2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ

1985年のリチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960)のシンポジウムで、発表者の一人伯谷さんから、2年後のMLA (Modern Language Association of America)での発表の誘いを受けました。ファーブルさんに自分の思いが充分に伝えられなくて英語をしゃべろうと決めたものの、すぐに運用力がつくわけでもなく、取り敢えず英語に慣れるために、もう一度ミシシッピに行くことにしました。

初めての1981年は、図書館と古本屋巡りだけでライト縁の土地巡り(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)まではかないませんでしたので、今回はニューヨーク→ミシシッピ→メンフィス→シカゴを辿ろうと思いました。ファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)では、ライトは小作人の父親と小学校の教師の母親の間にナチェズ(Natchez)で生まれ、その後州都のジャクソン(Jackson)、グリーンウッド(Greenwood)、テネシー州メンフィス(Memphis)に住み、1927年にシカゴ、37年にニューヨーク、最終的には46年にパリに移り住んでいます。亡くなったのは1960年、52歳です。

小作人(A sharecropper)

今回もサンフランシスコに泊まってからニューヨークに行き、ラ・ガーディア空港(LaGuardia Airport)からジョージア州のニューオリンズ(New Orleans)に飛びました。ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)が生まれ育ったというフレンチクウォーターをぶらついたあと、プロペラ機でライトの生まれたナチェズに飛びました。

ナチェズ空港

空港からの景色

もうずいぶんと経ちますので記憶がぼんやりとしていますが、その時の感想を「ライト縁の土地巡り」の途中で、アメリカ文学関係の雑誌「英米文学手帖」に書いて送りましたので、ナチェズで何を思ったのか、どう感じたのかが僅かながら残っています。

*****

「ニュー・オリンズから、僅か5人の乗客を載せたプロペラ機が着いたところは、空港と呼ぶには、あまりにもイメージが違いすぎていた。もし、飛行機さえなければ、れんが造りの閑静な佇まいは、小さな郡役所と呼ぶ方が適しい。リチャード・ライトの生まれた1908年のナチェズが再現されるわけではないが、いつか、ライトが生まれたというナチェズの地に、立ってみたかった。

小さな空港の、入口の扉を押し開いたところに「ナチェズ」が広がっていた。ポールに星条旗の掲げられたむこうに、馬が数匹、のんびりと草を食べている。背景は深い森だ。美しく、牧歌的な光景だった。

「私たちの耕す土地は美しい・・・・・・」で始まる一節を思い出した。かつて、アフリカ大陸から連れて来られた黒人たちの数奇な運命を綴った『千二百万の黒人の声』の一節である。ライトは、苛酷な白人社会と、美しく豊かな風土とを対比させることで、理不尽な白人社会の苛酷さを、読者の心に鮮明に焼きつけた。「風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る」とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く。

最近、「アーカンソー物語」というビデオ映画を見た。リトル・ロックの町でおきた事件を扱ったドキュメンタリー風の映画である。黒人の高校生を受け入れまいとする、白人の側の愚かしさが浮彫りにされていた。

キング牧師が、白人の警官に首根っこを押えつけられている写真、木に吊るされている黒人青年を取り囲む十数人の白人男女の異様な写真など、次から次へとその残像が目に蘇って来る。すべて、この美しく豊かな土地の上で展開されたのか。

今は夜中だが、ホテルの中庭のプールでは黒人、白人の男女若者が入り交って、楽しげに騒いでいる。喧噪に誘われて廊下に出ると、へイッ、ヨシ!という威勢のよい声が飛んで来た。昼間立ち話をした陽気な黒人育年である。頭のてっぺんにだけ円く髪を残した髪型が、似合っている。会う度ごとに、大声で気軽に声をかけてくれるのは、うれしいが、そんなに早口にまくしたてられても、相変らず慣れぬ耳が素早く応じてはくれない。にこにこと笑うしか能がない自分が、少々もどかしい。そのくせ、変に焦らないのも又なぜかおかしい。アメリカへ来るのが、これで3度目になるせいかも知れない。

昨年の11月に、ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトのシンポジウムが行なわれた。あるセッションの終わりに、高校で教員をしているという若い白人の女の人が立ち上がり、州は華やかな国際シンポジウムに協力はしても、担任しているあの子たちに何もしてやっていないと訴えた。担任している生徒の95パーセントは黒人であるという。

