つれづれに

つれづれに: 歩くコース1の⑧・・・

歩くコース1の⑦の続き。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

前回紹介した物産店の続き。買い物に寄るようになってから、ご夫妻といろいろ話をした。奥さんの方が店にいる時間が長く、店主は大抵は昼からの店番だった。同年代の地元の人で、ある日「この前頼まれて、鹿や猪を撃ってきました。尾鈴など北の方の山では鹿や猪が増え続けていますので、定期的に仲間と撃ちに行くんです」と言いながら、何かをさばいていた。「持って帰ります?」と聞かれたものの、生憎、肉類も海産物も苦手なので、厚意に応えられなくて済まない気持ちになった。どうやら、ずっと県の林業関係の仕事をしているようで、自分で撃ったものか仲間から回してもらったものか、いつも大きな冷凍庫には「鹿肉、猪肉あります」と貼り紙がしてあった。店はサンマリーン球場に行く人も見込んで、県道から球場までの間に拵(こしら)えたようだった。観光を見込んで春季キャンプ誘致用に駅から球場までの道路の予算を組んだものの、立ち退き問題で最後までもつれて、まっすぐな道にはならなかったようだ。「最後の一軒の真横までは何とか舗装が出来たが・・・」、そんな状態が長いこと続いていた。

県道から木花駅前のロータリーへの道

「一度近くの畑を見に来て下さい」と言われてお邪魔した。丁寧にいろんな野菜を作っていた。友人の牛舎からでる牛糞を軽トラックで常時運んでもらうようで、「いつでも持って行って下さい」と言われた。しばらく田んぼ脇に腰を降ろして話をしていたら、顔見知りと思われる人が並んで座り、「田んぼやりませんか?田んぼもトラクターも貸しますよ。今は機械がすべてやってくれますから、トラクターに乗っておくだけで誰でも出来ますよ」と話しかけてきた。宮崎に来たての三十代の頃なら、やっていたかも知れない。畑は県道沿いの加江田の山が見える場所にあり、「小さい頃は授業で加江田川で泳いでいました、楽しかったですねえ」と店主が言っていた。

梅の季節が過ぎた頃に店に行くと、摘んできた梅の実の作業をしていて、「持って帰りますか?」と言われた。1升とか2升とかではなくて、集荷用の結構大きなプラスチックのかごごとだった。西米良大根をもらった公園の近くの人からも、「梅持って帰りますか?」と言われた(→「 歩くコース1の②・・・」、2021年7月7日)が、やっぱりかごごとだった。梅干しも梅酒も造っていた時期なら、「喜んで」と言えただろう。

県道の交差点を折り返してしばらく歩くと木花駅に着く。次回はその続き、やっと歩くコース①が終わりそうである。

木花駅舎

駅北側から見たロータリー

つれづれに

つれづれに:なんで山頭火?

前々回のつれづれ(2021年7月20日)で、山頭火については項を改めてと書いた通り、今回は山頭火について。ただし、話が長くなりそうなので、連載の形で他のつれづれの合間に挟んでいこうと思っている。1回目はなんで山頭火?、です。

種田山頭火

4年前の後期の学士力発展科目で「俳人種田山頭火の世界」を担当したが、授業が不消化気味で終わったことと、まとめてみたい気持ちもあって、連載してみるか、となったようである。

妻の本棚のなかにあった春陽堂の「山頭火の本」(14冊、別巻2冊)を見て読み始めたのが山頭火との始まりである。浪人を一年したものの理解して覚える作業に向いてなかったのか、折り合いをつけて家から通える夜間課程に行くことにした。その前に、写真などはすべて焼いたので、結婚をした時に家から持って出たのは、立原正秋の本と当座の衣類だけだった。

