つれづれに

つれづれに:山頭火の世界④ー防府②

「つれづれに:山頭火の世界③ー防府①」(2021年7月29日)の続きである。前回書いてから2か月以上が過ぎているので、またこの世界に入り直す必要がある。今回は生まれた家と山頭火と俳句について書こうと思う。

山頭火が句をたくさん作ったのは行乞の旅の途中だったし、行乞記などの日記は頭陀袋に入れて持ち歩いていたことを考えると、よくも資料が残っていたものだと感心する。

笠を被り、地下足袋を履き、錫杖を持ち、背中に頭陀袋かけての行乞の旅だったようである

旅先でたまった日記を北九州の飯塚で炭鉱医をしていた『層雲』の俳友木村緑平さんに送り、それが大切に保管されて大山澄太さんに手渡ったと言う。その資料や山頭火本人から託された資料や関係者への聞き取りや本人からの話を大山澄太さんがまとめたわけである。山頭火が木村緑平さんと大山澄太さんの二人と出会っていなかったら、資料は散失して、今の私たちは、大山澄太著『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)や大山澄太編『山頭火の本』(春陽堂、12冊と別冊2冊の計14冊)の一次資料とも言える資料を読むことは叶わなかっただろう。

大山澄太さん

木村緑平さん

前回紹介したように、生まれた家の隣人や山頭火自身から大山澄太さんが直接聞いた話によれば、山頭火はずいぶんと裕福な家に生まれたようである。裕福な家がよかったどうかはその人本人にしかわからない。ひょっとすれば本人にもわかっていなかったかも知れない。時代や意識の問題もある。概ね、親の考え方で子供への接し方も変わる。誰も元から親だったわけではない。子供が生まれて物理的、生物学的には親になっても、子供にとってのいい親になるかどうかは、その親と子の関係次第だろう。本人の生まれ持った資質も大きい。

山頭火の父親は善良な地主で、大柄で性格も大らか、役揚の助役をしていた時に、政友会の顔役として政治に手を出すようになったらしい。岸信介、安倍晋太郎、晋三の出た山口の地元の名士、今なら自民党後援会会長と言ったところか、党本部からばら撒かれた大金を受け取っていたかも知れない。女性にはだらしなかったようで、妾を複数かかえていたようだ。妻が自殺した時も、妾と旅行に出て家にはいなかったと言われている。妻の死後も、子供は母親任せにして、ますます女性に溺れ、親の財産を守れなかった。家を手放して購入した醸造所も山頭火と二人で潰してしまった。そして、別々に夜逃げした。

母親は五人の子供を産んで、山頭火が十歳の時に井戸に投身して自殺している。

子供五人は山頭火の祖母が育てたようである。「私の祖母はずいぶん長生したが、長生したためにかえって没落転々の憂目を見た。祖母はいつも、業やれ、業やれと眩いていた。私もこのころになって、句作するとき (恥かしいことには酒を飲むときも同様に) 業だな、業だなと考えるようになった。」と後に山頭火は書き残している。

山口県現防府市の生家跡地

山頭火の行乞記などを読んで、わかったような気になった時期もある。おそらく、自分の意識下で山頭火の生き方や句に何かが反応したからだろう。前回書いたように「芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。」(山頭火の生涯①」(2021年7月25日)

長くなりそうなので、時代や意識の問題などは次回、また。

つれづれに

つれづれに: 柿6個

朝晩急に寒くなって、俄かに柿が色づき始めた。去年は二度と経験出来ないほどの生り年だったようで、200個以上の実を捥いで、干した。風で50個以上は落ちてしまったから、そう大きくない樹に250個以上が実をつけていたわけである。捥いで取り込むのも、洗って、剥いて、陽に干すのも一気には行かなかった。最後は力尽きて、何個かは熟し過ぎて干せなかった。二人でそんなに食べられるわけもなく、ひたすらあちこちに配るはめになった。この上なく干し柿が好きだという御仁にも大量に送り、痛く感謝された。保存食とはいえ冷蔵庫に入れても、ある時期を過ぎれば黴が生える。黴を落として酢の物にして食べる日が続いた。

