つれづれに

つれづれに: 通草7

飯島光孝『朝、はるかに』(1993/4/3)

あけびの最終回で、本の表紙絵である。

表紙絵を描いた本が最初に出たのは1989年1月25日である。宮崎に来たのがその前の年の3月の末だから、引っ越してしばらくしてから本の表紙絵の誘いがあったことになる。それまでは、職場の人と二人展をしたり、神戸の伊川寛さんの教室に通っていた人たちがやっていたグループ展に参加したり、市展に応募したりするくらいだったので、表紙絵の誘いは有難かった。

明石市展で審査賞をらった油絵

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」12月

最後の本が出たのが2005年の4月なので、17年も描かせてもらったことになる。最初はその時に描いていた花を使うことも多かったが、そのうちいろいろ注文の幅も広がった。大抵は自費出版の本が多かったようだが、高校演劇のシリーズや地方の歴史などもあった。表紙絵にはならなかったが、一時は↓のような絵も描いた。深い縄文の森をイメージして、とか難しいのもあった。

出版された本の一覧→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

あけびの表紙絵もその流れで描いたもので、結局思っていたよりも少なく2冊だけだった。

村越一哲『幻の東京オリンピック』(2000/12/2)

 あけびについて7回も書くとは思ってなかったが、それだけあけび探しに時間をかけたということだろう。あけびの画像を探しているときに、カレンダーにも本にも烏瓜を思っていた以上に使っているのに気がついた。→「烏瓜」(9月23日)で紹介した本の表紙絵以外にも表紙絵やカレンダーに絵が残っている。烏瓜以外にも葛やコスモスも描いていた。次回は烏瓜2、あたりか。

つれづれに

つれづれに: 通草6

大分の飯田高原での個展(→九州芸術の杜)でも何度か持って行って、あけびの絵を展示した。画廊が広かったこともあり、毎年60枚ほど見てもらっていたと思う。荷造りも運ぶのもなかなか大変だった。東京に場所を移してからは、スペースの関係もあり、前年度に描いたものにそれまでのものを少し足して、という感じの展示である。去年はコロナ騒動で中止せざるを得なかったが、今年は金土日の3日間、去年観てもらえなかった絵を展示する予定である。→「小島けい2021年個展案内」

カレンダーの中にもあけびの絵が残っている。

息子が東京のビッグサイトに字に絵をつけた作品を出すついでに妻の絵も出していたら、カレンダーを創りませんかと長崎のオムロプリントから連絡があった。クリエイター何人かのカレンダーを創って売り出したようで、クリカレという名で宣伝していた。それぞれのトレカ(トレンディーカード)入りだった。トレカにはパンダを描いて下さいと言われた。

色々サイトを探しているとき、ちょうど教育文化学部日本語教育支援専修の修士課程で担当していた中国の留学生が「パンダは中国語で熊猫と言いますよ」と言いながら、サイトをいろいろ紹介してくれた。

有難い話で、花の絵のカレンダーを出した。東京の東急ハンズや紀伊国屋や旭屋などにも置いてもらったようである。宮崎の旭屋(昔の寿屋デパート、今はツタヤが入っている建物の1階)にはたしかに置いてあった。ただ、作った人に入るお金はほんとに雀の涙ほど、そのうえたくさんの種類のカレンダーが出ているので利益は出なかったようで、一年限りだった。そのあと、個人的なカレンダーを続けているが、アフリカ関係の本同様に、つくづく芸術関係はお金にならないことを改めて思い知らされた。そのカレンダーを創る前、妻は毎年なぐり描きの絵を描いてカレンダーを創ってくれていた。今思えば贅沢な話で、世の中に一つだけの手作りのカレンダーである。すべて残しておけばよかったのだが、そんな貴重なものだという認識はなく、使ったあとは大部分がごみ箱行きになった。幸い奇跡的に、不完全に残っているものもあって、その中に二枚あけびの絵が残っていた。当時はあけび探しの最中で、いつも家に採って来たあけびがあった。それを見ながら、紙もその辺にあるのを適当に使い、きちんと図ることもなく線を引いて、さっさと描いていた。注文を受けた絵を描くときは、丁寧に丁寧に気の済むまで時間をかける今とずいぶんとちがう。おおざっぱだが、勢いがある。やっぱり捨てずに取って置くべきだった、とつくづく思うが、後の祭りである。

クリカレを作り始めたのが2009年である。当時の状況からするともっとあけびを使っていると思っていたが、出ているカレンダーを確認してみると、あけびは一枚だけだった。大手の店舗で売る以外に、企業用のカレンダーとしても売り込んでいたようで、最初の何年かは地元長崎の会社が数件採用してくれていたようである。採用されたサンプルを2冊ずつ送ってもらえたので、2011年度の大村グリーンサービス社用の11月の分が残っている。↓

あけびについてこれほどたくさん書くとは思ってなかったが、それだけあけび探しに時間をかけたということだろう。本の表紙絵がまだ残っているので、次回7回目が最後ということになりそうである。あけびの画像を探しているときに、カレンダーにも本にも思っていた以上に烏瓜を使っているのに気がついた。葛もたくさんある。からすうり2と葛も書いておきたい。

