2010年~の執筆物,つれづれに

「アフリカ史再考①ーアフリカ史再考のすすめ」

2021年11月のZoomシンポジウムでケニアの歴史に触れ、改めてアフリカ史再考の必要性を感じたので、再開して「つれづれに」に連載することにした。

バズル・デヴィドゥスン

「アフリカ史再考」の連載一回目である。

二つの科学研究費(註1)でアフリカのエイズを取り上げ、二つの連載(註2)と、他にもエイズ関連のもの(註3)を書いた。その過程で、ひとつの病気を理解しようとする時には、社会や歴史などのより大きな枠組みの中で病気を包括的に捉える必要があると改めて感じた。
アメリカやヨーロッパ諸国では1995年の後半あたりから、抗HIV製剤が劇的な成果を見せ始め、HIVを抱えたまま生活を維持することが可能になったが、アフリカ諸国では抗HIV製剤だけでは問題の解決は難しい。貧しく惨めな環境で暮さざるを得ない人たちがあまりにも多く、高価な薬にはなかなか手が届かず、手が届いたとしても基本的な生活基盤が変わらない限り、必ずしも効果が望めるとは限らないからである。コロナウィルス(Covid19)で混乱に拍車がかかっている今となっては、尚更である。
基本構造を変えないまま、つまりアフリカ人労働者の賃金を上げられないまま、アパルトヘイト体制から新体制に移行して貧困と闘っていた南アフリカの元大統領ムベキは「私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。」と世界エイズ会議でもそれまでの主張を繰り返したが、世界のメディアの大半を所有する欧米のメディアはムベキを散々に叩き続けた。しかし、よく耳を傾ければ、ムベキ氏の言ったことは極く当たり前のことである。南アフリカのアフリカ人の安価な労働力にただ乗りして自分たちの生活を享受する欧米人や日本人こそ、無自覚な傲慢さを恥じるべきだろう。
アフリカの貧困も、ここ数百年来の欧米の侵略が大きな原因で、今も「先進国」と「第3世界」の間の経済格差がなくならないのは搾取構造が形を変えて続いているからだ。
「アフリカについて見直す時期に来ています」と呼びかけたバズル・デヴィドゥスンの「アフリカシリーズ」がNHKで放映されたのは1983年だが、アフリカについての報道も極端に少ないままだ。英語や教養科目「アフリカ文化論」「南アフリカ概論」などの授業でアフリカの問題を取り上げて来たが、学生のアフリカについての認識の程度や意識は、あまり変わっていないように感じることが多かった。
自分たちの足下を見直すためにもアフリカ史の再考は必要だと考え、「アフリカシリーズ」を元に「アフリカ史再考」を連載することにした。

デヴィドゥスンは元タイムズ紙のイギリス人記者で、後に歴史家としてたくさんの著書を残している。日本でも『アフリカの過去』(理論社)が翻訳されている。翻訳したのは神戸市外国語大学の教授だった貫名義隆さんで、貫名さんは大学紛争では学生側に立って支援を続けたが、研究室に火炎瓶を投げ込まれ完成原稿を焼かれてしまったと聞く。もう一度同じ歳月をかけて翻訳出版したその書は、貴重な生きた歴史記録である。夜間課程はゼミが一年間しかないので、一年間だけの貫名ゼミ生だったが、授業にも出ず、勉強もしない学生だった。のちに大学の職に就いて、授業で『アフリカの過去』を学生用の課題図書として紹介することになるとは夢にも思わなかった。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。

神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

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註1
(平成15年~平成18年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(課題番号 15520230)と(平成21年~平成23年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(課題番号15520230)
註2
二つの連載は、ケニアの作家ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳[No. 5(2008年12月10日)からNo.34(2011年6月10日)までの30回]と、「『ナイスピープル』を理解するために」[No. 9(2009年4月10日)からNo.47(2012年7月10日)までの27回]である。それぞれブログに一覧表もつけている。→「玉田吉行の『ナイスピープル』」、→「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」
包括的に病気を捉える必要性については:→「アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 15(2009年10月)、ムベキについては:→「エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 19(2010年2月)を書いた。

ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』

註3 エイズ関連で他に書いたもの:
「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁、2000年。
「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。
「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁、2005年。
「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年。
“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。
「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ、2010年。
「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ、2011年

2010年~の執筆物,書いたもの

2021年Zoomシンポジウムの報告です。参加して下さった方々に深くお礼申し上げます。

(こじまけい画)

去年の春先から突然遠隔授業の準備が始まり大慌てでした。研究室のデスクトップには音声やカメラの機能がなく、授業で使っているノートパソコンにもカメラの機能をつけていませんでした。必要なかったからです。その場凌ぎで始めたZoomが結局は一年間続きました。南アフリカ概論では100人を超えるクラスもありました。そんなこともあり、地域資源創成学部の英語のクラスで時間外にZoomでトーイック対策をやってみたら、参加者も多く、そんな手もあったんやと思いました。医学科では医学用語、その流れで、シンポジウムもZoomでということになりました。

実施したのは2021年2月20日(土)10:00~12:00でしたが、報告は今になってしまいました。もうみかんの花が一斉に咲き始め、甘酸っぱい匂いがあちこちから漂って来ます。庭ではイリス↑が咲きました。植え替えて二年ほど花を咲かせてくれなかったのですが、今年は5本咲いてくれました。イリスには申し訳ないのですが、玄関と洗面所に移動してもらっています。

科研(玉田)のタイトル「『アングロ・サクソン侵略の系譜』の流れで、『第二次世界大戦直後の体制の再構築』で、またつき合ってもらえませんか、今回はZoomで、出来れば、一方的な発表ではなく、色々な意見や質問などを通して双方向のシンポジウムをやりたいんですが」、と、杉村さんと寺尾さんにお願いして応じてもらいました。2年前のシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」(→2018シンポジウム報告書)に続いて2度目です。3人は研究室も隣同士、所属は多言語多文化教育研究センターです。

3人の発表

玉田吉行:「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史:「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦:「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

 

司会を地域資源創成学部2年生(現3年生)の中原愛さんにお願いしました。中原さんには科学研究費の謝金の有効活用に協力してもらっています。活動的で司会もばっちり、ほんと助かりました。4人で打ち合わせをしたときは、ころっと時間を忘れて3人にはご迷惑をおかけしました。すいません。参加して下さった人も含め、いろいろ助けてもらえましたので、昨年度の活動報告も辛うじて書けそうです。ありがとうございました。

シンポジウムには地域資源創成学部、農学部、工学部、医学部の学生と防衛医科大学医学部の学生も参加して下さいました。発表者を三人にし、ある程度時間を制限したこともあり、いろいろな質問も出て、お互いに意見の交換できたように思います。参加して下さった方々に改めて深くお礼申し上げます。

シンポジウム後のメールの遣り取りで、次回もシンポジウムがあれば参加すると言って下さる人もいて、秋に、今度は現在の話をしたいと考え、寺尾さん、杉村さんにも賛成してもらっています。(一回目は植民地化の時代、今回が第二次世界大戦後についてでしたので。)

詳細が決まれば、参加して下さった方々には案内を差し上げます。他に参加希望者がいましたら、誘って参加して下さると嬉しいです。あまり多くなると2時間のなかでの発言の機会が少なくなりますが・・・・。

三人の発表概要、②科研費の詳細、③Zoomの詳細の順に報告しています。三人の発表概要にはシンポジウム後に詳しく書いたPDFファイルをつけています。(寺尾さんの分は届き次第掲載します。)写真は前回のシンポジウムのものを使いました。

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三人の発表概要

「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」 玉田吉行

西洋社会はポルトガルの1505年のキルワの虐殺を皮切りに聖書と銃で侵略を開始→奴隷貿易→蓄積した資本で産業革命→大量消費社会へ→の歩みを始めました。市場と原材料、安価な労働者を求めてアフリカ争奪戦→世界大戦回避のためにベルリンで会議を開催→結局は二度の世界大戦→西洋の総体的力が低下→虐げられていた人たちの解放闘争(変革の嵐)→独立→新しい形態の支配体制を構築。開発や援助を名目に、多国籍企業による貿易・資本投資の経済支配体制を構築しました。

