2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」(A Short History of Black Americans)の①で、①北米に渡ったイギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と②奴隷制について書きました。

今回は、奴隷解放について書こうと思います。奴隷制を元にのし上がった南部の奴隷主と、北部に新たに台頭し始めた産業資本家が奴隷の労働力を巡って起こした市民戦争―北部と南部に分かれて戦った南北戦争の結果、法制上生み出された奴隷解放についてです。

本文

① 奴隷解放

奴隷貿易のよって蓄積された資本を元に起こった産業革命によって、人類社会には大きな変化が起こりました。それまでの農業中心の社会から、産業を主体とした社会に姿を変え始め、資本主義社会に向けての進度が急速に速まりました。人類は経済格差がますます激しくなる、今の大量消費の産業社会に向けてまっしぐらに進み始めたわけです。

それまで手で作られていたものが機械で作られるようになったわけですから、人類は使い切れないほど大量の工業製品を生み出すようになりました。資本主義は拡大せずには済まない制度ですから、必然的に溢れる製品を売りさばくための市場と、さらに生産するための安価な原材料と、工場で働く安価な労働力が必要になりました。

奴隷と奴隷制で潤ってきた南部の奴隷主(大荘園主)は、民主党を作って南部の北の端にある首都ワシントンに代々自分たちの意見を反映してくれる代弁者として大統領を送り込んで富を独占してきましたが、産業革命以降急速に力をつけてきた北部の産業資本家は新たに共和党を作り、自分たちの意見を代弁してくれる政治家を議会に送り込もうとしました。

奴隷を保持して既得権益の死守をはかろうとする南部の寡頭勢力(アングロサクソンを中心としたいわゆるコンサーバティブと呼ばれる保守勢力)と、奴隷制を廃止して奴隷を自由市場に流して安価な労働者として使いたいと渇望する北部の産業資本家の利益が真っ向から対立したわけです。国を二分して争う、いわゆる市民戦争、それが1861年に始まった南北戦争の実態です。

大統領選挙では大方の予想を裏切って、1860年にエイブラハム・リンカーンが大統領になりました。それはつまり、北部の資本家が自分たちの代表を一国の大統領としてワシントン特別区へ送り込むことに成功したということです。その結果、選挙前からの予定通り、南部は直ちに合衆国を脱退して南部諸州連合を創りました。南北戦争が始まったのは、そのすぐあと1861年です。

画像

(エイブラハム・リンカーン)

大統領となったリンカーンに課された命題はただ一つ、南北の合一でした。リンカーンは「1861年1月1日までに戦争が終わらなければ奴隷制を廃止する」という趣旨の予備宣言を出して北部黒人の参戦を促し、その助けを借りて、何とか北部(共和国軍)を勝利に導きました。戦争は1865年まで続いたために、結果的には法制上奴隷制が廃止されました。

しかし、突然奴隷でないと言われても、元奴隷は北部に移動しようとすると元奴隷主に雇われた貧乏白人の警ら係に捕まって相変わらず厳しく罰せられるし、土地もなく仕事もなく金もなく、結果的には現物支給の奴隷同然の小作人(sharecroppers)になるしかありませんでした。実質的な奴隷解放は百年後の公民権運動まで持ち越されました。

小作人(sharecroppers)

1859年にジョン・ブラウンが黒人、白人を含む22名とともに、ヴァージニア州の政府の兵器庫を襲いました。結局は捕らえられてジョン・ブラウンは絞首刑になりましたが、その蜂起は奴隷制の根幹から揺るがしました。

首謀者が白人だったこと、周到に準備されて武装蜂起を企てたこと、総勢23名で政府軍を導入しても鎮圧に二日もかかったこと、隣国ハイチでは奴隷の反乱軍が政権を樹立していたことなどが原因でした。

その蜂起は奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を与えました。ジョン・ブラウンは絞首刑にされましたが、南北戦争が始まるのも時間の問題でした。ジョン・ブラウンの歌は北軍の軍歌として黒人部隊で歌われたと言われています。日本では「ごんべさんの赤ちゃんがカゼ引いた そこであわててシップした♪」のメロディーで親しまれています。(「共和国の戦いの賛歌」が原曲のようです。)

ジョン・ブラウン

前回と今回で紹介した内容は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリー(1921~1992)のテレビドラマ「ルーツ」に詳しく描かれています。

おばあさんの話を元に図書館などで調べて7世代さかのぼり、西アフリカガンビアを訪れてグリオ(歴史の語り部)の口から直接自分の祖先のクンタ・キンテが奴隷狩りにあってアメリカに連れて来られたことを聞き出し、その子孫の苦難の歴史を綴って本にした「ルーツ」を元に1977年に放映されたテレビドラマです。日本でも翌年に放送されました。30周年記念にDVDも出ています。

画像

(30周年記念のDVDの表紙)

次回は「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」です。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史②では、「奴隷解放」(EMANCIPATION)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3, p. 78)のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年4月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史②」(No. 68  2014年4月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ系アメリカ小史②」

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の後半で、①アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、②白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書きました。

