2010年~の執筆物

概要

『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」(The Struggle for South Africa)の前半です。

『アフリカとその末裔たち』

1章のアフリカ小史を受けて、典型的な植民地支配を最近まで受けて来た南アフリカ小史の前半、ヨーロッパ人入植者が南アフリカを植民地化して安価な労働力を大量に生み出す搾取機構を打ち立てたという歴史背景です。(ハラレでは実際にゲイリーたちがこの制度の元で大変な暮らしを強いられていました。)

次回は南アフリカ小史の後半、アフリカ人がそのヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、白人政権に協力した日本と南アフリカの関係についてです。

本文

南アフリカ小史前半

南アフリカの歴史背景としては大きくわけて4つの大枠を掴んでおく必要があります。

①つ目はヨーロッパからの入植者(European Immigrants)がアフリカ人から土地を奪って南部アフリカに作り上げた季節労働者制度(Migrant labour system)。
②つ目は、オランダ系の入植者の国民党(Nationalist Party)が単独政権を取って推しすすめた人種差別政策アパルトヘイト制度(Apartheid system)。
③つ目は、アパルトヘイトと闘ったアフリカ人の解放闘争(Liberation struggle)。
④つ目は、日本とアパルトヘイト政権のかかわり、です。

今回は最初の二つ①と②についてです。

① 入植者による南アフリカ連邦の成立

最初に南アフリカに来たヨーロッパ人はオランダ人で、1652年のことです。

今のケープタウン辺り、ケープ地方にやって来ました。オランダ人入植者(Dutch immigrants、大半が農民だったのBoers【オランダ語で農民の意味】と呼ばれていましたが、のちに蔑称として使われましたので自らをアフリカーナー(Afrikaners)と呼ぶようになりました。)はのちにアパルトヘイト政権を打ち立てました。

当時ケープ地方(南西部)にはコイコイ人やサン人など、原始的な生活をしている人たちが住んでいましたので、入植者はその人たちを比較的容易に奴隷にして、自分たちの農場で働かせました。社会基盤は農業でした。

ケープタウンテーブルマウンティン

次にイギリス人が来てアフリカーナーとケープの覇権を争いました。イギリスはアジアの戦略拠点を競争相手のフランスに押さえられないように大軍を送り込みました。

奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こして産業化社会になりかけていたイギリスの狙いは、更なる生産のための安価な原材料と大量の安価な労働力でした。経済的に優位に立っていたイギリス人入植者(British immigrants)がアフリカーナーとの権力闘争に勝利して1795年にケープ植民地政府を樹立し、1833年には一方的に奴隷を解放しました。

敗れたアフリカーナーのうち、富裕は内陸部に大移動しますが、残りはケープ地方に留まりました。アフリカーナーは内陸部の行く先々で高度な文明を持つアフリカ人と衝突しました。

1854年頃までには一応富裕な海岸線の2州ケープ州とナタール州をイギリス人入植者が領有し内陸部の痩せた2州オレンジ自由州とトランスバール州をアフリカーナーが占有(厳密にはイギリス系がオランダ系の自治を承認)することで落ちついたものの、
オレンジ自由州でダイヤモンドが、トランスバール州で金が発見されて状況が一変しました。それまで南アフリカはインドへの航路としての役割はありましたが、さほど重要視されてはいませんでした。ダイヤモンドと金の採掘権を巡ってイギリス人入植者とアフリカーナーがアングロ・ボーア戦争(Anglo-Boer wars)を始めます。結果的には決着をつけずに、アフリカ人を搾取する一点に妥協点を見出して1910年に南アフリカ連邦(The Union of South Africa)を成立させました。どちらも過半数の議席に及ばずに妥協の産物として出来たイギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権でした。

(南アフリカの地図)

アフリカ人から土地を奪い、アフリカ人に課税をして化貨幣経済に巻き込み、無尽蔵の安価な労働力を作り出して、自分たちの大農園や鉱山や工場や、白人家庭でこき使う大規模な搾取機構です。(ジンバブエは第二のヨハネスブルグ=金鉱を求めてやってきたこの時代のケープ植民地のイギリス系入植者がゲイリーたちの祖父の代の人たちから土地と家畜を奪って作った国で、植民相だったセシル・ローズは国に自分の名前をつけてローデシアと名付けました。ゲイリーたちにとっては何とも忌まわしい話です。)

ローズたちの駐留地はスクエア・ガーデン、アレックスと従姉妹と長女とで記念撮影

② アパルトヘイト政権

イギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権は、1948年にアフリカーナーによる単独政権に変わりました総人口の13%に過ぎない白人の6割を占めるアフリカーナーが単独政権を取ったのは、第2次世界大戦が大きな引き金でした。

ヨーロッパが第二次世界大戦の殺し合いで疲弊したため、それまで虐げられ続けた人たちが権利を求めて闘う素地が出来上がっていました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカでは独立運動、アメリカ国内では公民権運動と世界的な広がりを見せていきました。その余波を受けて南アフリカ国内でも、アフリカ人は積極的にデモやストライキをして政府に対抗しました。当時のイギリス系の与党統一党(The United Party)は意識に目覚めたアフリカ人労働者層が積極的に参加する闘争に対抗し切れませんでした。