今回は、新体制を構築する際のガーナとコンゴで取った戦略に絞ります。

どちらの場合も、独立の過程を出来るだけ邪魔をして国内を混乱させたあと選挙で選ばれた首相と敵対するアフリカ人にクーデターを起こさせ、後に傀儡の軍事政権を設立するという形を取りました。

ガーナの場合、エンクルマが積極行動を唱える会議人民党を結成し、ストライキやボイコットを展開して支持者を得、「即時自治」を求めました。エンクルマを投獄して抑えにかかりますが、自国の復興で精一杯、抑えられないとみるや独立の過程を邪魔して後に軍事介入の路線に変更。その結果、獄中から出たエンクルマが首相に。独立時の英国の悪意を伝記の中に「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとの英総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。」と回想しています。その後、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談中にクーデーターが起きて失脚、72年に寂しくルーマニアで亡くなっています。

コンゴの場合、旧宗主国ベルギーの独立の過程の妨害は極めて悪意に満ちて、あからさまでした。政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置かず、ベルギー人官吏8千人を総引き上げしました。コンゴ人には行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入してコンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。

ルムンバは米国の援助でクーデターを起こした政府軍のモブツに捕えられ、国連軍の見守るなか、外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。モブツはその後、三十年以上独裁政権の座に居続けました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜25:体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」(玉田吉行)

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「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」 寺尾 智史

赤道ギニア共和国は、サブサハラのアフリカ諸国が英仏からこぞって独立し、「アフリカの年」と呼ばれた1960年から遅れること8年、1968年に当時フランコが独裁体制を敷いていたスペインから、アンゴラは、さらにそれから7年後、1975年にサラザール独裁体制が崩壊したポルトガルから独立した。

こうした「後発」の独立国は、果たして、先発の独立国が直面したナショナル・ビルディングへの苦難を教訓とし、その国家の立ち上げを順調に進めていけたであろうか。

結果から言えば、最初から大きく躓いてしまったと評価せざるを得ない。どちらの新国家でも、植民地時代から顕在化しつつあった問題群が暴発し、それが、虐殺や内戦といった、人道上最悪の事態に陥ったからである。そのことにとりわけ直面し、危機が噴出したのが、列強による分断の果てに、自然地理的に、もしくは現場の住民が紡いできた時間の流れとは関係なく断片化されてしまった国土の「小さな破片の側」に生きてきた、「マイノリティにさせられた人々」のまわりだったのである。

その中で、今回は「ビオコ島」、「カビンダ」という断片に焦点を当て、両国の現代史を投影してみたい。

ビオコ島は、ギニア湾奥の火山列島のうち最大の島で、面積は2017平方キロ。沖縄本島が1200平方キロ、佐渡島が855平方キロなので、ちょうどこの2つを合わせたぐらいの、火山島としては大きな島である。1968年スペインから独立した際、島の住民は同島ともう一つの属島アノボン島の2島独立を強く主張したが、スペインは曖昧な態度を続けた挙句、彼らにとって最悪の選択、スペインがサブサハラのアフリカ大陸で領有していた唯一の植民地で列強のナイフで直線的に切り取られたアフリカ植民地の切れ端のような形をしている、リオムニと抱き合わせのセットで独立させてしまった。こちらの面積は26万平方キロ、アフリカ大陸の規模から考えれば芥子粒のようだが、ビオコ島から考えると13倍、人口規模でも約3倍の人々が住んでいる。そして、海に隔たれ、緯度もずれている2つの地域に住む人々のことばは、そして、主にそこから生まれる民族意識は、全く別個のものだったのである。結局、島に住むブビ語母語話者は、大陸側に住む住民のうち多数派であるファン語母語話者に対して、いくら選挙をやろうにも勝ち目はない。そのうち、海洋性気候ですごしやすいビオコ島に多くのファン人エリートが移り住むと、島の元々の住民は迫害され、少なからずの人々が虐殺されることになってしまった。