教員をしていた高校で記念誌用の原稿を頼まれて書いたもの(→「生きゆけるかしら」)を見ると、よう生きながらえてきたもんやなあという感じがするが、結婚した当初もかなり引きずったままだった。子供が出来て世界が一変した。夜中でも泣き止まない赤ん坊に理屈が通るわけがない。二人とも働いていたから、毎日毎日がいっぱいいっぱいだった。高校は楽しかったが、小説を書きたいという気持ちは強く、書くための空間が要ると感じた。元々貧乏だったので、作家になるまでの貧苦は大丈夫だと思ったが、妻や子供に同じことを強いるのは気が引けた。それで経済的に何とかやれて同時に空間を確保してくれそうな大学を探そうという気持ちになった。

妻は詩人で、詩的な感覚は伝わって来る。僕も一時句が詠めたと感じる時期もあったが、最近はまったく句がでなくなっている。

山頭火を読んだのは、大学の非常勤で大阪に通っていたときの電車の中が多かった。門前払いを食らって博士課程にも入れないし、空間を確保してくれる大学も決まらないし、非常勤のコマも週に16コマと多いし。そんな状況で心身ともにくたくたになっていたのに、なぜか山頭火の本が手放せなかった。その頃は、大学用の業績のために一番英文書を読んだ時期でもある。

次回は、山頭火の生涯①について書こうと思う。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース1の⑦・・・

歩くコース1の⑥の続きである。前回、最後に折り返し地点の写真を載せた。今回はその写真から。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

中央に見えている大きな道路は、南北に海岸線と並行に走る県道である。渋滞が出来るほどたくさんの車が通るわけではないが、春先の野球やサッカーのキャンプ時にだけ、かなりの車が通る。なんでやねんと思うくらいで、道路を渡れない時もある。特に土日は混む。その時期、市内のホテルは報道関係者でほぼ満杯らしく、たまたまイチローが宮崎観光ホテルに泊まった年は、難儀した。医学生用の海外での臨床実習のための集中講座でタイやアメリカから医師を招待したとき、普段滞在してもらう観光ホテルが取れなかったからである。半年以上前に招待客に連絡をつけて、例年通りホテルを予約をしようとしたが取れなかった。コロナ騒動が続いているので、今は昔の感がある。

大淀川河畔の宮崎観光ホテル(ホームページから)

道路の突き当りに見えている建物が主に巨人のキャンプ用に造られたサンマリーン球場である。高校野球でも使うことがあり、木崎浜に行くときに大きな声援が聞こえてくることがある。キャンプ時には、その時だけの出店(でみせ)を出す人もいる。

球場に行く道路の右手に焼肉屋の看板が見えるが、すぐ隣に地元の野菜などを売る物産店があった。木崎浜に行く途中で見つけて、それから行くようになった。その店の商売気のない気さくなご夫婦と親しくなった。品数は多くなかったが、あれば新鮮で安かった。娘さん夫妻が作る苺は飛び切りうまかった。マンゴー用の肥料を使っていますということだった。何年か入試の時期に、夜遅くに事務室の入試係に届けたことがあるが大好評だった。ある日、麹を見つけた。値段を見て驚いた。310円だった。三十数年前に明石にいた頃に買っていた麹は900円だった。清武の味噌屋さんが造っているらしく、一枚の板に延ばされてひと固まりになっていた明石の麹とは違って、一粒一粒が離れて作られていて、初めて見る造り方だった。今は440円に値上げされているが、それでも都会に比べれば考えられない値段である。甘酒をつくって飲んでますよ、と話をしたら、作り方を教えて下さいと言われた。麹を買いに来る人から何度も作り方を聞かれたそうである。なぜかすぐには対応できなくて申し訳なかったが、一年ほど経ってからワードで写真いりの<甘酒の作り方>↓を作って持って行った。

甘酒の作り方

<作る時に用意するもの>

▲ 麹(こうじ)3合と餅米(もちごめ)3合と陶器の瓶(かめ)

<予め準備すること>

▲ 麹をほぐす(かちかちになったものがあるときは取り除く)

▲ 瓶を温めてから、熱湯で消毒する(雑菌が多いと腐る時があります)

