2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は3回目です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立

およそ百年に渡るジンバブエの歴史の3回目で、
工業化と大衆運動と、武力闘争による独立戦争についてです。

工業化と大衆運動

1930年代の終わり頃まで、南ローデシアの経済の中心は未だ鉱業と農業でしたが、40年代から50年代前半にかけて急速に工業化が進み、たくさんの工業製品が生産されました。53年あたりには、ソールズベリとブラワヨでは700以上もの工場が操業し、46年には約10万人だったアフリカ人労働者の数が、
10年間25五万人以上に膨れ上がっていました。

アフリカ人は都市部での永住者ではなく、一時的な労働者と見なされ、住宅条件の悪いロケイションに押し込められました。(南アフリカではタウンシップと呼ばれています。)人口が増え続けていたにもかかわらず、政府が相変わらず対策を講じなかったために、ロケイションのスラム化の度合いは濃くなっていきました。賃金は低いうえにインフレによる物価騰貴が重なって、アフリカ人労働者は病気や貧困などの様々な問題に直面しなければなりませんでした。

40年代に行なわれた調査の一つによると、ロケイションの住人の9割までが最低限の生活をするのに必要な賃金も得られなかったので、悲惨な生活を強いられ、盗みや犯罪が当然のように横行して、不法なビールの醸造で食いつなぐ者もいたようです。

44年には労働条件の改善を求めてローデシア鉄道雇用者協会が設立されています。翌年の10月にはストライキが行なわれて、
アフリカ人鉄道従業員が仕事を放棄しました。このストライキには北ローデシアの労働者も呼応しましたので、中部アフリカの鉄道は一時麻痺状態となりました。

2週間後、住居の改善や最低賃金の引き上げなどを約束して雇用者側が譲歩しました。ストライキは成功したのです。

このストライキの成功によって、他の産業に従事するアフリカ人は大いに勇気づけられました。46年には改革産業通商労働者同盟が、翌年にはアフリカ人労働者声明協会などが組織されています。

48年の4月には、全国規模のストライキが敢行されています。
このストライキには鉱山や農場の労働者だけでなく、白人家庭で働く家内労働者も加わったので、終わり頃には総計10万人ものアフリカ人労働者がストライキに参加していました。

ストライキの勢いに圧倒された政府は、ロケイションの状況改善や熟練労働者の賃上げなどを認めて、渋々の譲歩を余儀なくされました。

50年代の前半には好景気が続いて、第2次産業が急速に伸び、
多額の外国資本が南ローデシアに流れこんでいます。外国資本の多くは、工場の投資に回されました。この頃には、南アフリカのドゥ・ビアーズ・アングロ・アメリカン社などの外国資本が、国内製造部門の70パーセントを所有するようになっていました。

工場の増加に伴い、機械を操作できるアフリカ人熟練工の需要も増えたので、政府はアフリカ人の教育に以前よりも少し多くの予算を割くようになっていました。しかしその割合は低く、高校が多少増えた程度でした。

53年に南ローデシア(現ジンバブエ)は、北ローデシア(現ザンビア)とニアサランド(現マラウィ)を巻き込んでローデシア・ニアサランド連邦を成立させました。英国政府と南ローデシアの産業資本が主体となって創り出した連邦です。南ローデシアの製品をさばく市場と北ローデシア産の銅が狙いでしたが、銅産業に伴う南ローデシア国内の工場や輸送施設の近代化も大きな目標の一つでした。

57から58年にかけて、景気が大幅に後退して街には失業者が溢れ出しました。本格的なアフリカ人の解放闘争も始まって社会不安が増し、政府は危機的な局面を迎えました。

都市部だけではなく、地方でも大きな問題を抱えていました。40代にはすでにリザーヴでの人口過密が大きな問題となっていましたが、土地配分法の実施に伴ってその問題は更に深刻の度を増していました。政府はリザーヴでの人口過密の問題を解消するために、従来の政策を転換させていました。溢れ出たアフリカ人を街に永住させて、工場の労働者に仕立てることを思いついたのです。そして、51年に土地耕作法を成立させ、一部のアフリカ人に土地の個人所有を認めると同時に、耕作に関する規定を定めました。土地の権利を失った人たちが街に流れざるを得なくなるというのが政府の計画でした。

しかし、政府の目論みは57~58年の景気後退によって打ち砕かれました。リザーヴからあぶり出されたアフリカ人は、街でも職を見付けられなかったからです。都市でも地方でも、アフリカ人の政府に対しての反感はますます募るばかりでした。

この政府への反感がアフリカ人の大衆運動の大きな弾みとなりました。

55年に、ソールズベリで都市青年同盟が設立されます。2年後の57年にはアフリカ人民会議(ANC)が結成され、ジョシュア・ンコモが議長に選ばれています。この時点でのANCの闘争方針はまだ過激なものではありませんでした。

59年になると、連邦じゅうに不穏な動きが見え始めたので、
各政府はその動きを封じるのに躍起になりました。南ローデシアでも弾圧法が制定され、アフリカ人指導者が逮捕されました。ANCは活動を禁じられています。

しかし、アフリカ人側は60年1月には民族民主党(NDP)を結成してこれに対抗しました。政府が6月に指導者を逮捕したので、ソールズベリとブラワヨでは激しい抗議運動が展開され多数の死傷者を出しました。小農の土地耕作法への反対運動は日常的となり、アフリカ人側は政府との対決姿勢を前面に打ち出し始めました。

61年12月にNDPが非合法化され、10日後にはジンバエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が結成されています。ZAPUの闘争計画はANCよりもかなり激しいものでした。政府との対決を表明して破壊活動方針を打ち出し、鉄道や電力施設を破壊しました。このため9月には政府に活動を禁じられています。

この頃にはZAPU内の不協和音が強くなっていました。英国や政府に妥協し過ぎるンコモの指導性に反発を強める勢力が増えたためです。

その一派は、ロバート・ムガベ(現在も大統領として健在)、ンダバニンギ・シトレ、レオポルド・タカウィラなどが中心となって、63年8月に新組織ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)を結成し、政府との対決姿勢を強めました。政府には法的に活動を禁じられましたが、ZANUは人民暫定評議会(PCC)と形を変えて生き延びていました。