今年も芽が出て青葉になったが、実をつけたのは7個だけ、そのうち1つが風で落ちてしまった。残った6個が色づき始めたのである。

柿を干し始めてからずいぶんになる。親子三人で転がり込んだ妻の父親の家の裏手に渋柿がなっていた。明石の中朝霧丘という優雅な地名の広い一軒家だった。普通の大きさの丸柿だったので、干すと小さくなった。干し始めると店先に大きな渋柿が並んでいるのが目について、箱ごと買って来て縁側に干し始めた。箱に西条柿と書いてあった。宮崎に来てからすっかり忘れていたが、今の木花の家に越して来てから、また干すようになった。宮崎神宮で買った苗が七年目に一個だけ実をつけた。その後、去年のように200個以上も実をつけるようになった。

初めて生った西条柿を枝ごと切って、妻に描いてもらった

去年広島から来た学生にお裾分けをしたら「西条はうちの隣町です」と教えてくれた。ウェブの郷土史研究会のサイトによれば、広島県の西条(現東広島市)が原産で、その地名が柿の名前になっているらしい。「東広島市の長福寺の縁起に、一二三八年(暦仁元年)僧良信が本尊薬師如来の霊夢により、弟子信常を鎌倉の永福寺へ遺して求めた霊種を寺内に植えたのが西条柿の原種とある」と刻まれた市史跡の写真も載っていた。「果実は縦長で側面に四条の溝があります」とも書かれていたが、庭に生っている実には溝がないので、かけ合わせて作られた品種かも知れない。

柿については「つれづれに」に、既に3回書いている。↓

  • 2008/12/31  渋柿を吊せなかった、今年が暮れる
  • 2017/10/30  昨日やっと柿を干しました

三冊の表紙絵にもなって、残っている。↓

『馬車道の女』(1991/11/16)

『一番美しく』(1995/3/10)

『随所に主宰とならん』(2000/2/24)

剥いて陽に干すだけで、何とも言えない色と艶と甘みが出るのだから、太陽の力には恐れ入る。そんな季節になった。捥いで、洗って、剥いて、陽に干す、そんな作業が年々きつきなってきている。

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つれづれに: 葛

久しぶりの更新である。

朝晩はだいぶ冷えるようになった。下が13度か14度、上が23度か24度、一気に秋の到来である。この前書いた時に発生しかけていた台風も来なくて済んだ。ありがたいことである。

よく食べ、よく歩き、よく寝る、大事だとはわかってはいても、毎日続けるのは難しい。金曜日は2時間ほど自転車に乗ったので歩けなかったし、土日も歩けなかった。4、5日畑に出ないとブロッコリーもこの惨状である。↓

糸ほどの虫がこんなに大きくなっている、この虫は黒い

昨日の夕方に、虫を潰して希釈した酢をかけたが、今朝出てみると、まだ葉っぱにも地面にも虫がうようよしていた。茎を揺らすと、ぱらぱらと小さな虫が落ちて、くねくね歩いている。数えたわけではないが、100匹では済まないだろう。この作業を続ければ、12月に収穫出来そうだが、遠い道のりである。胡瓜が花を咲かせ、何本かが実をつけている。二期作は成功したようである。ただ、春先の勢いはない。どのくらいまで育つんだろう。

オクラはまだ花を咲かせ、毎日何個かの実が収穫できる。丸鞘オクラは実自体が大きいので、毎日3~4個獲れれば、足りる。南瓜は柵を取り払い、南側の金木犀も刈り込んだ。放っておくと、これから陽が入らなくなるからだ。冬場は日差しも弱く、陽が当たる時間も短かい。絹鞘豌豆、レタス、ブロッコリー、小葱の種も蒔いた。二回目である。うまく芽が出てくれればいいが。蒔く時期も、難しい。

十数個の実は枝につけたまま。作業の途中で7、8個は枝が取れてしまった

葛である。大体7月から9月くらいに紫色の花を咲かせる。かなりの繁殖力で、巻き付かれた方は大変である。

道草や烏瓜などの蔓植物以外に、表紙絵のために梅や桜や山茶花や椿も探したことがある。椿は一重で、藪椿が多かった。最初のカレンダーの表紙になった。その椿も毎年葛に覆われて、最近はきれいな椿をみかけなくなった。腰の曲がった老婆が野菜を作っている結構広い畑の端の方に植えてある椿で、放ったままである。

