つれづれに

血液とリンパの流れが・・・

7月になった。

小島けい2021年カレンダー7月<チビちゃんとしょうちゃん>

梅雨で雨が多く、南瓜(かぼちゃ)の柵もなかなかはかどらない。四日前にお腹が痛くなり、久しぶりに苦しんだ。その前は、背中に虫に刺された跡のような症状が出たが、どうやら帯状疱疹のようだった。発疹の跡がまだ消えない。免疫力が落ちて、体がSOSを発信しているのは間違いない。

高台の小公園から見える梅雨空の加江田渓谷、このあと雨になった

按摩で救って下さった方の口癖「大事なんは血液とリンパの流れ、しっかりと食べて寝て、運動をする、これですな」がどうして理に適っていると思うのか。

赤血球は毛細血管から各細胞に栄養と酸素を運ぶ。白血球は外から侵入してくるウィルスや細菌などの異物を免疫力を使って撃退する。また静脈の老廃物を隣のリンパ管に運んでリンパ節で濾過して取り除く。血小板は血液が流れ出てしまわないように凝固する。そんな働きをするらしい。

医学生の医学用語を二十年近く担当した時に使った分厚い書物にも血液とリンパの章が設けられていて、詳しく書かれていた。医学を志したわけではないが、担当する方としては、ややこしいギリシャ語・ラテン語由来の医学用語の発音に加えて内容もある程度理解しておかないわけにはいかないので、繰り返し読んだら、そんな大まかな流れは理解できた、ような気がした。

それを実際にこの目で見たわけではないが、生きて来て実感したのは、血液が血管の中を流れるためには「しっかりと運動をする」ことと、赤血球が各細胞に届ける栄養は「しっかりと食べる」ことと、赤血球が運ぶ酸素は「しっかりと寝る」ことと深くかかわっている、ということだ。その流れが阻害されれば病気になるようなので、「大事なんは血液とリンパの流れ、しっかりと食べて寝て、運動をする、これですな」ということらしい。

次回は、最初に僕が按摩さんのところに行ったときはどんな状態だったのか、についてになりそうである。

散歩途中に登る山肌に実をつけている日向夏、秋には浅黄色になる

つれづれに

歩くコースは何か所かあるが、すべて家の東側の方に向かってのようである。家は高台にあって、西側に少し行けば大学のキャンパスがある。西に向かう時は自転車を使う場合が多い。

大抵は、家を出て高台の公園に上り、高台の芝生を歩きながら墓地を抜けて、二つ目の角を左に曲がってしばらく進み、二つ角を曲がってから線路を渡る。細い道を抜けて県道に出てから、サンマリーン球場をしばらく眺めて折り返す。木花駅前の小さなロータリーを通り、踏切を渡って、小学校脇の坂道を上り、中学校脇から住宅地に戻る、大体一時間足らずのコースである。

家からすぐの県道、県道を渡り山肌を上って公園に入る

一番短いコースは、公園から墓地を抜けて少し行った最初の曲がり角を左に折れ、今は運動公園になっている旧木花中学校跡の脇を通って小学校の西端に出て、あとは一番長いコースと同じ道で家に戻る。

旧木花中学校跡、二つの野球チームが主に使っているようである

もう一つは、一番長いコースで曲がる二番目の角をそのまま進んで上から木花神社に入り、長い階段を下りて県道脇の道から、一番長いコースの道に入る。あとは同じ道を辿って家に戻る。

木花神社の階段、神社からこの階段を降りる

四つ目は、サーフィンで有名な木崎浜に自転車で行って、砂浜を半時間ほど歩くコースである。夏場は裸足で熱くなった砂の上を歩いては海水で冷やす、それを繰り返す。見慣れていた瀬戸内海と違って、ほとんど行き交う船もなく、きれいな海が広がっている。木崎浜、曽山寺浜、青島と続いて見える海岸線は見事である。しばらく行ってないが、梅雨明けに熱い砂浜を裸足で歩いて来るか。

2年ほど前の夏に撮ったもので、上北側の方にシーガイヤが見える

按摩で救って下さった方が常々言っておられた「大事なんは血液とリンパの流れ、しっかりと食べて寝て、運動をする、これですな」は、理に適っている。

どうして理に適っていると思うのか、次はその辺りになりそうである。

つれづれに

歩き始めたのは体調を大幅に崩してからである。

今の散歩コースの最初、背景は加江田渓谷

原因は無理をし過ぎたからだが、自分を追い込まないと生きていられなかったからもあると思う。一時は背中から頭の芯まで鉛が入っているような感じできつかった。若かったので34歳まで持ちこたえたが、少し遅れていたらどうなっていたか。すぐに死ねていたら本望だったと思うが、寝たきりになったりしていたら周りが大変な荷物をしょい込んだ可能性もある。

