つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路③

例年より遅れていた金木犀の香りが漂い始めたと思ったが、もう盛りを過ぎている。花の命は短かくて、だ。柿が色付いている。去年は250個以上も実をつけた西条柿が、今年は6つ。来年は生り年で復活するかどうか。採り込んで、洗って、剥いて、干すの作業が僅かで済むといういい面もある。柿の葉が毎日散って、風で三軒先まで飛んで行く日もある。ご近所で柿の木があるのはここだけなので、三軒先までの柿の葉を拾う日々が当分続く。

堀切峠下海岸道路②の続き、今回で終わると思っていたが、写真が多いので4回シリーズになりそうである。

青島の鬼の洗濯岩は有名だが、この辺りはその鬼の洗濯岩が続く。木崎浜、曽山寺浜、青島海岸の見える部分は大半が砂浜だが、曽山寺浜の河口も、青島神社から青島港辺り、水産試験場から白浜、ホテルサンクマール辺りも鬼の洗濯岩の見える部分が多い。サンクマールからの海岸道路にはほぼ砂浜はなく、鬼の洗濯岩がずーっと続く。崖の上は堀切峠の坂道である。坂の途中に道の駅があって、展望所もある。以前に車で連れてもらった時は気づかなかったが、海岸道路で散歩やサイクリングをする地元の人からその展望所に登る階段があると聞いた。海岸道路の真ん中より少し手前で、その階段を見つけた(写真①)。階段を登ってみた。薄などの草が階段を塞いで通り難かった。途中で何個所かが崩れていたし(写真②)、水が捌けずに溜まっている個所もあった。展望所脇に「この階段は海岸まで下りられます。」という掲示を出すわりには(写真③)管理費が充分でないのか、手入れが行き届いていない。道の駅にある展望所にはたくさんの人が訪れる。人が多いのが元来苦手なので、普段は道の駅や展望所の近くには行かない。外国からの招待客や学生や同僚と内海のレストランで食べたあとは、少し南の駐車場からの海を眺めることが多い。高いところからの、わぁーっと広がる日向灘は絶景だ。真冬は風が冷たくて長くはいられないが、穏やかならいつまでも眺めていたい気分になる。上に登る階段の手前で、その場所の下あたりから写真を撮った(写真④)角度でその場所は見えないが、椰子の樹はかろうじて見えた。

写真①道の駅に通じる階段、薄などの草で覆われて進み難かった

崩落個所(写真②)

写真④

フェニックス道の家

(写真③)

眺めはいい。この眺めに魅かれて、かつては新婚旅行の人たちが押し寄せたそうである。眺めのよさは変わらないが、経済状況がすっかり変わってしまった。海がきれいで、眺めのいいところはたくさんある。沖縄やハワイやサイパンやグァムなど、海の青さや透明感では叶うはずもない。経済的に日本が豊かになったということである。最初にカリフォルニアに行ったときは、1ドルが280円台だった。学生時代は常に360円、学費が月に千円だったから、その経済状態で、いくら海の青さや透明感が魅力だからと言って、おいそれと海外には行けなかった、ということだろう。それに、航空業界が民営化されたとは言え国からの保護は手厚く、相も変わらず国内線の飛行機代が高すぎる。北海道から来た看護の学生が、長期休暇の時に家に戻らず、その飛行機代で東南アジアに行っています、と言っていたのも頷ける。

比較の問題だが、汚れた、船の行き交う瀬戸内海の海に慣れていたので、水平線が広がる宮崎の海は、十分に美しい。木崎浜からいつも見る曽山寺浜、青島海岸もそうだが、堀切峠から眼下に広がる大海原の景色はいつ見ても、いい。

つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路②

11月である。11月12日(金)から14日(日)までの個展(→「小島けい2021年個展案内」)に間に合うように、来年のカレンダーも出来た。(→「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」)やっと、出展する絵の搬送の準備である。

「自民党の過半数割れ」の淡い期待も空しく、絶対安定多数261議席の見出しが躍る。予想されたとはいえ、あいも変わらずである。人の意識と議会制民主主義の乖離を考えれば当然だが、そのうち書くつもりである。

