つれづれに

つれづれに:小説

立原正秋

 過酷な状況のなかで、人は諦めて自分を守る。英語ではその状態をindifferentというようだ。すべてに関心がなくなり、何事にも反応しなくなる。生き延びるために、無意識に身を守る術である。英語の文章の中で何度もみかけて、そう感じた。アフリカから無理やり連れてこられた奴隷が目の前で愛しい人を奴隷主白人に凌辱されたとき、自分を消すか何事にも反応しないindifferentな状態になるか。白人はそのindifferentな状態を従順だと考えた。『アンクル・トムの小屋』の主人公トムは従順にエバお嬢さんにお仕えし、最後は死んで天国に行った、ということになっている。『アンクル・トムの小屋』を書いたハリエット・ビーチャー・ストウの手前勝手な福音書は白人の間では大人気で、その本1冊のための会社も出来たほど売れに売れた。ストウは南部に行ったこともなかったし、主人公のモデルは元逃亡奴隷のジョサイヤ・ヘンソンだと言われている。私自身の諦めた経験からか、『アンクル・トムの小屋』をめぐる奇妙な展開は、何となく理解できるような気がした。PTA向きのお涙頂戴(ちょうだい)話はいかにも胡散(うさん)臭くて、嘘っぽい。しかし、実(まこと)しやかに語られる。母親が子どもに読み聞かせる本の中にも含まれる。アングロ・サクソン系の子孫は、狡猾(こうかつ)に人を騙(だま)す技術に長けている。全世界の人に信じ込ませた白人優位・黒人蔑視の意識は、世界の隅々にまで浸透していて証明済みである。侵略して栄えて来た人たちが使う英語が国際語、ベトナム難民も締め出した国が文部科学省を使ってグローバル化を推進、だそうである。

ミシシッピ川沿いでの綿積み作業(『1200万の黒人の声』から)

 すっかり諦め生きても30くらいまでだと無為な日々を過ごしていたのに、小説を書きたいと思ったのは、それでも何か諦めきれない未練があったということだろう。最初に書き出そうとしたとき、書くばねが見つからないと感じた。そのあと、母親の借金で定職につき、思わず結婚をして子供が生まれた。小説どころではない日々が続いた。元々貧乏だったので売れるまでの貧乏生活は苦にはならないと思ったが、それを妻と家族に強いる気にはなれず、大学の職を思い付いた。7年かかって何とか職が見つかり、書くための空間を確保できたが、実際には書き出せなかった。職探しの途中に出版社の人に出遭ってすでに雑誌にかなりの記事を書いていたが、テキストの編纂(へんさん)や翻訳や著書やウェブの連載を次々と言われて、それどころではなかったからである。予想もしていなかったが、私の職が決まるのを待ち構えていたということだろう。授業の準備に時間もかかったし、非常勤を頼まれたり、看護学科が出来たり。統合して全学向けの大きなクラスが増えたり、日本語支援専修の修士課程設立に駆り出されたりと、気がつけば授業のコマ数や種類もずいぶんと増えていた。教授になってからは、可能な限り会議には出ないように努力したが、それでも避けられない会議や人に会う機会も増えた。1年目から研究室に学生がたくさん来てくれたのは、予想外だった。特に何を話したということはなかったが、来れば1時間、2時間、時には半日もいて、その時間は授業時間よりも多かった。その状態のまま、定年退職の時期が来た。書き始めたのは、出版社の人が亡くなったあと、何年かしてからである。

赴任した頃の宮崎医大

つれづれに

つれづれに:鎌倉

 いざ鎌倉である。海岸道路を見て歩るいたあとは、作家が棲んでいた鎌倉だった。『鎌倉夫人』のように、タイトルに鎌倉の地名が入ったものもあるが、全般に見て、この作家の主な舞台は鎌倉だった。出版社の要請に渋々応じて出版された感じの駄作も結構ある。その中の一冊に、直木賞を取り、本格的に書き始めたころに受けたインタビューがあった。そのインタビューで、当時住んでいた鎌倉の山の手の一軒家の話をしているのを読んで「鎌倉のどこかに住んでるんや」と思った記憶がある。

 てっきり鹿ケ谷だと思っていたが、今回調べてみると、どうも違うようである。~ケ谷だったのは違いないが、平家打倒の陰謀事件があった京都東山の鹿ヶ谷と勘違いしたようである。

作家が死んだあと、夫人と娘さんが随想本を出していたが、その随想の中にはその家で3人で暮らした頃の話が書かれている。ただ、本人に会おうと考えたことはない。若宮通とか鎌倉高校前とか、その辺りを歩いてみたかっただけだと思う。

作品の舞台を歩いたら、小説を書き出すばねが見つかるかもしれないと思っていた節はある。しかし、戻っても書き出せなかった。その後、母親の借金もあり、思わず結婚もして子供が出来、あらぬ方向に動いてしまった。書く空間を求めて大学の職を思いつき、探しているときに横浜の出版社の人と出遭った。大学の職が決まる前から雑誌の記事を書き始めていたが、職が決まったとたんに待っていたかのようにテキストの編纂を、そのあと翻訳や著書を次から次に言われた。最後辺りは、ウェブでの連載を薦められて、週に1本の割りで書いていた。教授会は適当にさぼっていたが、小さな委員会は避けられなかった。会議の数も結構あったし、授業も科目の種類もコマ数も多かった。相変わらず、研究室には学生が来てくれていたし、毎日毎日何やかやあるまま定年を迎えた。

