2010年~の執筆物,つれづれに

「アフリカ史再考①ーアフリカ史再考のすすめ」

2021年11月のZoomシンポジウムでケニアの歴史に触れ、改めてアフリカ史再考の必要性を感じたので、再開して「つれづれに」に連載することにした。

バズル・デヴィドゥスン

「アフリカ史再考」の連載一回目である。

二つの科学研究費(註1)でアフリカのエイズを取り上げ、二つの連載(註2)と、他にもエイズ関連のもの(註3)を書いた。その過程で、ひとつの病気を理解しようとする時には、社会や歴史などのより大きな枠組みの中で病気を包括的に捉える必要があると改めて感じた。
アメリカやヨーロッパ諸国では1995年の後半あたりから、抗HIV製剤が劇的な成果を見せ始め、HIVを抱えたまま生活を維持することが可能になったが、アフリカ諸国では抗HIV製剤だけでは問題の解決は難しい。貧しく惨めな環境で暮さざるを得ない人たちがあまりにも多く、高価な薬にはなかなか手が届かず、手が届いたとしても基本的な生活基盤が変わらない限り、必ずしも効果が望めるとは限らないからである。コロナウィルス(Covid19)で混乱に拍車がかかっている今となっては、尚更である。
基本構造を変えないまま、つまりアフリカ人労働者の賃金を上げられないまま、アパルトヘイト体制から新体制に移行して貧困と闘っていた南アフリカの元大統領ムベキは「私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。」と世界エイズ会議でもそれまでの主張を繰り返したが、世界のメディアの大半を所有する欧米のメディアはムベキを散々に叩き続けた。しかし、よく耳を傾ければ、ムベキ氏の言ったことは極く当たり前のことである。南アフリカのアフリカ人の安価な労働力にただ乗りして自分たちの生活を享受する欧米人や日本人こそ、無自覚な傲慢さを恥じるべきだろう。
アフリカの貧困も、ここ数百年来の欧米の侵略が大きな原因で、今も「先進国」と「第3世界」の間の経済格差がなくならないのは搾取構造が形を変えて続いているからだ。
「アフリカについて見直す時期に来ています」と呼びかけたバズル・デヴィドゥスンの「アフリカシリーズ」がNHKで放映されたのは1983年だが、アフリカについての報道も極端に少ないままだ。英語や教養科目「アフリカ文化論」「南アフリカ概論」などの授業でアフリカの問題を取り上げて来たが、学生のアフリカについての認識の程度や意識は、あまり変わっていないように感じることが多かった。
自分たちの足下を見直すためにもアフリカ史の再考は必要だと考え、「アフリカシリーズ」を元に「アフリカ史再考」を連載することにした。

デヴィドゥスンは元タイムズ紙のイギリス人記者で、後に歴史家としてたくさんの著書を残している。日本でも『アフリカの過去』(理論社)が翻訳されている。翻訳したのは神戸市外国語大学の教授だった貫名義隆さんで、貫名さんは大学紛争では学生側に立って支援を続けたが、研究室に火炎瓶を投げ込まれ完成原稿を焼かれてしまったと聞く。もう一度同じ歳月をかけて翻訳出版したその書は、貴重な生きた歴史記録である。夜間課程はゼミが一年間しかないので、一年間だけの貫名ゼミ生だったが、授業にも出ず、勉強もしない学生だった。のちに大学の職に就いて、授業で『アフリカの過去』を学生用の課題図書として紹介することになるとは夢にも思わなかった。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。

神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

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註1
(平成15年~平成18年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(課題番号 15520230)と(平成21年~平成23年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(課題番号15520230)
註2
二つの連載は、ケニアの作家ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳[No. 5(2008年12月10日)からNo.34(2011年6月10日)までの30回]と、「『ナイスピープル』を理解するために」[No. 9(2009年4月10日)からNo.47(2012年7月10日)までの27回]である。それぞれブログに一覧表もつけている。→「玉田吉行の『ナイスピープル』」、→「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」
包括的に病気を捉える必要性については:→「アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 15(2009年10月)、ムベキについては:→「エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 19(2010年2月)を書いた。

ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』

註3 エイズ関連で他に書いたもの:
「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁、2000年。
「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。
「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁、2005年。
「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年。
“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。
「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ、2010年。
「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ、2011年

つれづれに

2021年Zoomシンポジウム(11月27日土曜日)

「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」1

「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」1:

ケニアの歴史(1)植民地化以前

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科学研究費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容の詳細を書いてみたい。

エイズの話の前に先に歴史をみておく必要があるが、ケニアの歴史には詳しくないので、「駐日ケニア共和国大使館」(東京都目黒区)案内のケニア小史を借用して、ざっと歴史を辿ってみようと思う。

駐日ケニア共和国大使館

ケニア小史

紀元前2000年頃に北アフリカから来た人たちが東アフリカの今のケニアの一部に定住、のちにアラブ人とペルシャ人が来て植民地化、次いで1498年にポルトガル人が来てモンバサを拠点に貿易を支配、そのあとイギリス人が来て、1895年に東アフリカ保護領に、1920年に植民地に。長年ホワイトハイランド(現在の首都ナイロビ)に住んでいた多数派のギクユ人は、南アフリカケープ州のイギリス人入植者に奪われた植民地を取り戻すためにジョモ・ケニヤッタたちの主導で抵抗運動を開始、1963年に独立を果たし、1969年に「事実上の」単一政党国家に。その後、モイ、キバキの一党独裁支配を経て、大統領の国家統一党とオレンジ民主運動の連立政権で折り合いをつけて、現在に至る。これが大雑把な歴史である。

だが、それだけではアングロ・サクソン侵略の系譜の中でケニアのエイズを捉えることは出来ない。侵略の前にはケニア人が代々培ってきた暮らしや文化があったし、ヨーロッパ人の侵略によって、その伝統や文化や生活様式は大きく変えられてしまったからである。植民地化されたイギリスに抵抗して長く苦しい武力闘争を続けて、やっと独立を果たしたものの、独立後に指導者ケニヤッタとその取り巻きは、いっしょに闘った人たちを裏切って、欧米諸国や日本の勢力と手を組んでしまった。その後、一党独裁時代が長く続き、ケニアはさらに変貌した。ケニア大使館の小史からは、そんな姿は浮かんで来ない。額面上の見える史実を手掛かりに、その意識下に流れる目には見えない深層を探る必要がある。歴史過程の必然的な現象として、貧困や病気なども捉えるべきで、エイズもその一例に過ぎない。

日本もケニヤッタたちが手を結んだ相手国の一つで、関係は想像以上に密である。普通のケニア人や日本人が意識していない歴史の深層は、公教育の場で語られることはない。富を享受する一握りの金持ち層・支配者階級にとって、自分たちのやって来たこと、今も継続的に実行し続けていることを正当化する必然性があるからである。大多数が共有する表面上の歴史も、その手段に過ぎない。だからこそ、可能なら、公教育でこれまで受けてきた歴史を再考する必要がある。その流れで、ケニアの歴史を見てゆきたい。

(1)植民地化以前→(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来→(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 →(5)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

*ケニアの歴史(1)植民地化以前

遠い遠い昔の話なので確かめようもないが、元タイムズ誌の記者で歴史家のバズル・デヴィッドスンの映像「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)を借りながら、「大陸に生きる」(「アフリカシリーズ」2回目の表題)人たちについて考えたい。

バズル・デヴィッドスン

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」には、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人が1980年代にも昔ながらの原始的な生活をしている貴重な映像が収められている。狩猟採集に必要な技術以外に、動物を飼い慣らして家畜にするという大発見によって、人々の定住生活が可能になり、社会組織が大きく変化した。狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的で、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれ、入り組んだ社会組織も現われ始めた。デヴィッドスンは、ケニア北部に住むポコト人が住んでいる地域を訪れてしばらく生活を共にしながら、次のようにその人たちの生活を紹介している。牧畜を営む人たちの例としてそのポコト人を紹介したい。