この間、政府は路線の変更を余儀なくされていました。アフリカ人の中産階級を自分たちの陣営に誘い込むために、50年代半ばに中学校の建設や土地配分法の修正などの改革を行なっています。58年には、英国政府と国内の産業資本家の支援を受けて
統一連邦党が選挙で勝利を収め、ガーフィールド・トッドの後を受けたホワイトヘッドが南ローデシア首相に就任しました。

しかし、62年には、アフリカ人労働者階級との競争を恐れる
白人の支持を受けて、ローデシア戦線(RF)が圧勝しています。土地配分法の保持を望む白人の大土地所有農家と職業での白人優遇措置を望む白人賃金労働者が、人種差別政策を掲げるRFを熱烈に推したからです。

連邦の出費で経済力、軍事力をつけた政府は、63年にはローデシア・ニアサランド連邦を解体して独自の路線を歩み始めまた。

64年には、RFの党首イアン・スミスが南ローデシアの首相に就任しています。スミスはZANU、ZAPU/PCCを非合法化し、ンコモ、ムガベ、シトレを逮捕・拘禁しました。弾圧法を強化して、アフリカ人との対決姿勢を前面に打ち出し、その年に独立したマラウィとザンビアの闘争の流れをザンベジ川で阻止してみせるとまで公言しています。

65年11月に、英国政府の同意なしに、南ローデシアは一方的独立宣言(UDI)を出しました。英国政府と南ローデシア政府間の調停が失敗したのは、英国政府の意向に反して、白人の賃金労働者と大土地所有農家が予想以上の力を着けていたからです。
その力は産業資本家の力を上回っていました。

アフリカ人側は武力闘争を決意しました。完全に合法的、平和的な手段が封じられてしまったので、独立するためには他に選択の余地が残されていなかったからです。

武力闘争とジンバブウェの独立

その非常事態に、ZANUとZAPUは破壊活動やストライキで圧力をかけ、政府を話し合いの場に引きずり出そうとしましたが、政府は動じませんでした。

64年4月にZANUのゲリラ軍ジンバブウェアフリカ国民自由軍(ZANLA)はゲリラ戦を開始しました。67年には、ZANLAはZAPUのゲリラ軍ジンバブウェ人民革命軍(ZIPRA)と南アフリカ民族会議(ANC)との共同戦線をはり、ザンベジ川を越えて南ローデシアへの侵入に成功しました。

政府は自分たちの勝利を確信していました。

産業資本家が恐れていたように、UDIに対してただちに国連の安保理事会が各国にローデシアに対する石油輸出禁止措置を要請したり、英国の経済制裁措置が行なわれましたが、南アフリカやモザンビーク(宗主国ポルトガル)の協力がありましたので、経済制裁は独自の路線を進む政府には大きな障害物とはなりませんでした。

65五年から72年にかけて、南ローデシアの経済は急成長を遂げ、鉱業と製造業が飛躍的に伸びました。以前は輸入に依存していた製品を国内で生産するようになったので、 地方の産業が成長し、労働者の需要も増大したからです。

政府は土地耕作法の施行を中止したり、傀儡のアフリカ人指導者を利用したりしてアフリカ人の不平を逸らそうと努めたので、事態は一時的に沈静化したかに見えました。

政府はその勢いを借りて、69年に新憲法を採択し、土地耕作法に代わる土地保有法を成立させます。国土を大きく2分し、半分の痩せた土地に500万のアフリカ人を、残り半分の肥沃な土地に25万の白人にそれぞれ振り分けたのです。

そして、政府は70年に共和国を宣言しました。

しかし、地方の事態がそれで収拾を見せるはずがありませんでした。

UDI以前には白人農家は輸出向けに煙草を栽培していましたが、経済制裁によって作物の転換を余儀なくされていました。南アフリカやモザンビークで煙草を栽培していませんでしたので、
経済制裁逃れの手段が行使出来なかったためです。

白人の大農家は、煙草を玉蜀黍や家畜に代えて国内市場に参入しました。しかも、政府は作物の転換政策を奨励して白人農家にだけ援助金を出しましたので、富裕な小農は国内市場から締め出されてしまったのです。こうした政府の強硬な人種差別政策の実施により、70年代前半には、地方に住むほとんどのアフリカ人が政府に激しく反対するようになっていました。

この時期には二つの重要な進展が見られました。英国政府の介入とアフリカ側の戦略の転換です。

英国政府は経済制裁の措置は取ったものの、ローデシアへの投資による利益も捨てられず、初めから歩み寄りの姿勢を見せていました。66年と68年に行なわれた話し合いはもの別れに終わりましたが、71年にはヒューム外相とスミス首相との間で協定の合意が成立しました。英国政府はピアース卿を派遣して、アフリカ人側の動向を探らせました。

ZANUとZAPUの指導者は獄中にいましたが、アベル・ムゾレワに率いられて新たに組織された統一アフリカ民族評議会(UANC)は協定に反対の意を表明しました。ZANUとZAPUの不満分子は新たにジンバブウェ解放戦線を結成していました。

ピアース委員会は翌年の3月に、アフリカ人側の反対を報告しましたので、英国政府はその報告に従わざるを得ず、またもや調停は失敗しました。

ZANUとZAPUは66年から70年の間の敗北を反省して、
戦略の転換をはかっていました。毛沢東の戦略に倣って、ゲリラ戦士が農村部に入りこんで、農民の協力を仰いだのです。政府に激しく反対する地方の農民は、ゲリラ戦士に協力しました。

ZANLAは二年間のあいだ、北東部の田舎で農民と共に働きながら、武器を貯え戦いの準備に備えました。ZANLAはポルトガルと闘っていたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)にも
大いに助けられました。それまで南ローデシアに入るには北西部のザンベジ川を越えるしかなかったのですが、新たに北東部からの侵入が可能になりました。72年に始められたアフリカ統一機構の軍事援助や、73年のザンビアの国境封鎖も追い風となりました。更に、75年のモザンビークの独立はゲリラ戦士への大きな励みとなっています。独立したモザンビークは南ローデシア政府に経済制裁と国境封鎖を突き付けました。

