2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)

MLAのためにサンフランシスコに行ったのは1987年の暮れのことです。二年前のシンポジウムでの別れ際に伯谷さんから「サンフランシスコは日本から一番近いから、家族といっしょにいらっしゃいよ。」と言われた当初、日本から一番近いと言われてもなあ、と思いましたが、結局、子供二人に奥さんといっしょに行きました。まだ定職も見つからない状態でしたが、フルで務めていた奥さんの「ビジネスクラスで行こ」という提案に逆らう理由もなく、5歳の長男には「13時間の飛行はきついやろな」と、一度ハワイに立ち寄ってから行くことにしました。(飛行機代金は4人で二百万ほどだったと思います。)

ワイキキの浜辺

兵庫県の明石に住んでいましたので伊丹空港から、結構寒い12月24日の夜中の便でした。目が覚めたら、早朝の真夏のハワイが広がっていました。クリスマスだけあって、赤い服を着たサンタクロースがワイキキの浜を歩いていました。厳しい陽射しで、サンタさんもきっと大変だったでしょう。

時差はなかったものの真冬から真夏の突然の激変に体もびっくりしたと思いますが、海の見えるホテルはなかなか快適でした。ワイキキの浜で遊んだり、浜辺の日本食の店屋で食事をしたり。それからサンフランシスコに。わりと穏やかな天気で、秋の半ばくらいの雰囲気でした。

海の見えるホテルで長女と

 海外での発表は初めてでした。ミシシッピの会議でファーブルさんとお会いし、英語をしゃべろうと思ったものの、すぐにとは行きません。英語に慣れるのも兼ねて、会議の翌年の夏にミシシッピを回りました。81年の最初のアメリカ行きで叶わなかったライトが生まれ育ったミシシッピです。サンフランシスコ→ニューヨーク→ニューオリンズ→ジャクソン→ナチェズ→グリーンウッド→メンフィス→シカゴ→サンフランシスコの行程で、ライト縁の土地に行きました。ただ、2週間ほどでしたので、言葉に少し慣れた頃に帰国、でしたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」続モンド通信4、2019年3月13日)→「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」続モンド通信5、2019年4月20日)

ミシシッピ州ナェズ空港

手元に、神戸の英会話学校「ベルリッツ」の領収書が残っています。すっかり忘れていましたが、高い授業料(領収書には30 courses, 221,000, 9/6/85とあります。ミシシッピの会議の前に通い始めていたようです。)を払ってでも英語に慣れたいという思いが強かったんでしょう。他に、大阪工大に提出した稟議書も残っていました。最初に詳しい説明もなく、週に二日の出講でしたし、その意識もありませんでしたが、嘱託講師も、表向きは専任教員だったようで、シンポジウムの申し込み書には、Lecturer, Osaka Institute of Technologyと書いていました。MLAのName PlateにもOsaka Institute of Technologyと書かれています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(大学ホームページから)

発表はラ・グーマの初期の作品A Walk in the NightとAnd a Threefod Cordの象徴性についてでした。やり始めて1年余りで、背景となる南アフリカの歴史やラ・グーマについても蓄積がない中での発表でしたので、「聞きに行くのも気の毒だから・・・・」とセスルが言ったような内容だったと思います。English Literature Other Than British and Americaという伯谷さんが司会の小さなセッションで、聞きに来た人も少なく、質疑応答もありませんでしたが、貴重で、稀有な機会となりました。後に発表内容を元に練り直して、日本の雑誌で活字にしました。→“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”(「言語表現研究」12号73~79頁、1996年。)

発表会場で、伯谷さんと

ミシシッピの会議に一緒に参加した木内さんも、ライトのセッションで発表していました。木内さんはその後毎年MLAに行って役員にもなり、トニー・モリソンやライトの翻訳書や、ライトのHAIKUについての伯谷さんとの共著書も出版しました。ライトのHAIKUについてはJapan Timesでコラム欄を担当、すでに退職していますが、あと一冊ライトのまとめを出すのが最後の仕事だ、と一昨年に会った時に話をしていました。

会場での木内さん

サンフランシスコは4回目でした。東海岸までの直行便はきついですので、サンフランシスコで何日か過ごしてからニューヨーク方面に行くことにしていました。家族と一緒は初めてで、地下鉄やケーブルカーにも乗り、タクシーでゴールデンゲートブリッジと漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)に行きました。どこも観光名所です。漁夫の波止場の39埠頭(Pier 39)辺りのレストラン街にいきましたが、クリスマスシーズンでどの店も一杯で、唯一空いている店に入ったら、飛びきり辛いメキシコ料理店でした。漁夫の波止場の場面が登城する旅番組を今でも英語の授業で使うことがあります。医学科の一年生は全部の科目が必修で、リスニングも選択肢の一つにした時期がありますが、その材料の一つとしてNHKの衛星放送で録画した旅番組も使いました。非常勤で行っていた宮崎公立大学でリスニングに特化した選択クラスを頼まれた時にも旅番組を使いました。サンフランシスコの映像はオーストラリアのテレビ局のもので旅情をかき立てるような20分ほどのもので、比較的聞き取りやすく、英語と日本語の違いなどを説明するのに適した材料でした。カリフォルニア大学アーバイン校で6年次に小児科と救急で臨床実習を受ける学生のための講座で、実習の直前に用語とリスニングのoral checkをした時にも使いました。さすが本場で実習を受けるために一年生から準備しただけあって、かなり早口の映画の場面などを使って英問英答でチェックしたのですが、大体の人が言っている内容を把握して適切に答えていました。大学に入って来たときは入試のために準備をしただけで英語がほとんど使えない人たちが、臨床実習という短期の目標を設定して本場アメリカの救急や小児科で支障なく英語をこなす学生と接して、出来るもんやなあと感心していました。小児科で実習を受けた学生の一人が、授業で見せてくれた場面ですよね、と後輩のための実習王国といっしょに漁夫の波止場の写真を送ってくれましたので、英語科のホームページに載せたことがあります。→「2015/06/20 June 20(石﨑友梨)」英語科ホームページ「songkla diary・Irvine diary – ソンクラ・アーバイン通信」)