通りすがりの旅行者にしかすぎない私には、本当の現実の姿は、見えない。

人の営みとは無関係に、歳月だけは過ぎ去って行く。第3次世界大戦の前夜。最近の世の中の動きは不穏にすぎる。「人は歴史から何も学んではいない」と鋭く指摘したのは、たしか加藤周一氏だったか。歴史から何かを学ぶために、私は今、一体、何をすればよいのだろうか。

今回は7人に増えた乗客を載せたプロペラ機は、俄かに降り出した雨の中を、ライトが少年時代を過ごしたという州都、ジャクソンに向かう。(1986年7月25日)」

*****

『千二百万の黒人の声』(1941)

綿畑で

「英米文学手帖」→「ミシシッピ、ナチェズから」

『千二百万人の黒人の声』については「黒人研究」(1986)に書いています。→「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」

ナチェズからはプロペラ機で首都のジャクソンに行き、しばらく街中を歩いたのち、今度はバスでグリーンウッドに向かいました。

州都ジャクソン

グリーンウッドではアメリカが車社会だと再認識させられる出来事がありました。ジャクソンからグリーンウッドのバスターミナルに着いたとき、そう広くない建物は乗降客で混雑していました。人混みを避けてしばらくぶらついたあと戻ってみると、建物の入り口のドアに鍵がかかっていました。次のバスが来るまでのあいだ、入り口に鍵をかけるとは想像もしていませんでした。外には電話ボックスも見当たらないようで、しばらくぶらぶらして辿り着いた先は、警察署。白人の警官は外国からの旅行者にはとても親切なようで、それでは、とパトカーでホテルまで「護送」してくれました。

ホテルには辿り着いたものの、どこかに出かけようにもタクシーは使えないようでした。仕方なく、真夏の炎天下、ミシシッピ川まで歩いて行くはめになりました。一時間ほど歩いたあと川を見ながら、かつては蒸気船が奴隷の作った大量の綿の積み荷をメンフィスからニューオリンズまで運んでいたのだと思いました。

グリーンウッドのミシシッピ川

港湾労働者(Stevedoors)

メンフィスに行く前に、オックスフォードのミシシッピ大学に寄りました。シンポジウムをご主人と主催した、当時はミシシッピ大学で准教授だったメアリエマ・グラハム(Maryemma Graham)さんと、知り合いになったスクエアブックスのリチャーズ(Richards)さんに会うためです。グラハムさんは前回も掲載したファーブルさんといっしょに撮ってもらった写真にも写っています。約束もせずに直接研究室を訪ねましたが、歓迎してくれました。

メアリエマ・グラハムさん(中央)

リチャーズさんには二年後にMLAで南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La guma)で発表することになったので、何か資料が入荷したら送って下さいとお願いしました。

そのあと、今度はバスでメンフィスに行きました。今ならエルビス・プレスリー(Elvis Aron Presley)の生家グレースランド(Graceland)と、有名なビールストリート(Beale Street)には行くと思いますが、その時は大きな通りを歩いただけのような気がします。夕方四時頃だったと思いますが、大きな通りを歩いていると、大柄な黒人がつかつかと近づいて来て、ペーパー?と聞いてきました。道のまん中でペーパー?と思いながら、自信なさげに、ペーパー?と聞き返したら、怒ったように口に指を突っ込み、僕を見下ろしながらI’m hungry!と言ったようでした。なるほど、Give me a favor.つまり、金をくれと言うことか。ミシシッピでは鉄道線路の近くを歩いているときに、二回ほどGive me money!と突然言われていましたが、その都会版と言うことのようでした。Give me a favor.も聞き取れなかったんだと、今になって思います。

メンフィスの通り

最後に、ライトが10年ほど過ごしたシカゴに行きました。最初に来た時には、3時間ほどパレードをぼんやりと眺め、シカゴ図書館で1920年代の新聞記事の現物を見て、あの時代の新聞が残っているんだと感心し、シカゴ美術館でモネ(Claude Monet)の睡蓮の大作を見て、凄いなあと思いました。(1992年にパリのマルモッタン美術館(Musée Marmottan Monet)に行ったとき、たくさんの睡蓮を見ながら、シカゴの方がすごかったなあと感じました。)