堀切峠下海岸道路②である。自転車で1時間半の行程は長く、目的地に着くには時間がかかる。前回の木崎浜→曽山寺浜→青島海岸(→「久しぶりに木崎浜に行って」)に続いて、今回は青島→青島港→白浜→ホテルサンクマール脇の海岸道路入口までである。

南風茶屋のオーダーストップ3時半に急かされて、行きは海岸道路の写真は撮る余裕がなかったので、帰りに来た道とは逆の順序で写真を撮った。青島に来た頃には、すっかり暗くなっていた。総合公園からの舗道は旧パームビーチホテルの教会の辺りで途切れ、そこから砂浜横の舗道が続く。左手に行けば、青島神社に行く辺りから再び防波堤が始まる。防波堤沿いに進むと、青島港近くに出る。

青島海岸の歩道

左が青島参道

青島港辺りの防波堤

青島の砂浜を維持するのもなかなか大変である。今も流木が流れついている。夏の海水浴シーズンの前には撤去作業が行われる。管轄は県の土木課のようで、自転車で通るときに下請け業者が作業をしている姿をみかける。コロナ騒動で、ほとんど観光客がいない時もあったが、少し人が増えたようだ。しかし、油津から運ばれる大型客船の中国人観光客の姿は、いっさい見なくなった。

青島港辺りから、また県道に戻り南に進むと折生迫の掲示板が見える。そのまま進めば堀切峠、左に行けば、白浜、ホテルサンクマールに辿り着く。

川沿いに、小さな漁船が岸壁に繋がれている。台風前には毎回、漁船はロープで両岸に固定される。時々、丈の長い重機を載せた船が、川に溜まった砂を取り除く作業をしている。漁船の航行に支障が出るらしい。引き潮の時は川底が見える。

漁船の繋がれている所を進むと、県の水産試験用がある。大学の農学部には水産科があるから、そこの卒業生もたくさんいそうである。センター試験の結果で安全策を採って東京から来た学生に何度か、大学院入試で相談を受けた。毎年東京水産大の院を受験して、進学する学生がいるようである。

山沿いに海岸道路を少し進むと、突き当りにキャンプ場がある。キャンプの好きな人が多いようで、冬の寒い時期や、風の強い日にも、テントを張って宿泊している姿を何度も見かけた。学生時代に、山口県の佐波川の川原でテントを張って野宿したが、蚊取り線香をいっぱい焚いても、テントを張る前にぼこぼこに蚊にやられた。思い出しても、むず痒い。

そこからしばらく進むと、白浜地区に入る。白浜の海水浴場は地元の自治会で運営されているらしく、役員も固定、収入は自治会費に回されるらしい。役員のなり手が少なくなったというのに、進んで役員をする人がいるところがあるのは信じがたい。何かうまみがあるんだろう。縁戚関係の人が役員を持ちまわっているようで、それ以外の地域住民にも横柄な態度を取るらしい。最近、崖の崩落個所の写真を撮ろうと白浜ビーチに入ったとたん、中年の男性がすぐに飛んで来て、ビーチは遊泳禁止で、すぐに出て下さいと横柄な口調で言われた。さっき通ってきた青島ビーチではたくさん人がサーフィンしてたで、と言いかけたが、口に出さなかった。初対面の人間に、なんでああも横柄な口がきけるんだろう。

白浜ビーチ

崖崩れによる崩落個所

ホテルサンクマール

やっとホテルサンクマールである。農協系の資本が入っているのか、泊りがけの研修会などで農協の団体がよく使っているようである。温泉が広くて寛げるので、日帰り利用で通った時期もある。広い窓から望む日向灘の景色はなかなかである。コロナ騒動の前に、温泉の温度が下がり過ぎてしまって以来、行かなくなった。ホテル脇に、海岸道路に入る道がある。いよいよである。砂利を敷いたでこぼこ道で、大きな石も混じっているので車は慎重に進む必要がある。海岸道路の出口の方も、同じように砂利道だった。あまり海岸道路は利用しないで下さい、というのが国土交通省の方針のようだ。