<作り方>

▲ ほぐした麹、炊いた餅米、ほぐした麹、炊いた餅米、ほぐした麹を重ねる。

▲ 毛布、布団などにくるんで、発酵を待つ。

▲ 夏場は1~2日目に丁寧にかき混ぜる、以降も毎日丁寧にかき混ぜる。

▲ 温度の高い時期は数日で、冬場でも5~6日で出来上がり。夏場以外は外に置いて自然発酵にまかせると味が馴染みます。夏場はある時期以降は冷蔵庫で保管するのがいいでしょう。

<飲むとき>

▲ 適宜水を加えて加熱、お玉の底で米粒を丁寧に潰すと味わいが出ます。

明石にいるときにしばらく甘酒を造っていたが、50代半ばで体調を崩して食べるものも基本的に考え直した時に、発酵食品の一つとして甘酒造りを復活させた。それからは食事の度に飲むようにしている。店主の病気で店がなくなってからは、清武町役場の隣の物産展で麹を調達するようになった。

次回からは歩くコースと併行して、「項を改めて」と書いた山頭火について少しずつ書いて挟んでいこうと思っている。

つれづれに

歩くコース1の⑥・・・

歩くコース1の⑤の続きである。

アパートの間の小道、突き当りが踏切

工事中の道路を左折したあと、少し歩いて右折すると、少し先の突き当りに日南線木花駅南側の踏切が見える。木崎上(きさきうえ)踏切と言うらしい。その東側に木崎浜がある。サンマリーン球場の前の道路を通り、清武川の堤防を東に行くと木崎浜に出る。堤防から突然日向灘の視界が広がる光景は見応えがある。直線距離はそう長くないので、建物や舗装道路が造られる前は防砂林を抜けて早く浜に出られる抜け道があったかも知れない。踏切付近からプラットホームと駅舎が見える。

木崎上踏切

木花駅プラットホーム

木花駅から南に運動公園駅→曽山寺駅→子供の国駅→青島駅→折生迫駅と続く。曽山寺駅以外は利用したことがある。宮崎から鹿児島県の志布志までの日南線である。自由律俳人の種田山頭火は二度宮崎に来て、一度は志布志まで足を延ばしているようである。南の果ての駅には浮浪者なども行き着くので、警官の取り締まりも他より厳しく、行乞(ぎょうこつ)の時に尋問されて早々に宮崎へ舞い戻ったと日記「行乞記」に書き残している。托鉢僧のように行乞でその日の糧を得ていた山頭火は、流れ者、浮浪者の一人に分類されたらしい。4年前の後期の学士力発展科目で「俳人種田山頭火の世界」を開講したとき、詳しく調べ直した。足跡を辿るきれいな写真を入れて、微に入り細に入り書いてくれているサイトも多かった。山頭火ブームに便乗して、熊本、宮崎、大分にも結構な句碑が建てられたようである。何か所かの句碑は実際に足を運んだ。工学部の学生が、山頭火が自殺を図ったあと得度させてもらった法恩寺を訪ねて写真を撮り、パワーポイントを使って結果を発表してくれた。市街地にある宮崎公立大学に非常勤で行き始めたときに、日南線を使うようになった。その時が木花駅を見た最初である。

列車は次の運動公園駅に向かう

志布志には医者をしている卒業生に誘われて訪ねたときに志布志駅を、飫肥城跡で飫肥駅を、海水浴で大堂津駅を、都井岬の野生の馬で串間駅を利用した。都井岬には一泊したが、海産物が苦手なので、ご飯とたくあんしか食べるものがなくて閉口した記憶がある。味噌汁にまで、魚の固まりが入っていて吐きそうになった。

学生相互交換制度でタイの学生や医者が来たとき、学生は毎回車でその人たちを飫肥城と日南メッセと鵜戸神宮に案内していたが、それにも便乗出来ず、鵜戸神宮にも行けずじまいになりそうである。山頭火と宮崎公立大学はいずれ項を改めて。

踏切を渡り抜け道を通って、県道に出る。半時間足らずの行程で、そこが折り返し地点である。次回はその辺りから。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場