つれづれに

つれづれに:古本屋

「2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った」(→「コーチ」、4月15日) と書いたが、お金はないよりあった方がいい。3人の家庭教師をするようになってから少し余裕が出て、行き帰りに神戸近辺の古本屋に行くようになった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三宮駅(今はJR)

大学までは2時間足らずかかるので、授業だけの日は4時台の電車に乗った。宮崎の単線にすっかり馴染んでいるが、複線の山陽本線も昼間は1時間に1本しかなかったので他に選択肢はなかった。駅まで自転車で10分ほど、1時間ほど快速電車に乗り、三宮で乗り換え、阪急電車で3駅目の阪急六甲で降りて、20分ほど歩いた。三宮からの月額定期が580円、阪急3駅分が1000円前後だったから、今から思えば超格安だった。→「夜間課程」(3月28日)

大学に一番近かった阪急六甲駅

行き帰りに行った古本屋は、神戸と三宮間の高架下と、神戸から三宮センター街までの間にあった。10軒くらいはあった気がする。インターネットもスマートフォンもない時代、それなりに活気もあった。英語もしないのに、なぜか高架下で中古の手動英文タイプライターを1万5000円で買い、asdfとブラインドタッチの練習をやりかけたこともある。大学院では電動タイプライターで修士論文を書いた。締め切りに追われて遅くまで打っていた電動タイプの音が、2時間おきにミルクをやっていた息子には子守歌だったかも知れない。オレ、そんなん知らんでえ、と言われそうだが。

神戸元町の高架下

少し余裕が出始めてから、だんだんと本の数も増えていった。最初は漱石や芥川、太宰や谷崎を、そのあと古典の源氏や落窪、宇津保、萩原朔太郎の詩にまで手を出してみたが、どうもしっくりこなかった。その頃、家で取っていた讀賣新聞の夕刊で立原正秋の『冬の旅』を読んだ。なぜか、すっと心に沁み込んで来た。古本屋に行くと、たくさん出回っていて、目についた本は手当たり次第に買って、読んだ。多作で、出版社の要請に応えた駄作も結構ある。しかし、小説を書くという自分の中にあった思いに気づき始め、その思いが強くなっていったのは確かである。→「作州」(3月14日)

次回は、髭と桐下駄、か。

つれづれに

家庭教師2

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが、これで何とか30くらいまでは持ちそうと、少し気持ちに余裕が出来たことは確かである。」(→「家庭教師1」(4月10日)と前回書いたが、それは3年目が終わる頃の話で、それまでは経済的にきつかった。今から思えば働けばよかったが、30くらいまでしか考えてなかったので時間の方が大事だったのかも知れない。

100点を取った中学生の日にちを増やす話の前に、新たに二人の男子中学生から別々に家庭教師を頼まれた。一人はコーチの真似事をしていた一年目のチームにいた3年生の女子から聞いたらしかった。その女の子は親戚で、私と同じ高校に行っていたらしい。もう一人は誰から聞いのかは聞かなかった。依頼を聞いて、会いに行った。どちらも母親を交えて、本人と話をした。一人は両親が呉服屋をしていた。今は着物の需要が減って呉服屋を続けるのは難しい時代のようだが、その頃はまだ呉服屋の需要はあって、そこそこの生活をしている人が多かったように思う。両親とも普段も着物を着ていた。本人はテニスをしていて、明るくて賢そうだった。

通った高校(高校のホームページから)

もう一人は父親が電気工事店をやっていたようで、母親が教養もある清楚な人だった。本人もまじめな性格のようだった。100点を取った中学生と違って、どちらもよく出来て、飲み込みも理解するのも早かった。これなら自分で出来るやろ、と思ったくらいである。出来る人は、どんどんやればいいだけのようなので、中学のテキストはさっさと終えて、高校のテキストなどをやっても充分にこなせていた。お互いに気持ちの余裕も出来るし、いろんな無駄話をしていたように思う。成績もよかった。二人はお互いに知らなかったようだが、卒業をする頃にはなぜか同じ人に家庭教師をしてもらっているとわかったらしい。あまり模擬試験の結果に関心はなかったが、それぞれに聞いたら、5番と6番だと言ってた。私が30番前後で進学校に行ったし、私のようにすべてを諦めたりはしていないだろうから、それなりに神大か関学かくらいには行ったのではないか。

近くの川の河川敷

受験勉強をしたこともない私が家庭教師をするのもおかしな話だが、元々頭の回転の速い人は、うまく嚙み合えば、生得的な能力をぐっと伸ばせるような気もする。しかし、やってみて、やっぱり勉強は自分でするもんや、と言う思いは変わらなかった。

家庭教師を頼まれたおかげで、経済的にも気持ちの上でも余裕が出来たのは確かである。余裕のお陰か、大学の行き帰りに神戸や大阪の古本屋にも通うようになって、たくさんの本を読み始めた。

次回は古本屋、か。

山藤があちらこちらに咲いている。一昨日は白浜に出かけたが、行く道でも何度か見かけた。曽山寺浜の歩行者・自転車用道路脇にある老人福祉施設の生垣にも、見事な花が垂れ下がって咲いていた。↓

つれづれに

 

イリス

植え替え後に、また咲いてくれたイリス

イリスが咲き出した。一昨年に植え替えた後一つも花が咲かなかったので心配していたが、今年は咲いてくれてほっとしている。花にはそれぞれ特有の性質がある。水仙は球根を植えても花が咲くまでに数年かかり、花が咲かない場合もある。山から根ごと持ち帰って植えた通草(あけび)は実をつけるのに、六、七年もかかった。イリスも植え替えて馴染むまでに、歳月が必要らしい。