今回は、①北米に渡ったイギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と、②奴隷制について書こうと思います。

本文

① 奴隷貿易

1章でイギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国がこの五百年余りの間に繰り広げてきた侵略行為、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配の歴史を、2章でごく最近まで極端な形の植民地支配が続いていた南アフリカの歴史を辿りましたが、今回はイギリス人が入植したアメリカの歴史を辿ります。

民衆に愛された詩人ラングストン・ヒューズが「黒人史の栄光」(1958年)の冒頭で書いているように、アフリカ系アメリカ人は当初、探検家や水先案内人として新大陸に行きました。決して、奴隷として行ったわけではありませんでした。

大学用テキスト「黒人史の栄光」(南雲堂)

アメリカで最初に奴隷が運ばれたのは1619年。メイフラワー号で清教徒が現在のヴァージニア州ジェイムズタウン入植地にやってくる前の年です。19人のアフリカ人が売り払われました。以来19世紀半ばまで、主に西アフリカから少なく見積もっても900万人、多ければ1500~5000万人ものアフリカ人が大西洋を渡って無理やり連れ込まれたと言われています。

奴隷を運ぶ帆船(「ルーツ」より)

奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。奴隷はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。所謂「三角貿易」です。産業資本家の富が増えて、アフリカが被害を受けました。

ヨーロッパ、中でもイギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この大西洋を渡る奴隷貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への道をまっしぐらに進み始めました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

奴隷のクンタ・キンテとデービス船長(「ルーツ」より)

中学校や高校で扱われる世界史では、「ワットが蒸気機関を発明して産業革命が起こり・・・・」と言われますが、産業革命を可能にした資本は、実は西欧諸国がアフリカ人から長年搾り続けて蓄積したものだったわけです。

アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

② 奴隷制

無理やりアメリカに連れて来られた奴隷は大農園に売られて、綿、米、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦などを栽培し、道路を建設したり、森林を伐採するなど、初期のアメリカの土台を作ったあらゆる過酷な労働を強いられました。

また召使い(メイドやボーイ)として白人にこき使われ、読み書きも禁じられました。逃げる者もいましたが、奴隷狩りに捕まって、多くが見せしめに厳しい屈辱的な罰を受けました。

奴隷の反乱もありました。大抵は力で押さえ込まれましたが、1831年のナット・ターナーの反乱では、60人ほどの奴隷主が殺されました。奴隷の不満が募れば募るほど、ますます反乱が起き、北部へ逃亡する奴隷の数も増えていきました。

1859年のジョン・ブラウンの反乱では、総勢23名がヴァージニア州のハーパーズフェリーにある政府の兵器庫を襲い、武器を奪いました。結果的には鎮圧されますが、ジョン・ブラウンが白人であったこと、計画的に兵器庫を襲って武装蜂起をしたこと、わずか22人の規模だったにもかかわらず政府軍をつぎ込んでも鎮圧に二日間かかったことなどの理由から、その蜂起は奴隷制を根幹から揺るがし、南北戦争のきっかけの一つになりました。

画像

(ジョン・ブラウン)

西欧の資本家は奴隷貿易やアメリカでの奴隷の労働によって得た利益を自分たちの産業を発展させるために使い、産業資本家が、奴隷貿易に投資した資本家よりも次第に力をつけて行きました。

次回は「アフリカ系アメリカ小史②」です。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史前半では、「奴隷貿易」→「奴隷制度」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は、下のアドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3, pp. 72-78)のワードファイルをダウンロード出来ます。→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis8a.docx(画面上に出てくるZimHis8.docxです。)

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年3月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史①」(No. 67  2014年3月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ系アメリカ小史①」

2010年~の執筆物

南アフリカ小史一覧

<1>→「南アフリカ小史前半」

<2>「南アフリカ小史後半」

『アフリカとその末裔たち』

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の前半で、①入植者による南アフリカ連邦の成立と、②アパルトヘイト政権について書きました。今回は後半で、③アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、④白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書いています。

本文

南アフリカ小史後半

③ アフリカ人の抵抗運動

1910年に南アフリカ連邦が出来、1913年に土地政策の根幹となる原住民土地法が成立する前の年に、アフリカ人は抵抗運動組織「南アフリカ原住民民族会議」を創設しました。

1925年に「アフリカ民族会議」(ANC =African National Congress)と名前を変えていますが、今は南アフリカの与党です。

設立当初は、ロンドンに派遣団を送って陳情したり、壇上から反対を訴えかけるくらいの消極的な活動しかしなかったようですが、1940~50年代になると世界の流れに乗って、アフリカ人労働者が労働組合を作り、大規模なデモやストライキなどの積極行動を繰り広げるようになりました。

1955年にはクリップタウン郊外で大規模な国民会議を開き、全人種によるアパルトヘイト撤廃に向けての闘争を確認し合いました。しかし、1959年に「アフリカ民族会議」は分裂してしまいます。アフリカ人だけで闘おうとする理想主義者のロバート・ソブクエとアパルトヘイトの廃止のためなら誰とでも手を組むネルソン・マンデラの闘争路線をめぐる基本的な対立が表面化したからです。「パン・アフリカニスト会議」(PAC=Pan Africanist Congress)の創設は、追い詰められていた白人側には思いがけない幸運でした。「分断支配」すべきアフリカ人側が自分たちで分裂してくれたのですから。ソブクエとマンデラが少しでも歩み寄ることが出来ていたら、その後の歴史も大きく変っていたでしょう。

