つれづれに

つれづれに:アメリカ?

エイブラハム・リンカーン

前回の最後に「文學のことしか頭になかった私が、どうして歴史や政治について考えるようになったのか?次回はアメリカ?」と書いたように、今回は「アメリカ?」である。

アメリカのイメージは自由平等、民主主義だろう。と、思っていたが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもの、正確には学校や世間の常識などから無意識に自分が勝手に想い描いていたものだったように思う。そのイメージは、変化した。

行ける大学がなくて選んだ先が英米学科で、大学の職を探すために行った大学院で修士論文をアフリカ系アメリカ人作家で書いた。歴史を辿り始めたのは小説を理解したかったからである。→「リチャード・ライトの世界」続モンド通信6、2019年5月20日)、→「修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

神戸市東灘区にあった神戸市外国語大学旧校舎(大学ホームページより)

修士課程を終えた次の年から大学の非常勤で英語の授業を持つことになり、テキストにラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」("The Glory of Negro History")を使った。→「『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

ラングストン・ヒューズ「黒人史の栄光」(南雲堂)

その後大学院を担当して受け入れる側の仕組みと立場もわかる今なら、方法もあったと思うが、事前の相談もせずに博士課程を受けてどこも受け入れてもらえなかった。現実的に見て、修士課程を終えただけで教歴なし、業績も僅かでは非常勤も難しかったと思う。世話になっていた先輩が大阪工大の夜間の非常勤を3コマ用意してくれていた。有難かった。→「大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

一旦教歴が出来ると、次々と依頼があった。文部省は大学に英語を必修科目と指定していたから大学でもコマ数を確保する必要があった。学生数の多いところはとても専任でまかなえるコマ数ではなく、安く上げるために非常勤に頼る場合が多かった。従って、資格さえあれば問題はなく、絶えず需要はあった。非常勤に限らず、不祥事を起こすなどの法的な問題さえなければ、授業はすべて教員任せだった。その傾向は、今もそう変わっていない。

専任の話もあった姫路賢明女子短期大、大阪経済法科大の他にも、住んでいた明石から行くのに2時間ほどかかる桃山学院大、家の近くの神戸学院大から依頼のあった分も引き受けた。さすがに京都女子大の話は断ったが、5年目には週に16コマになっていた。すべて一般教養の英語で、それが何よりだった。

元々英語の教科書を使って購読や文法や英作文をする学校の英語は嫌で堪らなかったし、受験のためにとも割り切れず出来なかった。それに英語に対して、戦争に負けてアメリカに押し付けられたという意識があったせいか、喋れればいいという英語にも馴染めなかった。

最初の授業の対象が大阪工大というのも私にはよかったと思う。昼間の学生は英語が出来れば府大(大阪府立大)か市大(いちだい、大阪市立大)に行ってたのにという学生も多く、英語が苦手という割合が高かった。僕は英語が苦手です、と言って授業を始めることが多いのだが、それを聞いてほっとする人もいるようだった。

自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けるので、英語をするのではなく、出来るだけ英語を使って何かをする、新聞や雑誌、映画やドキュメンタリーなど実際に英語を使って作られている視覚、聴覚に訴えかけるものを使う、出来れば中高で意図的に避けて来たような題材がいい、それもあってアフリカ系アメリカの歴史を選んだ。幸い、ヒューズは詩人で語り口も優しく、様々な歌や詩などを含めアフリカ系の同胞をたくさん紹介しているだけでなく、自ら朗読し、生きている人には演奏や録音を依頼してレコード化して残している。大詩人の生の声を聞きながらの、まさに生きた題材である。まだビデオの機材が充分ではない時代だったが、ビデオテープやカセットテープを編集するのに時間をかけた。

英語の授業は、自分の好みにあった文学や時事問題などの人が作ったテキストを使い、最後に一時間ほどで採点できる筆記試験をやっている教員が多かった。私たちが学生の時とほぼ変わらない。だから、映像をたくさん使う授業は学生には珍しがられた。工学部の学生も、目を輝かせて映像を見て、音楽を聴いてくれた。筆記試験はしなかった。理解して覚えるという受験勉強しかして来なかった人は少し戸惑っていたようだが、授業に関連する課題図書を読んで、仮説を立てて論証する課題文を書いてもらった。書くことが苦手で、感想文しか書けない人もいたが。

非常勤をやったのは5年間だったが、すべての授業でヒューズの「黒人史の栄光」を使い、関連する映像を集め、歴史や音楽などの資料を集めて資料化して授業で使った。英語で歴史をしゃべるのも新しい体験でおもしろかった。その過程で、自由平等、民主主義しか思い浮かばなかったアメリカのイメージが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもので、自分が勝手に想い描いていたものだったと確信した。今科学研究費のテーマにアングロ・サクソンンの侵略の系譜を選んでいるが、この延長である。

どうして無意識にその意識が作りだされたのか、それを知るには、先ずは生まれた頃や中高の頃の自己分析をしてみる必要がありそうである。次回は戦後?

植え替えた絹鞘が少し大きくなり始めた、年末には摘めそうである

つれづれに

つれづれに:堀切峠下海岸道路?