通草

植えて見事な花を咲かせてくれていた牡丹の樹が一本枯れ、また一本枯れて、最後の一本も怪しくなったので、同じように陽当たりのいい場所に植え替えた。元々陽当たりのいい通路の一部に庭の真砂土を入れて牡丹を植え、その周りにイリスを植えていた。牡丹の植え替えのついでに、イリスも植え替えたのは、その場所も含めてレタスを植える畝を作るためだった。冬場は隣の家や金木犀の垣根の陰になるので畑の南半分は陽が差しこまない。陽の当たる場所は限られるので毎年同じ所に植えていたら、数年前から根ごと腐ってしまうことが多くなった。新たな陽当たりのいい場所が必要になって思いついたのが、牡丹とイリスを植えていた通路だったわけである。庭の中でも南向きの居間に一番近く、陽当たりも一番いい。庭との境の通路には砂利が敷いてあったので取り除き、その下の庭用の真砂土も取って肥料と畑用の新たな土を入れたのである。作業にだいぶ時間はかかったが、予想通りレタスの出来はかなりいい。

レタス

諸々の要因で植え替えたのだが、球根のイリスが植え替えた翌年に花が咲かないとは思わなかった。3月の終わりに牡丹を買いたいと思い、宮崎神宮外苑で開催されいた春秋恒例の植木市に出かけた。(→「植木市と牡丹」、3月31日)そのとき店にいた女性から、木陰に植えて下さいねと言われた。牡丹は陽当たりのいい場所に植えたらあかんかったんや。牡丹に悪いことをしてしまった。陽当たりのいい所が一番と信じて疑わなかった素人考えが、そもそも間違っていたのだ。植木に限らず、こういったそもそもの間違いは、多そうである。

イリスも宮崎に来て妻が最初に描いていた花の一つで、大分の個展にも出して見てもらい、カレンダーに誘ってくれた長崎のオムロプリント(→「クリカレ(Creators’ Power Calendar)」)の営業努力のお陰で、長崎の企業がカレンダーに採用してくれている。

イリス

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」6月(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

植え替え前のイリス

つれづれに

つれづれに:コーチ

通った高校(高校のホームページから)

社会活動を最優先して運動クラブには入らなかった高校時の反動もあって、大学では運動クラブに入ると決めていた。幸い、バスケットボール部で昼間の人といっしょにやれることになった。(→「運動クラブ」、3月29日)

キャンパス全景(同窓会HPから

体育会系特有の理不尽さもなく、月水土の2時間は実力のある先輩とプレイができて大満足だったが、5年近くブランクがあったせいか、もう少しどこかで練習がしたかった。それで、近くの中学校にでかけた。シュート練習が出来ればいいが、くらいにしか考えていなかったが、いつの間にか混ぜてもらっていっしょに練習もするようになっていた。5つ年下の弟がいる3年生が主体のチームで、試合を見に来て下さいと言われて出かけたら、顧問の人からベンチに入って下さいと頼まれた。顧問が熱心で強いチームもあったようだが、そのチームの顧問は名前だけで、気が付いたらコーチまがいのことをやるようになっていた。男子チームが早々に負けてしまい、同じ体育館で練習していた女子チームの試合にもついて行くように言われ、練習もいっしょにするようになった。

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

3年生のチームは夏までで試合が終わる。私の時も7月早々に市内大会で負けて試合が終わり、引退した。一年生の終わりに2年で主力になる予定の同級生が二人突然辞めた。事情は知らないが、親の影響が強かった気がする。一人は親が開業医で、朴訥だが背は高くチームには必要だ思っていた。もう一人も家が資産家のようで、シュートが一番うまく、リーダーシップもありそうだったので、主将をやってくれると思っていた。どちらも進学のための受験勉強を辞める理由にしていたが、理由は他にあったのではないか。高校でいっしょになった。辞めてからは話をしていないが、高校でも受験勉強はしているようだった。二人が抜けてどうしようと思っていたら、背の高い同級生が入って来た。怒りっぽくて、よく喧嘩もしていたようだった。癖はあったが、何とか最後までコンビを組んだ。しかし、もう一試合勝てば市内の代表の一つとして次の大会に出られるところで、負けてしまった。最初からいっしょにやっていた二人が途中でやめて、早い時期に主将をやらされたうえ、最後の試合にも負けて、不消化のまま終わってしまった。

僕と同じように、同じ進学校に行ってクラブ活動をしていない年上の人が時々練習に顔を出して見てくれていたが、試合当日は授業があったのでベンチには座れずに、来てくれたときは試合が終わったあとだった。負けたことを話したら、何も言わずに悲しそうな表情を見せていた。まさか、少しあとで、私自身が同じようにベンチに座るとは、その時は思いもしなかった。

男女のチームの練習に1年半ほど参加し、試合にも帯同した。一年目は7月までの短い期間、2年目は丸一年間、かなりの時間を割いた。一年目は大学紛争のどさくさで何とか単位を取って二年にはなっていたが、二年目はほとんど授業に出なかったので、留年をした。練習後に急いでも、授業には出られなかったからである。家庭教師を頼まれてから、時間的にも責任を持てそうになかったので牛乳配達はやめていたが、経済的には苦しかった。2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った記憶がある。

練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、ベンチにも座るように言われてコーチのまねごとをすることになったが、チームの人にとってよかったのかどうか。本来は教員がすべきことを代わりにやることが生徒にとってよかったのかどうか、そんな本質的な疑問である。後に教員になり、今度は顧問として生徒とかかわるようになるとは、不思議なものである。

次回は、家庭教師2か。

庭のイリスが咲き出した