2010年~の執筆物

門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」にNo. 63 (2013年11月)からNo. 71 (2014年7月)まで連載したAfrica and Its Descendants (Mondo Books, 1995)の解説(英文・日本語訳も)です。↓

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史後半」

<3>→「南アフリカ小史前半」

<4>→「南アフリカ後半」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<6>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<7>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<8>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<9>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

アフリカ人とアフリカ系米国人の歴史を虐げられた側から捉え直した英文書で、英語の授業でも使いました。アフリカとアフロ・アメリカの歴史を繋いで日本人が英語で書いたのは初めてだと思います。

一章では、西洋人が豊かなアフリカ人社会を破壊してきた過程を、奴隷貿易による資本の蓄積→欧州の産業革命→植民地争奪戦→世界大戦→新植民地化と辿りました。

二章では南アフリカの植民地化の過程と現状を詳説しました。全体の半分を占めています。

三章では奴隷貿易→南北戦争→公民権運動を軸に、アフリカ系アメリカ人の歴史を概観しました。

『アフリカとその末裔たち』

 

2010年~の執筆物

概要

前回は『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の④で、第二次世界大戦後、法的に解放されながら基本的には余り変わらなかったアフリカ系アメリカ人が立ち上がって闘った公民権運動ついて書きました。今回は公民権運動のその後についてです。

本文

公民権運動、その後

公民権法が成立して半世紀が立ちました。私は戦後まもなくの1949年に生まれましたから、その頃アメリカでは、変革の嵐が吹き荒れようとしていたわけです。1954年の最高裁判決から1963年のワシントン大行進、翌年の公民権法成立まで怒濤のような日々が続きました。

ワシントン大行進で手を振るマーチン・ルーサー・キング牧師

同じ頃、無条件降伏を受け入れた日本では、占領政策により、日常に「アメリカ」がどっと押し寄せて来ていました。学校ではアメリカの言葉が偏重され、小学校の頃にはテレビが普及し始めてハリウッド映画が流れ、食事も洋食が増えていきました。一度は独立を果たした大抵のアフリカ諸国が軍事独裁政権の名の下に暗黒の時代に突入して行くのを尻目に、日本はオリンピックを機に高度経済成長期にどっと流れ込んで行きました。田舎の隅々まで道路が整備され、新幹線も開通して速度を増して行きました。

公民権運動が終わった1970年代の初めに大学に入って、始めてリチャード・ライトの作品を英語の授業で目にしました。70年安保、安田講堂の攻防があった翌年です。学生運動は国家に完璧に押さえ込まれたのに、地方の大学ではまだ残り火がくすぶっていました。火炎瓶を脇に置き、ヘルメットを被った学生がマイクを手にがなり立てていました。

神戸市外大旧学舎のバリケード封鎖、1971年(大学ホームページより)

そのころ神戸三宮の場末の映画館で再上映されていた、シドニー・ポワチエの「招かれざる客」(“Guess Who’s Coming to Dinner”) や「いつも心に太陽を」(“To Sir, with Love,” 1967)を観ています。ことを起こした張本人の責任は棚に上げて、白人アメリカは公民権運動を支持しているぞと、ハリウッドから全世界に発信して大儲けするところは如何にもアメリカらしいと思いますが。

「招かれざる客」「いつも心に太陽を」の主人公シドニー・ポワチエ

もちろん持てるものがそう簡単に既得権益を手放すわけがありません。公民権法が成立したとはいえ、経済格差や長年かかって根付いた人種的な偏見がそう簡単に是正されることはあり得ません。公民権運動を検証するドキュメンタリーがたくさん放映されてきましたが、「キング牧師の遺産~いま アメリカ黒人社会は~」(英テムズTV、1988年)もその一つです。アラバマ州の白人街ラウンデスボロに黒人が移り住む場合にどうなるか、市長のT・リンガムが「ここでは前例のない話ですし、他の地区でもそんな話は聞いたためしがありません。だから、どうなることやら引っ越して来たとしても翌朝までその家が無事かどうか。引っ越して来るのは自由ですが、保証はし兼ねます。」とインタビューに応じています。

マーチン・ルーサー・キング牧師

またアラバマ州フォーサイスで行なわれた黒人デモ(1987年)では「帰れ、ニガー」などの罵声とともに白人の激しい憎悪が向けられていました。ジョージア州ストーンマウンテンで行なわれた反黒人団体キュークラックスクランの集会では「警察が腑抜けなら我々が制裁を!ジョージアのクランは法を超越する。聞け、ニガーども!我々を甘く見るな。もっと大声でホワイとパワー!」と白人青年が絶叫していました。