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

タクシーの運転手さんといっしょに

漁夫の波止場

セスルとローズマリーさん、家族といっしょに

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」続モンド通信14、2020年1月20日)

なかなか専任の口は決まりませんでしたが、ライトから始まってガーナの独立とエンクルマ、そして南アフリカとラ・グーマへと、知らず知らずのうちに世界が広がっていたようです。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

2 アングロ・サクソン侵略の系譜9:「言語表現研究」(玉田吉行)

前回紹介した「黒人研究」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)のほか、主に兵庫教育大学大学院の教官と院生が投稿する「言語表現研究」でも印刷物にしてもらいました。国語と英語の分野の教官と院生の発表の場で、毎月例会も行われています。院生の大部分が現職の教員でもありますので小中高校の英語教育も研究分野です。今まで

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」2号(1984年)

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」4号(1985年)

③ “Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels” 12号(1996年)

④ “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy" 19号(2003年)

が活字になりました。

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」は、乾亮一氏の「擬声語雑記」とOtto Jaspersenの“Sound Symbolism”を借用し、テーマとからめて擬声語表現の分析を試みた作品論です。パトカーのサイレンの音swishやマンホールの音clang, clankやタイヤの軋む音rumbleなどが効果的に用いられて臨場感を醸し出しているだけではなく、テーマとかかわる象徴性も表現していることなどを論証しました。

Michel Fabreさん(当時ソルボンヌ大学教授)の伝記The Unfinished Quest of Richard Wright『リチャード・ライトの未完の探求』に感動して、その人の評価を聞いてみたいと思い翻訳して本人に郵送しました。ミミシッピ大学でのライトの没後25周年国際シンポジウム(1985)ではライトの他の作品での擬声語表現についての発表があり、ゲストスピーカーであったFabreさんから、その発表と関連してこの作品論の評価も聞きました。パリはライトが後年移り住んだ地でもあります。1992年のジンバブエからの帰りにFabreさんの自宅にお邪魔して、色々な刺激を受けました。

「言語表現研究」2号

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」2号1~14頁、1984年2月

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」は、代表作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の冒頭部の擬声語表現を象徴性と隠喩の面から評価した作品論です。冒頭に巧みに用いられた目覚まし時計の音などの擬声語が、展開される物語の慌ただしさや住環境の劣悪さを象徴している点を指摘しました。ライトは主人公が殺人を犯して逃げまどい、やがては裁判にかけられて社会から葬りさられる運命と、逃げ回って殺される鼠の運命を重ね合わせて「黒人はアメリカの隠喩である」という問題提起をしていますが、それが巧みな擬声語表現に裏打ちされている点も指摘しました。

「言語表現研究」4号

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」4号29~45頁、1985年2月

③“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”は、ラ・グーマの初期の作品に見られる文学手法に焦点をあてた英文の作品論です。抑圧の厳しい社会では政治と文学を切り離して考えることは出来ませんが、作品を政治的な宣伝でなく文学として昇華出来るかどうかは、作者の文学技法によります。ラ・グーマの使うリアリズムとシンボリズムの手法が、読者に期待感を抱かせる役割を果たしている点を指摘しました。1987年のMLA (Modern Language Association of America)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで発表したものに加筆しました。

「言語表現研究」12号

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁、1996年3月

④"Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"は、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの英文の作家論、作品論です。本人は亡命しているわが身を「座礁した」と形容していますが、独立戦争後反体制側にまわり、逮捕・拘禁され、亡命を余儀なくされますが、その経緯を書いた『政治犯、作家の獄中記』(Detained: A Writer’s Prison Diary, 1981)、作家の役割と政治の関係を論じた『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)、体制を脅かした直接の原因となったギクユ語の劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)を軸に、亡命の意味とグギの生き方を論じました。

「言語表現研究」19号

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"「言語表現研究」19号12~21頁、2003年3月

言語表現学会では「アンクル・トムの子供たちの恐れと抗い」(1982年10月)と「Richard Wrightの対比的表現初期短篇数編から」(1986年4月)を口頭発表しました。一回目は院生の2年目、修士論文を書いている最中で、二度目は就職浪人中でした。

修士論文を書いた延長で、リチャード・ライトの没後25周年国際シンポジウム(1985年ミミシッピ大学)に参加し、本の中でしか知らなかった人たちや、憧れのファーブルさんにも会えました。その縁でMLA (Modern Language Association of America, 1987年、サンフランシスコ)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで、南アフリカのアレックス・ラ・グーマの発表が出来ました。

MLAで伯谷さんと

その準備の段階でラ・グーマの伝記『アレックス・ラ・グーマ』の著者セスゥル・エイブラハムズさんとも出会い、ラ・グーマの記念大会に呼んでもらえました。その中で①~③は生まれました。

セスゥル・エイブラハムズさん

④は『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)の翻訳を頼まれて、グギさんの作品を大体読んで背景を知る過程で、まとめの意味もこめて英文で書きました。

ライトもラ・グーマもグギさんも結構多作で、先ずは作品を集めることから始め時間もかかりましたが、アングロ・サクソン侵略の系譜の中から生まれた作家だと実感しました。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

概要

2005年に始めたEMPも9年が過ぎ、退職を目前にした段階で取り組みの全容を取りまとめました。臨床・基礎の医師・教員。医師と英語科の教員が協力し、事務局、病院看護部も含めて全学部的な取り組みになったこと、平成30年度からはEMPが選択科目ながら4年生のクリニカルクラークシップの一環として取り入れられたこと、提携先の大学が増えたことなど、目に見える成果をまとめましたが、何より、入学時ほとんど英語がしゃべれなかった医学生が6年次のクリニカルクラークシップでアメリカのカリフォルニア大学のアーバイン校の救急で臨床実習を受けて、何気なくこなしている実態は、結果として、文部科学省が言い出したactve learningそのものだった、と思いながらまとめました。

Abstract

This is the nine years’ report of the EMP program. The Faculty of Medicine, University of Miyazaki and Prince of Songkla University (PSU) in Thailand, agreed on a student exchange program in March, 2005. In April, four 6th-year students attended a one-month clinical clerkship program at PSU. The EMP project was started as a preparatory short English training program for the clinical clerkship. EMP, an acronym for English for Medical Purposes, derive from ESP (English for Specific Purposes), a teaching method designed for motivating English learners by providing with clear goals. The program is conducted as an elective subject in the curriculum to improve the students’ English communicative skills for their overseas clinical training.

