つれづれに


藤とポピー

宮崎に来た当初、妻が絵に描く花を私が探しまわったが、花は豊富だ。とくに春はあちこちに花が咲いて、集めるのに忙しかった。舗道が整備された都会では、野の花はだいぶ遠くまで行かないと手に入らない。→「藪椿」(3月2日)、→「白木蓮」(3月12日)、→「植木市と牡丹」(3月31日)、→「紫木蓮」(4月6日)

菫(すみれ)、たんぽぽ、きんぽうげ、郁子(むべ)や薊(あざみ)など、春は実に多彩だ。今はきんぽうげが盛りを過ぎ、郁子(むべ)や薊が咲き始めている。

郁子:「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」3月(企業採用分)

三月になると加江田の山がうっすらと山桜でピンクがかる。今は少し紫がかっている。山藤だ。

山藤

宮崎に来て初めて身近で山藤を見た。ごっそりと切って肩に担いで持って帰り、山藤が咲いてたでと得意げに花瓶に生けたまではよかったが、すぐにぱらぱらと散ってしまった。目の前で見て描くには適していなかったのである。それで、藤棚の藤をこっそりともらうようになった。公園や学校、神社や寺には藤棚を拵えているところも多い。材料には事欠かないが、多少は気が引ける。夜中に忍んで採って来たこともある。表紙絵やカレンダーになった。個展のポスターにも使った。世界のあちこちで絵のブログ(→「Forget Me Not」)を見てくれているようなので少しずつ英語を併記しているが、藤はWisteria、マメ科フジ属のつる性落葉木本の山藤はSilky Wisteria、学名はWisteria brachybotrysだそうである。

小島けい「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月(企業採用分)

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

小島けい「私の絵画館」の「藤とココちゃん」:「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月

2010年小島けい個展用のポスター

「藤」もどうぞ。

この辺りにはけし(栽培種の一つ?)が道端に咲いている。自生というより、花の種が飛んで、毎年あちこちに咲いている感じだ。日本語の芥子(けし)は英語のpoppy(ポピー)と同じ意味らしい。poppyはイギリス各地で自生し、園芸種としても栽培されているようだ。たぶん、道端でみかけるのはケシ科の一年草の園芸種の一つのようだ。道端で見かけるけしも栽培種のポピーも、カレンダーや本の装画になっている。

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」3月

「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」表紙(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。

田上二郎『神のいない三つの部屋』(1997/4/5)

「ポピー」「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」 もどうぞ。

つれづれに

家庭教師1

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

ある日、家庭教師を頼まれた。3軒東隣に住む中学生の母親からだった。父親は何人かを雇って塗装業をしていて、毎日何人かをバンタイプの車に乗せて仕事に出かけていた。3人とも栄養が足りていたのか同じような体形で、ふっくらとしていた。母親は八百屋をやっていて、毎日かいがいしく働いていた。家族7人の食事を作ることもあったし、自分用にも買う必要があったので、よく八百屋には顔を出していた。母親は明るい性格で、客とは気軽によくしゃべっていた。私は挨拶を交わす程度で、特段しゃべったことはないし、何かを聞かれたこともない。

ある日、母親が家に来て「中学校1年生の息子に英語の家庭教師をお願いしたい」と言った。私は引き受けた。大学のための受験勉強はしなかったし、夜間課程に通っているので、何をどうするかや時間的なことも少し心配したが、中学1年の英語なら、何とかなるやろ、それにこれはアルバイト?という軽い気持ちだったように思う。

私が受験勉強もせず諦めて夜間課程に通っていることを母親が知っていたかどうかはわからないが、中学生の母親にとって、自分の息子が行けたらという希望もあって、私が地元の進学校を出ている、ということが大切だったのかも知れない。考えてみれば、牛乳配達をしていた区域で同じ高校に行った同級生は二人だけだったから、その母親の知り合いの間では、私は勉強が出来る生徒の一人だったのかも知れない。