きついマッサージで救ってもらった。

宮崎に来たのは昭和の最後で途中で平成に変わった年のようである。あまり意識したことはなかったが、退職後も履歴書を書いて「そうやったんや」と思った記憶がある。文部科学省に出す書類には元号が要る。今は西暦併記のようだか、いちいち西暦に置き直して考える必要がある。たしか1988年だったような気がするから30数年にもなるわけである。

宮崎医科大学(旧のホームページから)

その前は明石、正確にいうと朝霧という優雅な町名の街に住んでいた。子供が出来て暫くしてから妻の父親が一人暮らしをしていたその街の一軒家に転がり込んだ。一人暮らしが長くなりかけて少々老人臭くなっていたが、突然孫が転がり込んで、ぐっと若返った。目にいれても痛くない娘が帰って来たし、孫との相性が抜群だったこともある。ただいっしょについて来た孫の父親とは相性が悪く、今から思うとお気の毒、としか言いようがない。加害者には常に自覚はないのでその分本当に申し訳ないが、宮崎に来てから同居を薦めて重い腰を上げていっしょに住んでもらえたので、相殺ということで勘弁してもらえると有難い。亡くなる前日まで、好物のステーキを食べて、娘の手を煩わせることなく逝った死に際はお見事である。

歩いて行っていた大蔵海岸、背景は瀬戸内海と淡路島

朝霧に住みだした頃に歩き始めた。その前は少し西側の小さな町に住んでいた。その時は、川の堤防を朝日に向かって全力で走っていた。

書き始めた小説にこんな文章を織り込んだりしてる。次は今の散歩コース、か。

つれづれに

前回の「つれづれに」で瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵を作るために「あしたからまた竹取の翁です。」と書いたものの、これがなかなか、目下苦戦中。

前回紹介した写真

たぶん理由は重量と手間。すべてそうかも知れないが、そんなつもりやなかったのに・・・、そんな感じである。地面に這うと南瓜(かぼちゃ)の実に土がついて腐りやすいし・・・庭を囲うように植えた30本ほどの金木犀が3メートルほどに繁ったとき、その樹に蔓をからませて重い実をぶら下げているのを見て、竹の柵を作ってそれに蔓を這わせてみるか、それが始まり。金木犀は繁り過ぎると南側からの陽が射しこまないから、特に冬場は野菜には致命的。それで身長くらいの高さに切ったのはいいが、それだとすぐに南瓜(かぼちゃ)が隣家に闖入、特に両隣は要注意。それで30坪ほどの元庭の野菜畑の真ん中に竹を立てることを思いついた。

現在進行中の写真1

ここはいなかで、近くの公園、大学の近辺、沿道、いたるところに竹林があるので、材料に事欠くことはない。一年目、最初の台風で実もろとも見事にどさっと崩れた。葉や実に加えて竹の重量に耐えかねたのである。それでジャングルジムのような柵を作ることにするかとなった。しかし、数十個の実に耐える柵を拵(こしら)えるには、3~4メートルの竹と支えの鉄棒を地面深くに埋める必要がある。中古を買ったのだが、家も庭もしっかりと出来ている。住む人が一生暮らすつもりで手間とお金をかけたのだろう。庭には一メートルほどきれいなさらさらの山土が入っていて、その下が粘土質の土のようである。ラブラドールの三太が亡くなって、走れるように砂を敷いていた庭半分を潰し、せっせと畑用の土を運びこんで、庭を丸々野菜畑に変えてしまった。

竹と支柱での柵はその野菜畑の中央部分に作る。ピーマン、胡瓜(きゅうり)、茄子(なす)、オクラなどが作れるように周りの土の部分を確保するためである。南瓜(かぼちゃ)は勢いがあり、蔓に巻き込まれればたいていの野菜はやられてしまう。延びてくる蔓はその都度、中央部分に戻す。竹と支柱の粘土層の辺りまで掘って埋め、針金で一つ一つ固定する。これがなかなかの手間である。総体は長方形で、4×9の36本の竹である。それをジャングルジムのようにするには縦に延びる竹と交差させる細い竹がもっとたくさん要る。その分を切るのも運ぶのも、七十を過ぎた体には手に余る。若いときのように、とても一気にとはいかない。それで、せっせせっせと竹を運んでは埋め込むのである。

それが、竹取の翁の苦戦の実態である。何とか太い竹は運び終え、竹を埋め込む作業もあと10本ほどになった。あとは細い竹を取って来て、太い竹と絡めて固定すればいい。近いうちに完成しそうである。地面に延びた蔓を、そのジャングルジム柵に絡ませれば、すぐに勢いを継続させて伸びて行く。その重量に耐えるかどうか、台風の季節が終わる11月くらいにはわかるはずである。台風5号が発生したそうである。台風の固定作業もなかなか手間だが、自然の猛威の前には、ほぼ無力である。

現在進行中の写真2