画像

(ロバート・ソブクエ)

ソブクエに率いられてパン・アフリカニスト会議は1960年に、パス法不所持の抵抗運動を単独で開始しました。アフリカ人であふれかえる警察署は想像以上に混乱し、警察がデモ隊に無差別に発砲する事態にまで発展し、国内は騒然となりました。これがシャープヴィルの大虐殺で、歴史の大きな転換点になりました。

シャープヴィルの虐殺(ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』より)

事件はただちに世界中に報道され、国連は非難決議を採択して経済制裁を開始しました。各国は表面上経済制裁に同調しますが、日本と西ドイツは流れに逆行して第2次世界大戦で中断していた通商条約を再締結してアパルトヘイト政権に応じました。その見返りに、日本は居住地区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の待遇を再度約束されましたが、アフリカ人にとっては、自国の都合しか考えない屈辱的な裏切り行為でした。

1961年にアフリカ人側はそれまでの非暴力の闘いを諦め、武力闘争を開始しました。白人政府は躍起になって力で押さえ込みにかかり、1964年までに、マンデラを含むすべての指導者を投獄しました。多くの指導者が逮捕を逃れて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極め、1965年までに、武力闘争は完全に抑えこまれました。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。

ネルソン・マンデラ

指導者が国内にほぼいなくなった70年代に、まだ逮捕されていなかった大学生が闘争を始めました。指導的立場にいたスティーブ・ビコは、侵略を正当化する白人優位の体制のなかで自分に希望を見いだせなくなって諦め切っているアフリカ人の意識が問題で、自分や国に希望を抱いて体制に立ち向かおうと説き、多くの若い人たちが奮い立ちました。1976年にはアフリカーンス語の導入をめぐって高校生が政府と衝突して、たくさんの犠牲者を出しました。この事件はソウェトの蜂起と呼ばれています。

画像

(スティーブ・ビコ:小島けい画)

アフリカ人には厳しい時代が続きました。

④ 日本と南アフリカの関わり

いくらアパルトヘイト政権が国家予算の30%を警察・軍隊につぎ込んでも、人口の13%ほどにしか過ぎない人たちが大多数のアフリカ人を押さえ込むのは不可能で、アパルトヘイト政権が維持出来たのは良きパートナーがいたからです。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本などは、表面上はアパルトヘイトに反対して経済制裁を唱えながらも、貿易の良きパートナーとしての関係を維持しました。日本はIT産業や他の産業に必要なレアメタルや金やダイヤモンド、安い農作物を輸入、代わりにトヨタやニッサンなどの自動車や工業製品を輸出、1988年には貿易高が世界一になって国連から非難決議をつきつけられました。日本の政財界は、自民党の二階堂進や石原慎太郎が旗振り役で南アフリカ政府と密接な関係を続けました。アパルトヘイト政権は、なくなりました。1990年に法律を変えないままマンデラが無条件で釈放され、4年後に全人種による選挙が行われて、初めてのアフリカ政権が誕生しました。

国外からの経済制裁の圧力、国内でのアフリカ人の抵抗運動、二重の設備を作ったり、無能な白人に高い給料を支払い有能なアフリカ人を使えないという制度自体への経済界の不満など、アパルトヘイト廃止の要素はいくつか考えられます。しかし最大の原因は、戦争が起きれば利益を分かちあっている先進国が一番困る、だったのではないでしょうか。内戦が起きれば白人側は米国、英国、フランス、ドイツ、日本などから直接間接に武器の供与を受け、アフリカ人側は、ソ連、中国、キューバ、北朝鮮、リビアなどの東側諸国から武器が流れて来て、南アフリカは灰になる可能性があり、多数派のアフリカ人が勝てば、アンゴラやモザンビーク、ジンバブエなどの社会主義政権が生まれる、そうなるとウランの産地が東側に移って東西のバランスが崩れるばかりか、利益を得ているすべての国が損をする→他のアフリカ諸国と同じく表面上はアフリカ人による政権を誕生させて実質を取る→そのためには圧倒的多数の支持を得る英雄が必要、その辺りがマンデラ釈放の真相のようです。

次回は「アフリカ系アメリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)

南アフリカ小史後半では、「大衆動員と抑圧」→「武力闘争」→「南アフリカの外国資本」→「南アフリカの帝国主義」→「黒人意識運動」→「ボタ、デクラーク、マンデラ」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文については、→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis7.docx(画面上に出てくるZimHis7. docxです。右のアドレスをクリックすれば “The Struggle for South Africa" in Africa and Its Descendants「南アフリカの解放闘争」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995) Chapter 2, pp. 46-70ワードファイルをダウンロード出来ます。)

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「南アフリカ小史前半」