近くの川の河川敷

週に一回、相手の家に通うことにした。息子はわりとぼんやりした一人っ子だった。本人が望んでいたのか、母親に押し付けられたのかは聞きそびれたが、勉強することがそう嫌でもなさそうだった。今から思えば、初めから相手が挫けそうなことをずけずけ言ったような気がする。あんまり頭よさそうには見えんけど、まあ、どっちでもええわ、始めよか、そんな始め方だった。その当時、私の環境では塾や家庭教師は別世界の話だったから、自分が家庭教師をするとは思ったこともなかったし、勉強は自分でするものという基本の部分は変わらなかったが、お断りしますとも言えなかった。

家から見えた紡績工場

経験はなかったが、中学校や高校の英語は意外とやりやすかった。範囲が少ないのでテキストを一冊さっとやって繰り返しながら、2年生、3年生のテキストも進める、次回までにここまでやっときや、これだけは覚えときや、その繰り返しだった。覚えてないときは、あほか、と言い残して帰ってしまったこともある。1か月ほどでテキストを終え、次のテキストをやり始めた。本人にとっては学校のペースとだいぶ違っただろうし、その間に、たぶんごちゃごちゃと色んなことをしゃべりまくられて、頭が混乱したかも知れないが、その人にはその方法がよかったらしい。

ある日、合間に菓子と茶を運んで来たときに、母親が言った。

「せんせい、この前100点取りました、ありがとうございました」

母親がいなくなったとき、本人に「へえ、100点取ったんか。よかったやん」と言ったら、まんざらでもないような照れ笑いをしていた。100点がよほど自信になったのか、暫く経ってからまた母親が来て「数学も100点だったんですよ、ありがとうございました」と言い、もじもじしながら、「あのう、他に何をしたらええんでしょうか、どんな本を読んだらええか、教えてもらえませんか?」と付け加えた。

本?立原正秋とも言えんしなあ、しゃーない、「日本文学全集でもどうですか」

「ガクブンゼンシュウ?そうですか。じゃあ、ガクブンゼンシュウを買ってみます」

今更言い直されへんもんなあ、と考えている間に母親はいなくなった。

それからしばらく経って、足元を見て母親に提案をした。

「あのう、毎日朝学校に行く前に一時間ずつやりますから、一万円にしてくれませんか?」

母親はしばらく黙り込んだあと「考えてみます」と言っては部屋を出て行った。結局、翌月から朝一時間、一万円になった。授業料が年間12000円だから、破格の値段である。そんなに金に執着していたわけではなかったが、夜間課程の学生がこなせる許容量を超えるほどの家庭教師を頼まれるようになっていたからである。

近くの川にかかる橋

その人は、私と同じ進学校に行ったらしい。一度「思うように成績が伸びないのでまた家庭教師をやってくれませんか」と頼まれたが、思わずなっていた高校の教員の仕事が手一杯で、詳細も聞かずに断わった。その後、医学部に行って医者になったと人づてに聞いた。私自身も就職したのだから人のことは言えないが、生きていると何が起こるかわからないものである。受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが、これで何とか30くらいまでは持ちそうと、少し気持ちに余裕が出来たことは確かである。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

通った高校(高校のホームページから)

つれづれに

一般教養

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

一般教養科目も→「第2外国語」(4月4日、→「ロシア語」、4月5日)、→「英会話」(4月7日)と同じように、高校までなかったものの一つだった。体育もあった。正職員として昼間働く夜間学生にとっては、授業の中で運動が出来るのは楽しみだったかも知れない。昼間の学生といっしょに運動クラブで練習をしていなければ、もっと新鮮だったと思うが、それでもそれなりに楽しかった。検察庁の事務官をしていたクラスメイトと帰り道でも気軽に話をするようになった。身長のあったクラスメイトがリバウンドを取り、私がパスを受けて得点することが多かった。法経商コースを取り、4年で卒業して大手の電機メーカーに就職したことを得意そうに自慢していたので、いっしょにプレイしていなければ話をしていなかったような気がする。「内定をもらったあとの二人は阪大と市大やった」と嬉しそうに言っていたから、神戸の経済を二度落ちて傷ついていた入学時の自尊心を、ある程度は回復出来たのではないか。→「夜間課程」(3月28日)

