つれづれに

引っ越しのあと

西側の紡績工場、引っ越した先の家からその工場が見えた

引っ越しのあと、結婚を機に20代の後半で家を出るまで、その元市営住宅に住んだ。家にも家の周りにも学校にもいつも腹を立てていたし、ひどい疎外感を感じてばかりだったので、いい印象がない。しかし、一番多感な時期をそこで過ごした。瀬戸内海の近くで台風もあまり来ず、暑くもなく寒くもなく、そんなぬるい土地柄やから代々住んでる人間が陰気で、意地悪うなったんやろ、家を出た後も長いことそう思っていた。高校まで同じ町に住んでいてその町が大好きだという同僚が近くの研究室に来たが、そんな人もいてはるんやとしか反応出来なかった。以前よりはだいぶ気持ちも和らいだ気はするが、いまだに心のどこかで引き摺ったままなのかも知れない。

普通の従業員が住んでいた長屋式の社宅

前々回の「つれづれに」、「今回いろいろ書いて見て思うのだが、以前に比べてウェブで探せる度合いが格段に高くなった。」(→「運動クラブ、3月29日)と書いたが、今回も調べて見たら、感心するほどの画像があった。工場の古そうな写真↑もその一枚である。当時はさほど気にも留めていなかったが、川の両岸に大きな紡績工場があったので、引っ越す前も後もその工場の影響をもろに受けていたことになる。特に引っ越した後は、前のどぶ川に定期的に染色に使ったあとの廃液が垂れ流されて川全体がえんじ色に染まっていたし、遊び場の範囲内に従業員向けの社宅もあったので、個人的にも関りが深かった。

工場内に入ったことはないが、こういった煉瓦造りの建物↑が多かった。今も社宅や煉瓦の建物が残っているそうである。↓

明石で一時期同居し、宮崎で最期を看取った妻の父親も紡績会社にいたらしい。「よく引っ越しをして、社宅に住んでいたよ」、と妻が話すのを聞いたとき、県住や市住の建物を思い浮かべた。しかし、「家の中に電話ボックスやお手伝いさんの部屋もあったよ」、という話になって、「?」である。

「どんな家やったん?」

「500坪くらいあったかな」

最初は話についていけなかったが、どうやら明治生まれ、大学の工学部を出て紡績会社に就職、そのときは技術肌の工場長として各地を転々としていたようである。そうなんや、紡績会社て、景気よかったんやなあ。スラムのようなところの崩壊家庭で悶々と暮らした世界とは、まったくの別世界にいたんや。おんなじ時代に生きてたのになあ。それしか、反応の仕様がなかった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

従業員の社宅でもいっしょに遊んだが、その近くの長屋に住んでいる同級生ともよく遊んだ。その時は知らなかったが、親がほとんど家にいなくて放ったままにされていた同級生が多かった。いつも腹を空かせて、落ち着きがなかった。土地柄も最悪で、山口組の本拠地に近いこともあって、そういった親の目の届かなかった少年がのちにぐれてチンピラになっていた。街宣車に乗るような、やくざの予備軍である。中学校ではそういうやくざやチンピラの子弟が学年に必ず何人かいて、よく暴力沙汰を起こしていた。毎日、こわごわだった。家の陰で殴られているのをよく見かけた。成績がよくて生意気な同級生もその餌食になっていたから、私自身殴られてもおかしくなかったが、その頃の遊び仲間の一人が「あいつはやめといたれや」と言ってくれたらしい。駅前のパチンコ屋の横でたまたま会って、喫茶店で話をしたときに「わいが止めたったから、やられんかったんや」と言っていた。

周りは貧しい人たちが多く、長屋住まいの人も多かった。町内に二つ朝鮮部落があった。少し離れた地域には被差別部落もいくつかあった。スラムのようなところに育ったし、周りも貧しい人が多かったが、なぜか何とか力になれないものか、と思うようになっていた。高校で社会活動を最優先したのも、そういった貧しさと関係があった。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

次回は、家庭教師、か。四月になった。↓

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬~」4月