この頃には、経済制裁と戦争への出費で南ローデシアの経済は厳しい状況に追い込まれていました。73年の中東戦争後のオイル・ショックも大きな痛手となっていました。この深刻な事態を憂慮したのは、特に関係の深かった英国と米国と南アフリカです。

南アフリカは74年12月と75年8月にスミス政府と交渉を持ち、緊張緩和を促しました。そのわずかな成果としてZANUとZAPUの指導者が釈放されましたが、交渉自体は不調に終わっています。

闘争が激化した76年には、英国と米国が調停に乗り出しました。白人政府との戦いを通り越して資本主義との戦いにまで発展するのを、両国が一番恐れたからです。革命戦争となって、隣国のモザンビークやアンゴラのように社会主義国家になる事態だけは避けなければならないと考えました。

他に近隣のザンビア、モザンビーク、ボツワナ、タンザニアも調停に参加したが不調に終わっています。その年、ZANUとZAPUは協力して愛国戦線(PF)を結成しました。

政府軍は77年には、モザンビークのゲリラ基地を、翌年にはザンビアの基地を襲撃しています。78年には、ゲリラ軍もソールズベリの工業地帯の石油タンクを破壊して、戦いは混迷の度を増していました。政府軍は203の保護地区を設定して、50万のアフリカ人を移動させたり、夜間外出禁止令などを出しててゲリラ軍への援助の道を断とうとしました。それに対抗してアフリカ人側は、若い人たちもゲリラ戦士を応援し、女性もゲリラ戦士となりました。

土地を持たない貧しい小農に土地を占領された富裕な小農と、女性の進出によって自分たちの地位を脅かされる懸念を持った年配者は、独立後の行き先に不安を抱いて、新しい組織を作ることになりました。

79年には、国中が戦火に巻き込まれていました。多くの白人が戦火を逃れて、国外に脱出しました。政府軍への入隊を拒否するために国を離れる者も現われました。戦争への出費はかさみ、南アフリカからの借金だけが唯一の頼りという状態にまで追い込まれています。

スミス首相は77年に出された英国と米国の新提案を蹴って、アフリカ人の穏健派との連携の道を模索しました。78年には、スミス、シトレ、ムゾレワの間での国内解決案が合意され、翌年にはムゾレワがジンバブエ・ローデシア首相に就任しました。

しかし、ZANUとZAPUはこの国内解決を承認しませんでしたので、戦いは続きました。

戦争の続行で経済的に苦しい状況が続く近隣諸国は、ZANUとZAPUに早期解決を促しました。79年9月に、英国政府はロンドンのランカスター・ハウスで調停会議を主催しました。交渉は難航を極めましたが、3ヵ月後に、アフリカ人が80議席、白人が20議席という条件で下院選挙を実施することでアフリカ人側と白人側が合意しました。

翌80年2月に行なわれた総選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、UANCが3議席を獲得しました。この結果、ZANUの党首ムガベが首班に指名されて、初のアフリカ人内閣が誕生しました。

ムガベ政権は社会主義と、アフリカ人と白人の融和政策を掲げて出発しました。しかし、白人には10年間の特権が約束されていたうえ、経済や技術の面では白人や外国資本に依存しなければならず、厳しい船出となりました。

ハラレで出会ったゲイリーもツォゾォさんも、立場は違いますが、この独立戦争を経験していました。

画像

(ツォゾォさん)

政府が自陣に取り込もうとした「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、71年までの学生時代の3年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けました。

学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうですが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、71年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうです。その時は逮捕されなかったものの、警察と激しく衝突しています。

「政府による締め付けは厳しく、学生の中にもスパイがいて、同じ寮で暮らしていた学生があとでスパイだと分かってショックを受けたこともありますよ。武器の輸送を手伝っていたとき、そのスパイの通報で危うく逮捕されかけました。もしあの時逮捕されていたら、人生も大きく変わっていたでしょうね。捕まって30日間拘置された経験もありますがね。」

とツォゾォさんは学生時代を振り返ります。78年の12月には、ツォゾォさんのお父さんは拷問がもとで亡くなり、半年後の4月には、後を追うようにしてお母さんも亡くなったそうです。

独立闘争で大きな犠牲を払いながら戦ったツォゾォさんは、その働きも大きかったのでしょう。その分、新政権の下で重用されています。教育省の職員として青少年のスポーツ制度を視察するために、82年にユーゴスラビアとタンザニアと中国を、83年にはカナダをそれぞれ歴訪しています。84年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まりました。86年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、2年間で演劇と映画の学位を取ったそうです。帰国後、92年の8月に副学長補佐に昇進しました。私が大学に滞在している時でした。
「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55  2013年3月10日)

1956年にハラレから約100キロ離れた小さな村に生まれたゲイリーや家族は、南アフリカの移住者が南部アフリカに打ち立てた安価な短期契約制度の中に組み込まれて搾り取られた人たちです。田舎に住んでいたアフリカ人がたくさん白人の経営する農場や石綿や金などの鉱山に流れていました。「その頃、両親は大変だったと思います。」とゲイリーは述懐しています。

1962年にゲイリーは父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移り住みました。労働許可証と住むところが確保できたので、父親は市役所の警備係をしながら、ゲイリーをハラレの小学校に通わせようとしたのです。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのはゲイリーだけだったそうです。

「都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。」と当時を思い出しながらゲイリーが話してくれました。

小学校を出たあとは、父親を助けてしばらく家で家畜の世話をしたあと、74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働き、76年に別の煙草会社に採用されて6年間勤めたようです。独立戦争があったのはその期間です。戦争についてゲイリーは次のように話をしてくれました。

「78年、独立戦争中のことです。ムレワは『保護地区』になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て『誰がテロリストか?』と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。」

画像

(ゲイリー)

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(No.46  2012年6月10日)