On December 14, 2005 the English Department presented a proposal for a program for 4th year and 5th year students to the faculty. The faculty approved our proposal and we conducted a short English program for students by inviting medical doctors from PSU and the University of California, Irvine (UCI), sponsored by the University. That was the beginning of the EMP program.

We have extended our program to ENP (English for Nursing Purposes) for nursing students, N_ENP (ENP for nurses in the University Hospital), and the O_EMP for office workers of the Faculty of Medicine, including the University Hospital. In 2009 we sent the first medical student to UCI. Since then seven students experienced their precious experiences at UCI. (In 2014 four more students will stay at UCI.)

We have made the best use of a grant (the “GP – Good Practice”) from the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology. “Developing medical workers with a multilateral perspective,” our EMP project, was selected as a “Supporting Program for Distinctive University Education 2008.”

Though much is to be done every year, we hope we’ll continue our efforts.

本文(写真作業中)

EMP9年:結果として、active learning

EMP9年

海外での臨床実習のための英語のプログラムEMPの9年間の報告です。

宮崎大学医学部は、2005年3月にタイのプリンス・オブ・ソンクラ大学(PSU-Prince of Songkla University)と学部間学生交換プログラムに関する覚え書きを締結し、4月に医学科6年生4名がクリニカル・クラークシップ(臨床参加型実習)・プログラム(4週間)に参加しました。EMPはその準備のためのプログラムです。

2005年度の歓迎パーティ、医学部学生食堂で

EMPとは、English for Medical Purposes のそれぞれの頭文字を取って作った略語で、医療のための英語という意味で、元々、目的を明確にして学習効果を高める狙いで考案された ESP (English for Specific Purposes) 教授法由来の言葉です。海外での臨床実習に参加するための英語運用力を高めるという明確な目標のもとに、医学部の正式なカリキュラムの中に位置づけられた選択科目として実施されて、9年が過ぎました。

参加した学生の意見を汲んで英語科にプログラムの要請があったとき、私は学部全体の総意と捉え、①医学科5年生だけでなく4年生も、②看護学科の学生も、③大学病院看護部の看護師も、④医学部事務局の事務員も、⑤大学院生も、と考えました。

現在⑤大学院生用のプログラムはまだ実施出来ていませんが、一年目から①医学科4・5年生、二年目から②看護学科3・4年生(現在は2・3年生)と③看護部の看護師、5年目から④事務局の事務員のプログラム(①EMP、②ENP-English for Nursing Purposes、③N_ENP、④O_EMP)を実施しています。

大学病院看護部ENPの授業で

現在、医学科はソンクラ大に8名、米国カリフォルニア大学アーバイン校(UCI-University of California, Irvine)の小児科に2名(来年度からは救急にも4名)、大学病院はソンクラ大病院に研修医を2名、看護学科はソンクラ大に4名(2週間)、看護部はソンクラ大病院に看護師を2名(1週間)の派遣・受け入れが可能です。

今回は医学科EMPの報告で、実施した内容については①始めた年2005年、②UCI 開始、③GP(文部科学省の交付金)、④The Language of Medicine(医学用語)に項目をわけて報告します。

EMPプログラムの実施

始めた年2005年

2005年4月に学生が参加したのは単位互換を伴う学生交換の制度に基づいたものです。双方の大学病院の医局で学生を受け入れて臨床実習を行ない、それぞれの大学で単位認定を行なう制度です。

帰国した学生からは「『タイでは医師といったら、なんでもできるもの』ソンクラでの実習はまさしく、この言葉につきます。医学教育のシステムは、医師が足りないという状況もあるため全てが実践的です。5年になると、病棟実習が開始され、担当患者の事はまず学生が問診し、所見をとり、検査、治療方針をたて、それをレジデントが毎朝のラウンドでチェックするといった状況です・・・・日本で卒後にやることをそのまま5年、レジデントがやっている。何もできない自分が非常に恥ずかしく思えました。」(日吉優)、「最も印象に残っているのは、タイと日本の医学教育の違いを体験できたことです。特に、最後の一週間に訪れた、地域の診療所での医師達の姿です。その診療所では、GP(General Practitioner:総合診察医)とよばれる医師達が、地域の患者の診療の中心を担っており、一人の医師が内科的疾患から、外科、産科など、あらゆる疾患を診ていました。」(今吉鈴子)、「単語は知っているが、聞けない、喋れない。日本人の特徴なのだろうか、医学についても同じではないか、ソンクラでそんな事を考えた。見て、聞いて、考える学問としての医学、大容量の短期記憶と反射神経で乗り切る試験勉強としての医学。そして私達は後者に溺れる。制度も環境も大きく異なり一概には言えないが、タイの学生達は少なくとも私達より、『医学』を『人』を通して学んでいた。1ヶ月ソンクラで過ごした事は何事にも変えられない貴重な体験で、今後の人生の大きな糧となると信じている。」(西垣啓介)、「私にとってはこれまでに経験したことを生かせる良い機会であったと同時に、実習を通じてタイとう国の医療サービスについて色々学ぶこともでき、参加して本当に良かったと思っています。」(山本茜)など貴重な体験をしたという思いとともに、実際にはなかなか思うようには英語が使えなかったという意見も強かったそうで、医学部として英語科に何か準備のための英語プログラムを、という要請があったのは夏前です。(河南洋医学部長が研究室に訪ねて来られて、正式な要請がありました。)

タイのプリンス・オブ・ソンクラ大で

早速準備に取りかかり、次年度のソンクラ大での臨床実習に向けての英語のプログラムと経費の確保策を考えると同時に、次年度以降のプログラムについても考えました。初年度のプログラムの具体案を11月の半ばにまとめ、12月の教授会に、英語分野が「4・5年生の英語研修プログラムーEMP (English for Medical Purposes) 講座」を実施することを提案して、承認されました。

