つれづれに

つれづれに: 通草2

玄関の道草

台風の影響で、また雨が降り出した。ただ、今回は関東の方に向きを変えてくれたようである。天気予報では、雨も二日ほどで済み、そのあとは晴れ時々曇りの天気が続くらしい。もちろん、台風の道筋がついてすぐにまた大きな台風が来る可能性もあるが。

道草(あけび)の続きである。

玄関と居間にかけてあるのは、どちらも道草である。実もりっぱ、色艶がなんとも言えない。採って来た実を見ながら描いたので、勢いもある。おそらく、今の家に引っ越して来てから、加江田から椿山に行く途中の繁みの中で探し出したものだと思う。執念である。自転車で、先の見えない坂を登りながら、ありそうなところに自転車を止め、繁みのなかに入っていったのだから。よく虫にやられなかったものだ。もちろん、中に入って行ったのは僕一人だが。事情が見えて来た今なら、繁みには入らない。そんな無謀なこと。どうも、そんなことの繰り返しだったようだ。

引っ越す前の家では、この前も書いたように平和台公園が近かったので、よく道草を探しに出かけた。実はそれほどなかったような印象が残っているが、池の周りの何か所かで、実をみつけた。

平和台公園の池

池の傍の樹はあまり葉が繁っていなかったという記憶がある。大体は毎年同じところに実がなるのだが、蔓なので、突然切られてしまうことが多い。樹木にとっては、蔓に巻き付かれ、その蔓が大きくなると支障が出ることもある。家の庭などでは、まず切られる。公園の場合も、人が通るところは、きれいに取り除かれてしまう。蔓植物の運命だろう。

池の周りを歩けるように、小さな道がある。何本かの樹は、池のすぐ横に植えられていて、枝が池の上に出ている場合もある。たまたまその一本に道草の蔓が伸びていき、実をつけていた。あの時だったから、細い枝を恐る恐る進んで、果敢にその実を採りに行った。そして、落ちた。実のなる頃なので、十月の終わりか、十一月。池の水が冷たかったのか、どう泳いで戻ったのかも、覚えていない。その後、池に落ちたねえ、と妻や子供たちから何度も言われた。

居間にかけてある道草

つれづれに

つれづれに: 通草1

何とか清書が終わった。

台風16号が発生したそうで、また来るかも知れない。この前の台風で、と言っても台風そのものよりその影響の長雨で、と言った方がいいかも知れないが、蒔いた大根もすっかりやられてしまったし、植え替えた秋蒔き胡瓜や鞘オクラも何本かは消えてしまった。この時期、そのままにしておくと、完璧に虫にやられてしまうので、希釈した酢を絶えず撒く必要もある。雨が続けば、その作業もなかなか大変である。大変な作業を続けても、台風が来ればいっぺんにやられる。長雨のあと蒔きなおした大根が、やっと大きくなりかけたのに、台風が来れば、またやられる。ずいぶんと以前に、清武の田んぼの中を自転車で通り過ぎているとき、二度目の台風でやられたあと、頭を抱えている中年の男性を見かけたことがある。切干大根を作る農家にとっては、致命的だ。そんな危うい、脆い中で暮らしている。

今回の長雨で、内海の海岸線でがけ崩れがあり、国道も日南線も不通になったと新聞で見かけたが、もう開通したのだろうか。堀切峠の眺めはいい。店屋のあるところからの眺めもいいが、少し北の峠の上辺りの眺めはいつ見てもいい。人が少ないのがなおいい。実はその崖の下に、内海から折生迫のホテルサンクマールまでの細い道がある。舗装されていて、一応車も通れる。ただし一台が一杯一杯である。一度内海の南風茶屋で南風うどんを食べた帰りに、通ってもらったことがある。普通は車では通らないだろうという感じだった。家からだとサンクマールまで自転車で50分、そのあと40分くらいはかかりそうだから、1時間半。折角まだ宮崎にいるのだし、今暫くは体が応じてくれそうだから、歩くコースに加えてみるか。実際には自転車のコースだが。