少数の白人と多数のアフリカ人との緊迫したこの時期に、白人だけが投票権を持つ総選挙が行われました。アフリカーナーの国民党は白人人口の60%の大半を占める貧乏な農民(poor whiteに投票してくれれば、人種隔離政策(アパルトヘイト)で優遇する、つまり賃金の高い仕事は白人のために確保し、アフリカ人には低賃金のにしか就かせないというスローガンを掲げて選挙戦を展開、結果的には過半数を取ることになり、1948年にアパルトヘイト政権が成立しました。

政策の根幹は、アフリカ人から土地を奪って課税して作り上げた安価な無尽蔵のアフリカ人労働者から搾り取れる一大搾取構造でした。たくさんの法律を作り、人種によって賃金に格差をつけ、アフリカ人には単純労働しかさせず、居住区なども人種によって差別するという、徹底した差別政策でした。

③ アフリカ人の解放闘争と④日本とアパルトヘイト政権のかかわりについては、次回の「南アフリカ小史後半」で取り上げます。(宮崎大学医学部教員)

日本語訳は長く、ブログの制限枠目安をはるかに超えているそうです。インターネット上にファイルをおきますのでご利用下さい。右のアドレスをクリックすればワードファイルをダウンロード出来ます。→https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/Zim6.docx(画面上に出てくるZim6.docxです。)

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

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  「南アフリカ小史前半」

2010年~の執筆物

アフリカ小史一覧(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)

 

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史一覧」

 

<1>の前半では、ヨーロッパ人が来る前、アフリカ大陸には黄金を貨幣に広大な交易網が張り巡らされ、自給自足の生活を送っていて、地域によってはヨーロッパをしのぐ文化を持って栄えていたことを書きました。そして、ヨーロッパは自己の侵略を正当化するために都合のいい歴史を書いてきました、その欺瞞性を指摘しました。

「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)

<2>の後半は、1505年のキルワの虐殺、奴隷貿易、植民地分割、植民地支配のあと、第二次大戦での白人同士の殺し合いを経て、先進国がいかに巧妙に多国籍企業による経済支配体制を再構築したかを分析しました。

「アフリカシリーズ」の案内役バズル・デヴィドソン

『アフリカとその末裔たち1』(Africa and its Descendants 1、1刷)の表紙

2010年~の執筆物

概要

「加害者側にいながらその意識のかけらも持ち合わせていない現状を」語るために書いた英文のアフリカ小史の後半の紹介です。

前回はヨーロッパ人がアフリカ大陸に来る前のアフリカと奴隷貿易を中心に書いた内容の概略と日本語訳をつけた英文を紹介しましたが、今回はその続きアフリカ小史の後半で、奴隷貿易での富の集積→産業革命→工業化→植民地争奪戦→植民地分割→本格的な植民地化→二つの世界大戦→新植民地化の流れを追いました。

本文

アフリカ小史後半

およそ三世紀半に及ぶ奴隷貿易によって社会は大きく変りました。かつてない規模で西アフリカから少なくとも900万人、多ければ5000万人の人が新大陸に運び込まれたわけですから当然ですが、最大の変化は奴隷貿易によって資本がヨーロッパに集積され世界的な富の偏りが出来てしまったことです。つまり、ヨーロッパが豊かになり、アフリカを含む「第三世界」が貧しくなったということです。今の「先進国」と「開発途上国」との格差の原型です。そして今もなお、その経済格差はなくなってはいません。つまり、搾取構造が形を変えて今も温存されているということです。

ヨーロッパ社会は、奴隷貿易で蓄積された富を使って産業革命を起こし、効率よく手っ取り早くのし上がるために、生産の手段を手から機械に変え工業製品の大量生産を始めました。また、侵略を容易くするために武器の開発にも力を注ぎました。世界は農業中心から産業中心へと変貌してゆきます。

産業化によってさらに生産を拡大するための安価な原材料と労働力が必要となり、供給源として一番近いアフリカ大陸がまたも餌食となりました。植民地争奪戦です。争奪戦は熾烈で世界大戦の危機も出て来ましたので、戦争を回避するために1885年前後にベルリンで会議が開かれて、植民地の取り分が決められました。植民地分割で、イギリスの取り分が一番多く、他をフランス、ドイツなどで分けました。強制労働なども含めあからさまな植民地化が行われた地域もあり、ベルギーのレオポルド2世の「コンゴ自由国」での蛮行は有名です。

世界大戦と新しい支配体制

しかし、ヨーロッパ社会は大戦を回避出来ずに二度も殺し合いをして総体的な力を低下させ、虐げられて来た側には権利を取り戻す機会が巡ってきました。アジア、アフリカ諸国などでは独立運動が、アメリカ国内では公民権運動が繰り広げられました。

50年代、60年代はアジアやアフリカにとっては希望の年月でしたが、結局は大戦の傷を癒した旧宗主国と、大戦では無傷のうえヨーロッパ諸国に金を貸したアメリカと、そのアメリカと戦って無条件降伏しながらも経済復興を果たして高度経済成長の時代に突入した日本が力を合わせて、新しい形の支配体制を再構築する結果に落着きました。開発と援助の名の下の、多国籍企業による経済、軍事支配です。

搾取して甘い汁を吸い続けてきた側が、そう容易く既得権益を手放すわけがありません。あらゆる手段を使って権益を守りました。

ヨーロッパやアメリカで教育を受けた知識人が先頭に立ってアフリカで独立運動を始めた時、ヨーロッパ諸国は押さえつけようとしましたが、自国の復興に手一杯で押さえ込むことが出来ませんでした。そこで独立の過程を出来る限り妨害して独立後の混乱を引き起こし、クーデターによる軍事介入を強行するという作戦に切り換えました。