いきなり左手に海から突き出た二本の鉄棒が見える。タンカーが座礁したらしい。当時は油が漏れて、漁業にも被害が出たようである。最初に堀切峠から見た時には、まだタンカーの船首が見えていた。その後何年かして今の状態になった。噂話の域は出ないが、中国籍のタンカーが座礁、あと始末はしなかったという。

次回はいよいよ海岸道路である。→堀切峠下海岸道路③

つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路①

今日で十月が終わる。

一昨日、堀切峠下海岸道路に行った。内海にある南風茶屋に食べに行った帰りに一度、車で通ってもらったことがある。今回は、白浜でマッサージをしてもらったあと、南風茶屋まで行くのに、その海岸道路を通ったわけである。家からは往復ほぼ4時間、昨日は寝たきり、ごろごろするだけだった。片道1時間なら次の日に足の重を少し感じるだけで済むが、4時間に耐えられる年齢ではなくなったらしい。行く前に大学の研究室に行き、帰りに海岸道路に入る道がわからなくて旧道トンネル横の堀切峠に登る坂道の手前まで行った分の約1時間は余計だった。普通は3時間の行程だ。

だいぶ前から電動自転車を使っている。最初の電動自転車はバッテリーの持続時間も短かいうえ、バッテリーを使わない場合、重くて漕げなかったが、今のは充電して持つ時間が長いうえ、バッテリーを使わない場合も普段通りに使える。十数万もするだけあって、各部品の造りがしっかりしているのだろう。実感する。滅多にバッテリーは使わないが、次回は電動の機能を使って、3時間の行程で行くとしよう。

堀切峠下海岸道路はいつも出かける木崎浜→曽山寺浜→青島海岸→(青島港)→白浜の延長上にある。木崎浜の波打ち際で撮った上の写真を拡大すれば、突き当り左手に見える青島から南側は海岸線が曲がっているので見えないのがわかる。青島のすぐ右に、ホテルサンクマールが小さく見える。今回の海岸道路はそのホテル脇の小さな砂利道から入る。結果的に、普段木崎浜からは見えない堀切峠を見に行く、ということになる。

片道1時間ほどの行程だが、行くまでにいろいろなところを通る。折角なので、写真入りで紹介したいと思う。海岸道路に行き着くまでに相当時間がかかりそうなので、今回は堀切峠下海岸道路①である。

木崎浜は清武川と加江田川の間に広がる砂浜で、サーフィンをする人たちには有名である。去年はコロナ騒動で海に入ることも叶わない時期があったが、毎年各地からサーファーが訪れる。中級者向けのいい波が来るらしい。年末には九州内からだけでなく、関西や関東方面からもサーファーが訪れる。県外ナンバーの方が多い時があるが、手続きをしていない学生のナンバープレートだけではなそうだ。木崎浜→曽山寺浜→青島海岸→白浜については書いたことがある。→「久しぶりに木崎浜に行って」(2018/01/13)

清武川の堤防(写真①)の突き当りを右に折れると、木崎浜が広がる。国土交通省の管轄で護岸工事が行われているようで、防波堤(写真②)の横に道が作られていることが多い。今回の海岸道路もそういった種類の道路のようである。ただし、車が行き交えるほどの道幅はなく、通行量も多くないので手入れはほぼされていないので、薄の類の草が道に大きくはみでたり、がけ崩れで流れ出した土が道路にそのままになっていたり、排水がうまくいかなくて水溜まりになっている個所もある。

清武川の堤防

防波堤(写真②)

最近、といっても数年前に木崎浜と曽山寺浜を結ぶ橋(写真③)が出来たようである。北側の運動総合公園から青島海岸までの道路を歩行者と自転車用に整備して、マラソンコースにも使えるようになっている。

曽山寺浜への橋の入り口

木崎浜と曽山寺浜を結ぶ橋(写真③)

加江田川河口(手前が木崎浜、対岸が曽山寺浜)