内海の南風茶屋

前回も書いたが、宮崎に来た三十数年前は、烏瓜と通草(あけび)を探すのに忙しかった。(木通とも書くらしい)絵を描き始めた妻の材料にするためだ。幸い僕が雑誌に書いたり本なども出してもらっていた出版社から本の装画を描くように言われて、花が表紙絵にもなった。

烏瓜は書くほどのこともなかったが、通草は書くことがたくさんある。それだけ必死になって探し回ったということか。

探してみると、意外とあるものだ。大学の行き帰りや、歩くコースでも見つけた。その頃住んでいた近くの平和台公園でも見つけた。次回はその平和台公園からか。そのうちコース5に行って、写真も撮ってこよう。

折生迫のホテルサンクマール

つれづれに

つれづれに:烏瓜(からすうり)

 

きのう散歩している時に、烏瓜を見かけた。色鮮やかな朱色である。9月も半ば過ぎ、今日は秋分の日で、暮れるのも随分とはやくなった。三十度を超す昼間の畑作業は無謀なので、陽が落ちる前頃から始めることが多い。秋の日のつるべ落とし、すぐに暗くなってしまう。

なかなか原稿の清書が進まない。パソコンを使う前はワープロ、その前は手書きで書いていたわけだが、その時はそれが当たり前で、長い手紙も手で書いた。久しぶりにやってみると、手がいうことをきいてくれない。二百枚くらいの原稿用紙が手に余る。手に余ることが増えすぎる、それが年を取ると言うことだろう。悪戦苦闘している時に「歴史をどう見るか」の続きは手に余る。「続モンド通信」も手付かずのまま、それで、烏瓜(からすうり)である。

三十数年前に宮崎に来るとき、それまで常勤職と二人の子供で一杯一杯で、絵を描く時間も取れなかった妻は、仕事を辞めて絵を描くことにした。最初は花を書いた。宮崎神宮の少し北辺りに一軒家を借りていたので、市民の森が近くで、そこの菖蒲園に毎日自転車で出かけていた。

花を集めるは僕の役目で、そのうち秋には実も集めるようになった。都会から来ると、草花は豊富である。春先はことに多彩だ。最初の秋は、木通(あけび)と烏瓜に明け暮れた。出版社から本の表紙絵のシリーズも描くように言われて、大忙しだった。今回花菖蒲の画像を探してみたが、まだパソコンを使ってない時期で、画像は見当たらなかった。辛うじて、本の表紙絵の画像があった。表紙絵用に送った原画はまとめて出版社の方が返送して下さっているので、そのうち画像にしておこうと思う。

● 出版された本の一覧です→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

烏瓜の実は食べられない。色が鮮やかなのは、空を飛ぶ鳥に見つけてもらい易くするためだそうである。鳥たちが啄ばんで食べた種が排泄されれば、種を運んでもらえるからだろう。種(しゅ)を保存するための共存共栄の営みの一環のようである。

宮崎に来た当初、絵の材料を集めるためにいつも花や実を探していたせいか、烏瓜がやたら目についた。しかし、最近はあまり見かけなくなったような気がする。

次は通草(あけび)である。

つれづれに

つれづれに: 歴史をどう見るか

九月も中旬になり、彼岸花が咲き始めた。この頃に山頭火は山口の其中庵に移り住んだようだ。最初に詠んだのが彼岸花の句。

うつりきてお彼岸花の花ざかり             種田山頭火

春先に、ある人からメールで「歴史を正しく理解するとはどういうことなのでしょうか。」と聞かれた。科研費をもらっている手前何かしないわけにもいかなくて企画したシンポジウムに参加してくれた人に送ったお礼に対する返信メールの中でである。→「2021年Zoomシンポジウム」「続モンド通信27」、2021年2月20日)