[実施計画・方法]は、英語分野の4人が中心となり、17年度学長裁量の「教育戦略経費」を利用してソンクラ大学とアーバイン校から医学教員を招いて(ソンクラ大学との窓口役は、応用生理学分野の丸山教授、アーバイン校の窓口役は産婦人科学分野池ノ上教授)、英語の短期研修を行なう、でした。

[期待される成果]は、①4・5年次に明確な目標の下でこのプログラムが実施出来れば、海外での貴重な研修の場で、学生自身がより多くのものを吸収することが期待出来る、②プログラムを正規のカリキュラム内に位置づけて、入学から卒業までの一貫性を持つ制度が定着すれば、下級生の指針や励みにもなり、1・2年次での英語学習にも大きな成果が期待出来る、③卒後研修との連携が可能になれば、研修生確保の一助にもなり得る、④プログラムを充実させて実績を積めば、学外資金の獲得も可能になる、でした。

12月に助教授の横山がソンクラ大に視察に行きました。

ソンクラ訪問(右端が横山さん)

17年度学長裁量の「教育戦略経費」は、「将来の職業と直結した英語教育プログラムの構築に取り組む」ことを骨子にした「プロジェクト名 英語が使える医療人の育成プログラム」で申請したもので、240万円が交付されました。

2月17日から3月11日まで(1期が2月17日から23日まで、2期が3月7日から11日まで)、5年生6名、4年生9名(途中参加1名、辞退2名)がEMPに参加し、1期はソンクラ大からのDr. Teerha PiratvisuthとDr. Sakon Singhaのセッションを中心に、2期はカリフォルニア大アーバイン校からのDr. Feizal Waffarnのセッションを中心に実施されました。以下がその概要です。

2006年02月17日 EMP講座始まる

17日からEMP講座が始まりました。5年生5人が参加、月曜日からのケース・スタディの前に、自己紹介なども含めた会話の練習と医学用語の発音の練習などをしました。横山さんが撮影の練習をして、録画した映像をハイビジョン画面で確認しました。ホワイトさんも会話に加わり、質問や解説などをしました。

2006年02月19日 Dr Teerha、Dr. Sakon、宮崎に到着。

Dr Teerha、Dr. Sakonが宮崎空港に到着されました。横山助教授、丸山教授と玉田が出迎え、宿泊先のパームビーチホテルに案内しました。昼食をしながら、打ち合わせを行ないました。

旧パームビーチホテルで(左から丸山、ティーラ、サンコン、横山さん)

2006年02月20日 EMP講座2日目

講師2名によるケーススタディに4・5年生とタイの留学生3名が参加しました。以下、受講者からの報告です。

「本日、ティラー先生によるケーススタディが行なわれました。席の配置は、議論のしやすさを考慮して半円形にし、前列に5年生とタイからの留学生とサコン先生が座り、後列に4年生が座りました。

症例は、数週間前の交通事故後から黄疸を呈した44歳男性でした。尋ねるべき情報は? ラボデータの解釈は? 鑑別診断は? まず行なうべき検査は? といった形で話が進み、最後に黄疸の鑑別のフローチャートが提示されました。答えは、交通事故後に投与された抗生剤による薬剤性肝炎でした。

5年生には4月にタイでクリニカル・クラークシップを行なう学生も含まれており、この機会を最大限に利用するべく、ふだんの講義のときよりも積極的に議論していました。あとから、タイの学生から聞いたのですが、タイではスモールグループでのケーススタディでも皆あまり発言しないらしく、日本の学生は積極的だと言っていました。しかしこの1週間タイの学生とつきあった感想では、日本の学生よりも何倍も勉強しているようで、我々は見習わなければならないと思います。

ティラー先生の議論は非常に論理的であり、内容だけでなく、思考の仕方の勉強にもなりました。

午後からは第2内科でベッドサイドラーニングがあり、タイの先生方、2内科の先生方、タイの学生3人、5年生3人が参加しました。議論も白熱し、我々学生も勉強になりました。(M5 杉田 )」

* 昼食会

Dr Teerha、Dr. Sakonを迎えての昼食会が本学でありました。住吉学長、名和副学長、河南学部長などを囲んで和やかに歓談しながらの食事となりました。

* 歓迎パーティ

ソンクラからの5人を迎えて、医学部挙げての歓迎パーティが催され、約50名の参加がありました。

初めての試みでもありますので、みんなが試行錯誤しながらやっていますが、Dr. Teerha の挨拶の中にあったように次の世代のためになれば幸いです。名和副学長の挨拶にもありましたが、農学部とも協定が結ばれるようですので、ますます実質的な往き来が実現しそうです。宮崎大学とソンクラ大学に乾杯!

医学部での歓迎パーティ

2006年02月21日 EMP講座3日目

5年生とタイの留学生は Dr Teerha のケーススタディに、4年生は Dr. Sakon の講義に参加しました。

2006年02月22日 EMP講座4日目

4・5年生と留学生が、Dr. Sakonの講義を受けました。

2006年02月23日 EMP講座5日目

4年生はホワイトさんが、5年生はゲストさんが担当してそれぞれ、レビューと会話をやりました。4年生は医学用語の発音練習も少しだけ。

EMP5年生のクラス

2006年3月7日 EMP講座第二部開始、講師 Dr. Feizal Waffarnが宮崎に到着。

7日にEMP講座を再開しました。5年生はゲストさんが担当、4年生はホワイトさんが担当して、8日の新生児室でのセッションのPreviewを行ないました。

午後には、Dr. Waffarnが宮崎空港に到着されました。横山助教授と玉田が出迎え、学部長室に直行、今回持参された既にサインを終えた学部間の協定書を確認しました。今回のEMP講座は、学部間提携校としての初めての試みとなります。

そのあと、英語のスタッフ4人と明日のセッションの打ち合わせを行ないました。

2006年3月8日 EMP講座第二部2日目

Dr. Waffarnによる新生児室でのセッションに4年生、5年生が分かれて参加しました。4年生がやっているときは5年生にゲストさんがPreviewを、5年生がやっているときは4年生にホワイトさんがReviewを行ないました。英語科の4人と熊本大と県立看護大の見学者もセッションに加わりました。