「ようやく柿を剥いて干すことが出来た。6個だけである。それも色付いて来たので取り込んだものの、雨の日が多くて干せなかった。少し柔らかくなっている。落ちなければいいがと思いながら剥いた。幸い、何とかこのまま落ちないで干し柿になってくれるようである。火曜日からは晴れの日が続くから大丈夫やろ、と思っていたら、昨日の夕方に少しだけだが降り出して、結局一晩家の中に取り込んだ。干す頃合いも難しい。柿は元々寒い地方の樹のようだから、色付くすぐ手前まで昼間が三十度を超すこの地域でそれなりの干し柿を作るのは無理がある。色付く時期と切り干し大根を作る頃に吹く霧島降ろしの時期が重なれば一番だが、そう思うのはホモサピエンスの思いあがりである。それでも2週間もすれば、色艶が出て食べ頃になるだろう。一番喜んでくれる人の所に送るつもりだ。」

ここまで書いたのが先週の水曜日だ。それから書けずじまい。政治の話を書こうとしたからである。それでも何とか続けて書いた。

「政治の話題はすんなりとは行かないので、『つれづれに』くらいの気持ちで書かないと書けずじまいになってしまう。『形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ』(→「歴史をどう見るか」、9月11日)、そんな思いで、目に見える大きな枠組みの下に潜む意識下の世界を身近なことと結びつけて書いてみようと思う。

堀切峠下海岸道路について書いているとき、ちょうど衆議院の総選挙が実施され、相も変わらず自民党が勝った。忖度政治やオリンピック強行などにうんざりしているのに、である。宮崎では不祥事を起こした自民党の議員が小選挙区で落ちて、比例で復活した。騒がれた議員を通して見える姿とその結果を生み出す構造的な問題に乖離があるのははっきりしている。今回は身近な観光地や飲食業界と絡めて、議会制民主主義の絡繰りについて書いてみたい。」

またここで止まってしまった。話がまとまるまでに時間がかかりそうなので、堀切峠下海岸道路の補足を挟もうと考えた。再び南風茶屋に行って、今度は帰りに海岸道路から道の駅まで自転車を担いであがり、そこから坂を登って堀切峠の一番高い場所から海を眺めて帰ってくる、それを書こうと思ったのである。しかし、この前の帰ってからの二日間の惨状を思い出して、結局行かなかった。それなら、白浜に行く途中に青島近辺の写真を撮って、不祥事を起こして宮崎一区の小選挙区では落選したのに、比例で復活当選した自民党議員の話と観光業界とを繋いで書いてみるかと思ってシャッターを構えてみたが、生憎バッテリー切れで写真が撮れなかった。それでまた、変更である。

小島けい画1990年頃、青島海岸を歩く長男

文學のことしか頭になかった私が、どうして歴史や政治について考えるようになったのか?

次回はアメリカ?

つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路④

南風茶屋の紹介までに4回もかかるとは思わなかったが、最終回である。前回は階段を昇って展望台を紹介、まで書いたが、階段を昇ったのは、自転車を担いでいけるかを確かめたかったからだ。今回は行きに写真が撮れなかったから叶わなかったが、次回は駐車場近くの峠から海を眺めたあと、一気に坂道を下って戻ろうと思う。車で連れてもらったときは一台がやっとの道幅を見て「すれ違ったらどうするんやろ?怖そうな方に道を譲って戻るんやろか?」とふと思ったが、よく見ると所々に車が待機して行き交える空間が取ってあった。↓

二人の老人が自動車よけの空間に軽自動車を停めて、海に糸を垂れていた。帰りにも見かけたので、じっくりと腰を据えて釣りを楽しんでいるようだった。常連なのだろう。車で連れて行ってくれた人が「内海港の近くで時々もぐって魚を捕まえ、自分で捌きますよ」と言っていた。捕獲禁止の看板もあるにはあるが、監視の人を見かけたことはない。

実際は行きに展望台に寄ったので、サンクマールの入り口からは二十分くらいで、終点の内海港が見えて来た。↓

出口は両側とも薄などが生い茂る通砂利道である。↓サンクマール脇の入り口(出口?)もそうだったが、入り口も出口も見つけ難い。しかし、高台からの眺めがあるわけでもないから、目の高さの防波堤を見ながらドライブする人もそう多くはないだろう。しかし、散歩の人やサイクリングの人には格好の場所である。所々階段が作ってあって海辺まで下りられる。ほんの少し砂浜になっている所もあるし。

内海港への緩やかな坂道(↓)を下って行くと、コンクリート会社の敷地(たぶん)を通って、道の駅からの坂に続くトンネルの出口近くに出る。内海港脇の川にかかる橋を渡ると右手に内海駅のバス停があり、少し入ったところに駅がある。今は少し先の小内海で大規模ながけ崩れがあって日南線は青島までしか通ってないので、電車は来ない。この辺りの山は崩れやすい岩質らしく、よくがけ崩れを見かける。今回は崩れた岩が日南線を塞いだだけでなく、水も大量に流れ出ているようだ。小内海以南の人は南郷を迂回して宮崎に出ないといけないようで、影響は大である。すぐに知事が視察に行ったとニュースに流れたあと、十月半ばに片側通行で復旧見込みと言っていたから、国道の管轄の国土交通省も迅速に対応したのだろう。日南線は復旧には年末までかかるらしい。