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

すべて選択制だったが、選択の幅はそう広くなかったように思う。地理学、心理学、哲学を取ったが、学年全体の定員がそう多くなかったわりには、地理学と心理学はかなり大きな教室に学生もたくさんいたように思う。哲学は敬遠されたのか、受けている学生はそう多くなかった。3科目とも自分の専門分野の入門的な色彩が強く、浅く広く、だったような気がする。ただ、一年目は前期の学舎封鎖のお陰で、一般教養の科目は出席をあまり問わなかったので、授業にはほとんど出ていなかったのに試験を受けることが出来た。特別準備もしていかなかったので、心理学は全くのお手上げだった。行きの電車で偶に会っていた隣のクラスの人に、お手上げなので写してもええかと聞いたら、ええでと言ってくれたので、丸写しで出した。良だった気がするが、担当者が見逃してくれたのか、答案を読んでいなかったのか。

地理学と心理学は普通の人のようで、話はつまらなかった。哲学は出ている学生も少なく、マイクなしに終始ぼそぼそ話すので聞いている学生もそう多くなかったようだが、聞き取れる場所まで言って聞いてみると、なかなか内容は面白かった。哲学を説明するには哲学的用語を使わないと説明が出来ない、というようなわかったようでわからない話を、聞こえないくらいの声でぼそぼそと言っているのがよかった。教えてやっているという高慢な姿勢はなく、聞いていなくても、淡々と自分の思ったことをしゃべる、そんな感じだった。一度だけ、黒っぽいコートを着た哲学的な顔のそこの君、と名指しで質問された。何を聞かれたかは覚えてないが、右端のいつも同じ席に座り、何も持たず、コートのポケットに手を突っ込んだままじっと見つめるように聞いている姿が目に映ったんだろう。

今と違って映像や画像や音声を使う人はいなかったので、100分間しゃべり続けるのは、結構難しかったはずである。内容が濃いか話し方がうまいか、そうでないと学生は話を聞こうとしない。そこは今も同じだ。

キャンパス全景(同窓会HPから)

ただ、世間や常識の枠内にいなかった私のような学生がいるのも困ったものである。40年ほど大学の授業を持って強く感じたのは、一般教養は大切である、だから、皮肉なものである。宮崎医科大学では教養の教官として採用されて、教養科目の英語の授業を持った。(→「宮崎医科大学 」、2020年4月20日)旧宮崎大学との統合では共通教育(一般教養)が目玉の一つだったが、教師も学生も一般教養を軽く見る傾向は実質的に変わらなかった。共通教育を持つ教員側は全学共同体制で出発したが、名ばかりの無責任体制、担当しても担当しなくても給料は同じ、従って科目数が増える筈もなく、学生の選択肢は極めて少ないままだった。内容が面白くなければ、学生も興味の持ちようがない。統合時、教養担当の会議にも出ていたので根本的に変える努力をすべきだったが、両学長が文部省に呼ばれて恫喝されたあと急発進した統合までの期限も一年半、全体の会議の他に入試の会議にも駆り出されて、共通教育まで手がまわらなかった。違う制度の擦り合わせは想像以上に手間と時間がかかる。共通教育は旧宮崎大学の制度をそのままま援用したが、職場の権利を主張する組合の強い大学の教員が作っただけのことはある、基本的に教師向けに作られていて、学生の方を向いていなかった。そこまでは手が回らず、申し訳ないことをした。