写真:Dr. Waffarnの授業

* 昼食会

河南学部長主催の Dr. Waffarnと学生の昼食会が医学部でありました。菅沼副学部長、池ノ上教授、鮫島助教授(産婦人科)、英語科のスタッフ4人も加わりました。

* 昼食会のあと、Dr. Waffarnと英語科のスタッフ4人とで、今日のセッションのフィードバックと明日の講義の打ち合わせを行ないました。

* 学長・副学長へ表敬訪問

午後、Dr. Waffarnが住吉学長・名和副学長に表敬訪問をされました。河南学部長と玉田が案内しました。協定書の確認のあと、今後の交流の展望についての意見交換を行ないました。

2006年3月9日 EMP講座第二部3日目

講義棟301教室で、4年生、5年生が分かれてDr. Waffarnの参加型の講義に参加しました。4年生がやっているときは5年生にゲストさんがPreviewを、午後から4年生にホワイトさんがReviewを行ないました。県立看護大の見学者も加わりました。

2006年3月10日 EMP講座第二部4日目

昨日にひき続き、同じ形式で参加型の講義が行われ、産婦人科の池ノ上教授も参加されました。今日も、県立看護大から2名が見学に来られました。

2006年03月11日 EMP講座第二部5日目

4年生はホワイトさんが、5年生はゲストさんが担当してそれぞれ、レビューをやりました。

急遽プログラムを考えて実施した側としては、当初の「取り敢えず今年は先ずやってみる」という目標が果たせただけでなく、①英語分野、応用生理学分野、産婦人科学分野、総務課など、医学科全体が相互協力してプログラムが実施できた、②目的を持って語学を学ぶことの大切さを改めて実感した、③招聘講師を招いて行なったセッションから今後の講座の内容と展開のやり方についての具体的な手がかりが得られた、④学部間協定を締結したアーバイン校との学生間交流が開始出来る可能性が高まった、などが主な成果としてあげられます。今回のプログラム実施を足掛かりに病院も含めた医学部全体の取り組みに発展させようという流れになったのは最大の成果で。その取り組みの総称にEMPを使うことになりました。EMPは医学部全体の取り組みの総称です。

次年度以降のプログラムについては菅沼副学部長(教務委員長、現学長)と、医学科は4・5年生、看護学科は3・4年生の選択科目としてカリキュラムの中に組み入れました。医学科は4年生の前期しか通常の時間割には組み込めませんでしたが、看護学科は通常の時間割内に収まりました。(医学科4・5年生後期は春休み、5年生前期は夏休みに実施)2014年度入学生から、選択科目ながらクリニカルクラークシップの時間割の枠内で授業をすることになっています。学部全体がEMPを評価している結果だと思います。

4月に玉田と横山助教授がソンクラ大病院での臨床実習の見学に行きました。

  • UCI 開始

2008年度に締結された協定に基づいてUCIでの実習が始まったのは2009年度からで、初年度は1名(成田健太郎くん)が参加しました。産婦人科教授の池ノ上さんとUCIのFeizal Waffarn教授(Chairman of Department of Pediatrics)との交友関係と個人的な尽力に負うところが大きく、2005年8月に本学に来訪中に英語科の部屋でWaffarn教授と英語科スタッフとでざっくばらんに話をしたことで急速に話が進みました。「日本の学生は英語に自信のない学生が多いので言葉に自信を持つ学生を送ってください。医学部プロパーで英語教員がいるなんてすばらしい環境ですね。一緒に何かやりませんか」と話が具体化して行きました。

Dr. Waffarn:NICU

2008年12月に横山さんがUCIを訪問して、①Clinical Skills CenterでのOSCE (surgery, clinical foundation, family medicine)見学、②オスロからの留学生へのインタビュー、③Family Health Center (Santa Ana)の見学、④Waffarn教授、Larry Goldとの打ち合わせ、⑤Penny Murata(臨床実習責任者)との打ち合わせ、などを実施しました。Dr. Penny Murataとのミーティングの内容です。

1.カリキュラムについて

・UCIでの研修でローテーションの一つに小児科を希望する場合。ゴール、目標、臨床での問題などCouncil on Medical Student Education in Pediatrics (COMSEP)によって全米で統一のカリキュラムがあるのでそれに基づいている。

2.クラークシップについて

・Long BeachにあるMiller Children’s Hospitalでの入院患者臨床実習:4週間

・UCI付属の病院またはMiller Children’s Hospital付属の小児科officeでの外来患者臨床実習:4週間

・UCI Medical CenterまたはMiller Children’s Hospitalでの新生児:4週間の外来患者ローテーションのうち1週間

 

写真:UCI Medical Center

3.カンファレンスについて

・週に1度の学生カンファレンス、週に1度のDepartment of Pediatrics Grand Rounds、昼休み時間のDepartment of Pediatrics Residency noon conferenceがある。

4.アサインメント(課題)について

・入院患者臨床実習期間中にpatient historyとphysical reports(3本)

・外来患者ローテーション期間中にpatient note(1本)

・文献検索

・clinical skillsのチェックリスト

・patient log

・人文学あるいは児童の権利擁護に関するプレゼン(内省的なもの)

・Problem-based learning (PBL)での症例プレゼンテーション

5.評価について

・faculty residentsとsenior residents(2,3年目の小児科レジデント)からのclinical performanceについての評価、historyおよびphysical report、外来患者の記録、PBLの症例、医師国家試験官の試験

6.その他(ロジスティクス)

・オスロの学生のように長期(4ヶ月)の場合にはアパートを借りることも考えられるが、本学の場合は4週間なのでホテルが妥当

・自家用車(レンタカー)は必須

宿泊先は費用面でホームステイの可能性を探ったが受入れ家庭が見つからず、今後も可能性は低い。旅費、滞在費、レンタカー代金などをあわせて為替レートにもよるが1ヶ月でおよそ60~70万円の負担が生じる。

2009年1月23日にUCIでの実習に耐える語学力を確認するために、産婦人科のカンファレンスルームにて、インターネットテレビ会議システムを利用したインタビューがWaffarn教授とDr. Murataにより実施されました。

経済的な問題も含めて難題もありましたが、何とか成田くんの参加が実現しました。

 

写真:成田

  • GP(文部科学省の交付金)