どの国も似たり寄ったりの経過を辿りますが、1957年に独立したガーナ(イギリス領ゴールドコースト)と60年に独立したコンゴ(ベルキー領コンゴ)は、典型的な経緯を辿りました。

「模範的な」植民地だったゴールドコーストでエンクルマに率いられた独立運動の機運が高まった当初、イギリスは押さえ込みにかかってエンクルマを投獄しますが、自国の復興で手一杯だったために押さえ込めず、仕方なく戦略を変えてエンクルマを釈放しました。その後1957年にエンクルマはブラックアフリカでは最初の首相に選ばれ、就任式では大陸の統一を夢見て涙を流しました。しかし、復興を果たしたイギリスはエンクルマがベトナム戦争の終結に向けて中国で毛沢東と会談をしている間に軍事クーデターを画策、エンクルマは帰国を果たすことなく1972年にルーマニアで亡くなりました。

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

ベルギー領コンの場合は、もっと悲惨な結果となりました。ベルギーは首相に選ばれたルムンバが国を引き継ぐのに半年の猶予期間しか与えず80000人の官吏を総引き上げして独立の過程をあからさまに妨害しました。当然のことながら、独立後の国内は大混乱、そこにアメリカがモブツを引っ張り出して軍事クーデターを画策、命の危険を感じたルムンバは国連に援軍を頼みますが、

国連軍はルムンバが死ぬのを見守っただけでした。アメリカ大統領がCIAにルムンバの暗殺命令を出したと言われています。

画像

パトリス・ルムンバ(小島けい画)

他のアフリカ諸国も同じように旧宗主国やアメリカ、日本に大幅な経済介入を許して、開発と援助の名目の、多国籍企業による搾取体制に組み込まれていきました。もちろん経済格差がなくなることはなく、むしろ広がってゆくばかりです。奴隷貿易、植民地時代に引き続いて、アフリカは貧困や病気、飢饉や民族紛争などに悩まされ続けています。

そういった大きな流れを書きました。

アフリカ小史の後半では、アフリカ争奪戦→アフリカ分割→植民地化→世界大戦→独立→新植民地化の流れに絞って英文で書きました。日本語訳もつけた全文です。

『アフリカとその末裔たち』

Chapter One: The Colonization of Africa 1章 アフリカの植民地化

MONOPOLY CAPITALISM AND IMPERIALISM 独占資本主義と帝国主義

The European capitalists used the profits from the slave trade and from slave labour in the mines and plantations in America to develop their own industries. Gradually the industrial capitalists grew more powerful than those capitalists who invested in trade.

ヨーロッパの資本家連中は、奴隷貿易とアメリカの大農園や鉱山での奴隷労働からの利潤を自らの産業開発のために利用しました。産業資本家がやがては奴隷貿易に投資する資本家よりも力を持つようになりました。

While the slave traders and the plantation owners wanted to keep slavery, the industrial capitalists’ main interest was to buy workers on a 'free labour market.’ They could abolish slavery. The capitalism of free competition was turning into monopoly capitalism.

奴隷船(「ルーツ」より)

奴隷商と荘園主は奴隷制度を維持しようとしましたが、産業資本家の関心は、「自由労働市場」で労働者を買うことにしかありませんでした。産業資本家は奴隷制度を廃止することが出来、自由競争の資本主義は独占資本主義へと変容して行きました。

A tremendous development of the productive forces was made with the result that the industries produced more goods than could be consumed, they produced more goods than people could afford to buy. Consequently, the industrialists had to look for new markets.

Capital export, i.e. investment abroad, become particularly important to monopoly capital. The capitalists were also looking for raw materials for industrial production, and new markets for their products.

生産力がとてつもなく増えて、産業が消費能力、購買能力を超えた商品を生産する事態に陥りました。結果的には、産業資本家が新しい市場を探さざるを得なくなったのです。

独占資本にとって、資本の輸出、海外投資が特に重要になりました。資本家は工業生産のための安い原材料と、製品のための新しい市場を探していました。

THE COLONIAL DIVISION OF AFRICA アフリカの植民地分割

The European states set out to conquer the rest of the world as colonies. These colonies became the protected hunting ground for each mother country’s own capitalist class. At the beginning of the 20th century, except for only Ethiopia and Liberia, the whole of Africa was divided between the imperialist powers.

ヨーロッパ諸国は、残りの世界を植民地として征服する作業に取り掛かり始めました。植民地はそれぞれの宗主国の資本家階級が狩りをするための保護区となりました。20世紀初頭には、エチオピアとリベリアを除き、帝国主義列強の間でアフリカ全体が分割されました。

植民地分割地図(「アフリカシリーズ」より)

The ruling classes in Europe hoped that the acquisition of colonies would calm the social unrest in their own countries. The competition for colonies became so fierce that war was threatened between the imperialist powers. But a common interest in exploiting the colonized peoples and the fear of a rising working class in their own countries won over the contradictions of the imperialists. To solve the problem of competition they sat down to negotiate. A war was postponed until 1914, and then it led to a redistribution of the colonies.

At the so-called Berlin Conference in 1884-85 Africa was formally divided between the colonial powers: England, France, Germany, Belgium, Italy, Portugal, and Spain.