シカゴではシンポジウムで連絡先を聞いていたスターリング・プランプ(Sterling Plump)さんの自宅を訪ねました。発表者の一人で当時イリノイ大学(The University of Illinois)の教員をしておられたようです。今から思うと、シンポジウムに行く前にプランプさんの編著Somehow We Survive: An Anthorogy of South African Witingは読んではいましたが、シンポジウムのあとで少し話したくらいの日本人をよくも家に迎えて下さったと思います。何を話したのかは覚えていませんが、高層マンションの一室から街中を見おろしながら話をした光景がぼんやりと残っています。一度木内さんから、その時のインタビューを録音してないか、残っていたらインタビュー集の本に入れるからとメールで聞かれたことがあります。Sterling Plumpさん、有名になられたのかなあと思いました。残念ながら、その時は録音用の小型テープレコーダーは持って行きませんでした。

アメリカの場合、日本のように定年退職の制度はなく、出来る人は年を取っても現役だそうです。伯谷さんも84歳で現役、この前出版された46冊目の本を送ってもらいました、と木内さんから聞きました。

2週間ほどの日程でしたので、それほどたくさん英語をしゃべる機会があったわけではありませんが、僕自身のライト縁の土地巡りは何となく出来たような気がしました。(宮崎大学教員)

シンポジウムについては簡単な報告と報告の日本語訳を書き残しています。

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(「黒人研究の会会報」第22号4ペイジ)

「黒人研究の会会報」第22号

“Richard Wright Symposium"(報告の日本語訳)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の2回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのラ・グーマの2作目の物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面、ケープタウン遠景と会話体の翻訳などについてです。

本文

ほんやく雑記の2回目です。

前回はサンフランシスコを取り上げましたが、今回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの生まれたケープタウンです。そこを舞台にした物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面:ケープタウン遠景です。(写真1:ラ・グーマ)

まるで映画の撮影のように、北側の大西洋から徐々にケープタウンの街に近付き、雨が降り始める街の様子を描きながら、物語が始まります。

ヨーロッパ人に土地を奪われ課税された田舎の人たちは、税金を払うためには仕事を求めて大都会に出るしかなかったのですが、アパルトヘイトによって居住区を定められていましたので、郊外の砂地にスラムを作って不法に住むしか他に道はありませんでした。

「国道沿いや線路脇や、郊外の砂地に立てたブリキ小屋やおんぼろ小屋の住人は、空をじっと見つめ、山の向こうに湿気をはらんだ雲がかかっている北西の方角を見やりました。雨が急にざあーっときて、屋根に雨音が激しくなりだすと、働いていた男たちは、屋根を補強するために、くすねてきた段ボール箱や、ごみの山から拾ってきた錆びた鉄板やブリキ缶を抱えながら、家路を急ぎました。継ぎはぎだらけの屋根や差し掛け屋根には、風が強くなった時に飛ばないように、重い石が何個も載せられていました。」「子供たちは素足の爪先をぴちゃぴちゃ鳴らしながらぬかるみに入り、水たまりや泥んこの中で遊んでいます。」

今回は、そのあとの以下の文章の翻訳についてです。

And: Man, I struck a luck, man – got a tin of bitumen for five bob. Over the wall. Bitumen is all right for keeping out the water. Soak old sacking in it and stuff it into the cracks and joints. Reckon it’s going to rain bad this year? I reckon so, man. Old woman is complaining about her rheumaticks awready, man. Say, give me my can of red on a cold day, and it can rain like a bogger, for all I care. Listen, chommy, I remember one time it rain one-and-twenty days in a row nonstop. Arwie is going to bring home some tar. He works mos by the Council. Look there, I don’t like that hole there. Johnny, you must fix it, instead of sitting around doing blerry nothing. Rain, rain, go away, come back another day, the children sang.