トンネルの出口

内海駅

やっと南風茶屋である。海の見晴らしもいいので、学生や同僚とよくでかけた。コロナ騒動で足が遠のいていたが、また復活である。その先にデモンドマルシェというバイキング形式のレストランが出来て、選択肢の幅が増えていたが、コロナ騒ぎの前に閉店してしまった。油津からの途中にランチで立ち寄る中国人観光客の団体と鉢合わせすると少し騒がしかったが、それも今は昔である。福岡資本で寿司職人も連れて来て好評で繁盛しているように見えたが、経営を続けるのは難しかったのか。いつもは具だくさんの南風うどんを食べるが、今回はチキン南蛮や小鉢やご飯がついた南風定食にした。ふだんは海産物やチキンは食べないが、いろんな種類を食べるに越したことはないので食べることにした。

窓から見える内海港

写真が多くて4回もかかってしまったが、堀切峠下海岸道路は今回が最後である。しかし、青島や堀切峠のような観光地や、南風茶屋やデモンドマルシェのような飲食業界については、前回触れた衆議院選挙の結果とも深いかかわりがありそうで、次回は堀切峠下海岸道路追記①、あたりか。

つれづれに

つれづれに: 堀切峠下海岸道路③

例年より遅れていた金木犀の香りが漂い始めたと思ったが、もう盛りを過ぎている。花の命は短かくて、だ。柿が色付いている。去年は250個以上も実をつけた西条柿が、今年は6つ。来年は生り年で復活するかどうか。採り込んで、洗って、剥いて、干すの作業が僅かで済むといういい面もある。柿の葉が毎日散って、風で三軒先まで飛んで行く日もある。ご近所で柿の木があるのはここだけなので、三軒先までの柿の葉を拾う日々が当分続く。

堀切峠下海岸道路②の続き、今回で終わると思っていたが、写真が多いので4回シリーズになりそうである。

青島の鬼の洗濯岩は有名だが、この辺りはその鬼の洗濯岩が続く。木崎浜、曽山寺浜、青島海岸の見える部分は大半が砂浜だが、曽山寺浜の河口も、青島神社から青島港辺り、水産試験場から白浜、ホテルサンクマール辺りも鬼の洗濯岩の見える部分が多い。サンクマールからの海岸道路にはほぼ砂浜はなく、鬼の洗濯岩がずーっと続く。崖の上は堀切峠の坂道である。坂の途中に道の駅があって、展望所もある。以前に車で連れてもらった時は気づかなかったが、海岸道路で散歩やサイクリングをする地元の人からその展望所に登る階段があると聞いた。海岸道路の真ん中より少し手前で、その階段を見つけた(写真①)。階段を登ってみた。薄などの草が階段を塞いで通り難かった。途中で何個所かが崩れていたし(写真②)、水が捌けずに溜まっている個所もあった。展望所脇に「この階段は海岸まで下りられます。」という掲示を出すわりには(写真③)管理費が充分でないのか、手入れが行き届いていない。道の駅にある展望所にはたくさんの人が訪れる。人が多いのが元来苦手なので、普段は道の駅や展望所の近くには行かない。外国からの招待客や学生や同僚と内海のレストランで食べたあとは、少し南の駐車場からの海を眺めることが多い。高いところからの、わぁーっと広がる日向灘は絶景だ。真冬は風が冷たくて長くはいられないが、穏やかならいつまでも眺めていたい気分になる。上に登る階段の手前で、その場所の下あたりから写真を撮った(写真④)角度でその場所は見えないが、椰子の樹はかろうじて見えた。

写真①道の駅に通じる階段、薄などの草で覆われて進み難かった

崩落個所(写真②)

写真④

フェニックス道の家

(写真③)

眺めはいい。この眺めに魅かれて、かつては新婚旅行の人たちが押し寄せたそうである。眺めのよさは変わらないが、経済状況がすっかり変わってしまった。海がきれいで、眺めのいいところはたくさんある。沖縄やハワイやサイパンやグァムなど、海の青さや透明感では叶うはずもない。経済的に日本が豊かになったということである。最初にカリフォルニアに行ったときは、1ドルが280円台だった。学生時代は常に360円、学費が月に千円だったから、その経済状態で、いくら海の青さや透明感が魅力だからと言って、おいそれと海外には行けなかった、ということだろう。それに、航空業界が民営化されたとは言え国からの保護は手厚く、相も変わらず国内線の飛行機代が高すぎる。北海道から来た看護の学生が、長期休暇の時に家に戻らず、その飛行機代で東南アジアに行っています、と言っていたのも頷ける。

比較の問題だが、汚れた、船の行き交う瀬戸内海の海に慣れていたので、水平線が広がる宮崎の海は、十分に美しい。木崎浜からいつも見る曽山寺浜、青島海岸もそうだが、堀切峠から眼下に広がる大海原の景色はいつ見ても、いい。