ヨーロッパの支配者階級は、植民地を獲得することで自国の社会不安が鎮められればと考えていました。植民地争奪戦はとても激しかったので、帝国主義列強の間で戦争が起こりそうになりました。しかし、植民地の人々を搾取するという共通の関心と、台頭する自国の労働者階級への恐れがあったために、帝国主義者が抱えていた矛盾を押さえ込む形となりました。争奪戦問題を解決するために、帝国主義者達は交渉のテーブルに着きました。戦争は1914年まで延期され、結果的に植民地を再配分することになりました。所謂1884年、1885年のベルリン会議で、アフリカは正式に植民地列強(英国、仏蘭西、独逸、ベルギー、伊太利亜、ポルトガル、スペイン)の間で分配されました。

COLONIALISM コロニアリズム(植民地主義)

After the Berlin Conference the process of actual occupation and military domination had to be carried out. In a few cases there was only weak African resistance to colonial occupation, mainly because in some areas it was the custom for Africans to welcome all strangers. It was only later that they understood that the colonialists had anything but peaceful purposes. In most cases colonization met fierce resistance and led to terrible persecutions, and sometimes to outright genocide.

コンゴ自由国(「アフリカシリーズ」より)

ベルリン会議の後、西洋列強は実際に植民地を占領し、軍事的に支配を推し進めなければなりませんでした。植民地占領に対してアフリカ人のかすかな抵抗はありましたがそれもほんの僅かでした、理由は主に、アフリカ人には知らない人でも喜んで受け入れるのが慣わしだったからです。植民地支配に携わる人たちに平和的意図などかけらもなかったと知ったのは、後になってからに過ぎませんでした。たいていの場合は、植民化は激しい抵抗に遭い、その結果、恐ろしい迫害に及んだり、徹底的な大量虐殺につながる場合もありました。

In order to obtain labour for plantations and mines set up and owned by the colonizers and obtain cash for the colonial administration, the colonial powers introduced forced labour, compulsory cultivation of export crops and various forms of taxation. In order to be able to pay taxes, and also gradually to be able to buy the European manufactured goods which began to flood Africa, the adult men from the villages worked for the colonialists part of the year. The migrant workers who were forced into a capitalist monetary economy on short-term contracts were not given the chance to learn new skills. They were used as unskilled manual labour on the plantations and the mines, and when their contract ended they could be replaced by others. The wages they received were not enough to support the whole family which had to remain in the village to earn their own living.

植民地の人達が設立し、所有する農場や鉱山での労働力を手に入れ、植民地行政のための資金を得るために、植民地列強は強制労働や、輸出用作物の強制栽培や、様々な形式の課税を導入しました。税が払えるように、またやがてはアフリカに溢れはじめたヨーロッパの工業製品が買えるように、村から出稼ぎにきた男たちは、一年の大半を植民地主義者のもとで働きました。短期契約の形で資本主義貨幣経済の中に組み入れられた出稼ぎ労働者は、新しい技能を学ぶ機会も与えませんでした。農場や鉱山で非熟練の単純労働者として使われ、契約が終われば、いつでも別の労働者に交代させられました。受け取る給料はわずかで、生計をたてるために村に残っている家族全員を養うことはできませんでした。

南アフリカヨハネスブルグ金鉱山(「ディンバザ」より)

In many colonies the inhabitants were forced to grow crops for export instead of, as before, for their own living. In other areas, land was taken over for plantations and run by European settlers who hired the now landless peasants as their agricultural workers, often only for a short season. Agricultural production concentrated on growing one single crop is called monoculture. When the prices paid by these capitalist countries for agricultural products fell, so did the income that African countries could get for their export.

多くの植民地では、住民は、以前のように自らの生活のためではなく、輸出用作物の栽培を強いられました。他の地域では、土地が取り上げられて農場となり、たいていは短期契約の農業労働者として無産者を雇うヨーロッパ入植者によってその農場は経営されました。一種類の作物だけを育てる農業生産は単一耕作と呼ばれます。資本主義国が農産品に払う価格が下落すれば、アフリカの国々が輸出から得る収益も減少しました。

<Reference 2> <引用 2>

Kwame Nkrumah, the first prime minister of Ghana, wrote in his autobiography about the British colonial administration of this time:

ガーナの初代首相クワメ・エンクルマは自伝の中で、この時のイギリスの植民地政庁の行なった行政について次のように書きました。

独立式典で演説するクワメ・エンクルマ

“In all the years that the British colonial office administrated this country, hardly any serious rural water development was carried out. What this meant is not easy to convey to readers who take for granted that they have only to turn on a tap to get an immediate supply of good drinking water. This, if it had occurred to our rural communities, would have been their idea of heaven. They would have been grateful for a single village well or standpipe.

イギリスの植民政庁がこの国を統治していた間じゅう、地方の水の開発は殆んど行なわれませんでした。これが何を意味するかを、蛇口をひねるだけですぐに良質の飲料水が得られるのが当たり前だと思っている読者に伝えるのは難しい。もし田舎の村でそういったことが起こっていたとしたら、みんなは天国だと思ったでしょう。村に一つでも井戸か配水塔かが作られていたとしたら、みんなはどれほど有り難いと思ったでしょう。

As it was, after a hard day’s work in the hot and humid fields, men and women would return to their village and then have to tramp for as long as two hours with a pail or pot in which, at the end of their outward journey, they would be lucky to collect some brackish germ-filled water from what may perhaps have been little more than a swamp. Then there was the long journey back. Four hours a day for an inadequate supply of water for washing and drinking, water for the most part disease-ridden!