独立戦争は、遠い過去の歴史ではありませんでした。

次回は「ジンバブエの歴史4:ハラレから戻ったあと・・・・」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年10月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」(No. 62  2013年10月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」

2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は2回目です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

前回の→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」でセシル・ローズの侵略軍である遠征隊がハラレに到着してイギリスの国旗を翻した記念の場所、今日のアフリカン・ユニティ・スクウェアで長女と撮った写真を紹介しましたが、1992年の夏の話です。ローズが侵略を初めてから百年も経っていませんでした。あれから20数年、教科書でならう歴史は遠い過去の出来事だと考えがちですが、僕自身もそんな歴史の中を生きて来たんだと実感出来ます。(正確な表現のようにも思えませんが)

僕は第二次大戦直後に生まれた団塊の世代の中にいるようですが、
父親は31歳上で、西暦で言えば1920年代に生まれています。
会ったことはありませんが、
その父親はたぶん1800年代の生まれだと思います。

僕も戦後の貧しい時代や高度経済成長と言われる時代もみてきました。アパルトヘイト反対のささやかな抵抗もしたと思っています。

前回辿った「百年史概要と白人の侵略」は、ハラレで会ったゲイリーやツォゾォさんや二人のお父さんやお爺さんが体験した話、だったわけです。

少し前の新聞(「朝日新聞」2013年8月17日と18日)に、この一世紀もの間、ダイヤモンド業界を独占して来た「デビアス」の原石取引所が11月にアフリカに移転されるという記事が出ていました。移転先はカラハリ砂漠へと続く低木林が広がる
乾いたボツワナの首都ハボローネ。ロシア極東サハ共和国の国営独占企業「アルサロ」に2009年に採掘量を抜かれて追い詰められた「デビアス」が巻き返しを狙って新戦略を打ち出したという事態のようです。

「デビアス」は情け容赦なく採掘権の買収や企業合併を繰り返して1888年にセシル・ローズが操業した会社、その財力を武器にケープ植民地の首相になり、英国のお墨付きをもらって植民地拡大政策を強行、前回辿ったのはそんな白人の侵略の歴史でした。ローズの欲望とイギリスの果てしなき侵略欲のために、ゲイリーたちはずーっと翻弄されて来ましたし、これから先も翻弄され続けるのだと思います。

今回はアフリカ人の抵抗と搾取と収奪の構造をみてゆきます。

チムレンガ(解放)闘争

1896年に入ってアフリカ人の募る不満は爆発しましたが、
二つの出来事が引き金となっていました。

一つはジェイムスン侵入事件です。マショナランドとマタベレランドで金を期待できなくなったローヅにとって、ラントの金は大きな魅力でした。95年の12月に、ローヅは友人のジェイムスンとその部下500名をトランスヴァールに侵入させました。英国人を保護するという名目でしたが、計画は失敗に終わり、ローヅは政界からの引退を余儀なくされました。

トランスヴァールに派遣されたのは、大部分が英国南アフリカ会社の警察でしたので、南ローデシア(現ジンバブエ)にはほとんど警察が残っていませんでした。それに96年1月にはボーア人の勝利の報せがもたらされました。アフリカ人は時期が到来したのを感じて、遂に立ち上がったのです。

もう一つは牛疫です。

牛疫は牛や羊などのウィルスによる、急性で通例は致命的な伝染病です。89年に北アフリカに発生した牛疫は、95年にはザンベジ川にまで達し、96年初頭にはマタベレランドの家畜を襲い始めていました。90%以上の牛が疫病に侵されていましたので、政府の役人は病気の牛を射殺して回っていました。健康な牛が撃たれる場合も多く、アフリカ人の我慢もこの辺りで限界に達していました。更に、旱魃による被害も事態に追い打ちをかけました。

92年3月20日に、ンデベレ人は蜂起し、10日間でマタベレランド周辺には一人の白人もいなくなったと言われています。生き残った白人はグウェルやブラワヨで防御の陣地を組んで背水の陣を敷きましたが、ンデベレ人は会社や入植者から家畜を奪い返しました。

6月にロベングラの子ニャマンダがンデベレ人の王に選ばれましたが、その人選がンデベレ人内の抗争の原因となりました。

白人には、その権力抗争が助けとなりました。英国軍の応援を受けてはいましたが、6月にはすでにマショナランドのショナ人が蜂起していましたので、事態は深刻の度合いを増していました。
マショナランドでは6月14日から20日の間に、100人以上もの入植者が殺害されていました。ソールズベリ(現ハラレ)やウムタリ(現ムタレ)などでは、マタベレランドにならって防御の陣を組んで、白人はアフリカ人に必死になって対抗しました。

ショナ人は、7月中には主要な道路を押さえて勝利を手中にしたかに見えましたが、事態は白人に有利に展開してしまいました。
ンデベレ人が追い詰められて和解を余儀なくされていたために
会社と英国軍がマショナランドに集中出来たことと、ショナ人が団結出来なかったことなどが白人に有利に働いたためです。

画像

(1896年の和解時のンデベレ人指導者たち。英国南アフリカ会社=BSACの人たちも含まれています。)

戦いは97年の間じゅう続いてアフリカ人側は多数の死者を出し、とうとう白人に屈してしまいました。

搾取と収奪

南ローデシア(現ジンバブエ)では、英国王室の特許状に従って
1890年から1923年まで英国南アフリカ会社の主導による統治が行なわれましたが、23年には入植者が主体となった英国の自治植民地政府を誕生させ、70年まで入植者の統治が続きました。

英国南アフリカ会社の下でも自治植民地政府の下でも、多数を占めるアフリカ人の政治参加は認められず、アフリカ人は小農や賃金労働者として搾取され続けました。

搾取の方法は、強制労働と課税と土地の収奪です。政府は様々な法律を作って、アフリカ人からの搾取と収奪に全力を傾けました。

1903年、政府はローデシア「原住民」労働局を創設して、安価なアフリカ人労働者の確保に乗り出しました。労働局は強制的に鉱山労働者を補給しました。その補給はショナ語でチバロと呼ばれて、強制労働、奴隷労働という意味です。