EMPを始めてから間もなく、執行部や事務長からの要請もあって、GPを申請して予算をもらいました。平成20年度~平成22年度「質の高い大学教育推進プログラム」(教育GP)、題目:「複視眼的視野を持つ国際医療人の育成」(61,669,000円)です。ヒアリングでは「予算をもらってもすることが増えるだけで、実際に招待した人たちの接待も自分持ちですし、予算をもらっても痛し、痒しですね。」と言いましたが、本音です。単科大学の時に比べ、看護学科が出来て授業が増え、無理矢理の統合で共通教育の授業が増えて、その上に、選択科目とは言え、医学科4・5年生、看護学科2・3年生、看護部看護師、事務部事務員のEMP/ENP授業とコーディネートが加わったわけですから、毎年毎年、やっぱり大変です。しかし、折角もらった予算ですし、目一杯有効に使いました。看護師や事務員、看護学科の教員や基礎と臨床の医師にもソンクラ大とアーバイン校に行って、自分の目で見てもらいました。予算を使って報告書や留学記などの冊子もたくさん作りました。以降も毎年、授業報告書や留学記も残すようにしています。ホームページも作り、学生の医学図書も充実させ、EMP専用の二部屋の映像機器も補充させました。

  • The Language of Medicine(医学用語)

医学英語に困らなくなったのは、The Language of Medicine(SAUMNDERS ELSEVIER, 8th Edition)という分厚い医学用語の本を使い始めてからです。アーバイン1号の成田くんたちの学年です。4年生のEMPが始まってもあまりにも積極性に欠ける風にみえたので、このままやとあかんやろとはっぱをかけました。慶應大出身の石井信之くんが具体的に言ってもらわないとわかりませんと反論しましたので、横山さんがファイルを作って足りない点をたくさん指摘しました。その時点で石井くんにギアが入ってしまって、みんなをひっぱって、一年ほどかけてThe Language of Medicineの約2200語の医学用語の定義と名前の試験を繰り返して全部覚えたようです。五年生になってからは内科の医者を引っ張って来て、毎週英語でケーススタディをやってもらっていました。その成果もあって卒業時には全員が成績上位に並んでいました。林直子さんが「一緒に励まし合うEMPの仲間がいたから、何とか三年間、続けてこられました。」と書いていましたが、うまく協力し合えた学年だったと思います。

The Language of Medicineは自習用のすぐれたテキストで、22章からなり、4章までが基本構造や接尾語、接頭語などで、それ以降は消化器系などの系からなっています。各章の最初に説明と用例があり、次の解説と練習問題でその用例に慣れ、最後に発音記号付きの必須用語が並べてあります。

そのThe Language of MedicineをGPの予算を使ってデータ化し、音声をリンクさせたファイルを5年かかって作りました。EMPで最初にその資料を配っています。学生はグループにわかれて、試験を繰り返しながら覚えています。講師(医者か研究者)の専門に合わせて、事前に用語の確認も一緒にやっています。アメリカのテレビドラマERを使った産科のテーマだとChapter 8 Female Reproductive System、脳外科の水頭症や脳腫瘍の症例研究だとChapter 10 Nervous System、眼科だとChapter 17 Sense Organs: The Eye and the Earといった具合です。

 

写真:The Language of Medicine(8版)

現在は一年生の授業でも横山さん、南部さんと協力して三分の一程度、4章までとChapter 5 Digestive System とChapter 15 Musculoskeletal Systemを全員でやっています。必須医学用語は750語程度です。

The Language of Medicineのおかげで、最近はソンクラやアーバインで医学用語に困るということはなくなりました。

結果として、active learning

2005年に医学部長の河南さんからの依頼でEMPを始めたときは、取り敢えず始めるだけでその後の展望が持てたわけではありませんでしたが、予想以上の成果があったように思います。文部科学省はグローバルに続いてアクティヴ・ラーニングをキーワードにしているみたいですが、このEMPプログラムを通して感じるのは、海外の臨床実習で実際に使うためにという目標が定まると自分から進んでやるし、英語も使えるようになるし、結果的として、EMPはまさにアクティヴ・ラーニングやったなあ、です。学部全体としても学生のために協力し合えるのは、有り難いことです。

最近PSUで実習をする学生の英語力がすごいのでソンクラの学生も大いに刺激を受けています、という声も聞きますし、6年生の報告会でも、もっと医学用語をしておけばよかった、もっと会話の練習をしておけばよかったという感想がなくなって、タイでは急性疾患が多く、日本では慢性疾患が多い、などの内容的なことに主眼が置かれるようになっています。その点では、実習で自信を持って英語が使えるようにという目的はある程度果たせているのではないかと思えます。

ただ、いい面ばかりではありません。始めた当初はみんなで創り上げるという気持ちもあって学生もかかわりが濃かったと思いますが、慣れて来ると、制度があって当たり前というふうに考える学生も出てきているように思います。「今までEMPの授業のことを、義務のように受けなければいけないもの、と思っていたが、今回は受けたいから行く、という感じだった。」という5年生の感想を見たりすると、少しかなしくなります。今年卒業した学年はなかなか大変でした。2年次では、期間も最初から決めているのに、試験の間近には半数以上が欠席し、アンケートにそんな時間割を組むとはと書かれていました。結構欠席者や遅刻する人もいて、とても自主的に参加しているとは思えませんでした。連絡網もあるわけですから、気持ちがあればメールで欠席の連絡くらいは出来るのにと思いました。卒業まで続けたのはわずかに4名でした。こんな人たちが医者になるのかと思うと暗澹たる気持ちになったこともあります。

一昨年卒業した学年が2年次からEMPを始めた最初の学年ですが、4年生になったとき5名しかメンバーが残りませんでした。オリエンテーションでは20名ほどの希望者がいましたが、実際に始めたのは11名で、留年やら辞退やらで、最終的には5名になりました。ソンクラに派遣する8名枠が埋まらずに3名を公募で選考して派遣を決めました。8名枠を満たせない理由は色々と考えられますが、専門科目の学習やサークル活動など一番忙しい学年で英語の優先順位をどれだけ保てるかだと思います。実際には2年間の活動を続けるのは難しいようです。

