔓延について見てみたいと思います。

1990年代の半ば頃、青年海外協力隊員に支給される医薬品セットの中には、必ず注射器と針が含まれていました。もちろんHIVなどの感染予防を目的としたもので、「病院などで注射が必要な時などにはそれを使ってもらうように」と指示されていました。

ある時、私の近くの任地にいた協力隊員がマラリアに罹ったのですが、意識障害になるほどの重症のマラリアであり、任地の病院に入院してキニーネの点滴が行われることになりました。幸いその病院の点滴セットや針は全て使い捨てだったのですが、数日後、症状が改善してきたのでマラリア検査を再度行うことになった際、看護師が持ってきた金属製のバットの中には、10人以上から採取した検体のプレパラートと、たった一本の針だけが載っていました。私の友人は、その針で指を一刺しして血液を一滴採ってもらってからそのことに気づき、HIVに感染した可能性があることをすぐに悟って青くなったといいます。結局、帰国時のHIV検査では問題なく、彼の心配は杞憂に終わったわけですが、HIV/AIDSが発見されてから30年が経った現在でも、アフリカの医療現場(特に地方の小さなクリニックのレベル)では、針などの使い捨てや医療器具の消毒・滅菌が徹底されておらず、それがHIVの感染をかなり助長しているという報告が少なからずあります。こうした報告は、HIV/AIDS対策のメインストリームの人々からはほとんど黙殺されているようですが、私自身やケニアで病院勤めをしていた私の妻の経験でも、十分に可能性があるのではないかと思っています。その背景にもやはり「貧困」が大きく横たわっていると言わざるを得ないと思います。

最後に簡単なまとめですが、

① 1990年代の感染拡大期に十分な対策がとられなかったために、SSAではHIV/AIDSが蔓延した。
② その背景にはSSAのDisadvantage(歴史的および現在も続く苦難)が存在しており、その改善なくしてHIV/AIDSの根本的な対策は成立しないと考えられる。
③ HIV/AIDS対策における支援にあたっては、先進国や西欧的な価値観・考え方だけに基づいた先入観や押しつけをすることなく、そこにいる人々を巻き込んで問題を把握・分析・解決していくようなアプローチが求められる。

と思います。

以上で私の発表を終わります。ご静聴ありがとうございました。

次回は二番目の発表玉田吉行:「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」をご報告する予定です。(宮崎大学医学部教員)

石田記者

毎日新聞の報告記事

執筆年

2012年3月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 43」

ダウンロード・閲覧

(作業中)

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の22回目で、2011年度に開催したシンポジウム『アフリカとエイズを語る』の報告、6回シリーズの1回目、についてです。

アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(1)

天満氏によるポスター

→シンポジウム報告書『アフリカとエイズを語る』(作業中)

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告したいと思います。(「『ナイスピープル』を理解するために」の解説として)

発表者は北海道足寄我妻病院の医師服部晃好(はっとりあきよし)氏と、宮崎大学の医学部6年生の天満雄一(てんまゆういち)氏、5年生の小澤萌(おざわもえ)さん、4年生の山下創(やましたそう)氏と私の5人で、「翻訳こぼれ話」を連載中の南部みゆきさんが司会進行役でした。(各自の写真はそれぞれの報告の時に掲載します。)

左から服部、山下、玉田、南部、天満、小澤の各氏

文部科学省科学研究費の交付を受けた「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度)の成果を問うためのシンポジウムで、アフリカに滞在経験のある4人に協力を仰いでシンポジウムが実現しました。

天満氏の提案に私が加筆する形で、案内のポスターには「アフリカに滞在した経験のある5人が、アフリカを遠いトコロと思っているあなたに、生物学的、医学的一辺倒な見方ではなく、病気をもっと包括的に捉えて、アフリカとエイズを語ります。」と解説をつけました。

過去に連載した『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳も、解説「『ナイスピープル』を理解するために」も「生物学的、医学的一辺倒な見方ではなく、病気をもっと包括的に捉えて、」アフリカのエイズ問題を問い直そうと考えて書いたものです。きっかけはレイモンド・ダウニング氏の著書『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』を読んで心を動かされたからです。

ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』

ダウニング氏はアフリカでの生活の方が長く、日々エイズ患者と向き合っていたアメリカ人の医師です。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含む大きな枠組みの中で考えるべきだと主張しました。大半のメディアを所有する欧米の報道を鵜呑みにせずに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと提言しています。その提言は、アフリカで長年医療に携わった経験に裏付けられたものだけに極めて示唆的でした。

アフリカ系アメリカ人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学で医学にも目を向けるようになって20年余り、結論から言えば、アフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えません。なぜなら、イギリス人歴史家バズゥル・デヴィドスン氏が指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の譲歩が必要ですが、現実には譲歩のかけらも見えないからです。しかし、学問に少しでも役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すような提言を模索し続けることだと思います。僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

バズゥル・デヴィドスン

アフリカ文学とエイズをテーマに「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(平成15年度~平成18年度)で科学研究費の交付を受けていますので、その延長でダウニング医師の提言に応えるべきだと考えて今回の科学研究費を申請しました。前回(2004年)は、(旧)宮崎医科大学の大学祭に便乗してシンポジウム「アフリカのエイズ問題-制度と文学」を開催しました。医学科の国際保健医療サークルの人たちや(旧)宮崎大学農学部獣医学科の学生といっしょに準備をして、四国学院大学のサイラス・ムアンギさんと医師の山本敏晴さんを招いていっしょに発表しました。

報告書「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」

シンポジウムポスター

今回の発表は、服部晃好:「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」→玉田吉行:「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」→山下創:「ウガンダ体験記:半年の生活で見えてきた影と光」→小澤萌:「ケニア体験記:国際協力とアフリカに憧れて」→天満雄一:「ザンビア体験記:実際に行って分かること」の順で行ないました。

次回は最初の発表(服部晃好:「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」)のご報告をしたいと思います。

出席者は少なかったのですが、毎日新聞の石田宗久記者が来て下さり、翌日の新聞に報告記事を掲載して下さいました。後ほどご紹介したいと思います。

石田記者

毎日新聞の報告記事

『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』(No. 5[2008年12月10日)~No. 34(2011年6月10日)までの30回連載]は「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(→「玉田吉行の『ナイスピープル』」、解説(1)~(21)は「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(→「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」=どちらも元は「小島けい絵のブログ」)にまとめてあります。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2012年2月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 42」

ダウンロード・閲覧

(作業中)