会話体を地の文に埋め込んだ形式です。急に雨が降り出してきたので家路を急ぐ、たぶん中年くらいの男が、雨漏りの補修に材料を運良く安く手に入れたと大声で話している。ビチューメン(bitumen)は道路の舗装に使う黒い液体、tinは缶なので、缶に入った材料のことで、粗い麻布にその液体を染みこませて割れ目や裂け目を埋める。これから長雨になりそうなのは、婆さん(奥さん)のリュウマチが悪くなりかけているので予測出来る。雨が降って寒くても、酒(缶売りのワイン)さえあれば、気にしない。いくらでも降ればいい。3週間も降りっぱなしの時があったなあ。市役所(Council)で働いているアーウィが(ビチューメンよりはましな材料)コールタールを手に入れてくれた、ジョー二ーはぶらぶらしていないで、屋根の補修をしろよ。流れはそんなところでしょうか。

bobは(英国流の)シリング。like a boggerはひどく。chommyは俗語でchommie=friend。mos はアフリカーンス語で強調する時に使う言葉。blerry はケープタウン独特の俗語で、bloodyがなまったもの。rがdに訛るようで、物語の中にDarra(Daddy)も出て来ます。

通して翻訳すると、

「あんた、俺は運がよかった。ピッチを一缶、五シリングで手に入れたよ。壁用のさ。ピッチは防水用にぴったりなんだ。古い麻布をその中に浸けて、そいつを割れ目や継ぎ目に突っこむんだよ。今年はひでえ雨になりそうかって。そうだと思うね、おまえさん。うちの婆さんがもうリュウマチが痛いのなんのと愚痴をこぼす始末さ。おい、寒い日にゃ、俺に赤ワインをたっぷりくれねえかい。そうすりゃ雨なんぞ、いくら降ったって俺の知ったことかい。なあ、おい、昔、二十と一日、たて続けに雨が降り続いたことがあったなあ。休みなしに、だ。アーウィはタールを家に持って帰るところだよ。奴は、なんてったって、市役所に雇われて仕事をしているんだからな。ほら、あそこを見ろよ。俺はそこんとこのあの穴はどうも好かんよ。ジョー二ー、ろくなこともせずにぶらぶらばっかりしていないで、それを修繕くらいしろや。雨、雨、行っちまえ、こんどは一昨日(おととい)降ってこい、と子供らが歌った。」

といったところでしょうか。

ラ・グーマはアパルトヘイト政権からは「カラード」(Coloured)と分類されていました。ケープタウンには「カラード」の人たちが特に多く、「ケープカラード」と呼ばれていました。最初来たヨーロッパ人はオランダ人でしたが、後にイギリス人が来てオランダ人から主権を奪ってケープ植民地を作りました。権力闘争に敗れたオランダ系の富裕層は内陸部に移動してアフリカ人と新たな衝突をくり返しました。ケープに残ったオランダ人はイギリス人に一方的に奴隷を解放されたとき、オランダの植民地マレーシアとインドネシアから労働力を輸入しました。ラ・グーマもインドネシアと白人の血が混じっていたそうです。

最初オランダ人が使っていた言葉にアフリカやアジアの言葉が混じってアフリカーンス語になっています。ラ・グーマの物語にもアフリカーンス語がたくさん出て来ます。

翻訳をするとき、そういった歴史背景や言葉の歴史を知っておく必要もあります。今回のように、物語の中に埋め込まれた会話体を翻訳するのも、会話の主体を誰に想定するかでずいぶんと違ってきます。中年の男性を想定して翻訳しましたが、60か70くらいの男性なら、翻訳もずいぶんと違うでしょう。

物語の舞台は添付の地図の中のケープタウン空港(Cape Town airport)近くの黒塗りの箇所(squatter camp, township)の一つです。(写真2:南アフリカ地図)

次回は「ほんやく雑記(3)ソウェトをめぐって」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」(「モンド通信」No. 92、2016年4月3日)

ダウンロード

2016年4月用ほんやく雑記2(pdf 358KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の1回目で、HNKBS(衛星放送)で放映された旅番組のなかで案内されたサンフランシスコの観光地「漁夫の波止場」(Fisherman’s Wharf)の一場面を取り上げ、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、について書きました。

本文

ほんやく雑記を始めます。

英語から日本語のほんやくについて書きたいと思います。毎回ある場面を取り上げて、あれこれを気軽に書いていきたいと思っています。

今回はサンフランシスコの名所漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)の一場面で、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、です。(写真1:漁夫の波止場1)