もちろん、ソンクラにしろ、アーバインにしろ、行った人は例外なくよかったと言っています。ソンクラの医学科の学生は国の事情もあって、5年生で研修医、6年生でレジデントと同じような仕事を任されますから、向こうに行って教わることも多く、EMPの学生にとってはまたとないいい機会だと思います。

 

写真:報告書

一人一人と向き合うには手間と時間がかかりますし、大変なこともたくさんありますが、何とか工夫しながら続けられたらと思います。違う文化の中で言葉を自由に使って貴重な体験が出来る機会を確保するのは大事なことですし、貴重な経験をしてすてきな医者になってくれれば、嬉しい限りです。

  1. 4名の学生には卒業前に感想や報告を書いてもらい、玉田吉行、横山彰三、Michael Guest、Richard White「2005年度EMP報告書・ソンクラ報告記」(https://kojimakei.jp/tamada/works/EMP/05ソンクラ報告記.pdf、2006年3月29日、1~3頁、全4頁)に入れました。また玉田吉行、横山彰三、Michael Guest、Richard White、南部みゆき「ソンクラ大学留学記・報告記(1)2005年度~2008年度」(https://kojimakei.jp/tamada/works/EMP/08ソンクラ留学・報告記Ⅰ.pdf、2009年3月29日、4~5頁、全102頁)にも収載しています。
  2. 玉田吉行、横山彰三、Michael Guest、Richard White「2005年度EMP講座報告書」(https://kojimakei.jp/tamada/works/EMP/05EMP報告書.pdf、2006年3月29日、3頁、全33頁)
  3. 横山彰三「ソンクラ大視察」(同上報告書28頁)

4.「第一回 EMP 講座詳細」(同上報告書12~17頁)

  1. 横山彰三「UCIとの学生交流開始について」「留学記・報告記(2)-PSU・UCI」(https://kojimakei.jp/tamada/works/EMP/09留学期・報告記II.pdf、2010年3月、2~3頁、全85頁)
  2. EMP報告書と留学記などはブログにまとめて、クリックすればPDFファイルが読めるようにしてあります。→玉田吉行の「EMP報告書・留学記」http://kojimakei.jp/wordpress/2014/11/20/%E7%8E%89%E7%94%B0%E5%90%89%E8%A1%8C%E3%81%AE%E3%80%8Cemp%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%83%BB%E7%95%99%E5%AD%A6%E8%A8%98%E3%80%8D/

7.(教育GP)専用のホームページ→「複視眼的視野を持つ国際的医療人の育成」http://www.med.miyazaki-u.ac.jp/english/index.html、英語科のホームページにはソンクラ大、アーバイン大の実習時に送られて来たメッセージも載せてあります。→「songkla diary・Irvine diary – ソンクラ・アーバイン通信」http://kojimakei.jp/english/scientific/d_songkla/

執筆年

2014年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第11号57-67ペイジ

写真:ESP11号

ダウンロード

(作業中)

2010年~の執筆物

概要

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告していますが、前号でご紹介したシンポジウム「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)の続きで、五番目の発表者天満雄一氏の報告です。今回が最終報告です。

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(6):天満雄一氏の発表

会場で紹介するために司会進行役の南部みゆきさんが予め本人から聞いていたアフリカ滞在歴と経歴は以下の通りです。

「天満雄一(てんまゆういち)宮崎大学医学部医学科6年

2007年3月11日より24日までザンビアに滞在。学生団体IFMSA-Japan(国際医学生連盟 日本)で友人とAfrica Village Projectを立ち上げ、TICOというNPOの協力のもと現地の健康意識調査等を行いました。また、2007年7月30日から8月10日までマダガスカルに滞在し、jaih-s(日本国際保健医療学会学生支部)のプログラムを通じて、JICAの運営するマダガスカル母子保健プロジェクトの活動視察を行いました。」

発表ではパワーポイントのファイルを使ってたくさんの写真を紹介していますが、写真は省いてあります。

「ザンビア体験記:実際に行って分かること」    天 満 雄 一

天満雄一氏

ザンビアに行ったのは2008年の3月で、IFMSA-Japan(国際医学生連盟)という学生団体での活動がきっかけでした。IFMSAは1951年に設立されたフランスに本部に置く、医学生を中心とした国際NGO団体で、100ヶ国以上の国の医学生が何らかの形で活動しています。IFMSA-JapanというのはIFMSAの日本支部で、現在医学部を有する51の大学が加盟し、約500人の医療系学生が活動しています。

ここの団体の活動で出会った他大学の学生との「アフリカに行きたいな。」という他愛もない話が、ザンビアに行くきっかけとなりました。アフリカに行くなら、単なる旅行ではなく、目的を持ったプロジェクトで行こうということになったのです。ただ、アフリカに行き何らかの活動をするといっても、はじめは何をしていいかわからず、そこで実際にアフリカで活動しているNGO団体を探し連絡をとることから活動をはじめました。その時にTICOという主にザンビアで活動する徳島のNGO団体に出会い、協力してもらえることとなり、そういった経緯から目的地がザンビアに決定しました。

ザンビアはサハラ以南の国で、面積は日本の約2倍、人口は約1200万、73もの部族が存在し、公用語は英語となっていますが、それぞれの部族でそれぞれの言語を使用し、教育を受けていない大人や、街からはずれた場所では、英語を理解できない人も多く見られます。また、世界3大瀑布の1つであるビクトリアの滝やサファリなど多くのあるがままの自然が残っている国です。

アフリカの地図

UNICEFのデータによると、2004年時に比べて2009年には大幅に経済や教育指標の改善が見られました。HIVの感染率も2004年に16. 8%であったのが、2009年のデータでは13. 5%とまだまだ高いものの、データとしては大幅な改善が見られました。しかし、私は実際にザンビアに行った経験より、これらのデータが必ずしも現状を表した正しい数字を示しているとは限らないのではないかと思います。

