つれづれに

 歩くコース2の③

木花神社の中を通る「歩くコース2の②」(8月15日)の続きである。同じ境内の中にある阿弥陀堂とケニアの続きを少し書こうと思う。

法満寺(今は廃寺)阿弥陀堂

本殿のすぐ近くに阿弥陀堂がある。駅の掲示版によれば「往時の神仏混淆にもとづいて『法満寺』があったが、明治五年廃寺になり、現在唯一『阿弥陀堂』が残っており、奉られている『阿弥陀如来像』は宮崎市指定有形文化財になっている」とある。

身長九十九センチの鎌倉彫で、鎌倉中期以降に彫られたようである。最盛期の飫肥伊東藩時代にはこの阿弥陀如来像をまつるのにふさわしい寺だったらしい。夕方だったが、ガラス越しに阿弥陀如来像の写真が撮れた。

八方塞がりの高校生の時、帰り路にある寺に寄って、仏像を眺めることが多かった。当時は整備もされてなくて、格子越ではあったが真近かで仏像が見えた。そう大きくない建物だったと思うが、五十数年も前のことなので定かでない。インターネットで調べてみたら、それらしき建物と仏像の写真が載っていた。こんな感じだった気がする。

木花神社の境内に寺?と何度か不思議に思ったが、神仏混淆などの歴史的経緯があるようだ。神体そのものも、神仏混淆も、前回紹介したケニア山の麓の神も、やっぱりわからない、が正直な感想である。

ケニアも白人の侵略を受けた国の一つだ。ケニアで最も人口の多いギクユの人たちが住んでいたホワイトハイランド(現ナイロビ)を南アフリカの入植者に狙われた。ケープタウンからエジプトのカイロまでの縦の一大帝国を築く野望の標的にされた。赤道に近く、標高二千二百メートルの高地にあるが、肥沃で過ごし易い土地が狙われた。長い植民地時代が続いた。第二次大戦の頃に植民地政府に抵抗を始め、長い戦争のあとに独立、指導者の一人だったジョモ・ケニヤッタが大統領に選ばれた。しかし、ケニヤッタは多国籍企業による経済支配を目論む欧米や日本と手を組んだ。他の第三世界の国と同じように、一握りの金持ちと大多数の貧乏人、そんな国になった。アングロ・サクソン系の侵略を受けた国の生き残り策である。独立のために戦った多くの人たちが報われることはない。欧米や日本と組む体制に反発して弾かれた人たちもいる。前回紹介した関西のケニア人も、その中の一人である。国外に逃れてから書いた評論『作家、その政治との関わり』(Writers in Politics)を、頼まれて日本語訳したことがある。反体制側にいる人たちの悔しい思いが滲む。すべての面で欧米や日本に経済的に支配されて、その利益を少数のケニア人と先進国が共食いしている様子がよくわかる。持たざる者(Haves-not)、被害者側からの告発の書、貴重な歴史の記録でもある。少し時間がかかりそうだが、一度は書こうと思っている。未出版のままだ。

独立政府のよきパートナー日本は、開発や援助の名の下に大手を振ってODAで深く繋がり、安価なアフリカ人労働力にただ乗りして莫大な利益を国もたらしている。当然人の交流も盛んで、首都ナイロビには日本人学校もある。NGOなどの予算も付きやすく、大金を出して訪れる日本人観光客も多い。ライオンやキリンのいる自然保護区、壮大な動物園を車で回り、多額の費用が投じられた高級リゾート地に滞在してアフリカを体験するのがコースである。持ちつ持たれつということだろう。

次回は「 歩くコース2の④」、境内の残りの写真と、ケニアの続きを少々、か。

つれづれに

 歩くコース2の②・・・

高台から入る道

木花神社の中を通る「 歩くコース2の①」(7月30日)の続きである。木花神社には高台から入る道を右手に進む。両側の竹林の中の平坦な小道をしばらく歩くと、正面の鳥居の前に出る。

鳥居をくぐって短い階段をのぼれば、本殿の前に出る。無人で、普段は誰もいない。時折、たぶん氏子の誰かが単独で作業をしているのに出くわす。訪れる人もあまり見かけない。最近では年寄り夫妻が二か所ある展望所の一つの長椅子に座って休憩したのを見かけたのと、運動用のジャージを着た若い人とすれ違ったくらいである。年に何回かは定期的に何かの行事で、人が集まるようである。