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

ポコト人とデヴィッドスン

他の草原の住人と同様に、ポコト人の最大の財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期には200人もの人が村に住み、乾期になって草や水が乏しくなると牛を連れて遠くまで足を運び、村の人口が減る。次の雨期にはまた人が村に戻る、毎年それが繰り返されるわけである。主食はミルクで、栄養不足を補うために儀礼などの時に牛の血を料理して食べる。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要で、干魃などの天災にも備えなければならないので、山羊や駱駝も飼うようになっている。

女性は夫とは別の自分の家畜を持ち、男性が草原に行っている間は、村に残って子供や老人の世話をする。ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちの周りにあるものから作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類を拵える。牛の糞は壁や屋根の断熱と防水用に利用する。

ポコト人女性

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしていて、家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも重労働だが、女性は誇りを持って日常をこなす。厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要で、家の周りの藪から薬や繊維や日用品などを作り出す。カパサーモの根を煎じて腹痛や下痢に使い、デザートローズの樹の皮の粉末から殺虫剤を作り出して、駱駝のダニを退治する。ポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけである。

アフリカ大陸の東側には壮大なサバンナがあって、今でもそこに遊牧民が暮らしているし、牧畜が生活に占める割合の多い田舎もある。1992年に家族でジンバブエに行った時、借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなった。3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしていたらしい。その中の一人英語科のツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれた。

(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれ、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうである。幼少期を過ごした村には、伝統的なショナ文化が残っていたようで一族には指導的な立場の人がいて、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていたと言う。

村では、雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度や子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉でミリミールを拵えたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親を手伝い、男の子は外で家畜の世話をするのが普通で、ツォゾォさんも毎日放課後2時頃から、牛などの世話に明け暮れたそうである。乾期には、男が兎や鹿や水牛などの狩りや魚釣りをして野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと話してくれた。

食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、基本的な人の営みはそう変わるはずもなく、植民地以前は農耕と牧畜を中心にしたこうした生活を、営々と続けていたわけである。そして、田舎では、今も基本的にはこういった生活が続いている地域が多いようだ。

3人のうちの一人ゲイリーの村のスケッチ(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足③

絹鞘豌豆の花が咲いている。白い可憐な花だ。他の冬野菜といっしょで気温が下がると勢いも増す。何とか年末には今咲いてる花が実をつけてくれそうである。

歴史や政治を切り口にすると途中で止まってしまうことが多いので、堀切峠下海岸道路補足を一回挟もうと思ったが、写真が多くて3回になってしまった。海岸道路に行く途中に観光名所が多いということだろう。堀切峠下海岸道路補足の3回目で、青島屋の続きと、青島港、サンクマール近辺である。

そもそも歴史をどう見るかの話で、表面だけを見ているとわかった気になっても実体の何かを見落とす可能性が高い、意識下の深層に気づかないと・・・→文学しか頭になかった私が歴史や政治を考えるようになったのはアフリカ系アメリカの歴史を辿り始めたから・・・→その過程でアメリカのイメージが変化した(→「アメリカ?」(11月18日))→その深層を探るためには、私の小中高の頃やその当時の日本や世界の情勢を知る必要がある(→「戦後?①」(11月24日))という流れで、今「戦後②」を書いて自分の過去と向き合おうとしているのだが、その方向に行こうとしたのは、大きな歴史と、身近な問題を繋いで考えてみたかったからだ。

今回のコロナ騒動で、国民の多くがオリンピックの中止を考えてるのに多数の意見に反してオリンピックが強行されたことと戦争をしたくない多くの人たちの意見を無視して第二次世界大戦に突入した事態が似ていることや、忖度や嘘で塗り固められた自民党政治に辟易する人たちが多いのに、衆院選では自民党が大勝したことなどがきっかけだが、議会制民主主義の絡繰りなどについて一度書いておきたくなった。