1990年頃にNHKの衛星放送で録画したオーストラリアの放送局制作の旅番組からです。毎回3つの街をそれぞれ7~8分程度で紹介する旅シリーズで、医学部の英語の授業で使うために録り始めました。

1980年代に何度かアメリカに行ったとき、毎回サンフランシスコに何泊かして東部か南部に移動しましたので、冒頭に紹介されているゴールデンゲートブリッジ(金門橋)や、坂やケーブルカー、漁夫の波止場やチャイナタウンなど、記憶の断片と照らし合わせながら楽しめました。

1950年代に普及し始めたテレビにはハリウッドなどの「アメリカ」がどっと押し寄せ意識のなかに染みこんで来て、一度はゴールデンゲートブリッジやナイアガラの滝やエンパイアステイトビルディングに行ってみたいと漠然と思っていたようです。ゴールデンゲートブリッジは一度歩いて渡ったことがあります。45分ほどかかったような気もしますが、30年以上も前のことですのでいささか怪しいです。

トニー・ベネット(Tony Bennett)の「思い出のサンフランシスコ」(I left my heart in San Francisco)の歌とともにゴールデンゲートブリッジが映し出されたあと、案内役の男性が漁夫の波止場を訪れて次のように解説します。

These are the first sounds of a perfect morning. The dawn chorus from Pier 39, sealions defending territory. You have to be early to catch this dreamy mood, because in a couple of hours, Fisherman’s Wharf changes dramatically.

Each day sees an invasion. Ten and a half million come each year to Pier 39 alone to walk, eat or just gawk at the buskers.

Some are good, others well.., but it doesn’t matter. This is a city where there is no cardinal sin and tolerance is the virtue.

  • 日本語と英語の違いを理解してどう表現するか

まずは”Each day sees an invasion.”をどうほんやくするかです。日本語と英語の構造的な違いを示す好例です。日本語ではEach dayは無生物ですからseeの主語にはなりません。構造的にはWe see an invasion each dayの方がしっくりときます。invasionは一般的には侵入という意味ですが、ここでは他から(人が)やって来るという意味でしょう。もちろんそれは次のTen and a half million comeから容易にわかります。これは映像ですから、その内容を音声や映像から瞬時に推し量る必要があるわけです。オーストラリア流にdayがダイ、invasionがインヴァイジョンと発音されていますので、実際には少し慣れないととっさには理解出来ない可能性もあります。それらを考えに入れると「毎日外からたくさんの人がやって来ます。」くらいのところでしょうか。

  • 抽象的な内容をどう表現するか

次は”tolerance is the virtue.” toleranceは一般的には忍耐ですが、ここでは寛容、(心が)寛いという意味でしょう。virtueは美徳、ここでは判断の基準くらいでしょうか。色んな人がいますが(Some are good, others well..,)、誰も気にしません。(it doesn’t matter.)世俗的な罪(cardinal sin)などない街ですから。それに続く文章です。映像では街芸人(buskers)の演技を人々がぼんやりと見ながら楽しんでいる(gawk)、自由きままで何でもありなんですよ、この街は、とそんなところです。

「何でも許されます、それがこの街の良さですから。」くらいでしょうか。

ほんやくするには、二つの言語の違いを認識する、前後の文脈から推し測かる、その文章が何のために書かれたか、などを考えに入れる必要があるようです。

気軽に楽しむ旅番組ですので、楽しめるほんやくもこの場合、必要でしょうね。

医学科6年生はカリフォルニア大学のアーバイン校で1ヶ月の臨床実習に行っています。英語分野ではそのための英語講座(EMP, English for Medical Professionals)を担当していますが、渡米直前に聴き取りの練習をしたとき、この映像を使いました。その授業にいた一人が「昨日・一昨日とサンフランシスコに行って来ました。先生が授業でお話されていた所ですよね。」と写真を二枚送ってくれました。実習でもお世話になりホームステイもさせてもらっている小児科医のペニー・ムラタさんに連れて行ってもらったようです。今回はその写真を使っています。(写真2:漁夫の波止場2)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」(「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

ダウンロード

2016年3月用ほんやく雑記1(pdf 310KB)

 

2010年~の執筆物

概要

「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

前回から、2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

前回は2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書いています。

本文

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概要

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2014年

収録・公開

「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

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