カビンダは、125万平方キロの広大な国土を持つアンゴラからすれば、たった7270平方キロのちっぽけな飛び地である(ちなみに宮崎県の面積は7735平方キロ)。しかし、この地を囲むコンゴ共和国領、コンゴ民主共和国(旧ザイール)領の近隣地域と元々は同質性の高い区域であった。しかし、切り取られ、そしてそこに天然資源が発見されることで、住民は重い現代史を背負わされることになった。住民の中には、言語などを核として「カビンダ人」としてのリージョナル・アイデンティティを希求する者が現れているが、「アンゴラ人」の自画像とは何か、という大きな枠組みの中でハレーションを起こし、独立紛争も含め問題化している。

本発表では、ビオコ島、カビンダの両者を比較しながら分断の不条理を見る。

→列強による分断の果てに(届き次第掲載)

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「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」 杉村佳彦

太平洋諸国を経由し、13世ごろにニュージーランドへ到着した先住民族のマオリ族は、約100に及ぶ部族毎に分かれ伝統的な狩猟農耕生活を営んでいた。18世紀になると西洋人との接触により様々なものを得たマオリは、次第に土地や産物を売り始め、金銭を得ることをイギリスに学んだ。その結果、戦争品の貿易などにも手を染め、国内戦争へも発展していった。そした、立場的にも弱小化した1840年のワイタンギ条約により、実質的にマオリはイギリスの植民地と化し、ニュージーランド内でのマオリの立場はより一層苦しくなった。そして、第一次、第二次大戦へと巻き込まれたニュージーランドも、当時の政府にその存在意義をアピールすべく、また、マオリ組織らの圧力により「マオリ大隊」なる隊を編成し、戦争に参加していくこととなった。やがて部族別だったマオリが「マオリ」という一つの大きなマイノリティーという認識へと変容した時期でもある。

戦後は労働者として大都市部へ移住を開始し、労働により金銭を得ることで生活を営む西洋化社会となり、否応なしに都市部への人口流出が開始された。結果、従来の部族伝統は失われ、マオリという認識のもとに生活はするものの低社会層に属し、自らの言語文化アイデンティティすら薄れてしまった。しかし、そこに危機感を抱いた80年代にマオリルネッサンス(マオリ復興)が起こり、失われた言語・文化・アイデンティティの復活へとつながるのである。本発表では、教育を背景にした自文化への目覚め、失われたマオリ語学習、伝統文化継承等の活動を紹介し、都市化から得たものを分析する。

マオリの都市化

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科研費の詳細(申請時)

所属機関名称:宮崎大学 研究代表者・部局:語学教育センター 職:特別教授 氏名:玉田吉行 研究種目名:科学研究費基盤研究(C) 交付決定額(4030千円) 補助事業期間:平成30年4月~令和4年3月 研究課題名:「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」

<申請時の概要>

広範で多岐にわたるテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、アフリカの歴史と奴隷貿易、と今までそれぞれ10年くらいずつ個別に辿ってきましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思っています。

ライトの作品を理解したいという思いからアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でアフリカ系アメリカ人がアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に、神戸にあった黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして、最初の著書『箱舟、21世紀に向けて』(共著、1987年)にガーナへの訪問記Black Powerを軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズとテーマも範囲もだんだんと広がって行きました。辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

バズゥル・デヴィドスン

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ500年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(アメリカ国防総省)で開発された武器を援用して個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んでほぼ350年にわたって行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えてきて、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants 1(1995年)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(1998年)にまとめました。奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

Africa and Its Descendants 2

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Zoomの詳細

*Zoom招待状の招待状です↓

トピック: 玉田吉行 の Zoom ミーティング

https://us04web.zoom.us/j/79189996934?pwd=SzRJWERGalR4VmVGRmpSZmwzTkZYdz09

ミーティングID: 791 8999 6934

パスコード: 5F77Wk

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜18:「アフリカ系アメリカの歴史」

アフリカの歴史の次は、アフリカ系アメリカの歴史の拠り所についてです。リチャード・ライトの小説を興奮して読みながら、小説を理解するためにはアフリカ系アフリカ人が辿った歴史を辿るなかでその必要性を感じました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)