労働者の半数は、北ローデシア(現ザンビア)やニアサランド
(現マラウィ)やポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)出身のアフリカ人でした。残りの半分は土地を失なったか、税金の支払いが出来ない国内のアフリカ人です。12ヵ月間の契約労働で、鉱山資本家が利益を上げるために賃金を低く抑えましたので、賃金は極めて安く、アフリカ人の労働条件は劣悪でした。用意された粗末なブリキ小屋に寝泊り出来ればいい方で、自分で小屋を立てて住まいを確保しなければならない人もいました。配給される食事も内容が貧弱でしたので、不足分を自分で買い込んで補強しなければなりませんでした。12時間の交替制で労働時間も長く、医療もほとんど受けられませんでした。白人のアフリカ人に対する取り扱い態度もひどく、アフリカ人は鞭で脅されながら働かされていました。1900年から1905年までの間に、
そういった悪条件の下で3万4千人のアフリカ人が肺炎と壊血病のために死亡したと言われています。

こうした資本家の徹底した搾取によって計上された利益は、
英国や南アフリカの投資家の間で分配されました。

アフリカ人には現金で支払う税金も課せられました。1894年に始められた小屋税は、大抵の賃金労働者の1ヵ月分の給料に相当する10シリングにも及んでいます。10年後にはその額が、
倍の二十シリング(一ポンド)に引き上げられました。

政府は、アフリカ人が税金を支払うためには白人入植者のために
働かざるを得なくなると考えていました。事実、北ローデシアやニアサランド(現マラウィ)などではその政策は功を奏し、その地域の多数のアフリカ人が南ローデシアや南アフリカに流れて、
白人入植者のために安い賃金で働かされています。貨幣経済の中にいなかったアフリカ人には税金を支払うための方法が他になかったからです。

しかし南ローデシアの場合は、政府が考えていた程には賃金労働者を生み出せませんでした。多数のアフリカ人が、市場に出す作物や家畜を育てる小農になったためです。アフリカ人小農は自分たちの食糧は確保し、余った作物と家畜を売って税金の支払いに充てました。至る所に点在する鉱山や小さな町に住む人たちが
近在の農家から食べ物を買い入れましたので、小農は自分たちの商品を売りさばく市場が確保出来たのです。

1904年頃までには、食糧の国内市場の90%以上を
ショナ人とンデベレ人の小農が占めるまでになっていました。

しかし、この事態は入植者や資本家の望むところではありませんでした。英国南アフリカ会社は白人農家に土地を売却してアフリカ人小農に対抗しようとしましたが、充分な労働力が得られず、成果は見られませんでした。

そこで、会社はアフリカ人から土地を奪って現金収入の道を断ち、奪った土地を白人農家に売る政策を強行するに及んだのです。政府はアフリカ人だけを居住させるリザーヴを設定しました。リザーヴは雨の少ない痩せた土地で、多くは鉄道や収穫物を売る市場から遠く離れた場所に設けられました。リザーヴへの強制移住は徐々に行なわれ、1920年代には約65%のアフリカ人がリザーヴに住むようになっていました。

最良の土地を確保した白人農家は、政府に援助され、保護されながら着実に経済力をつけて行きました。

一方、肥沃な土地を奪われたンデベレ人とショナ人は経済力を失うばかりか、過密状態になってリザーヴから溢れ出し、政府の思惑どおりに次第に移住労働者に仕立てられていきました。

政府はさらに追い打ちをかけ、30年には土地配分法を成立させました。その法律によって、アフリカ人のリザーヴ外での土地の購入を禁じると同時に、アフリカ人居住地ロケイション以外の都市部の土地をすべて白人のものと定めました。保留した一部の地域や動物保護区を除いて、国土全体を黒人、白人専用の地域に二分してしまったのです。

30年代には、更に世界恐慌の皺寄せがアフリカ人に襲いかかります。政府は玉蜀黍(とうもろこし)規制法や家畜差し押さえ法などを制定して白人農家に優遇措置を与えました。

こうして最初は英国南アフリカ会社主導の政府が、その後は入植者主体の政府が、安価なアフリカ人労働者を抱える一大労働力供給源を作り上げていきました。アフリカ人は契約期間中に仕事を辞めれば、マスター・アンド・サーヴァント法によって厳しく罰せられ、職探しのためにリザーヴを離れる際には、パスと呼ばれる通行証の携帯を義務付けられていました。体制側はパスをアフリカ人の管理や統制の手段として悪用しました。

この間、アフリカ人は一方的に政府の言いなりになっていた訳ではありません。様々な形で抵抗をしながら、理不尽な抑圧と闘っています。

密かな抵抗運動

政府は白人入植者のために安価なアフリカ人労働者を確保する体制を築き上げましたが、同時に賃上げや労働条件の改善を求めて闘うアフリカ人労働者階級をも誕生させました。

小農の多くは土地を奪われて移住労働者に仕立てられましたが、
中には成功して資本を貯える小農もいました。自分たちの資本を店や土地に投資して財産を増やし、その人たちがやがては中産階級を形成するようになっていきます。

賃金労働者と小農と中産階級はそれぞれの形で政府の圧政に抵抗を試みていますが、第二次大戦までは、三者が団結して闘うことはありませんでした。

鉱山労働者はコンパウンドと呼ばれる制度の下で厳しく管理されました。逃亡率の高い移住労働者はフェンスに囲まれた、入り口が一つのコンパウンド(たこ部屋)に入れられました。比較的に逃亡の恐れの少ない熟練者や妻帯者には囲いの外側に住まいが設けられていました。労働者全員がコンパウンド警察に監視され、
命令に従わなかったり、働きが悪い場合には、鞭で打たれました。スパイも多くいましたし、手紙もすべて検閲されていました。

監視が厳しく、公然と抵抗したり組織だった抵抗は難しかったのですが、それでもアフリカ人は密かな抵抗を行なっています。わざと仕事を長引かせたり、監視の目を盗んで施設を破壊して会社に損害を与えたりしました。事故に見せ掛けて扱いの悪い白人監督を狙ったりもしていています。1907年にマゾウェ近くのジャムボ鉱山では、監督の自宅が何者かにダイナマイトで吹き飛ばされています。危険をおかして逃亡を企て、より高い賃金を払ってくれる鉱山に移る労働者も後を断ちませんでした。