そんな思いもあって、統合後の共通教育の科目も、退職後の学士力発展科目も、可能な限りたくさん持った。半期で1000人近く、1クラスが500人を超えたこともあり、その時は、課題を読んで成績をつけるのに2か月もかかった。期限までに成績が出せないのではないかと心配しながら、せっせと課題を読み続けた。学生の頃に、世間の枠外にいて関われなかった償いの気持ちがあったのかも知れない。中高で意図的に、無意識に避けられてきた話題で、聞く側の自己意識に届くような内容を心掛けた。一方的にしゃべり続けるのではなく、聞き手の話にも耳を傾け、新聞や雑誌、映像や画像を目一杯使った。慣れないパソコンも使うようになった。視覚や聴覚にも訴えれば、ある日ぱっちりと眼を開き、聞いてる人が自らの足で歩き出すかも知れないと、ひそかに願っていたと思う。

宮崎に来た頃の宮崎医科大学(大学ホームページから)

次は家庭教師、か。

つれづれに

英会話

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

「第2外国語」(→「ロシア語」)と同じように、英会話も高校までなかったものの中の一つだった。4年生まで週に一回の割合で授業があり、担当者はすべて英語が母国語の人で、アメリカ人かイギリス人のようだった。ようだった、と言うのは、あまりにも英語に関心がなかったせいか、4人いた講師のうち、スキンヘッドで赤ら顔のアメリカ人とすらっとして顔立ちの端正なイギリス人の二人しか覚えてないからである。語学を志して、留学や進学や就職に英語が必要な人には、格好の実戦の場になったとは思うが。単位は必要だったので、聞かれたら答えはしたが、大抵は首を縦に振るか横に振るかだった。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

スキンヘッドのアメリカ人は、専任か、非常勤講師かはわからなかったが、最初に同志社大学でも授業を持っていると言っていたような気がする。New Yorkをぬーよーくと発音していた。テキストのようなものはなく、終始雑談ばかりで、買い物好きな奥さんの愚痴が多かった。日本人向けに、ゆっくりとしゃべっていたので、大体の内容は理解できた、と思う。どうも夜間の学生を子馬鹿にしている感じが伝わって来て、どうしても馴染めなかった。一度だけ、あんまり馬鹿にせんといてや、という幽かな意思表示のつもりで、質問に答えたことがある。その人は、場所の言い方を演習させたかったようで、鳥取県はどこにあるかと聞いてきた。日本の西日本にあり、兵庫県の北西の方角の日本海に面した地域というのを英語で表現することを求めていたのはわかっていたが、私は島根県の隣とだけ答えた。もちろん島根県はどこ?と聞き返されて、鳥取県の隣と答えたら、むっとしていた。私の意図が伝わったんだろう。その場はそれで終わったが、そて以降当てられることはなった。

イギリス人はスコットランド出身だと言っていた。毎回みんなが揃うまで待ってから、授業を始めていた。あるとき、黒板一面にチョークで何かの景色を描いていた。ヨットが浮かんでいたような気もする。絵が得意だったのか、素敵な絵だった。スコットランドの風景だったかも知れない。学生がすべて後ろの方の席に座るので、いつも右端の真ん中あたりに座って学生の近くで向き合いながら話をしていた。ある日、前方の壁に机をぴたりとつけて、壁を見つめて座っていたら、にこっと笑って後ろに来るように手招きされた。どんな反応をするのかとそこに座ってみただけだったので、私もにこっと笑い返して、ゆっくりと後ろの席に移動した。

学校英語をやっても話せないという当時の一般の英語事情を反映してか、英会話は基本的に半分以上出席していれば単位が出る例外の科目だったようである。事務局で確認したわけではないが、卒業単位がほぼ満たされれば無理やり卒業させられることもあると小耳にはさんだので、5年目に専門科目の単位は取り終え、学割が使えるように、6年目は英会話だけ残すように工夫した。英会話は私のような学生にも、極めて有益な科目だったようである。

キャンパス全景(同窓会HPから)

次は一般教養、か。