私は他のメンバーとともに現地に行き、主に5歳以下の子どもを持つ母親を中心とした住人の健康意識調査や、井戸の水質調査、伝統的産婆へのインタビューに加え、病院や孤児院やJICAの運営するHIV/AIDSプロジェクトの見学をさせてもらいました。こういった活動に備えて、私はTICOにも協力してもらいながら、メンバーとともに1年以上の時間をかけて、ザンビアの現状やアフリカのことについて学び、そして計画を練ってきました。しかし実際に現地へ赴き活動してみて、いかに自分がアフリカについて、そしてザンビアについて知らなかったのかということを思い知らされました。例えば調査の中で、「どこで子どもを産みましたか?」という質問があり、それに対する答えとしては、診療所や病院、他には自宅や伝統的産婆の所という答えを想定して選択肢を設けていたのですが、10%以上の母親が路上という回答をしました。これはつまり、産気づいてからそれらの場所に向かおうとしたが、車などの移動手段がなく、またそれぞれの場所が離れているため間に合わなくなり途中で産まれてしまったという理由からでした。またその場合子どもが破傷風などの感染症にかかることも多く、実際に話を聞いた3分の1以上の母親が子どもを亡くした経験があるということも驚きでした。また、水質調査では井戸がいわゆる井戸ではなく、地面に穴を掘っただけの水たまりのような程度のものであり、そこで大腸菌が検出されたにも関わらず、住民が日常の飲み水や生活水として用いていることも衝撃を受けました。

HIV/AIDSに関しても同様に衝撃を受けることが多くありました。1つは孤児院の見学です。HIV/AIDSに関しては疾患自体の感染率や発症人数、それらの対処方法に目が行きがちですが、実際に疾患が社会に様々な影響を与えていることを孤児院の見学を通して感じました。訪れた孤児院で最も孤児である原因として多かったのは、AIDSによる親の死でした。AIDSは性交渉により感染することもあり、親が2人とも感染していることも稀ではありません。また親が生きていたとしても、感染による体調不良や片親であることを理由に孤児院に来た子どもは多いということでした。さらに、母子感染により生まれて間もないながらHIV感染が認められる子どもも多いとのことでした。そういったようにHIV/AIDSは目の前の患者だけではなく、次の世代にも多くの問題を残しているのだと感じ、ただ治療が良くなるだけでは解決できない問題の根の深さを感じました。

同様にJICAが行っているHIV/AIDSプロジェクトの見学の中でも、いろいろなことを考えされました。ザンビアではHIV/AIDSに対する薬を配布しており、診断がつけば患者は無料で薬を手にすることができます。今はHIV/AIDSの薬が良くなってきたこともあり、たとえHIVに感染したとしても、薬を正しく飲み続けられれば寿命を大きく損なうことはないのが現状です。それゆえに、そのような政策がとられているなら、今後はザンビアのHIV/AIDSの問題はだいぶ改善に向かっているのではないかと思いました。しかし、実際にその現場を見て話を聞き、それがそんな簡単な問題ではないことがわかりました。薬が無料で配布されていたとしてもそれを行う診療所や病院まで行く手段がないのです。最寄りの診療所や病院まで10km以上離れていて、そこまで歩く以外、バスや自転車などの交通手段がない状況でそれを受け取るだけに病院や診療所に定期的に通うのが難しい状況にある人が多くいました。また薬を手に入れてもそれを他の誰かに売ってお金にするという人がいたりなどというような現状があり、これも日本にいて入る情報だけではなかなか気づきにくいことだと思いました。

天満雄一氏

ザンビアに行った経験を一言で表すと「百聞は一見にしかず。」。プロジェクトを通じてザンビアに実際に行き、現地の状況を自分の目で見、そして現地の人の話を自分の耳で聞いて、多くの驚きと発見があったと同時に、自分が何もわかっていなかった現実を思い知らされました。インターネットや本で出てくる情報やデータだけでは、見えない現実も多くあることを実感しました。私は国際保健の分野に興味を持っており、将来的にその道に進むことも考えているのですが、今回の経験を通して、現場に赴き現状を自分自身で体感することが如何に大事かということを学びました。

またアフリカのことが好きな人や、今回のシンポジウムを通じてアフリカに興味が湧いた人は、是非機会があれば実際にアフリカの地を訪れ、自身の目や耳でアフリカを体験し、そしてアフリカを感じてきてもらいたいと思います。

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

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大学祭の翌週ということもあって参加者は少なかったのですが、毎日新聞の石田宗久記者が参加して下さって以下のような報告記事を翌日に掲載して下さいました。

アフリカの現実を知って 宮大医学部でHIVシンポ

HIV(ヒト免疫不全ウィルス)を通じてアフリカの保健事情を考えるシンポジウム
「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」が26日、宮崎大学医学部であった。玉田吉行教授(アフリカ文学)や医学生ら滞在経験のある5人が、貧困の背景や現地の医療事情などを語った。

アフリカの現実を知ってほしいと企画した。
海外青年協力隊でタンザニアに滞在した宮崎大出身の服部晃好医師は、世界のHIV感染患者推定数3330万人中、2250万人がサハラ砂漠以南のアフリカ在住とのデータを紹介。「奴隷貿易の歴史や先進国のアフリカ政策が国力のなさにつながっている」と指摘した。
玉田教授も「貧困がエイズ関連の病気を誘発している。開発や援助の名目で搾取されている」と先進国民の無関心さを批判した。
医学生3人はザンビアなどでNGO(非政府組織)の保健意識調査などに参加した体験を語った。
医学科6年の天満雄一さん(30)は、不十分な医療体制で子供を亡くした母親たちに話を聞いたといい「現地に行くまで全然分かっていなかった。将来は国際保健のために働きたい」と話した。【石田宗久】

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シンポジウムの報告もアフリカとエイズについても今回が最終回で、次回からは「アフリカ史再考」(仮題)を連載したいと考えています。この十年以上、色々な角度からアフリカとエイズについて考えてきましたが、その中で一番感じたのは、病気の問題を考えるのに社会や歴史や文化なども含めた包括的なものの見方が必要だということでした。1980年の初めにアフリカ系アメリカ人の文学を理解するために辿り始めたアフリカの歴史について、今までやってきたことのまとめの意味も含めて、もう一度考え直してみたいと思っています。(宮崎大学医学部教員)

石田記者

毎日新聞の報告記事

執筆年

2012年7月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 47」

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(作業中)