つれづれに

 歩くコース1の⑨・・・

歩くコース1の⑧の続き。

今回は木花駅から。ずーっと昔は知らないが、知っている限り無人駅である。宮崎神宮の北辺りに住んでいた時は全く知らなかった。大学も清武町にあったし、非常勤で来ていた旧宮崎大学から東にはほとんど行ったことがなかったから。時たま大学のすぐ近くの木花温泉と青島近辺の温泉に行ってはいたが。

非常勤で宮崎公立大学に行くようになってから、日南線を利用し始めた。木花駅を見たのは初めてだった。今の家から公立大に行くには、自転車かバスか電車か。時々自転車で出かけたが、20キロ余りあるので体力的に毎回とは行かず、いつもは電車を使った。宮崎駅前に自転車を置いて、始業前ぎりぎりに着くか、一時間ほど余裕を持ってかの選択肢しかなく、大抵はかなり早く行って教室で準備をして授業開始を待った。

駅舎内の時刻表の所が元の切符販売所、後方が宿泊用の部屋だったようだ

球場整備に合わせて、南側トイレとタクシー乗り場が新設された

北側のタクシーとバス乗り場、乗客は極めて少ないがバスの路線が延長されている駅の北側から見た駅舎

台風や洪水で線路が流され廃止に追い込まれるローカル線も増えている。宮崎に来た頃に乗った延岡からの高千穂鉄道も、廃止が決まった。採算を考えれば無人で営業するしかないのだろうが、単線でも駅員がいる駅がいい。車掌が行き来する電車がいい。木花より南の人も通学や通勤で実質的に利用している。大雨が降ると地盤が緩んですぐに電車が走らなくなるが、大抵は遅くても翌日には復旧する。

駅中の地図、すぐ東が木崎浜である

木花駅からは南方駅→田吉駅→南宮崎で、終点の宮崎駅に着く。田吉駅で空港線に、南宮崎駅で日豊線に接続している。一時間に一本あればいい電車の本数だが、わりと正確に電車は動くので、急がなければそれなりに使い勝手がある。明石から神戸や大阪に通っている時は、あまり電車を待たなくてよかったが、真夜中近くでも神戸や大阪からは座れなかった。大阪工大の夜間の授業が終わったときは、大阪駅からひと駅北の新大阪駅まで戻って快速電車に乗っていた。大阪駅で人を押しのけて座れなかったからである。日南線でそんな体験は出来ない。兵庫から来た工学部の学生が「兵庫から来たというと誤解する人が多いんですが、こっちの方がコンビもあってはるかに都会ですよ」と言っていたが、兵庫と言っても、旧畿内の海岸線以外は単線が多く、特に山間部は十分に田舎である。

駅から小学校の脇を通り、坂を越え、中学校の横を通り過ぎてから住宅地に入って家に戻る。公園で鉄棒、腹筋運動、柔軟体操をする時間をいれても50分ほどの行程である。やっと歩くコース①が終わる。毎日かかさず歩くというのは、実際には、なかなか難しい。

小学校脇の県道

つれづれに

つれづれに:山頭火の世界②ー山頭火の生涯①

今回は山頭火の生涯をおおまかに。山口県の大地主の子供に生まれたが、家庭環境には恵まれず、父親と財産を潰して妻子と熊本に逃亡。熊本で自殺を図るも死に切れず、友人に連れて行かれた報恩寺で得度。一時観音堂で暮らすも、結局行乞(ぎょうこつ)の旅に。旅に疲れて故郷に近い其中庵に定住後、死に場所を求めて四国に渡り、松山で死去、享年59歳。酒を飲み、数多くの俳句を残す。

報恩寺:「俳人種田山頭火の世界」を受講してくれた工学部の姫野くんが地元で撮影

山頭火が書き残した日記などを編集して後世に伝えたのは、大山澄太。最初に読んだ「山頭火の本」もその人の編集である。その人の伝記を繰り返し読んだとき、山頭火の生涯を知るには、①生まれ育った山口、②逃げた先の熊本、③行乞旅をした各地、④其中庵、⑤松山の五つの時期でわけて、「行乞記」や「其中日記」などに残された句といっしょに辿るのがいいような気がした。もとより全部を詳しく辿る力量はないが、それぞれの時期に詠んだ句を軸に、山頭火の生涯を追ってみたい。

大山澄太

宮崎に越して来た日に出版社の社長さんから分厚い手紙が届いた。山頭火を考える時、いつもその手紙の一説を思い出す。「・・・闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません・・・私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです・・・」

親といっしょに家の財産を食い潰して夜逃げ、逃げた先では妻子を置いて自殺未遂、挙句は得度して行乞の旅に。仕事もせずに飲んだくれていた山頭火が、子として夫として父親として一人の人間としてどうだったのかは評価の仕様もないが、残された句には何か心に響くものがある気もする。芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。そんなことをよく考える。山頭火を授業で取り上げたりしたのは、生き方を知り、句を詠んで、自分の意識下に広がる世界を自覚するためだったかも知れない。僕の意識下に山頭火に反応する何かがなければ山頭火もただ通り過ぎただけかも知れないのだから。