事後の厳しい制裁が待ち受けていたにもかかわらず、1895年には初の鉱山ストライキが行なわれました。その後、ワンキー炭坑(1912年)やシャムバ鉱山(1927年)などでもストライキが行なわれています。

通例、指導者は逮捕されて閉じこめられる場合が多く、罰として3ヵ月から12ヵ月の苛酷な労働を強いられました。シャムバ鉱山の場合は、ニアサランド出身の労働者が国外追放となり、二度と南ローデシアで働くことを禁じられました。

農場労働者の場合は、鉱山労働者ほど監督は厳しくありませんでしたが、賃金は鉱山労働者よりも更に安く、生活条件もよくありませんでした。鉱山労働者と同じように、仕事を遅らせたり、
非協力的な態度を取ったりして、経営者の白人農家に消極的な抵抗をおこないました。町では、都市化に伴ってロケイションを中心に労働運動が芽生え始め、1927年にはブラワヨ・ロケイションに最初の労働組合である通商産業労働者同盟(ICU)が創設されました。ニアサランド出身の移住労働者クレメンツ・カダリィがケープタウンで創設したICUの支部として労働組合を発足させ、1932年頃にはソールズベリを中心に5000人の会員を擁するまでに成長させています。しかし、政府の締め付けも厳しく、世界恐慌のあおりも受けて、ICUは1930年の半ばには実質的に崩壊してしまいました。

小農は、移住労働者を作り出す政府の政策に激しい抵抗を示しました。税金をかけられると、可能な限り新しい土地に移り住んで税金逃れを試みました。白人入植者のために働くことを拒んだり、時にはフェンスを盗んだり、家畜を殺したり、作物に火を点けたりもしています。残念ながらまとまった形の抵抗ではなかったので大きな力とはならず、町から最も離れた地域の貧しい人たちが移住労働者になる結果となりました。

1920年代、30年代になって、中産階級層がストライキを行なっています。早くから宣教師の経営する学校で教育を受け、金持ちの小農や教師や商店主などになっていた人たちです。ただ、賃上げなどを強く要望した賃金労働者とは違って、その人たちの要求は、アフリカ人の公正な取り扱いを白人に求めるなどの穏やかなものでした。

画像

 (中学校の歴史の教科書A New history of SOUTHERN AFRICA

次回は「ジンバブエの歴史3:工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」です。向こうで出会ったゲイリーやツォゾォさんたちも巻き込まれた独立闘争も含まれます。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年9月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」(No.61  2013年9月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」

2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は初回分です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」で「ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。」と書きました。帰国後しばらくしてから何とかジンバブエ滞在記を一冊の本にまとめながら、ゲイリーたちの歴史を詳しく知りたくなりました。スウェーデンの市民グループがアフリカの歴史を見直して出版したThe Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983)とジンバブエの中学校の教科書A New history of Southern Africa (Harare: The College Press, 1982) などをもとに、およそ百年の歴史をまとめて本の附録につけました。今回はその附録に少し手を加え、3回にわけて連載しようと思います。

画像

(The Struggle for Africa)

百年史概要

長年のアフリカ人の生活を一変させたのはヨーロッパ人ですが、
ジンバブエの場合は私がハラレに滞在してゲイリーたちと出会う
僅か百年余り前のことです。

サハラ砂漠以南の他の地域と同様にジンバブエでも、同じ祖先から別れた一族が、何世代にも渡って農耕と牧畜を中心とした一つの大きな社会(クラン)を形成して暮らしていました。クランには指導的な立場の人間がいて、その社会全体の家畜や農作業の取りまとめを行なっていました。ジンバブエ大学で出会ったツォゾォさんはそんな家系に生まれたようです。→「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(「モンド通信」No.55:2013年3月10日)

アフリカ人の間での覇権争いは絶えずあったものの、前世紀の後半まではこの地域での白人の脅威は存在しませんでした。

ジンバブエはイギリスの植民地として征服されましたが、直接イギリス政府に支配された他の植民地とは異なり、南アフリカからの入植者が主体となってイギリス政府の承認の下に支配体制をうち立てました。当初、ジンバブエへの進出は、南アフリカの領土拡張政策の一部に過ぎなかったのです。

二十年代には、白人の入植者が国の統治権を掌握し、アフリカ人を痩せた土地に追い遣り、安価な労働力として鉱山や農場で働かせる搾取体制を確立していました。二十年代の初めに南アフリカとの連合の道が模索されましたが、入植者はその道を選ばずに、独自の自治政府を作りました。ローデシアです。

西洋の資本、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などに支えられて、第二世界次大戦を境に南ローデシア(現ジンバブエ)は飛躍的に一大工業国となりました。

五十年代には、イギリス政府と国内の鉱山資本家に支持された与党統一連邦党は改革を推し進め、アフリカ人の中産階級を育てて自らの陣営に取り込もうとしましたが、白人の大土地所有農家と
賃金労働者の推すローデシア戦線党に破れました。台頭するアフリカ人賃金労働者階級との競争が脅威となっていたからです。

一九五三年に南ローデシアはイギリス政府と協力して、ローデシア・ニアサランド連邦を作りました。南部アフリカでの市場と北ローデシア(現ザンビア)の銅が狙いでした。南ローデシアは連邦内で、充分に経済力と軍事的力をつけ、六三年には連邦を解体させています。イアン・スミスが首相に就任し、イギリス政府の意向を無視して、六十五年には一方的独立宣言(UDI)を出しました。スミス政権を支えたのは、アフリカ人労働者階級との競争を恐れる白人の大土地所有農家と賃金労働者でした。

イギリスと国連の後押しで経済制裁が試みられましたが、南アフリカやモザンビーク(宗主国ポルトガル)などがスミス政権を支援して効果はあがりませんでした。アフリカ人は、白人が侵入してきた当初から抵抗運動を行なっていましたが、六十年代に入って解放闘争は本格的になりました。六十六年にはソ連や中国に支援を受けて、アフリカ人側は武力闘争を開始しています。