いつものように、暑くて蒸し暑い田んぼでのきつい仕事を終えて、男も女も村に戻り、それから手桶やかめを持って2時間もとぼとぼと歩かねばならず、その行き着いた先では、沼と言えるかどうかも分からないような所から、塩気のある細菌だらけの水でも手に入れば幸運だったのです。それからまた、長い道のりを戻らなければなりませんでした。洗濯や飲むための水を手に入れるのに1日に4時間、それも大抵は病気の元になる水を。

This picture was true for almost the whole country and can be explained by the fact that water development is costly and no more than a public service for the people being administered. It gave no immediate prospect of economic return. Yet a fraction of the profits taken out of the country by the business and mining interests would have covered the cost of a first-class water system." (Africa Must Unite)

こうした状況は、国じゅうで殆んど同じで、それは、水の開発には費用がかかり、その開発が統治する人々のための公共事業に過ぎず、経済的な見返りをすぐに期待出来る見通しが立たなかったからに過ぎません。しかし、事業や採掘投資で得られた利益をほんの僅かでも使えば、一等級の給水施設の費用は充分にまかなえたでしょう。(『アフリカは統一する』)

『アフリカは統一する』

INDEPENDENCE AND NEO-COLONIALISM 独立と新植民地主義

World War Two ended with building directed towards building a new reformed colonialism, or neo-colonialism. (See Appendix Africa 2) After the war, the world capitalist economy entered a new phase marked by the dominance of the USA and the rise of huge transnational corporations. Capital investment in African mining, agriculture, and industries increased, which led to the rapid growth of the African working class.

第二次世界大戦が終わり、新たに形を変えた植民地主義、つまり新植民地主義の構築に向けて事態は動き出しました。(付録アフリカ2を参照)戦争後、世界資本主義経済は、アメリカの優勢と巨大な多国籍企業の出現という特徴を持つ新しい局面を迎えました。アフリカの鉱業と農業と工業への資本投資が増加し、アフリカ人の労働者階級が急速に成長を遂げることになりました。

Landlessness and poverty led to the growth of large urban slums. Resistance began to take new forms as peasants and workers became organized. The middle-class nationalist movements changed their tactics to calls for national independence. In 1957 Ghana became independent as did many nations around 1960.

アフリカ人が土地を奪われ、貧困を余儀なくされたために、都市には巨大スラムが出来ました。小作人と労働者が組織化されるにつれて、新しい形態の抵抗が始まりました。中流階級の民族主義者たちの運動で、それまでの作戦が国の独立を求める運動に変わりました。1957年にガーナが独立し、1960年頃には多くの国が独立を果たしました。

The post-war world created a new world order in which imperialism no longer had a part to play. The power of American capital and the new transnational corporations called for the abandoning of the restrictions on trade and investment. It was the age of the United Nations. The European colonial powers began to question the increasing cost of maintaining their empires.

戦後の世界は帝国主義がもはや役割を演じることのないような新しい世界秩序を作り出しました。アメリカの資本力と新しい多国籍企業)は、貿易と投資への制限を撤廃るように求めました。国際連合の時代です。ヨーロッパの植民地列強)は、自分達の植民地帝国の維持費を増やすことに疑問を感じ始めました。

In the peasant-based colonies, and in other colonies where the settlers were weak, there took place a relatively easy transfer of power into the hands of the African elite. However, in other colonies where the settlers were able to hold onto political power (Algeria, Mozambique, Zimbabwe, and so on), independence was only won after long and bitter armed struggles. In most cases, the new independent governments inherited economic dependence. The dependence could be used by the imperialist forces to further their aims. It rests on a continued colonial division of labour and foreign control of key sectors of the economy. Colonialism destroyed the old society. Yet colonial regimes and their African allies did not push through the full capitalist transformation they had begun. Instead, they continued to get profits from the traditional economy and patch it up where it threatened to break down. Sooner or later, the system had to collapse.

小作人を基盤とする植民地と、入植者の勢力が弱かった他の地域では、比較的容易に、アフリカ人エリートへの権力移行が行なわれました。しかしながら、入植者が政治的実権を持ち続けていた他の植民地(アルジェリア、モザンビーク、ジンバブエなど)では、長く辛い武力闘争を経てはじめて独立を勝ち取ることが出来たのです。多くの場合、新しい独立政府は経済依存体制を引きずりました。その依存体制は、帝国主義者達が自分達の目的を更に拡大するのに利用されました。その体制は、引き続き行なわれた植民地列強による労働力の分配と、外国経済の重要な分野の支配を基盤にしています。植民地支配は古い社会を壊滅させました。
しかも、植民地政府とアフリカ人の盟友は、自分達が始めた完全な資本家主義への移行措置を強行しませんでした。代わりに、旧来の経済体制から利益を得、破壊の危機に瀕していた所を補修し続けました。遅かれ早かれ、その仕組みは崩壊する運命にあにありました。

Now Africa has so many problems, such as poverty, hunger, drought, racial conflicts, diseases and so forth. The 1994 massacre in Rwanda left us with a sense of desperation. In that racial conflict more than 500,000 people were slaughtered and more than 2 million were forced to flood into their neighbouring countries. The 1995 Ebola outbreak in Zaire spread fear around the globe. Furthermore, the AIDS situation is now devastating. The disease accounts for 300,000 deaths per year in sub-Saharan Africa, a rate that is expected to reach 900,000 in five years, according to the World Health Organization. Health officials reckon that AIDS began travelling 20 years ago down the transport routes from Central African countries.