いつも思うのだが、何が祀ってあるんだろう。正面は格子が嵌めてあって、賽銭箱のガラスだけがお金を投げ込めるように切ってある。格子の間からカメラをいれて中を撮影した。夕方だったが、わりときれいに撮れている。祭壇には鏡とか供え物の酒などが並べてある。宮崎神宮も同じようだったような気がするが、お盆に紙切れ、たぶん護符のようなものが置いてあるようだ。ご神体が何なのか、わからないままである。

神や仏のような目に見えないがあると思われる絶対的なもの、創造物とでもいうようなものは、信じ方によるのかもしれない。小さい頃は南印度の廬舎那仏、よく言われるお釈迦さんに魅かれて少しの間かかわったことがあるが、心の中で葛藤があり、結論は「わからない」だった。わかったように生きるのには抵抗があり、絶対的なものがあるかも知れないが、「あると信じる振りはやめよう。わからないのだから」、それが結論だった。今もかわらない。

アフリカ系アメリカ人の作家からアフリカに関心が向いて、ガーナ、南アフリカ、コンゴ、ケニアについていろいろ読むようになった。ケニアに関しては、何人かと親しくしたことがある。親しくした人の一人はクリスチャンだった。ケニア人がクリスチャンであることが当たり前のように言うのにカチンと来て、ある日、「イギリスに侵略されて、キリスト教も押し付けられたのに、クリスチャンておかしいやろ、何がクリスチャンやねん」、と言ったら、「タマダサン、実はケニア山の麓には神様がいて、それがキリスト、本当はキリストは黒人やねん」とその人が言っていた。関西に住むギくユ人である。

次回は「 歩くコース2の③」、ケニアの続きを少々と、神社の境内を写真入りで紹介、か。

つれづれに

つれづれに:超早場米

来た当時の宮崎医科大学(大学ホームページから)

1988年の3月28日に、家族で宮崎に引っ越して来た。子供が二人に、妻も働いていたし、僕は非常勤だけの無職の浪人時代が5年目になっていた。最後の年は専任の話のためにもと言われた分も含めて1コマ100分を週に16コマ、非常勤講師として一般教養の英語の授業やっていた。12コマが大阪で電車は満員、毎日がいっぱいいっぱいだった。妻は学校の後片付けもあったし、家では引っ越し作業、ほんとに最後はばたばたで、取り敢えず引っ越しを、とそんな感じで、西明石から新幹線に乗って、小倉で日豊線の特急に乗り換えた。

新幹線西明石駅

宮崎医科大学の人事が決まり、推薦者に紹介してくれた広島の人から電話を受けたとき「え、そんな遠いとこ、ほんまに行くんですか?」と聞いてしまった。今から思うとずいぶんと失礼なことを口走ってしまったが、何度か人事が最後にだめになっていたので決まるとは思っていなかったから、つい口に出てしまったのである。宮崎までは、実際、長かった。特に小倉からの5時間ほどが堪(こた)えた。今なら、飛行機に乗る。

引っ越し前に住んでいた朝霧近くの大蔵海岸

南国だという意識が働いて「ストーブなんか要らんやろ」と気軽に言ったのを今でも悔やむ。世話して下さった人に任せていたら宿舎は国民宿舎、雨も降って、寒い一日、散々の出だしだった。退職に伴う諸々を何とか片づけてきた疲労困憊の妻には、今でもその時の恨みごとを言われる。返す言葉もない。今なら宮崎観光ホテルに泊まるだろう。

大淀川河畔の宮崎観光ホテル

宮崎神宮駅の少し北辺りに一軒家を借りて生活が始まったが、着いた当初は寒いし、近所の人にはいろいろお節介されるし、幼稚園と小学校では関西弁をしゃべるからと集団でいじめられるし。今でも心の傷になったままだ。僕の都合だけで3人を連れて来てたが、三人には負い目を感じる。大学の人とは家の近くで会いたくない気がして、大学からは20キロ足らず離れた借家で暮らすことに決めていた。

