つれづれに

つれづれに: 通草6

大分の飯田高原での個展(→九州芸術の杜)でも何度か持って行って、あけびの絵を展示した。画廊が広かったこともあり、毎年60枚ほど見てもらっていたと思う。荷造りも運ぶのもなかなか大変だった。東京に場所を移してからは、スペースの関係もあり、前年度に描いたものにそれまでのものを少し足して、という感じの展示である。去年はコロナ騒動で中止せざるを得なかったが、今年は金土日の3日間、去年観てもらえなかった絵を展示する予定である。→「小島けい2021年個展案内」

カレンダーの中にもあけびの絵が残っている。

息子が東京のビッグサイトに字に絵をつけた作品を出すついでに妻の絵も出していたら、カレンダーを創りませんかと長崎のオムロプリントから連絡があった。クリエイター何人かのカレンダーを創って売り出したようで、クリカレという名で宣伝していた。それぞれのトレカ(トレンディーカード)入りだった。トレカにはパンダを描いて下さいと言われた。

色々サイトを探しているとき、ちょうど教育文化学部日本語教育支援専修の修士課程で担当していた中国の留学生が「パンダは中国語で熊猫と言いますよ」と言いながら、サイトをいろいろ紹介してくれた。

有難い話で、花の絵のカレンダーを出した。東京の東急ハンズや紀伊国屋や旭屋などにも置いてもらったようである。宮崎の旭屋(昔の寿屋デパート、今はツタヤが入っている建物の1階)にはたしかに置いてあった。ただ、作った人に入るお金はほんとに雀の涙ほど、そのうえたくさんの種類のカレンダーが出ているので利益は出なかったようで、一年限りだった。そのあと、個人的なカレンダーを続けているが、アフリカ関係の本同様に、つくづく芸術関係はお金にならないことを改めて思い知らされた。そのカレンダーを創る前、妻は毎年なぐり描きの絵を描いてカレンダーを創ってくれていた。今思えば贅沢な話で、世の中に一つだけの手作りのカレンダーである。すべて残しておけばよかったのだが、そんな貴重なものだという認識はなく、使ったあとは大部分がごみ箱行きになった。幸い奇跡的に、不完全に残っているものもあって、その中に二枚あけびの絵が残っていた。当時はあけび探しの最中で、いつも家に採って来たあけびがあった。それを見ながら、紙もその辺にあるのを適当に使い、きちんと図ることもなく線を引いて、さっさと描いていた。注文を受けた絵を描くときは、丁寧に丁寧に気の済むまで時間をかける今とずいぶんとちがう。おおざっぱだが、勢いがある。やっぱり捨てずに取って置くべきだった、とつくづく思うが、後の祭りである。

クリカレを作り始めたのが2009年である。当時の状況からするともっとあけびを使っていると思っていたが、出ているカレンダーを確認してみると、あけびは一枚だけだった。大手の店舗で売る以外に、企業用のカレンダーとしても売り込んでいたようで、最初の何年かは地元長崎の会社が数件採用してくれていたようである。採用されたサンプルを2冊ずつ送ってもらえたので、2011年度の大村グリーンサービス社用の11月の分が残っている。↓

あけびについてこれほどたくさん書くとは思ってなかったが、それだけあけび探しに時間をかけたということだろう。本の表紙絵がまだ残っているので、次回7回目が最後ということになりそうである。あけびの画像を探しているときに、カレンダーにも本にも思っていた以上に烏瓜を使っているのに気がついた。葛もたくさんある。からすうり2と葛も書いておきたい。

つれづれに

つれづれに: 通草5

10月になった。カレンダーはジャスミン、妻が通っている乗馬クラブ(→COWBOY UP RANCH、宮崎市清武町大字今泉甲6618)にいる馬で、生まれてすぐの頃から写真を撮っている。母親のダスティも描いて、「私の絵画館」にも書いている。

元の絵「ジャスミンとコスモス」

「私の絵画館80『ダスティ』」(2016年12月17日)

道草4の続きである。

前にも書いたが邪魔になって突然切られてしまうのは蔓植物の運命である。明石のときに知り合った画家が「あけびはどこにでもあるで。駐車場とか思わんところにも」と言うのを聞いたことがある。その人は大分の人で、小さい頃から採ってよく食べていたそうである。

「通草(あけび)」

探してみたら、その通りだった。最初は平和台公園で見かけたが、大学や大学の周辺にもあった。大学は統合してからサッカーやラグビー、野球が使っていた医学部の運動場が駐車場になってなくなってしまったが、その駐車場の高いフェンスで見つけた。見つけてから十年ほど、毎年同じ個所に結構な数の実がなっていたが、駐車場の工事でフェンスがなくなって、あけびもいっしょになくなってしまった。

医学部から統合した大学に通う道の傍でも何個所か、毎年実をつける場所を見つけた。何年かは同じところに実がなっていたが、そのうち見かけなくなった。

大分の飯田高原で個展(→九州芸術の杜)をしたときには、驚くほどたくさんの見事な実を見つけた。やまなみハイウェイのバス停から美術館に行く途中にもたくさんあったし、少し西側の小川の周辺には、数えきれないほどの大きな実がなっていた。植生や土壌の影響があるようだ。今住んでいる周辺より、圧倒的に多いような気がした。

食べる時は傷がついていても差支えはないが、絵には傷がなくて色艶のいいのがいい。相応しい実を見つけるのは難しい。一度根ごと家に持って帰って、玄関先の植え込みに植え替えてみたことがある。横のガレージの覆いの下に針金を使って蔓が蔓延れるように工夫をしたみた。実がなるのに何年かかかったが、色艶のいい、絵には最適の実が採れるようになった。しかしある日、上から青虫が首に落ちて来た。毎日自転車の出し入れをするので、切るしかなかったようである。生活の場には、物理的に共存は難しいらしい。台風が来ると、実が揺れて表面に傷がつく。自然の中では当たり前のことだが、見ながら描く絵の材料を探すのはなかなか難しかった。