1995年のエボラ出血熱騒動当時の南アフリカの週間紙「ラント・デイリー・メール」

The next target is South Africa where the peaceful transformation of power was made through the 1994 multi-racial election.

The colonial heritage is far too heavy for African countries to bear in all ways.

現在アフリカは、貧困、飢餓、干魃、人民族紛争、数々の病気など、非常に多くの問題を抱えています。1994年のルワンダの大虐殺は、私たちに絶望感を残しました。その民族紛争で、50万人以上の人たちが虐殺され、2百万人以上の人々が近隣諸国へ流れこみました。1995年のザイ―ルでのエボラ出血熱の発生は、世界中に恐怖を広げました。さらに、エイズの状況は現在、絶望的です。この病気はサハラ以南のアフリカでは、年間30万人の死者を出し、世界保健機構(WHO)によると、その割合は5年で90万人に到達するだろうと予測されています。エイズは、中央アフリカの国々からの輸送経路を20年前に下りはじめた、と世界保健機構の職員は考えています。

次の標的は、1994年に多人種による選挙が行なわれて平和理に権力移行を成し遂げた南アフリカです。

植民地時代の負の遺産は、アフリカの国々が全てを耐えるにはあまりにも重過ぎます。

次回は「南アフリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年12月10日

収録・公開

  →「アフリカ小史後半」(No. 64  2013年12月10日)

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  「アフリカ小史後半」

2010年~の執筆物

概要

教養科目の英語の授業で使うための英文書『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants)の1章で、アフリカの歴史「アフリカの植民地化」("The colonization of Africa")を書きました。その前半で、ヨーロッパ人がアフリカ大陸に来る前のアフリカと奴隷貿易が中心です。

本文

アフリカ小史前半

ヨーロッパ人が来る前、アフリカ大陸ではたくさんの人が住んでいました。西アフリカのように大きな王国のある地域もあれば、小さな村単位で暮らしている地域もありましたが、自給自足の平和な生活を営んでいました。大陸には黄金を通貨にした大がかりな交易網が張り巡らされていて、遠くはインドや中国とも交易していました。

14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を元に銃を作り始めたヨーロッパは銃と聖書を携えて世界侵略を始めます。東アフリカで交易の中心だったキルワを1505年に滅ぼしたのはポルトガル人です。

その後、西アフリカで大規模な奴隷貿易を開始して侵略行為は激しくなって行きました。それまであった対等な関係は崩れ去り、富の偏りが出来ました。奪った側は生産の手段を手から機械に変えて、今の資本主義の方向に舵を切りました。殺すための武器も開発して、やがては原子力爆弾まで作りだしてしまいます。

アフリカ小史1の前半では、ヨーロッパ人が来るまでのアフリカ、ヨーロッパ人の侵略開始、奴隷貿易に絞って英文で書きました。日本語訳もつけた全文です。

画像

『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants、2刷)

Chapter One: The Colonization of Africa 1章 アフリカの植民地化

PRECOLONIAL AFRICA 植民地化以前のアフリカ

Africa has been of great importance to the development of mankind. It has been found that the earliest beings able to make tools once lived in the Rift Valley in East Africa.
アフリカはこれまで人類の発展のためにとても重要でした。ごく初期の頃に道具を作るが出来た人たちが、かつて東アフリカのリフトバレー(大地溝帯)に住んでいました。

A big leap forward was taken when man learnt to sue iron for tools. Another big step was taken when cultivation started on a large scale. Large scale cultivation in Africa began in about 2000-3000 B.C. in both West Africa and Ethiopia.
人々が道具を作るために鉄を精錬するようになって、ひとつの大きな文明の飛躍がありました。大きな規模で耕作が始まって、更に飛躍を遂げました。約紀元前2000年から3000年頃、西アフリカとエチオピアの双方で、アフリカでは大規模な形での耕作が始まりました。

Between the years A.D. 700 and 1400 Europe developed rapidly. But for all this time European society was in many ways inferior to that of its African neighbours. Cairo was the foremost trade centre in the world and gold was used as the means of payment. Some of this gold was brought from West Africa, and some from Central Africa. The gold of Africa kept world trading going. World trade was stimulated by the spread of Islam. The gold from Zimbabwe was transported from the interior by Muslim middlemen to the African East Coast.
700年から1400年の間に、ヨーロッパは急速に発展しました。
しかその期間の間も絶えず、ヨーロッパ社会は様々な点で、近隣のアフリカ諸国よりも劣っていました。カイロは世界の最大の貿易拠点で、金が支払いの手段として使われました。このとき使われた金は、西アフリカや中央アフリカからきたものもありあました。アフリカからの金が世界の交易を発展させ続けました。世界貿易はイスラムの広がりによって刺激を受けました。ジンバブエからの金はイスラム教徒の仲買人によって内陸からアフリカの東海岸へ運ばれました。

ジンバブエの遺跡(長男、1992年9月)

In West Africa, too, long-distance trade gave birth to new and powerful societies. The West African kingdoms were ruled by kings who appointed local noblemen to collect taxes from the peasants.