僕は返事に次のように書いた。
「歴史いうても、目に見えんわけやし、実際に目で見えるのはほんのごく一部に過ぎひんからなあ……
……大学の職探しをしてて無職やったとき、世話になってた大阪工大の先輩から、『今ワシが書いてる雑誌にあんたも書いてみるか。雑誌を出してくれてはる出版社の社長さんにあんたの話をしたら、一度会いたいと言うてはったけど、どうや、会ってみるか?』と言われて、横浜でその人に会ったことが、その後に大きく影響したねえ。
何日かのちに、新幹線の新横浜の駅前の喫茶店で話をしたんやけど、その社長さん、座ったとたんに話を始めはって。
この国で縄文人が一万年以上も豊かな暮らしをしていたところに、大陸からツングースが入り込んで来て、平和に暮らしていた縄文人を蹂躙(じゅうりん)して蹴散らし、その後大和朝廷を作ったんです。その大和朝廷の末裔が跋扈(ばっこ)する関西の財界人と知識人、アングロ・サクソン系の人たちと精神構造が同じで、飽くなき上昇志向の人たち、侵略遺伝子の抑制因子の覆いが窮迫した情況に追い詰められた時にぽつんと外れ、その遺伝子を代々連綿と伝えて来た人たちです』
次に『ミトコンドリアが人間の細胞の中で共生し始めた時に……』と話が続いた。

当時はようはわからんかったけど、僕とは違う次元で生きてはるということは肌で感じたな。東大の医学部を出て医者にならずに出版社をしてはったらしく、賦与されている才能も含めて、凡人過ぎる僕とは違い過ぎてほぼ共通点は見出せなかったけど、無為に生き存らえてしまった、余生を過ごすには残りの人生は長過ぎるという思いだけは共通している気がしたね。

その後、やっと宮崎医科大学に決まって医学生に授業をすることになったと報告したとき、予想以上に喜んでくれてはったみたい。引っ越しの当日に分厚い手紙が郵便受けに届いたな。昔医学生だった人から、これから医学生に授業をすることになった僕へのメッセージやったみたい。

赴任した頃の→「宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)

『……闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 「意識下通信制御」なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります……』
『……最近の学生は とくに 医学生は 頭の良い子ばかりだそうです なにしろ なんかの方法で 受験勉強をしなかった子は いないというのですから 〝学問〟に対する その真摯な態度と勤勉に 驚かずにはいられません これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に 己れの行く末を見つめ かっちりと計画がたてられる 頭の良い子であることを意味しています 鉛直方向によそみをすることなど 思いもよらぬ 天才少年です しかし〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟シン先生 この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます 学生たちの 眠っている 意識以前に 無言で語りかけてください 意識下通信制御です そうすれば シン先生の学生のなかから 医者や医学者ではなく 医家が 必ず 生まれることを かたく 信じてください そして もちろん 学生に 好かれるように行動するのではなく いつも 御自分からすすんで 学生のひとりひとりが 好きになるようにつとめてください 〝良い頭の〟学生は 医学生の責任だとはいえません 親はもちろん あらゆるものがよってたかって腕によりかけ 作りあげた〝高級〟人形であっても 愛着をもってやれば ある日 ぱっちり眼を開き 心臓が鼓動をはじめ 体のすみずみに しだいに ぬくもりがひろがっていくことが 必ずあることを忘れないでください それと 医学部の学生は 最優秀と考えられていますが 実際は 外国語も自然科学も数学もなにもかも まったくだめだということを 信じてください 子どもだから仕方のないことですが 世評がいかに 無責任ででたらめなものであるかを シン先生も 四月になれば いやというほど思いしらされるはずです たとえば 英語は 百分講義で英文科三ページがやっとのところを 医学部は十ページをかるがるとこなすのですが その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると こいつ ほんまに 入試をくぐってきたんかいな と思う奴ばかりです それでもうんざりして見捨てたりせず この愚劣なガキどもの ひとりひとりからけっして眼をはなすことなく しっかりと 見守ってやっていただきたい なにしろ まだ人類とはならぬこども なのですから』

意識下の言語に働きかける、それが僕の授業の方針やったかも。形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ、すべて。
たま」
「形而上に見えるもの、歴史の場合もいっしょやと思うけど、それらはほんの表層部分で、その下に眠る意識下の世界を自分で感じられるかどうか、なんかも知れへんなあ」、そんな思いで、「歴史をどう見るか」を身近なことと結びつけながらしばらく書いてみたいと思っている。次回は「民主主義」か。