つれづれに

つれづれに: 通草5

10月になった。カレンダーはジャスミン、妻が通っている乗馬クラブ(→COWBOY UP RANCH、宮崎市清武町大字今泉甲6618)にいる馬で、生まれてすぐの頃から写真を撮っている。母親のダスティも描いて、「私の絵画館」にも書いている。

元の絵「ジャスミンとコスモス」

「私の絵画館80『ダスティ』」(2016年12月17日)

道草4の続きである。

前にも書いたが邪魔になって突然切られてしまうのは蔓植物の運命である。明石のときに知り合った画家が「あけびはどこにでもあるで。駐車場とか思わんところにも」と言うのを聞いたことがある。その人は大分の人で、小さい頃から採ってよく食べていたそうである。

「通草(あけび)」

探してみたら、その通りだった。最初は平和台公園で見かけたが、大学や大学の周辺にもあった。大学は統合してからサッカーやラグビー、野球が使っていた医学部の運動場が駐車場になってなくなってしまったが、その駐車場の高いフェンスで見つけた。見つけてから十年ほど、毎年同じ個所に結構な数の実がなっていたが、駐車場の工事でフェンスがなくなって、あけびもいっしょになくなってしまった。

医学部から統合した大学に通う道の傍でも何個所か、毎年実をつける場所を見つけた。何年かは同じところに実がなっていたが、そのうち見かけなくなった。

大分の飯田高原で個展(→九州芸術の杜)をしたときには、驚くほどたくさんの見事な実を見つけた。やまなみハイウェイのバス停から美術館に行く途中にもたくさんあったし、少し西側の小川の周辺には、数えきれないほどの大きな実がなっていた。植生や土壌の影響があるようだ。今住んでいる周辺より、圧倒的に多いような気がした。

食べる時は傷がついていても差支えはないが、絵には傷がなくて色艶のいいのがいい。相応しい実を見つけるのは難しい。一度根ごと家に持って帰って、玄関先の植え込みに植え替えてみたことがある。横のガレージの覆いの下に針金を使って蔓が蔓延れるように工夫をしたみた。実がなるのに何年かかかったが、色艶のいい、絵には最適の実が採れるようになった。しかしある日、上から青虫が首に落ちて来た。毎日自転車の出し入れをするので、切るしかなかったようである。生活の場には、物理的に共存は難しいらしい。台風が来ると、実が揺れて表面に傷がつく。自然の中では当たり前のことだが、見ながら描く絵の材料を探すのはなかなか難しかった。

次回はオムロプリントで作ってもらったカレンダーと、本の表紙絵、おそらくあけびの最終回になる、と思う。

つれづれに

つれづれに: 通草4

あけびから少し逸れそうである。

市民の森の花菖蒲を一心に描いている頃に、僕が雑誌に記事を書いていた出版社の社長さんから表紙絵を薦められた。最初の表紙絵(→山田はる子『心の花を咲かせたい』、1989/1/25)は花菖蒲である。↓

その後→芹沢修『雑木林』(1991/9/8)と、上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)でも花菖蒲を描いている。

そのあとすぐに、大学用の編註テキストを引き受け、それが→La Guma, A Walk in the Night(1991/1/15)である。アメリカ映画「遠い夜明け」と同じ時期に、孤独拘禁を受けた最初の白人女性ルス・ファーストの娘さんが製作したイギリス映画→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」18号7-12頁。)の一場面を白黒の水彩でさっと描いていた。↓

そのあとすぐに編註書の2冊目→La Guma, And a Threefold Cord (1991/4/14)を引き受け、表紙を頼んだ。ちょうどNHKの衛星放送が見えるようになった時期で、BS1のアンゴラのニュースを見ながら、水彩で、これもさっと描いていた。↓

のちに原画を出版社から戻してもらって、画像にしている。↓

家族でジンバブエに行く前に原稿を仕上げて出版社に送ったのが日本語訳の→ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992/10/16)で、ハラレにいる時に届いた。やはり、BS1ニュースのナミビアの一場面を見ながら、これもさっと描いていた。その時はよくわからなかったが、描いた本人には全体像のイメージがあってさっと描けたようである。粋な表紙絵になったのは編集者の手腕だ。↓

裏表紙(表紙と続き)

いま日付を見てみると宮崎に来てから数年の間のことである。この時期、英文編註書を2冊、日本語訳を1冊と立て続けに作業をしている。編註書も日本語訳も初めてで、ワープロ原稿をフロッピーで送った記憶がある。小説を書くつもりで大学に来たはずだったが、道草や烏瓜を探し回るかたわら、たくさん記事も書いていたから、それどころではなかったようである。編註書はそれぞれ一年弱、日本語訳は一年半はかかっているから、物理的にみても、小説を書く時間はなかったわけだ。定期的に研究室に来てくれる学生もかなり増えていたので、なおさらである。

最近編註書と日本語訳(→編註書 A Walk in the Night」、→「編註書And a Threefold Cord 」

「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」)について書いた。次回はあけびの表紙絵とカレンダーか。