西アフリカでは、また、長距離貿易が、新しくて強力な社会を生み出しました。西アフリカの王国は王によって統治され、王に指名された地方の貴族が農民から税を集めました。

Not only in West Africa, but also in Central Africa a centralized organization of society emerged on the basis of surplus production, trade and a growing population.
西アフリカだけでなく、中央アフリカでも、余剰生産と交易と人口増加を基礎にして、中央集権社会が現れました。

この頃の西アフリカの王国を訪れたイブン・バツゥータ(「アフリカシリーズ」より)

Parallel to the development of large kingdoms in Africa many groups of people learnt to control nature without kings and kingdoms. Their political systems may be called “village rule.”

アフリカでは、大きな王国の発展と併行して、多くの人々の集団は王や王国なしに自然を制御するようになりました。その人たちの政治制度は “村落共同体支配” と呼べるかも知れません。

In Africa, as elsewhere, migrations of cattle-raising people took place when they had to find new pastures, and new places to live for a growing population.
アフリカでは、他の所と同じように、人口が増えて新たな牧草地を探し、生活するための新たな土地を見つけなければならなくなった時、遊牧民の移住が始まりました。

THE FIRST COLONIALISTS 最初の植民地支配を目論んだ人達

Portuguese adventures were the first Europeans to 'discover’ Africa south of the Sahara. The first voyages along Africa’s west coast were little more than an extension of the piracy. The Portuguese took away people from the coasts they plundered and brought them home as slaves. As yet slave trade and economic exploitation were on a small scale.
ポルトガルの探検家がアフリカサハラ以南のアフリカを最初に「発見した」ヨーロッパ人でした。アフリカの西海岸に沿った最初の航海は、海賊行為の延長に過ぎませんでした。ポルトガル人は略奪行為を行なった海岸地域から人々を連れ去り、奴隷として母国に連れて帰りました。しかしそれでも、奴隷貿易と経済的な搾取の規模は小さなものでした。

They started to buy gold directly at the coast. In time they also wanted to find a sea route to India. Their aim was to take away from the city-state of Venice their control over the profitable spice trade with the East Indies.
ポルトガル人たちは海岸線で、直接金を買い始めました。やがてはインドへの海上ルートも発見したいと望んでいました。その人たちの目的はベニスの都市国家から、儲けの多い東インドとの香辛料貿易の支配権を奪うことでした。

Portugal wanted to start trade by exchanging goods with East Africa. But the project failed as the goods that Portuguese had to offer were inferior to those of the East African tradesmen. The Portuguese seafarers and merchants then decided to achieve for themselves the East African trade monopoly by force. With their superior arms the Portuguese managed to destroy the East African civilization.
ポルトガルは東アフリカと商品を交換することによって貿易を始めたいと思っていました。しかし、ポルトガルが持っていった商品が東アフリカの貿易商人の扱う商品よりも劣っていたために、その目論見は失敗しました。その時、ポルトガルの船乗りと商人は、武力を使って自力で東アフリカの貿易を独占しようと決めました。ポルトガル人は、優れた武器を使って辛うじて東アフリカの文明を破壊することに成功しました。

東洋貿易の中心として栄えていたキルワの復元図(「アフリカシリーズ」より)

In Western history Vasco da Gama, d’Almeida, and Tristan da Cunha have been estimated as “great discoverers,” but they were nothing but destroyers for Africans. A Germany who was present when d’Almeida destroyed Kilwa gives us the following eyewitness report:

“In Kilwa there are many strong houses storeys high. They are built of stone and mortar and plastered with various designs. As soon as the town had been taken without opposition, the Vicar-General and some of the Franciscan fathers came ashore carrying two crosses in procession and singing Te Deum. They went to the place, and there the cross was put down and the Grand-Captain prayed. Then everyone started to plunder the town of all its merchandise and provisions. ”
西洋の歴史では、ヴァスコダ・ガマやダルメイダやトゥリスタオ・ダ・クンハはこれまでずっと「偉大な発見者」として評価されて来ましたが、アフリカ人にとってその人たちは破壊者以外の何ものでもありませんでした。ダルメイダがキルワを破壊した時に立ち会ったあるドイツ人は、次のような目撃証言をしています。

キルワでは2階や3階の高いしっかりとした家がたくさんあります。家は、石とモルタルと漆喰で出来ていて、様々な模様をしています。町が抵抗もなく占領されるとすぐに、司教総代理と何人かのフランシスコ会の神父が上陸をして、一列になって十字架を運び、賛美歌を歌いました。それからその場所に行き、十字架が降ろされ、総督が祈りをささげました。それから、その町の全ての商品と食料品を略奪し始めました。

Two days later the city was set on fire.
2日後、街に火をつけました。

The main interest of these first colonialists was in spices, cloth, gold, and ivory. They dominated the sea but on land only some narrow strips of the coast. Other countries soon began to compete with the Portuguese for the trade with the East; first the Dutch, then the English and the French gained control over this rich trade.
こうした植民地支配を目論んだ人達の主な関心は、香辛料と布と金と象牙でした。その人達は海を支配しましたが、陸では海岸線の岸の狭い僅かな地域を支配しただけでした。やがて他の国々も東洋との貿易を求めてポルトガルと競争をし始めました。最初にオランダ、次にイギリスとフランスがこの豊かな貿易の支配権を手にすることになりました。

THE SLAVE TRADE 奴隷貿易

The European conquest of South America suddenly changed the character and importance of the slave trade. With brutal force the prospering cultures of Peru, Bolivia and Mexico were stamped out by the Spanish conquerors and their silver and gold were stolen. Many Spaniards who set out for this Eldorado found no metals but settled as farmers.
ヨーロッパ人が南アメリカを支配したことで、奴隷貿易の特徴と重要性が一変しました。ペルー、ボリビア、メキシコの繁栄した文化はスペインの侵略者に力ずくで踏みにじらされ、金や銀が盗まれました。理想郷を求めて出発したスペイン人たちは金銀を見つけられませんでしたが、そのまま住み着いて農民になりました。