リチャード・ライト(小島けい画)

もちろん、アフリカ系アメリカの小説を理解するために始めたわけですから、本格的な歴史書、ハーバード大学でアフリカ系アメリカ人として初めて博士号を取ったCarter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)ゼミの担当者貫名さんが十年かけて翻訳されたWilliam Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)(『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』、大月書店、1970年)シカゴ大学の歴史学者John Hope FranklinのFrom Slavery to FreedomA History of Negro Americans (1980)などを先ず読むべきだったのでしょうが、私が拠り所にしたのは、①ラングストン・ヒューズの“The Glory of Negro History”、 ②ライトの12 Million Black Voices、③マルコム・リトゥルのMalcolm X on Afro-American History④アレックス・ヘイリーのRootsと⑤それを基に作られたテレビ映画「ルーツ」、それと⑥本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』でした。

  • “The Glory of Negro History”

“The Glory of Negro History” (1964年)はラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)が物語った詩人の歴史です。アメリカにアフリカ人が連れて来られるようになった頃から公民権運動が始まる頃くらいまでの詩人から見た民衆の物語です。詩人らしく、自らが朗読してレコード(LP)も出しています。当時生存中の著名人にも演奏や朗読を依頼して花を添えている貴重な歴史資料でもあります。

文化として黒人が受け継いできたスピリチュアルズ、ブルース、ジャズなどを盛り込み、そのレコードをウッドスン博士に献じました。

ヒューズとも親交のあった古川博巳さんが註をつけて、南雲堂から出されていた大学用のテキストを5年ほど、映像などといっしょに教養の英語の時間に使い、ヒューズの朗読も教室でくり返して聴きました。民衆に寄り添った詩人の肉声は、後の世の人への素敵な贈り物だと実感しながら聴いていました。マルコム・リトゥルなどが痛烈に批判したNegroが表題に使われてはいますが、死ぬまでハーレムを去らなかった詩人らしく、民衆の中に根ざしたアフリカから連れて来られた人たちの子孫の「栄光」の歴史です。

  • 12 Million Black Voices

詩人の“The Glory of Negro History”と併せて、小説家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)の12 Million Black Voices(『1200万の黒人の声』、1941)も拠り所となりました。『アメリカの息子』(Native Son, 1940)と自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の谷間にあって知名度は高くないのですが、なかなかの力作です。

少数の支配者層に搾取され、虐げられ続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」です。

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(「黒人研究」第56号50-54頁、1986年)

  • Malcolm X on Afro-American History

Malcolm X on Afro-American History は、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館に行った帰りに立ち寄ったアフリカ系アメリカとアフリカの専門店リベレーションブックストアで見つけたもので、前回紹介したThe Struggle for Africaと共に貴重な拠り所になりました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」続モンド通信3、2019年2月20日)

公民権運動の指導者マルコムが4回シリーズで語ったアフリカ、アフリカ系アメリカの歴史で、4回目の途中に暗殺されましたので、未完のままです。白人支配の体制に闘いを挑む前に、先ず自己意識の変革の必要性を説き、アメリカ黒人の歴史についての話をしています。奴隷船でアフリカから連れて来られる以前に、アフリカにいかに豊かな文化があったか、いかに自分たちの祖先が優れた人々であったか、又、いかに巧妙な手段を使って白人たちが黒人に白人優位の考え方を植えつけてきたか、そして今、自分たちが何をしなければならないのかなどを語りました。「黒人歴史週間」やアメリカ黒人の呼び方「ニグロ」の欺瞞性も次のように厳しく批判してします。

なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。[『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』 Malcolm X on Afro-American History (New York: Pathfinder, 1967), p. 15]

小島けい画

後に、自己意識の大切を説いた南アフリカのスティーブン・ビコなど、多くの人にも影響を与えた貴重な人物の一人だと思います。

・Rootsと⑤テレビ映画「ルーツ」

『ルーツ』(Roots, 1976)はアレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921~1992)が自分の祖先を七世代遡って小説にまとめたもので、翌年にはテレビ化され、各国で翻訳もされて世界的に反響を呼びました。