スミス白人政権とアフリカ人の闘争は混迷の度合いを深めましたが、東側の介入を恐れるアメリカ合衆国、南ローデシアに経済的に依存する近隣五ヶ国、投資での損失を懸念するイギリスなどの
西洋諸国が調停に乗り出して、妥協案を取りまとめました。そして、八十年にジンバブウェが誕生しました。ロバート・ムガベを首班とする初めてのアフリカ人内閣です。アフリカ人政権が誕生したとは言え、欧米諸国や日本の資本に経済的、技術的に依存する体制が基本的には変わりませんでしたので、色々な問題を抱えたまま現在に至っています。

白人の侵略

大半が現在のジンバブエに所属するリンポポ川とザンベジ川に挟まれた地域では、ショナ人が何百年にも渡って金を掘っていましたので、その噂はヨーロッパ人の探検家や狩猟家によって、ケープ州や遠くはヨーロッパにまで早くから伝えられていました。

当時、その地域はンデベレ人が住む南部のマタベレランドと、ショナ人が住むマショナランドに別れていて、ンデベレ人の方が力を持っていました。(現在のジンバブエは、北部の東・西・中央マショナランド、東部のマニカランド、南東部のマシィンゴ、中央部のミッドランヅ、南西部の北・南マタベレランドの八つの行政区に分けられています。首都のハラレはマショナランド東、第二の大都市ブラワヨとヴィクトリア・フォールズはマタベレランド北に、グレート・ジンバブウェはマシィンゴ、中央部の都市グウェルはミッドランヅの各行政区内にあります。)

八十年代後半にンデベレ人とグワト人の住んでいた間の地域
タティ(現在のボツワナの北部で、ジンバブウェとの国境付近)で金の採掘が行なわれましたが、思っていたほどの成果が得られずに試みは失敗に終わっています。

この地方の金が再び注目され始めたのは、現在の南アフリカ最大の都市ヨハネスブルグのある地域ヴィトヴァータースラント(通称ラント)で金が発見されてからです。セシル・ローヅの求めた第二のラントの夢が、ジンバブウェの運命を大きく変えました。

ローヅは十七歳の時に兄を頼ってナタールにやってきました。病気療養のためです。たまたまダイヤモンドラッシュに乗り、取引で持ち前の駆け引きの良さと冷徹さを発揮して成功し、巨万の富を築きました。チャールズ・ラッドとともに「ド・ベールス鉱業会社」を設立し、ゴールドラッシュにも進出しました。八十一年には、ケープ植民地議員に、九十年には植民地首相になっています。

南アフリカに最初に入植したオランダ人(最初はボーア人と呼ばれましたが、今はアフリカーナーと呼ばれていて、アフリカーンス語を話します)と後からやって来たイギリス人の間では、領土をめぐって諍いが絶えませんでした。

しかし、一八五四年頃までには、イギリスが海岸部のケープ、ナタールの二州の領有を主張し、内陸部のオレンジ自由国、トランスヴァールの両共和国をボーア人の自治領として承認するという形で事態が落ち着きを見せていました。

金が発見されたのはボーア人が領有するトランスヴァール内でしたが、トランスヴァールには金を採掘するだけの資金力がありませんでしたので、外国人に課税するなどの政策を強行してボーア人は金の占有に努めました。

当時内陸部から金をヨーロッパに運ぶには、鉄道を使ってナール州のダーバン港かケープ州のケープタウン港かを利用するしか方法がありませんでしたので、モザンビークとアンゴラを結ぶ大陸横断の夢を持っていたドイツとボーア人は手を結び、モザンビークのマプト港に通じる鉄道を敷きました。イギリス人に対抗するためには強力な同盟国が必要だったからです。金をめぐってボーア人とイギリス人との緊張関係が高まり、ついには第二次アングロ・ボーア戦争(一八九九~一九◯二)を引き起こします。結果はイギリス人の勝利に終わりましたが、戦いは壮絶を極め、双方に深い遺恨を残しています。

しかし、ボーア人とイギリス人は一九一◯年に南アフリカ連邦を誕生させます。多数のアフリカ人の脅威の中で少数派が考えだした白人連合です。両者がアフリカ人を搾取するという一致点を見いだして造り上げた妥協の産物でした。

ラントでの金の発見によってリンポポ川以北の金鉱脈が注目を浴びるようになりました。理由は二つあります。一つはラントの金によってトランスヴァールが豊かになって、南部アフリカ地域でのイギリスの優位が脅かされ始めたためです。もう一つは、ローヅをはじめとするケープの政財界人がラントでの立ち後れを挽回するに足る金鉱脈を渇望していたからです。

八十八年初めに、ローヅは宣教師のジョン・モファットを送り、
ロベングラ王と「モファット協定」を結ばせ、イギリス以外のヨーロッパ諸国とは契約に応じないことを確約させました。トランスヴァールからの侵略に対して常に危機感を抱いていたロベングラ王は、ボーア人に攻め込まれた際のイギリス人の援護を期待して、その条約に応じました。

ローヅは一方で、十月にチャールズ・ラッドを派遣してロベングラ王と「ラッド協定」を結び、マタベレランドの鉱山採掘権を確保しました。協定の書類は、通訳を介して行なわれた話し合いの内容とは食い違っていましたが、結果的には内容の違いにそれほどの意味合いはありませんでした。すでにイギリス政府はローヅを支援する方針を決めていたからです。

八十九年、ローヅは何人かの友人とイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立しました。イギリス政府は、西アフリカや東アフリカでの領土拡大政策で経済的な負担が増加していましたので、
安上がりな領土拡張を期待してローヅを支援し、イギリス南アフリカ会社にロイヤル・チャーター(英国王室の特許状)を与えました。ロイヤル・チャーターによって、イギリス政府から財政的な援助は期待できないものの、実質的にアフリカ人や入植者を統治する権利を与えられました。