白浜に行くときは、いつも下曽山寺のホテル青島水光苑(野球の巨人の2軍や青山学院大学の駅伝チームなどの実業団が使ったりしているようだ)近くの裏道を通って、木崎浜←→曽山寺浜の橋からの道に入る。

曽山寺浜横の海岸道路、先に青島が見える

写真が多いので、堀切峠下海岸道路①はここで終わる。次回は青島→青島港→白浜→ホテルサンクマール脇の海岸道路入口まで、か。

一日じゅう寝ていたので、何とか回復した模様、さっき衆議院の選挙に二人で行ってきた。いつも入れたい候補があるわけではないが、自民党以外、これは投票ができるようになってからは変わっていない。自民党の過半数割れ、そんな見出しが見られるといいが。

今から、何とか普段通りの散歩に出かけられそうである。

つれづれに

つれづれに:山頭火の世界④ー防府②

「つれづれに:山頭火の世界③ー防府①」(2021年7月29日)の続きである。前回書いてから2か月以上が過ぎているので、またこの世界に入り直す必要がある。今回は生まれた家と山頭火と俳句について書こうと思う。

山頭火が句をたくさん作ったのは行乞の旅の途中だったし、行乞記などの日記は頭陀袋に入れて持ち歩いていたことを考えると、よくも資料が残っていたものだと感心する。

笠を被り、地下足袋を履き、錫杖を持ち、背中に頭陀袋かけての行乞の旅だったようである

旅先でたまった日記を北九州の飯塚で炭鉱医をしていた『層雲』の俳友木村緑平さんに送り、それが大切に保管されて大山澄太さんに手渡ったと言う。その資料や山頭火本人から託された資料や関係者への聞き取りや本人からの話を大山澄太さんがまとめたわけである。山頭火が木村緑平さんと大山澄太さんの二人と出会っていなかったら、資料は散失して、今の私たちは、大山澄太著『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)や大山澄太編『山頭火の本』(春陽堂、12冊と別冊2冊の計14冊)の一次資料とも言える資料を読むことは叶わなかっただろう。

大山澄太さん

木村緑平さん

前回紹介したように、生まれた家の隣人や山頭火自身から大山澄太さんが直接聞いた話によれば、山頭火はずいぶんと裕福な家に生まれたようである。裕福な家がよかったどうかはその人本人にしかわからない。ひょっとすれば本人にもわかっていなかったかも知れない。時代や意識の問題もある。概ね、親の考え方で子供への接し方も変わる。誰も元から親だったわけではない。子供が生まれて物理的、生物学的には親になっても、子供にとってのいい親になるかどうかは、その親と子の関係次第だろう。本人の生まれ持った資質も大きい。

山頭火の父親は善良な地主で、大柄で性格も大らか、役揚の助役をしていた時に、政友会の顔役として政治に手を出すようになったらしい。岸信介、安倍晋太郎、晋三の出た山口の地元の名士、今なら自民党後援会会長と言ったところか、党本部からばら撒かれた大金を受け取っていたかも知れない。女性にはだらしなかったようで、妾を複数かかえていたようだ。妻が自殺した時も、妾と旅行に出て家にはいなかったと言われている。妻の死後も、子供は母親任せにして、ますます女性に溺れ、親の財産を守れなかった。家を手放して購入した醸造所も山頭火と二人で潰してしまった。そして、別々に夜逃げした。

母親は五人の子供を産んで、山頭火が十歳の時に井戸に投身して自殺している。

子供五人は山頭火の祖母が育てたようである。「私の祖母はずいぶん長生したが、長生したためにかえって没落転々の憂目を見た。祖母はいつも、業やれ、業やれと眩いていた。私もこのころになって、句作するとき (恥かしいことには酒を飲むときも同様に) 業だな、業だなと考えるようになった。」と後に山頭火は書き残している。

山口県現防府市の生家跡地

山頭火の行乞記などを読んで、わかったような気になった時期もある。おそらく、自分の意識下で山頭火の生き方や句に何かが反応したからだろう。前回書いたように「芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。」(山頭火の生涯①」(2021年7月25日)

長くなりそうなので、時代や意識の問題などは次回、また。