In 1518 a Spanish ship brought the first cargo of Africans directly from Africa to America. This was the start of a trade in slaves which was to continue for three and a half centuries and to bring millions of Africans to America.
1518年、スペイン船が初めてアフリカ人の積み荷を直接アフリカからアメリカに連れて行きました。これがその後3世紀半にも渡って続き、何百万人ものアフリカ人をアメリカに連れ出すことになる奴隷貿易の始まりでした。

The merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called “triangle trade.” The riches of the capitalists grew while Africa suffered.
奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。これらの人間はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。これが所謂「三角貿易」でした。資本主義者たちの富が増えて、アフリカが被害を受けました。

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated to speed up the development towards capitalism. The “triangular trade” was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.
ヨーロッパ、とりわけ、イギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への発展の速度を加速させました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

奴隷を運んだ帆船(「ルーツ」より)

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in the terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind.
アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

<Reference 1> An excerpt from Roots <参考文献 1>「ルーツ」からの抜粋

We can find an example of the slave trade from the following scene of the American film Roots which hints to us what the slave trade was like.
アメリカ映画「ルーツ」の次の場面を見てみましょう。奴隷貿易がどんなものであったか、その一端を窺い知るが出来ます。

画像

(30周年DVD版「ルーツ」のカバー)

In this scene Captain Davies (D) of the slave ship talks with a slave trader John Carrington (C) in his cabin after his ship landed the North America:
この場面では、奴隷船が北アメリカに着いた後、
デイヴィス(D)船長が船室で貿易商人のジョン・キャリントン(C)と次のような会話を交わしています。

C: Did you have a good voyage, Captain?
D: My first officer is dead, ten seamen and the ship’s boy, . . . more than one third of my crew.
C: Oh well, God rest their souls. But the life blood of commerce is goods, sir, goods. How fares your cargo through the passage, Captain?
D: Three thousand elephant teeth have survived the voyage.
C: You’re a pretty wit, sir, a pretty wit . . . elephant teeth indeed . . . .
D: One hundred forty Negroes were loaded aboard the Lord Ligonier at the mouth of the Gambia River.
C: Oh. A loose pack. Well . . . .
D: Of those, ninety-eight were alive when we made port.
C: Ninety eight. Oh, less than a third dead. I have known slavers to make port with less half surviving and still show a handsome profit. My fericitations, Captain.
D: How soon can I unload?
C: Directly we warp your vessel to the wharf.
D: I want you to secure for me flowers of sulphur to burn in the hold. I wish to see my ship clean again.
C: Oh, naturally, sir. After all you’ll be carrying tobacco to London.
D: And in London . . . .
C: Trade goods for the Guinea Coast, and then on to the Gambia River.
D: And more slaves . . . .
C: Indeed, sir. Thus does heaven smile upon us, point to point in a golden triangle. Tobacco, trade goods, slaves, tobacco, trade goods and so on ad infinitum. All profit, sir and none the loser for it.
D: Tell me, Mr. Carrington, do you ever wonder . . . .
C: On what topic, sir, to what end?
D: As to whether or not we are just as much imprisoned as are those chained in the hold below?
C: I do not follow your meaning, sir.
D: It sometimes feels that we do harm to ourselves by taking part in this endeavor.
C: Harm? What harm can there be in prosperity, sir? What harm is a full purse, I’d like to know.
D: No, no, I doubt that you’d like to know, Mr. Carrington. I doubt that either of us would truly like to know.
C: Would you be interested in coming to the auction, Captain? I warrant you’ve never seen anything like it.
D: No, I am sure I have not, Mr. Carrington. I do know that I am not interested in seeing it now . . . or ever.

船長とクンタ・キンテ(「ルーツ」より)

カリントン(C)「船長、船旅はうまく行きましたかね?」
デイヴィス(D)「一等航海士と船員が十人、それにボーイが一人……、私の乗組員のうち三分の一以上が。」
C「おう、それはお気の毒に、その人たちの魂に神の御加護がありますように。しかし、貿易の大元は何と言っても商品ですからね、商品ですよ。ところで船長、海の上では積み荷の加減はどうでしたかね?」
D「船旅では三千本の象牙が何とか事なきを得ましたよ」
C「船長、冗談がとてもお上手ですな、とてもお上手で……三千本の象牙とは……」
D「ガンビア川の河口で、百四十人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました」
C「それは、ゆったりとした積み方で。それで……」
D「そのうち、港に着いたときの生き残りは九十八人でした」
C「九十八人。そうですか、それでは、死んだのは三分の一以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長」
D「一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね」
C「直ちに船を曳いて行って、岸壁にお着けしましょう」
D「船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです」
C「それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへ煙草を運んで行かれることになりますね」
D「そして、ロンドンで……」
C「ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて」
D「そして、もっとたくさんの奴隷を……」
C「その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。煙草、貿易の品、奴隷、煙草、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をして、損するもの誰もなし、ですよ」

次回は「アフリカ小史後半」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年11月10日

収録・公開

  →「アフリカ小史前半」(No. 63  2013年11月10日)

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  「アフリカ小史前半」