ローヅはただちに遠征隊を組んで北部進出への準備をすすめました。遠征隊は、新しい街づくりが出来るように、色々な職業の若い人たちを主体にして選ばれました。のちに会社専属の警察の中核になる軍隊式の騎馬隊も組織されています。その人たちには、マショナランドでの十五の金鉱区割り当て地と千二百ヘクタールの土地が約束されていました。

ローズの侵略軍である遠征隊は、六月にベチュアナランド(現ボツワナ)の北部からマショナランドに向けて出発しました。
二百人の白人入植者に、騎兵隊五百人とグワト人三百五十人を従えていました(グワト人は隣接する強力なンデベレ人を恐れていましたので、ローヅに協力を申し出ていました)。食料を積んだ荷車は百十七台、牛は二千頭におよび、機関銃や大砲に加えて、
夜間攻撃に備えてのサーチライトまで備えていました。

遠征隊は九月十三日に、現在のハラレの地に到着し、イギリスの国旗を翻しました。入植者はその土地をソールズベリと名付けました。さっそく、今日のアフリカン・ユニティ・スクウェアで、
観光客が好んで写真撮る名所になっているそうです。

画像

(長女と)

そのアフリカン・ユニティ・スクウェアの近くに城砦を築き、第二のラントを夢見て、金探しを開始しました。しかし、その地は第二のラントにはなりませんでした。いくらかの金鉱脈は見つかったものの、埋蔵量や質においてラントには遥かに及ばなかったからです。その結果、マショナランドへの海外からの投資は大幅に減り、九十一年の末には、会社は倒産寸前にまで追い詰められました。南アフリカのダイヤモンド会社ドゥ・ビアズからの借財と諸経費の削減によって何とか持ちこたえたものの、九十二年から三年に渡っての不況で更に会社は窮地に追い込まれました。

窮地を打開するために、株価の上昇を期待して、ローヅは腹心のジェイムスンとマタベレランドへの進出を決め、ただちに戦争の準備に入りました。二千四百ヘクタールの土地と十五の金鉱区割り当て地、それにンデベレ人から奪う牛の分け前を約束して、会社は入植者と傭兵を集めました。イギリス政府はこの攻撃に支援を約束しています。

まもなくジェイムスン一行は北部からマタベレランドに侵入し、
イギリス軍は南部からブラワヨに向けて侵入を開始しました。十一月三日に一行はブラワヨに攻めこみます。ンデベレ人は激しく対抗しましたが、機関銃や大砲の力にはかなわず、ブラワヨを灰にして逃げのびました。翌年、ロベングラ王は敗走中に死亡しています。

陥落直後にブラワヨに到着したローヅは、ロベングラ王の住んでいた場所に家を建てさせて、その地方の拠点としました。
さっそく金探しが行なわれ、二百以上もの会社が設立されました。イギリスからの投資も順調な伸びを示していましたが、ローズは九十四年に、専門家からマタベレランドにも豊かな金鉱脈がないという報告を受けました。事実が明るみに出れば、海外からの投資が途絶えるのは目に見えていましたので、会社は金に変わる搾取の手段として、マタベレランドとマショナランドに住むンデベレ人とショナ人に目を向け始めます。その犠牲となってンデベレ人とショナ人は富を奪われ、やがては白人社会の安価な労働力に仕立て上げられていきます。

九十年から九十三年にかけて、会社や入植者は金探しと株価を吊り上げるための幽霊会社を作るのに忙しく、実際には鉱山の操業や農場の経営はほとんど行なわれませんでしたので、アフリカ人労働者の需要も限られたものでした。

ただ、ローヅや会社は海外の投資家に入植地の安全性を示す必要がありましたので、ショナの指導者たちをひとりひとり襲撃しています。アフリカ人側はそれぞれの指導者が独立した形で統治を行なっていましたので、会社にとっては攻めやすい相手でした。
しかし、そのペースは緩やかで、ロベングラ王が敗けたマタベレランドでさえも、現実に土地が奪われることはありませんでした。土地の譲渡は書類上だけのもので、今まで住んでいた土地でアフリカ人は以前と同じ生活を続けていました。

しかし、ローヅと会社がマショナランドにもマタベレランドにも
ラントに匹敵するだけの金が望めないという報告を受けてから、
状況は一変します。ンデベレ人とショナ人は家畜を奪われ、税や強制労働に屈していきました。

九十四年と九十五年の間に、少なくとも十万頭、多ければ二十万頭もの牛が会社や入植者によってンデベレ人から奪われたと推計されています。入植者が隊を組み、機関銃を備えた会社の私設警察をしたがえ、全土で牛の強奪作戦を展開したのです。牛の隠し場所を言わないアフリカ人は容赦なく殺されました。

九十四年に入るとすぐに、大規模な形での税の徴収が始まりました。税は家畜か作物の物納という形態が取られました。マショナランドでは牛と山羊が税として集められましたが、九十五年の終わりにはいったん徴税を中止しなければならなくなります。税の比率が大きすぎてそのまま徴税を続ければ、一、二年で集める家畜がいなくなる危険性が出てきたためです。

強制労働も行なわれました。もともとショナ人もンデベレ人も土地は共同所有でしたので、土地を持たない賃金労働者は存在しませんでした。従って、家畜や作物を売ったり、賃金が良ければ何かを買うために働いたりはしましたが、低賃金で危険な鉱山の仕事を好んでするアフリカ人はいませんでした。

会社は、嫌がるアフリカ人を無理やりに働かせました。アフリカ人は武装した警察や警備係の監視の下で働かされました。逃亡したり、仕事で失敗した場合は、厳しく罰せられています。九十五年の末には、ンデベレ人とショナ人の不満は頂点に達していました。やがて両者は白人に抵抗するために立ち上がります。

次回は「ジンバブエの歴史2:解放闘争、搾取と収奪、密かな抵抗運動」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年8月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」(No. 60  2013年8月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」

2010年~の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載はNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

<1>→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」「モンド通信」No. 60」、2013年8月10日)

<2>→「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」「モンド通信」No. 61」、2013年9月10日)

<3>→「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」「モンド通信」No. 62」、2013年10月10日)