30周年記念DVD版の表紙

17歳だった1767年に奴隷狩りに遭い、アメリカ大陸に連れて来られた祖先クンタ・キンテの名前を、村の歴史を継承する語り部グリオ(griot)の口から聞くために、西アフリカガンビアの小さなジュフレ村を訪れています。

私はテレビ放送があった頃は見ていませんが、1980年代半ば頃に非常勤講師としてお世話になった大阪工業大学のLL(Language Laboratory)教室でダビングしてもらいました。孫テープの画質はよくないですが、今となっては貴重な資料です。2007年に30周年記念版のDVDは映像も鮮明ですが、一部(クンタ・キンテの誕生から、奴隷解放がテネシー州に落ち着くまで)だけで、それ以降の2部は含まれていません。どちらも、今は映像ファイルに化けて、英語の授業で大活躍です。

Roots, 1976

安岡章太郎訳日本語版上

安岡章太郎訳日本語版下

本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も拠り所の一つになりました。黒人研究の会の例会で一度だけ本田さんのお話を伺ったことがあります。大学で私のゼミの担当者だった貫名義隆さんが誘われたようで、当時は一橋大学の教授だったと思います。

黒人研究の会は貫名さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めた「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする」(会報「黒人研究」第1巻第1号1956年10月)小さな研究会です。例会での『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出版された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々だったと記憶しています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

1619年8月に植民地労働力としてアメリカ最初のアフリカ黒人が、1620年11月にイギリス軍艦をともなったオランダ船が、どちらもヴァージニアのジェームズタウンに来たことを指摘して書いた「アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である」という書き出しは印象的でした。

その後、奴隷制を基に発展していくアメリカを、南部戦争→再建期→反動→公民権運動を丁寧に辿り、わかり易く書かれています。1991年に改訂新版(新赤版)が出て、今も岩波新書「アメリカ黒人の歴史」は読み継がれているようです。

『アメリカ黒人の歴史』

アメリカの歴史に関しては、英文書Africa and its Descendantsの3章を軸に、4回に分けて書きました。↓

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」(2014年3月10日)

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」(2014年4月10日)

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」(2014年5月10日)

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」(2014年6月10日)

(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

続モンド通信20(2020/67/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜17:「アフリカの歴史」(玉田吉行)

 リチャード・ライトの『ブラック・パワー』をきっかけに本格的にアフリカに首を突っ込むようになったものの、アフリカの歴史について何を拠り所にするかは大きな問題でした。

リチャード・ライト(小島けい画)

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、「黒人研究」第55号26-32頁、1985年。

“Richard Wright and Black Power”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48. 1986年。

大学職に就くためには業績も必要で研究らしきものも始めましたが、小説を書く空間さえ確保出来れば充分で、元より研究の目標も展望もあるはずもありませんでした。しかし、その都度やれることをやっていたら次が見え始め、また次が見え、気がついてみたら、アフリカの歴史の拠り所を探り始めていました。探り始めて手がかりらしきものが見え始めたのも、黒人研究の会、リベレーションブックストア、「アフリカシリーズ」の影響が大きかったと思います。

黒人研究の会

黒人研究の会は第二次世界大戦後のアジアやアフリカの独立運動や、アメリカの公民権運動の頃から活動を始めていた小さな研究会です。アフリカ系アメリカとアフリカが研究の対象で、神戸市外国語大学の教員が活動の中心でした。

神戸市外国語大学の夜間課程を卒業後、高校教員6年目に入学した大学院で修士論文を書き始めた頃に入会し、月例会にも参加し始めました。会員は文学や語学が専門の人が中心でしたが、歴史や政治の専門家もいましたので、アフリカ系アメリカやアフリカの広範囲な話が聞けました。発表の場が欲しくて参加しましたが、自然にアフリカの文学や政治や歴史にも触れるようになりました。アフリカ人の会員もいて、アフリカ人の立場からの意見も聞けましたし、自然にアフリカも視野に入れて考えるようになったのは大きかったと思います。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