今回の衆院選で、宮崎一区の自民党議員は選挙前に起こした交通事故で散散に叩かれた。無免許を秘書になすりつけて逃げ回ったために、事態を一層悪化させた、掲示板などでは元々横柄な人間だなどと容赦なく批判されていた。その結果、自民党の公認を県の自民党が認めず、普段なら楽勝のはずの小選挙区で落選したが、比例代表制で復活した。どうしてそうなるのか、(アメリカの)民主主義の絡繰り、その辺りから話を始めるつもりだった。

前回の最後に取り上げた青島参道の一等地の青島屋はそのとっかかりだった。小選挙区で落選し、比例代表で復活当選した自民党議員は、元宮崎交通の社員だったと経歴で公表している。つまりこの人は、宮崎一区の基幹産業である観光資本の代弁者で、少々法律を犯そうが、人格的に不遜だろうが、秘書のせいにする卑怯な人間であろうが、自分たちのために動いて成果を出しくれるならそれでもいい、ということらしい。

曽山寺浜、青島海岸で途切れていた防波堤が青島神社の参道を過ぎた所で復活して、青島港まで続く。防波堤の右手には植物園があり、改築されてきれいになっている。植物園の隣には、サーファー用の簡易宿舎とレストランなどの入った黒い建物がある。防波堤の突き当りが、青島港への道である。

肉も魚も苦手なので、一度港の直売所に来たことがあるが、魚が好きなら通っていたかも知れない。そこのレストランも魚料理ではタクシーの運転者など、通には評判がいいらしい。そう言えば、宮崎に来た直後に、家族4人で都井岬の馬を見に一泊で出かけたとき、宿で出た食事がすべて海産物、味噌汁にも魚の塊が入っていて、ご飯とたあくあんしか食べられるものがなかった。それが売りなのだから、行ってみないとわからないとは言え、行った方が悪い。

最初に堀切峠下海岸道路がサンクマール横の入り口から始まっていると紹介したが(→「堀切峠下海岸道路②」、11月1日)、「補足②」(12月2日) で紹介した水産試験所の横から始まっていることに今回初めて気がついた。何度も通っていたが、続いているとは思っていなかった。

今まで気づかなかった水産試験所横にあるサイクリングロードの掲示

防波堤はサンクマールの裏手まで続いていた

ホテル裏のこの洗濯岩の景色を見るために時たま出かけたことはあるし、人を案内したことも何度かあるが、この裏手の防波堤がそのまま堀切峠下海岸道路に繋がっているとは思わなかった。コロナ騒動の2年ほど前までは、ホテルの日帰り温泉によく通った。温度設定が下げられて、湯がぬるくなってしまってからは行っていない。浴場は2階にあって、日向灘の水平線がいい。湯舟からは眼鏡で見えないが、体を冷ましにベランダに出るときは眼鏡を使えるので、水平線を堪能した。ホテルが途切れる辺りの防波堤からは、座礁した船の残骸が見える。ただ、ホテル裏の防波堤の道は、海岸道路に入る手前で狭くなっているので、車では通れそうにない。元々海岸道路そのものが、車のために作られたものでないのが実際に行ってみるとよくわかる。

車はホテル横のこの入り口からしか入れないようである。

海岸道路の続編は、風が穏やかになって南風茶屋に出かけられるようになる春先に、また。

次回は11月27日(土)にやったZoomシンポジウムになりそうである。シンポジウムが終わってからまとめを書き始めたが、ケニアについてはそう深くやる時間が取れずに中途半端なままにしてきたので、時間がかりそうである。書けた分を何回かに分けてブログに載せ、早くまとめて参加してくれた人に届けたいと思っている。