次回はオムロプリントで作ってもらったカレンダーと、本の表紙絵、おそらくあけびの最終回になる、と思う。

つれづれに

つれづれに: 通草4

あけびから少し逸れそうである。

市民の森の花菖蒲を一心に描いている頃に、僕が雑誌に記事を書いていた出版社の社長さんから表紙絵を薦められた。最初の表紙絵(→山田はる子『心の花を咲かせたい』、1989/1/25)は花菖蒲である。↓

その後→芹沢修『雑木林』(1991/9/8)と、上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)でも花菖蒲を描いている。

そのあとすぐに、大学用の編註テキストを引き受け、それが→La Guma, A Walk in the Night(1991/1/15)である。アメリカ映画「遠い夜明け」と同じ時期に、孤独拘禁を受けた最初の白人女性ルス・ファーストの娘さんが製作したイギリス映画→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」18号7-12頁。)の一場面を白黒の水彩でさっと描いていた。↓

そのあとすぐに編註書の2冊目→La Guma, And a Threefold Cord (1991/4/14)を引き受け、表紙を頼んだ。ちょうどNHKの衛星放送が見えるようになった時期で、BS1のアンゴラのニュースを見ながら、水彩で、これもさっと描いていた。↓

のちに原画を出版社から戻してもらって、画像にしている。↓

家族でジンバブエに行く前に原稿を仕上げて出版社に送ったのが日本語訳の→ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992/10/16)で、ハラレにいる時に届いた。やはり、BS1ニュースのナミビアの一場面を見ながら、これもさっと描いていた。その時はよくわからなかったが、描いた本人には全体像のイメージがあってさっと描けたようである。粋な表紙絵になったのは編集者の手腕だ。↓

裏表紙(表紙と続き)

いま日付を見てみると宮崎に来てから数年の間のことである。この時期、英文編註書を2冊、日本語訳を1冊と立て続けに作業をしている。編註書も日本語訳も初めてで、ワープロ原稿をフロッピーで送った記憶がある。小説を書くつもりで大学に来たはずだったが、道草や烏瓜を探し回るかたわら、たくさん記事も書いていたから、それどころではなかったようである。編註書はそれぞれ一年弱、日本語訳は一年半はかかっているから、物理的にみても、小説を書く時間はなかったわけだ。定期的に研究室に来てくれる学生もかなり増えていたので、なおさらである。

最近編註書と日本語訳(→編註書 A Walk in the Night」、→「編註書And a Threefold Cord 」

「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」)について書いた。次回はあけびの表紙絵とカレンダーか。

つれづれに

つれづれに: 通草3

今日も台風の影響で雨が降っている。ここは海が近いので、絶えず潮騒が聞こえる。台風時は、ごーっとは表現し切れないような音、というか響きが絶えずしてる。地響きとは違うが、何か奥深くから絞り出されるような振動音で、少し不気味な感じがする。日本は島国なので、こんな海に囲まれた中で生活しているのに、日々の生活で意識することは稀だ。

いつかの台風の前の木崎浜

普段の木崎浜

あけびの続き通草3である。

道草の絵は多い。それだけ一時期集中して書いたということだろう。二人が働いて子供がいた時は、ほんとうに妻の絵の時間が取れなかった。それでも辛うじて、土曜日の午後の二時間を絞り出して、以前から通っていた伊川寛という画家の絵画教室に通っていた。当時は土日も授業があり、土曜日の半どんを終えたあとから出かけていた。伊川さんは都会風の洒落た絵を描いていて、マスコミに乗っていれば、小磯良平と同じくらいの評価を受けてもおかしくないのになあと絵を見て何度か思ったことがある。

ウェブで検索できる伊川寛「夏の海」(1938年制作 油彩2号)

なかなか大学が決まらなかったが、やっと宮崎医科大学に決まったとき、辞めて絵を描いてもいい?と嬉しそうだった。正規の職のない浪人ったので、交代しようということになった。

油絵を描いていたが、何度も上から塗れる油絵は体力が要るので、水彩にしようかなと言い出した。それで、京都に日本画を見にでかけたが、日本画は精密で、もっと体力が要りそうだった。宮崎と違って、新幹線があるので、明石からは半時間で京都に行ける。もちろん在来線を使えば超特急の料金を払わなくて済んだが、その時はお金より時間の方が優先順位が高かった。土曜日の午後は貴重な時間だったから。京都へ行くと、必ず錦市場に寄った。

錦市場

特に何かをというわけではなかったが、あの雰囲気がいい。コロナ騒動の前は、錦市場も外国人で溢れてすっかり変わってしまったと何かで見たが、今は少しは元の状態に戻っただろうか。地元には明石の魚の棚という市場があってよく生きている目板鰈(めいたがれい)や海老などを買っていた。

よく買っていた魚の棚の魚屋さん

海産物は苦手だが、その時は食べていた。目板鰈や海老には申し訳なかったが、生きたまま料理すれば、臭くなかったから。ホモサピエンスはどう仕様もない。

そんな状態で宮崎に来たから、描くことが楽しそうだった。毎日毎日花菖蒲を描きに、市民の森公園に自転車ででかけていた。僕も、花の材料をあちこち探し回った。

市民の森公園の花菖蒲園

道草の絵を見て、誰かが「おいしそう!」と言うのを聞いたとき、「そうや道草は食べられるんや」、と思った。それまで、絵を描く対象としか見ていなかったのである。それからは地元の農産物を扱う店先に道草が並べられているのに気づくようになった。ただ、まだ食べたことはない。