1954年の判決後人種共学の「草分け」としてサウスカロライナ州のグリーンズボロ高校を卒業したジョセフィンブラッドレーさんは白人生徒たちに卵やトマトを投げつけられ、卒業式にはやじと怒号を浴びせられ、父親の食堂も焼かれたそうで、半世紀後に「いったい何の役にたったのか」とやりきれない思いを語っています。(「人種共学阻む経済力」読売新聞、2005年12月)

公立学校の人種共学に続いて、人種的少数派への優遇措置「アファーマティブ・アクション」(積極的差別撤廃措置)も広がりましたが、90年代に入り経済力のある白人が私立学校に子供を入れるようになり、人種隔離は60年代と同程度にまで再び拡大しています。1978年には「逆差別」だと主張した白人学生の入学を認める判決が下され、1966年にはカリフォルニア州で措置を廃止する住民投票も成立しています。もっとも、その時期に南カリフォルニアに在外研究に行っていた同僚の話では、実際に優遇措置をなくして入試をしたところ黒人の入学者がいなくなり、これはやばい、暴動の恐れがあるぞと、その次の年に元の入試に戻したということでした。ロサンゼルスの暴動で韓国系アメリカ人が襲われた恐怖が大きかったということでしょう。

最近ミズリー州ファーガソンで起こった黒人(アフリカ系)射殺事件も、多数派の黒人社会と、白人中心の警察との日頃からの隔絶が表面化したもので、背景には貧困や人種の壁が厳然とあり、全米に共通した問題でもあります。

2002年の74回アカデミー賞授賞式で、「49年間追い続けたシドニーと同じ夜に授賞できました。今まであなたの後を追い続けて来ました、あなたの足跡を追い続けてきました。これ以上の感謝の言葉もありません。」とトロフィーを高々と掲げながら名誉賞を受けたシドニー・ポワチエに語りかけたデンデル・ワシントンの祝辞は、苦難を強いられてきたアフリカ系アメリカ人の思いを代弁していたのかも知れません。悪の限りを尽くすサンフランシスコ市警を演じた「トレイニング デイ」( “Training Day,” 2001)での二度目の主演男優賞です。(宮崎大学医学部教員)

デンデル・ワシントン

アフリカ系アメリカ小史④では、「闘いは続く」("STUGGLE CONTINUES")について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

     2014年7月10日

収録・公開

 →「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」(No. 71  2014年7月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

 「アフリカ系アメリカ小史⑤」

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の③で、北軍が占領政策を行なった再建期と復活した南部の寡頭勢力による反動について書きました。

今回は第二次世界大戦後、ヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていた第3世界の人たちが1950年代、60年代に独立を求めて闘いました。アメリカ国内では、法的に解放されながら基本的には余り変わらなかったアフリカ系アメリカ人が立ち上がって闘いました。今回はその公民権運動についてです。

『アフリカとその末裔たち』

本文

公民権運動

南北戦争に負けても、奴隷貿易や奴隷制で資本を蓄め込んだ南部の大農園主たちは滅びませんでした。金持ちは死なず、です。反動勢力は強力で、占領軍が出した「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障する修正第14条をめぐる裁判で、連邦最高裁は州政府による「分離平等政策」(分離すれど平等)を退けることが出来ませんでした。

連邦最高裁で「公立学校での人種隔離は違憲である」という判決が下ったのは、1954年です。もちろん判決を勝ち取ったのは長年挫けずに法廷で闘い続けた人たちがいたからですが、実際にはもっと大きな力が働いていました。時の流れです。

「アメリカの20世紀 第6回 黒人の体験~”平等”への戦い~」(1983年米国デビッド・グラビン・プロダクション制作1984年NHK教育、原題:A Walk through the 20th C with Bill Moyers)でこの判決を次のように紹介しています。

1954年という年は国際的なビッグニュースがいくつもありました。インドシナではフランス軍が破れました。イランでは一時亡命していたファーレリ国王がアメリカの梃子入れで返り咲きました。赤狩りで一躍有名になったマッカーシー上院議員がアメリカ陸軍まで非難して自らの墓穴を掘ったのもこの年でした。またこの年、マリアン・アンダーソンが黒人歌手として初めてメトロポリタンハウスの舞台に立ちました。マーチン・ルーサー・キング牧師はアラバマ州モントゴメリーのバプテスト教会に赴任しています。連邦最高裁判所が公立学校での人種差別は憲法違反であるという画期的な判決を下したのもこの年でした。