月例会が行なわれた神戸市外国語大学旧校舎事務局、研究棟(大学ホームページより)

リベレーションブックストア

リベレーションブックストアはニューヨーク市ハーレムにあるアフリカ系アメリカとアフリカの専門店で、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館を訪れた帰りにたまたま立ち寄りました。そこでThe Struggle for Africa (Zed Press, 1983)を見つけました。図書館にはアフリカ系アメリカとアフリカの貴重な資料が揃ったションバーグコレクションがあり、その中に修士論文の軸に据えたライトの中編小説が掲載された雑誌のフォトコピーがあると知って出かけました。実際には、図書館に行く前に、ニューヨーク市の古本屋で雑誌の現物を見つけたので、コピーを手に入れる必要はなくなってしまいましたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)

前書きによれば、The Struggle for Africaはアフリカを見直そうという目的で、南部アフリカとの連帯を掲げて活動していたスウェーデンのアフリカグループ(The African Groups of Sweden)が書いたアフリカ史で、1982年にスウェーデン語で出版された本の英語版です。

そのグループは、長年南部アフリカ諸国と連携して解放のために活動を続けていましたが、参考図書として使っていた選集The Liberation Struggle in Africa (Befrielsekampen i Afrika)に飽き足らずに、その選集に代わるものとしてThe Struggle for Africaを書きました。解放運動を支援する政府や州の先進的な方向性は認められるものの、それでもアフリカ全般、特に解放運動に関しては、学校図書もマスメディアも表面的で、スウェーデンの大衆に届く情報の数々に西洋の偏見(バイアス)がはっきりと見て取れたからです。

本が生まれた経緯を編者Mai Palmbergが前書きで次のように書いています。

「歴史背景と紛争の現実の問題をよく知った上で連携作業を進めるべきだと考えていましたので、アフリカの闘争で実際何が問題なのかを説明するために私たちは書籍を作りました。そして、アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したいと思っている人たちの間でも、私たちのグループ以外でも、この種の背景や分析を強く望む声があるというのがわかりました。

解放闘争に携わっている人たち自身の間でも、こういった事実や分析の必要性が非常に高いとわかって、書籍を作るという発想が生まれました。もちろん、南部アフリカの解放闘争の背景をもっとよく知りたい人すべてに役に立てばと思いますが、同時に、書籍が読まれる所で連帯関係が強まればと願っています。」

 The Struggle for Africa は9章からなり、最初の3章がアフリカ史全般、4~9章が南部諸国の解放運動についてです。

1章はアフリカの植民地化、2章は独立運動と植民地時代の終焉、3章が第二次世界大戦後の新しい形の支配体制(「新植民地支配」)。

4章は、ギニア・ビサウとカーボベルデ、5章はモザンビーク、6章はアンゴラ、7章はジンバブエ、8章はナミビア、9章は南アフリカの解放運動についてです。

ションバーグコレクションからの帰りに立ち寄ったリベレーションブックストアで、「アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したい」と考えていた日本人がたまたまこの書籍を発見し、その本を軸にアフリカ史の入門書として2冊の英文書 Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998)を書いて、その後大学のテキストとして使うことになったというわけです。

「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送された8回シリーズ(各45分)の番組です。英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。

30年以上も前のものですが、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介し、後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていています。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだと思います。

バズル・デヴィドスン

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」です。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語です。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半です。

西欧が自らの理不尽な侵略を正当化するために捏造した白人優位・黒人蔑視の意識、現在の資本主義社会の方向性を決めた奴隷貿易、解決策としての「先進国の経済的譲歩」を軸にして、バズル・デヴィドスンはシリーズ全体を展開しています。

白人優位・黒人蔑視―デヴィドスンは番組の冒頭で、ジンバブエの遺跡グレートジンバブエなどを紹介しながら、500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を如何に浸透させて来たかについて、次のように語っています。

アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病なのです」と断言しています。

18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

奴隷貿易―そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べています。

では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

経済的譲歩―そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいます。

援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。「最終回 植民地支配の残したもの」

今回の科学研究費の「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」もこうした背景から生まれました。(宮崎大学教員)