つれづれに:湘南
→「漂泊の思ひ」と、入れ込んでいた作家の作品の舞台を見たいという思いもあって、三月の初めに湘南・鎌倉に出かけた。1970年代の半ばである。舞台を見る前に、一度は行ってみたいと常々思っていた伊豆地方にも立ち寄った。→「伊豆」では「修善寺」、→「西海岸」の戸田、→「下田」から→「伊豆大島」に渡ったあと、→「小田原」に行った。小田原城公園では、仰向けになって空を眺めた。そのあとは、最終地の湘南・鎌倉だった。初期の作品の主な舞台だったからである。作品の中の地名を思い浮かべながら、江ノ電に乗り、海岸線を歩いた。
その後、1980年代にアメリカ文学を選んで修士論文を書く時にも、同じことがあった。英文だったが、作品がすっと意識下に入ってきた。著者が多感な時期を過ごしたミシシッピは、やはり初期の作品の舞台だった。作者が生まれたナチェズには、首都ジャクソンからプロペラ機を利用した。
ナチェズ空港
空港前に広がる長閑(のどか)な景色から黒人を樹に吊(つ)るしていた残虐な場面は浮かんでこなかったが、眼の前の美しい光景がかえって残酷な風に思えた。旅先から学会誌に送った原稿には、その時ミシシッピを回りながら感じた思いが綴(つづ)られている。(→「ミシシッピ、ナチェズから」、1986)
「『風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る』とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く」
英文だったが作品の文字がすっと心に染みこんで、意識下に働きかけてきた何かを確かめたかったのだろう。時代も違うし、英語も充分に使える状態ではなかったが、作家の生まれ育った辺りの土地に立ってみたいという思いは強かった。
日本人の作家が新聞に連載していた小説だったが、文字が意識下にすっと入ってきて、何かに響くのを感じた。作品の舞台を歩いてみたいと感じたのも同じ思いからである。
『海岸道路』はその頃に書かれた代表作で、由比ケ浜、七里ケ浜、稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、藤沢、逗子(ずし)などの名が躍(おど)る。鎌倉に住む主人公はその海岸道路の近くで、放埓(ほうらち)な日々を過ごしていた。従妹で銀行の頭取の娘、有閑マダム、夫が有名大学教授の人妻、隣町の県会議員の妾(めかけ)など、女に困ることはなかった。ときには喧嘩(けんか)や、いかさま坊主と吊るんで喝(かつ)上げもする。手際よく相手を倒すまでには、数々の修羅場(しゅらば)をくぐって来たに違いない。
作品を読みながら、海岸道路を見てみたいと思い、出かけて海岸線を歩いてきた、そんな湘南行きだった。