葛に覆われた藪椿

最近は一人暮らしが怪しくなってきて、親戚の家に車で出かけて家を空けることが多くなったからか、尚更である。葛の蔓を払う人がいないと、花も咲かなくなる。葛は草のわりに花の占める割合が極く僅かだが、近くでかげば、甘酸っぱくて、藤に似たとてもいい香りがする。紫と緑の色合いがいい。カレンダーにはたくさん使っているが、本には使わなかったようだ。探してみたが、表紙絵は見つからなかった。↓

2004年10月(手描きカレンダー)

2010年9月

2010年9月(花カレ)

2011年9月(花カレ)

2014年9月

都会の明石は坂道も多く、地面そのものが少なかった。昔は山や畑ばかりだったようだが、神戸や大阪のベッドタウンになってからは須磨、垂水、舞子、朝霧、明石、西明石と西へ、西へと開発先が伸びて行ったようである。西明石までは複々線で、その後も大久保、魚住、土山と住宅地が増え続けている。北の方は神戸市で、地下鉄も伸びて、開発が進み、土の地肌が見える地面がますます減っている。そんな都会の朝霧から越して来たので、すぐ手に入る通草や烏瓜や葛が珍しかったのかも知れない。ちょうど本の表紙絵に使うようになって、色んな花を探し回った。宮崎に来て、もう三十年以上の月日が経った。

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つれづれに: 烏瓜2

手前が大根、奥手が鞘オクラ

もうすぐ十月の半ばになるが、暑い毎日が続いている。さすがに30度まではいかないが、日中の陽ざしは強いままだ。金木犀が香りが、まだ漂って来ない。しかし、朝晩の気温が下がっているせいか、ブロッコリーも大根も順調で、冬野菜の季節到来である。下の方に熱帯低気圧が三つ発生しているようだが、来ないことを祈るしかない。

ブロッコリー、年内には採れそうである

この時期、何もしなければブロッコリーも大根も虫にやられて跡形もないが、せっせと希釈した酢を撒いてるからだろう。大きな虫も何匹か潰した。そのままにしておけば、数日で筋だけになる。ブロッコリーも大根も寒冷野菜、気温が下がるにつれて勢いが増している。季節が移っているということだろう。明日から四、五日雨の日が続くようだから、前に種を蒔いた分の胡瓜と鞘オクラの植え替えようと思っているが、植えたのちに大きくなるかどうか。もう少し早く種まきをした方がいいのかも知れない。少し前に蒔いたリーフレタスと小葱が芽を出しているので、ある程度大きくなったら植え替える予定、どちらも植え替えで枯れることは少ないが、この気温だと少し心もとない。

手前の色が薄いのが胡瓜、奥が南瓜(陽が当たるように一両日中に柵から外す予定)

烏瓜の続編である。思っていた以上にカレンダーや本に使われていて絵が残っていたので、一度では紹介し切れなかった。

前に紹介した本の表紙絵(→「烏瓜」、9月23日)以外にも、3冊の本に使われている。

『燃え落ちた軍艦旗』

『立ちこゆる文学』

「汝が心告れ」

最後の本は全国版らしい。押川さんはわりと有名な人だと聞いた。このようにワンポイントで入れると、効果的なようだ。上の烏瓜の画像の青い実もそうらしい。赤や青の実を見つけてくるのも私の役目、あちこち探し回った。この手の実は、大体毎年同じところに実をつけるので、一度見つければいつでも手に入る。一番勢いのいい時に摘めるかどうかだけである。蔦の鮮やかな紅葉も探した。その葉をつかった絵である。紅葉の色合いがいい。小さかった家のぴのこと描いた。もう15歳になっている。高原の個展で売れた絵の一枚で、評判はよかった。とくに、係員の方が気に入って下さって、知らない間に、売約済みの小さな赤い印をつけていたほどである。↓

クリカレ「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~」2010年11月

最初は花カレンダーで出発、最初の何年かは地元の企業が採用してくれ、烏瓜を気に入ってくれたようである。2冊か3冊サンプルが送られてきたので、画像にした。次は葛か秋桜か。