山口県現防府市の生家跡地

うまれた家はあとかたもないほうたる

次回は生まれた家跡を訪ねて詠んだその句も含めて、山頭火の生まれ育った山口の話になりそうである。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース1の⑧・・・

歩くコース1の⑦の続き。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

前回紹介した物産店の続き。買い物に寄るようになってから、ご夫妻といろいろ話をした。奥さんの方が店にいる時間が長く、店主は大抵は昼からの店番だった。同年代の地元の人で、ある日「この前頼まれて、鹿や猪を撃ってきました。尾鈴など北の方の山では鹿や猪が増え続けていますので、定期的に仲間と撃ちに行くんです」と言いながら、何かをさばいていた。「持って帰ります?」と聞かれたものの、生憎、肉類も海産物も苦手なので、厚意に応えられなくて済まない気持ちになった。どうやら、ずっと県の林業関係の仕事をしているようで、自分で撃ったものか仲間から回してもらったものか、いつも大きな冷凍庫には「鹿肉、猪肉あります」と貼り紙がしてあった。店はサンマリーン球場に行く人も見込んで、県道から球場までの間に拵(こしら)えたようだった。観光を見込んで春季キャンプ誘致用に駅から球場までの道路の予算を組んだものの、立ち退き問題で最後までもつれて、まっすぐな道にはならなかったようだ。「最後の一軒の真横までは何とか舗装が出来たが・・・」、そんな状態が長いこと続いていた。

県道から木花駅前のロータリーへの道

「一度近くの畑を見に来て下さい」と言われてお邪魔した。丁寧にいろんな野菜を作っていた。友人の牛舎からでる牛糞を軽トラックで常時運んでもらうようで、「いつでも持って行って下さい」と言われた。しばらく田んぼ脇に腰を降ろして話をしていたら、顔見知りと思われる人が並んで座り、「田んぼやりませんか?田んぼもトラクターも貸しますよ。今は機械がすべてやってくれますから、トラクターに乗っておくだけで誰でも出来ますよ」と話しかけてきた。宮崎に来たての三十代の頃なら、やっていたかも知れない。畑は県道沿いの加江田の山が見える場所にあり、「小さい頃は授業で加江田川で泳いでいました、楽しかったですねえ」と店主が言っていた。

梅の季節が過ぎた頃に店に行くと、摘んできた梅の実の作業をしていて、「持って帰りますか?」と言われた。1升とか2升とかではなくて、集荷用の結構大きなプラスチックのかごごとだった。西米良大根をもらった公園の近くの人からも、「梅持って帰りますか?」と言われた(→「 歩くコース1の②・・・」、2021年7月7日)が、やっぱりかごごとだった。梅干しも梅酒も造っていた時期なら、「喜んで」と言えただろう。

県道の交差点を折り返してしばらく歩くと木花駅に着く。次回はその続き、やっと歩くコース①が終わりそうである。

木花駅舎

駅北側から見たロータリー

つれづれに

つれづれに:なんで山頭火?

前々回のつれづれ(2021年7月20日)で、山頭火については項を改めてと書いた通り、今回は山頭火について。ただし、話が長くなりそうなので、連載の形で他のつれづれの合間に挟んでいこうと思っている。1回目はなんで山頭火?、です。

種田山頭火

4年前の後期の学士力発展科目で「俳人種田山頭火の世界」を担当したが、授業が不消化気味で終わったことと、まとめてみたい気持ちもあって、連載してみるか、となったようである。

妻の本棚のなかにあった春陽堂の「山頭火の本」(14冊、別巻2冊)を見て読み始めたのが山頭火との始まりである。浪人を一年したものの理解して覚える作業に向いてなかったのか、折り合いをつけて家から通える夜間課程に行くことにした。その前に、写真などはすべて焼いたので、結婚をした時に家から持って出たのは、立原正秋の本と当座の衣類だけだった。

教員をしていた高校で記念誌用の原稿を頼まれて書いたもの(→「生きゆけるかしら」)を見ると、よう生きながらえてきたもんやなあという感じがするが、結婚した当初もかなり引きずったままだった。子供が出来て世界が一変した。夜中でも泣き止まない赤ん坊に理屈が通るわけがない。二人とも働いていたから、毎日毎日がいっぱいいっぱいだった。高校は楽しかったが、小説を書きたいという気持ちは強く、書くための空間が要ると感じた。元々貧乏だったので、作家になるまでの貧苦は大丈夫だと思ったが、妻や子供に同じことを強いるのは気が引けた。それで経済的に何とかやれて同時に空間を確保してくれそうな大学を探そうという気持ちになった。

妻は詩人で、詩的な感覚は伝わって来る。僕も一時句が詠めたと感じる時期もあったが、最近はまったく句がでなくなっている。

山頭火を読んだのは、大学の非常勤で大阪に通っていたときの電車の中が多かった。門前払いを食らって博士課程にも入れないし、空間を確保してくれる大学も決まらないし、非常勤のコマも週に16コマと多いし。そんな状況で心身ともにくたくたになっていたのに、なぜか山頭火の本が手放せなかった。その頃は、大学用の業績のために一番英文書を読んだ時期でもある。

次回は、山頭火の生涯①について書こうと思う。