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路補足②

堀切峠下海岸道路の補足の後半、青島、青島港、ホテルサンクマール近辺で、撮って来た写真の数が多いので、少し長くなりそうである。写真を撮ったのが金曜日で人はそう多くなかったが、第2派の時だったか第3派の時だったか、サーファーが海に入ることを禁じられ、他県からの訪問自粛が出された時に比べれば、だいぶ観光客も戻って来ているようだ。AOSIMA SUIKOENのそばから歩行者自転車道路に入り、曽山寺浜の上を通る橋を下ってしばらく行くと、左手に曽山寺浜に続く青島の砂浜、右手に子供の国が見える。ホテルにも客が戻って来たのか、砂浜ではファーフィンの実演指導を受けるボディースーツの高校生の集団(↑)、子供の国の川では一人用のボートに乗る高校生の集団(↓)が見えた。普段にない光景だった。

海水浴シーズンに間に合わせてきれいに掃除された砂浜に、シーズンが終わったあとの台風や暴風で流木やごみ(↓)が毎年流れ着く。もちろん曽山寺浜でも木崎浜でも状況は同じで、夏の海水浴シーズンの前にはブルドーザーできれいにされる。護岸工事は国土交通省の管轄のようだが、流木除去の作業は県の土木課が担当らしい。実際に作業をしているのは、請け負った土建業者だが、費用は県民税からだろう。

なぜか春と秋の自治会の一斉清掃の時には、二年に一度木崎浜の掃除の割り当てがある。各班4人の割り当てだが、4人を確保するのが年々難しくなっている。役員が回って来た時、すること自体を減らそうとして、そんな遠い木崎浜の掃除はやめませんか、本来はサーファーがするべきことで、元々お節介なんやし、減らせる一つやと思うんですけどね、と提案したが、ま、いいやないですか、という人がいて、実際は提案がやんわり「却下」された。することになっていること自体を見直そうと言う意見に基本的には大体が賛成している役員会でも、である。何やら協議会と何とか連合会からの要請を遠い昔に引き受けて、そのままになっているらしい。会長になって張り切る人がいると、することが増えて、増えたまま引き継がれる。会長をやりたくて仕方がない人、むやみに張り切る人が一番、たちが悪い。一度実施された行事は、おいそれとは廃止されない。自治会構成員が高齢化して、会長や役員のなり手が少なくなっているというのに、いざ何かを廃止しようと提案しても、実際には廃止されない場合が多い。できれば自治会と関わりたくないが、災害時だけ出て行くのも気が引ける、その思いだけで退会出来ないままである。日向灘沖大地震が起きないとは言えないし。

青島神社に行く橋の見える辺りの砂浜には今の所、流木やごみは見当たらない

と思ったが、青島神社に行く橋の手前に流木が見えた

青島神社の参道の入り口の角の一番大きな土産店は青島屋と言うらしい。工事が始まり、掲示で宮崎交通の管轄だと知ったとき、一番いい場所にこんな大きな新しい建物が出来たら他の店、やっていけんねんやろか、と思ったが、青島屋は元からあって、改装されただけですよと聞いた。看板がAOSHIMAYAになっている。歩行者自転車道路を通り始める前は、白浜に行く途中で、毎回この店の前を通り過ぎていたのに、何を見てたんやろ。

長くなったので、青島屋の続きと、青島港、サンクマール近辺は、次回の③に。

ブロッコリーが実をつけ始めた。年末には食べられそうである。ある時期まで希釈した酢を撒いても蒔いても虫の勢いに勝てなくて、葉っぱはこの惨状である(↑)。それでも、実をつけている。たぶん7度か8度くらいに下がった辺りから、虫を見かけなくなり、酢も撒かなくてよくなった。蚊取り線香も要らなくなった。10月までは冬野菜を蒔いても、大きくしようとしてもうまくいかないのに、11月に入ると俄然勢いがつく。10月までに葱やレタスの種を蒔いても、芽は出ても勢いがない。消えてしまう場合も多い。しかし、今はすごい勢いである。夏野菜のオクラと胡瓜の二期作を試みてみたが、芽は出て実はなるものの勢いがない(↓)。もうすぐ霜が降り出すと、枯れてしまう。自然に逆らって抗ってみても、所詮ホモサピエンスの浅知恵の域を出ないようである。