マーチン・ルーサー・キング牧師

アメリカの独立宣言は人間の自由平等の権利を謳っていますが、それは現実には白人だけが享受してきた権利でした。事実この国の憲法は黒人に対してはこの権利を長い間拒んで来ました。黒人は奴隷でその身分は国が独立しても同じでした。1776年の独立宣言から奴隷制度の廃止まで90年もかかっています。その後も人種差別は根強く残り、1896年に連邦最高裁判所は「分離すれど平等」という苦肉の策を打ち出したものです。公立学校での平等という判決が出たのは1954年です。

アフリカと南アフリカの歴史でも書きましたが、変革の嵐(The wind of change)という時の流れを生んだのは第二次世界大戦で、白人同士が殺し合って総体的に力が落としたために、それまで長い間虐げられ続けて来た人たちが立ち上がり始めました。アメリカにもその変革の嵐が吹き寄せたたわけです。

 

1954年の判決を受けてアーカンソー州リトルロックのセントラル高校では判決に州が抵抗して混乱を極めました。1963年にはアラバマ州立大学のフォーバス知事は学生の入学を阻止するために建物の入り口に立ちふさがりました。

多くの公民権運動指導者に導かれて、バスボイコット運動やレストランでの座り込み運動など、様々な非暴力の運動が展開されました。1963年にはワシントンに25万人(推定)もの人たちが集まり、キング牧師は「私には夢がある」という有名な演説をしました。最初に約束手形を現金化するためにやって来ましたと言いましたが、奴隷解放宣言が空手形で、奴隷解放宣言後も平等を謳う合衆国憲法と現実とがかけ離れていたからです。

ワシントン大行進で壇上から手を振るキング牧師

1964年には公民権法が成立しました。

公民権運動で一番注目されるのはマルコムとキングで、多くの人を引きつけました。

回教団のスポークスマンとして白人社会に過激な発言を繰り返して挑みかかっていたマルコムも、回教団を去り、暗殺される直前には、白人への戦いをアメリカ国内だけの人種闘争で終わらせずに、世界中に見られる格差を是正するための人種闘争の一環にすべきであるという境地に到達しています。

画像

(マルコム・リトゥル:小島けい画)

人種闘争を国内の問題として捉えていたキングも、マルコムの死後、公民権運動の行き詰まりを感じるなかで、活動の目的を黒人の解放だけではなく、すべての虐げられた人の救済に置くべきだと考え始めていました。二人とも若くして暗殺され、志を遂げることは出来ませんでしたが、二人の思想は今もいろんな人たちに影響を及ぼしています。

リトルロックの高校事件を扱った「アーカンソー物語」(1980、原題:Crisis at Central High、 http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=3)、「いつも心に太陽を」のシドニー・ポワチエ主演で、黒人エリート医師と大富豪の娘との結婚をめぐる「招かれざる客」(1967)、原題:GUESS WHO’S COMING TO DINNERhttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8577/index.html)、スパイク・リー監督、デンゼル・ワシントン主演、アレックス・ヘイリー『マルコムX自伝』を元にした「マルコムX」(1992)、原題:MALCOLM Xhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=22534)はお薦めです。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史④では、「ブラック・パワー」(BLACK POWER)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

執筆年

  2014年6月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史④」(No. 70  2014年6月10日)

ダウンロード・閲覧

  「アフリカ系アメリカ小史④」

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」(A Short History of Black Americans)の②で、南部の奴隷主と北部の産業資本家が奴隷の労働力を巡って起こした南北戦争の結果、法制上生み出された奴隷解放にについて書きました。

今回は北軍が占領政策を行なった再建期、と復活した南部の寡頭勢力による反動についてです。

本文

再建期、反動

詩人のラングストン・ヒューズが「黒人史の栄光」の中でこの時期について簡潔にまとめています。

(ラングストン・ヒューズ)