その後、出版社の人が亡くなった。その人からは賞は売るための業界の便法だからやめておきなさいと言われていたが、小説を書こうと思ったのはその人と出遭う前のことだったので、自然に小説を書き出した。今回は、どこかの出版社が売れると判断するかどうかだが、書き溜めた分が5冊になった。そろそろ6冊目をと考え始めているところである。今までも本1冊と翻訳3冊の原稿が活字にならなかったので、今回もそうなる可能性はある。先行きは、見えない。

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つれづれに:江之電と「天国と地獄」

 海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だったが、江之電に乗りたかった理由は他にもあった。黒澤明監督の「天国と地獄」に出て来たシーンが目に焼き付いていたからである。一度近くで見てみたいと思っていた。録音した江之電の音を手掛かりにして犯人の動向を割り出し、江之島の見える高台の別荘で逮捕することに成功した。電車の架線の出す音が特徴的だったことにヒントを得て、別荘を割り出していた。今では考えられないが、今以上にあほな男社会で、煙草(たばこ)の煙がもうもうとする中で行われていた捜査会議が、いかにもその時代を象徴していた。男中心のあほな基本構造はそう変わっていないように見えるが、少なくとも職員室や捜査会議で煙草を吸えることはないだろう。

「天国と地獄」は1963年の製作である。翌年に東京オリンピックがあった。後に南アフリカの作家の作品を理解するのに歴史を辿(たど)り、日本がアパルトヘイト政権と深く関わっていることを知った。第二次大戦で中断されていた通商条約を結んで白人政権に加担した日本は、南アフリカの人にとっては経済を優先する恥知らずの国である。1960年の大量虐殺でアフリカ人側がオランダ人とイギリス人の連合政権の横暴に耐えかねて武力闘争を開始したとき、アパルトヘイト政権はなりふり構わず欧米や日本に協力を求めて力でねじ伏せしまった。ネルソン・マンデラなどの指導者たちは逮捕され、終身刑を言い渡されてロベン島に送られた。1964年のことである。南アフリカは地上での指導者を失い暗黒の時代に入り、日本は高度経済成長時代に突入した。映画はその頃の話である。

 映画を見たのは三ノ宮の高架下のビッグ劇場という映画館だった。旧作が3本1000円だった。夜の授業に行くつもりで家を出たが、三ノ宮で阪急電車に乗り換えるときに、大学には行かずに映画館に行き先を変えることも多かった。シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier、1927-2022)の「いつも心に太陽を」(To Sir with Love)、「谷間の百合」(The Lily of the Valley)、「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)や黒澤明の「赤ひげ」などは、無為な日々を過ごしていた私の心にも充分に響いてきた。のちに、まさか授業で「招かれざる客」を使うとは、その時は思いもしなかった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三ノ宮駅(今はJR)

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つれづれに:湘南

 『海岸道路』の一節である。

「鎌倉を中心にして海岸道路は左右にのびていた。左は江之島、茅ケ崎(ちがさき)を経て大磯、小田原に至り、右は逗子(ずし)を経て葉山に至る道である。海岸道路にはいたるところにホテルが建っていた。これらのホテルは夏場は混むが、いくつかのホテルは季節はずれになるとひっそりとしてしまう。したがって予約なしに行っても、いつでも泊まれる。海岸道路ぞいに朝まで営業しているレストランが何軒かあり、深夜、東京からわざわざバーのホステスをつれてくる男達もいた、これらの男達は、ひとむかし前は、ホステスををつれて横浜の″南京街″にくりだした連中である。その頃ホステスは女給とよばれていた。

地元のある人達は、この海岸道路を有閑道路とよんでいた。よくも深夜これだけの人間があつまるものだ、と思うほど、どのレストランもまいばん満員だった。」

主人公も朝まで営業しているレストランの常連で、有閑道路脇のホテルに泊まる。海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だった。

 鎌倉と藤沢間を走る江之島電鉄である。ウェブで検索して見つけた1970年代の写真(↑)では、電車と併行して走っている海岸道路と江之島が見える。

 鎌倉から電車に乗り、途中で稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島の駅で降りて海岸道路を歩いた。『海岸道路』のほか、『春のいそぎ』、『はましぎ』、『恋人たち』の主な舞台である。

 私の日常は方埒(ほうらち)な生活とはまるで無縁だったが、生きても30くらいまでかなあと、ぼんやりと過ごしていた先の見えない無為な生活に、主人公の無為な世界を重ね合わせて、大根のところでは理解できる気がしたのか。

 しかし、小説を書き出せなかった。書き出すばねがないと感じたからだが、突然の母親の借金騒動であらぬ方向に動き出してしまった、というのが正直なところだ。その後、結婚して子供も出来てと、また思わぬ方向に展開して、小説どころではなかった。このままでは書けそうにないと言う気持ちが高じて、先ずは書くための空間をと、大学の職を思いついた。元々貧乏だから自分一人ならそれでもよかったが、妻や子供に強いる気にはなれなかった。返すあてもなく金を借りて、借りてまで生きてはいけないと思った感情に似ている。