借家近くの宮崎神宮

雨の降る中、空港からタクシーで家まで行ってもらったが、田植えのシーズンだった。まさか3月の末に田植えとは考えてもみなかった。英語科の年上の同僚が「台風が来る前に収穫できるように3月末に植える超早場米ですね」と教えてくれた。温厚な人で、いろいろお世話になった。

4年前の3月の終わり頃もこんな感じだった

住んでみれば、わかる。超早場米は、農業に携わる人の代々の知恵である。台風が来れば、外には出ない。身を守る術である。激しい雨風のなか、外に出る理由がない。台風前にすでに稲刈りが始まっていて、6日(金)に写真を撮った時は、半分程度がすでに稲刈りを終えていた。そこへ台風である。金曜日の夕方も、土曜日の午前中も作業をする人が多かったようだ。台風に備えての作業もあって、今年は稲刈りの写真を撮り損ねたと思っていたが、台風の翌々日に作業をしていたトラクターの写真を撮った。

少し画面を引けばもう何羽かの烏が、トラクターの後ろから撮ればあと二人が映っていた

台風前にすでに田起こしをしているたんぼもあった。起こす土のあとを何羽もの白鷺がついて歩く。格好のえさが掘り起こされるんだろう。これから何度かお目にかかれそうである。

田起こしの済んだたんぼ

つれづれに

つれづれに:台風一過②

曽山寺浜の橋の上から青島を望む

超早場米は次回に回し、台風の続きである。6日(金)辺りから急に台風9号が上陸するかも知れないとニュースで報道し始めた。隔週の金曜日に白浜にでかける時は、下曽山寺辺りの県道から裏道を通って総合公園からの遊歩道に入る。青島マラソンも含めて、マラソンコースのために造られたようで、自転車と通行人しか通れないことになっている。地面に10キロコースとか20キロコースとかの表示がある。以前、自転車とバイクの学生といっしょに青島まで通ったことがあるが、バイクの学生がゆっくり乗って行ったので、かなり気を遣った。

白浜から青島方向に見える高波

台風の影響ですでに波は高かった。普段ならいる初級コースのサーファーもまばらで、海水浴客はほとんどいなかった。2週間前はたくさんの人だったので、帰りは青島ビーチの道は避けて通らなかった。夏休みに入ったこともあり、海水浴と青島神社参拝でかなりの人出だった。サーファーが通報されて白眼視されたり、県外ナンバーの車が敵視されたりしていたのだから嘘のようである。まだ一年ほどしかならない。感染者はずいぶんと増えている。

人もまばらな青島ビーチ

海岸線にはよく出かけるので普段は写真は撮らないが、台風の影響で波が高かったので、久しぶりに白浜の高波の写真を撮った。砂浜に降りて撮り始めるとすぐに、海水浴場の係員から「遊泳禁止で、浜に入って写真を撮らないで下さい」と言われた。青島では人は少なかったものの、海水浴客も少しはいたので、遊泳禁止になっていて、浜に入ってはいけないとは考えてなかった。しかし高波は危険には違いないので、そこは素直に謝って引き下がった。代わりに山側の以前ブログで紹介した(→「 歩くコース1の④」、7月11日)大雨で崩れた山肌の写真を撮った。間に合わせに土嚢を積んだ仮工事の期間も長かったが、かなり頑丈そうで分厚いコンクリートで補強して、工事を終えたようである。その期間、奥のサンクマールへのバスは迂回路を通っていた。

数年前の大雨で崩落した山肌、工事も終わって落ち着いた様子

白浜から見える折生迫のホテルサンクマール

次回はおそらく「超早場米」で、撮って来た稲刈りの写真を紹介するつもりである。

台風から三日目、大きな被害はなかったものの、竹を登っていた胡瓜の竹そのものがほとんど傾いているし、南瓜も風にやられて、葉に勢いがない。一昨日は一歩も家をでなかったし、昨日は早起きして辛うじて歩いただけだ。なかなか体と気持ちが動かない。そろそろ畑に出ようと思ってはいるが、また大雨になりそうで、気持ちも萎える。湿気って暑いと蚊の勢いも半端でない。ままならないものである。