「南北戦争が終わり、リンカーンが死にました。奴隷解放と、歴史家が再建期と呼ぶ時代が始まっていました。暫くの間、自由はすばらしかった。南部の議会に黒人の議員が選ばれ、市や州にも黒人が勤め始めました。それから反動が始まりました。多くの州の自由な黒人から選挙権が奪われました。キュー・クラックス・クラン(KKK)が馬に乗って出没しました。鉄道に黒人席白人席に分けられた列車(ジムクロウ列車)が出来ました。黒人の協会や学校が焼かれました。ユダヤ系の白人が南部から追い出されました。何も解放されないまま、奴隷だった人たちは貧しく、いつもお腹を空かしていました・・・・」

エイブラハム・リンカーン

台頭する北部の産業資本家の期待を一身に受けて大統領になったリンカーンは希望に添うべく南部の寡頭勢力を押さえ込んで占領政策を推し進めました。その結果、元奴隷の人たちには「暫くの間、自由はすばらしく」、「南部の議会に黒人の議員が選ばれ、市や州にも黒人が勤め始め」る光景を目の当たりにしたわけです。連邦政府が憲法修正条項を追加して、合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えて「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障したり(修正第14条)、アフリカ系アメリカ人(男性のみ)に投票権を与えたりした(修正第15条)からです。しかし、それもつかの間、占領政策は大きな成果を出せずに1877年に突如終了され、戦争でたたかれた南部の大農園主たちは巻き返しを始めました。金持ちは死なず、戦争くらいで奴隷貿易でしこたまため込んだ財産を手放さなかったというわけです。金持ちは狡猾で利益のためには手段を選びません。この人たちは人種差別を巧みに利用して搾取体制を復活させました。

ここで忘れてはいけないのは搾り取る側はいつもごく少数で、絞り取られる側は圧倒的に多数だということです。実は南部には運び込まれたアフリカ人以外にも搾り取られ続けて貧しい人たちがたくさんいたのです。いわゆる貧乏な白人、プアホワイトです。
本来元奴隷(sharecroppers、小作人)とプアホワイトが力を合わせて寡頭勢力に賃金の引き上げを求めるべきですが、農園主たちは元奴隷とプアホワイトの間にカラーラインを引きました。プアホワイトを少し優遇して元奴隷の賃金を据え置いたのです。人種差別は表向きの政策で、実態は人種を利用して賃金に格差をつけた、つまり最大限に利益を生む搾取構造を確保しようとしたわけです。

奴隷制度の下で奴隷を管理し、逃亡奴隷を捕まえ、調教していたのは安く雇われたプアホワイトと少し優遇された奴隷でしたが、その人たちは南北戦争後も警ら係として雇われ、法律上解放されて北に流れようとする元奴隷の移動を阻止する役目を担いました。プアホワイトは寡頭勢力と組んで白人優位を標榜する極右翼の組織キュー・クラックス・クラン(KKK)を作って、カラーラインを超えた黒人を白人種優位を隠れ蓑にリンチ(私刑)して黒人を与締め付けました。奴隷解放宣言が出ても、土地も金も食べ物もなく、北に行こうにも警ら係の恐怖に怯えて移動も出来ず。結局「何も解放されないまま、奴隷だった人たちは貧しく、いつもお腹を空かしていました」。

リンチの一場面(リチャード・ライト『1200万の黒人の声』より)

反動の最たるものは1986年の最高裁での「分離すれど平等」判決です。ジムクロウ列車で差別を受けた差別が「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障した修正第14条に違反すると起こした裁判で、最高裁は州政府による「分離平等政策」(分離すれど平等)は、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」に反しない、という判決を出しました。この法律が覆るのは1954年で、それまでこの「分離すれど平等」主義がアメリカの標準的な主義として残りました。

前回も紹介したアレックス・ヘイリーの「ルーツ」や、アーネスト・ゲインズの「ミス・ジェーンピットマン/ある黒人の生涯 」(1974年、110歳の黒人女性ジェーン・ピットマンへのインタビューを通して、南北戦争から連綿と続く黒人差別の実情を回想形式で描く自伝的スケッチ)(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=953)、裁判を取り上げたハーパー・リーの『アラバマ物語』(1962、人種偏見の根強いアラバマ州の町で無実の暴行事件で訴えられた実直な黒人トムの弁護をした弁護士フィンチと二人の子供たちの話、暮らしの手帖社から翻訳も出版されています。)などには、この時期の白人の巻き返しの場面が克明に描かれています。三冊とも映画になっています。(宮崎大学医学部教員)

画像

『アラバマ物語』語表紙)

アフリカ系アメリカ小史②では、「反動」(REACTION)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年5月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史③」(No. 69  2014年5月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ系アメリカ小史③」